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ジャフコグループ株式会社/社外取締役/監査等委員 田村 茂 氏

銀行での海外勤務やMBA取得を経てベンチャーへ挑戦。CFOから社長へと駆け上り、すべての経験がつながった社外取締役の現在

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プロフィール写真
ジャフコグループ株式会社
社外取締役/監査等委員 田村 茂 氏
1985年4月 ㈱横浜銀行入行
2000年6月 ㈱メンバーズ入社 経営管理部長兼公開準備室長
2000年8月 同社 管理担当取締役(CFO)
2002年9月 ㈱アプリックス入社 経営管理本部長(CFO)
2003年6月 オリックス㈱入社 投資銀行本部プリンシパルインベストメント バイスプレジデント
2005年8月 医療産業㈱(現 ㈱MICメディカル)入社 上席執行役員社長室長
2006年8月 同社 取締役副社長
2010年6月 同社 代表取締役社長
2014年10月 同社 取締役会長
2015年5月 ㈱メディアドゥ 社外監査役
2015年6月 燦ホールディングス㈱ 社外監査役
2017年6月 ジャフコ グループ㈱ 社外取締役/監査等委員(現任)
2018年11月 ㈱コーチ・エイ社外取締役
2024年5月 ㈱UMITO社外取締役(現任)
2024年7月 ㈱レイヤード社外取締役/監査等委員(現任)
※インタビュアー/バリューアップパートナー株式会社 代表取締役 大塚 寿昭
INDEX

    外大スペイン語学科での貴重な経験

    「田村さんは東京外語大学のスペイン語学科に進学されていますが、その理由をお聞かせください。」

    私は北海道北見市出身で、地元の高校に通う優等生タイプでした。英語が得意だったのですが、当時は留学の機会などなく、少しでも海外に近づきたくて東京外国語大学(以下、外大)を第一志望に選びました。
    スペイン語学科を選んだ理由は、英語以外の言語を学びたかったからです。受験で散々勉強した英語を、更に4年間学ぶイメージが湧きませんでした。また、私は小さい頃から「お金を稼ぐこと」に関心があり、将来は商社や貿易関係の仕事に就きたいとも思ってました。さらに、教育実習で来た外大の先輩から、「東京生活をエンジョイしたいなら、普通のアルファベットを使う言語がいいよ」ともアドバイスされていました。

    というのも、当時の外大では、中国語、アラビア語、ロシア語など非アルファベット系の言語は、特に進級が厳しいと言われていたからです。そこで、フランス語は僕にはちょっと上品過ぎる、ドイツ語は少し堅いということで、最終的には、消去法でスペイン語を選びました。当時のスペイン語は、商業言語としても重要で、特にラテンアメリカとのビジネスでは欠かせないことも決め手でした。とは言っても、スペイン語学科でも進級や卒業はそこそこ大変で、留年や留学などせず4年間で卒業した男子学生は、同じクラス(35名中、約半数が男子)でわずか3名ほどでした。私自身も大学3年を終えたタイミングで、スペインに1年間遊学しています。

    「振り返ってその選択はキャリアに大きく影響したと思いますか。」

    海外ではスペイン語の存在感はとても大きく、いろいろな局面でスペイン語は意外と役に立ちました。アメリカではヒスパニック系の人口が多く、スペイン語ができることは強みになりました。ただ、それよりも、若いうちの遊学でスペインという異文化にどっぷり浸かった経験は、その後の人生に大きな影響を与えてくれました。

    また、私は、企業派遣でアメリカのダートマス大学(Tuck)でMBAを取得しましたが、Tuckには1学期だけ海外のビジネススクールで学べる交換留学制度がありました。学内選抜を経て、バルセロナのIESE(イエセ)ビジネススクールに留学する機会を得ましたが、IESEでは、「日本人なのに英語に加えてスペイン語も話せるのか」と驚かれました。ちなみに、オプション理論のクラスはスペイン語で受けたため、今でもよく理解していません(笑)。私は交換留学生でしたが、今でも卒業生として扱っていただいており、IESE卒業生からキャリアや起業の相談を受けることもあります。

    海外駐在を狙って横浜銀行に入行

    「卒業後、横浜銀行に入行されています。銀行を選択した理由を教えてください。」

    スペインに遊学した際、金融機関や商社の若手社員が語学研修に多数来ていて、彼らにはとても親切にしてもらいました。商社の方々は本当によく遊んでいて自由な雰囲気でしたが、銀行の方々はとても真面目に勉強してました。当時は邦銀が急ピッチで国際化を進めていた時期で、自分でもちょっと意外ですが、「銀行のほうが自分には合っているかも」と感じたものです。

    就職活動では、第一志望だった大手銀行に加えて商社も受けました。留学経験もあり、売り手市場だったこともあって自信満々でしたが、商社からは不採用。そんな中、部活の先輩から「地銀だけど横浜銀行が海外展開を急いでいて、外大生を採りたがっている。受けてみないか」と誘われました。他の銀行の面接が進むなかで、早稲田や慶應の学生と同席することも多くなり、金融に疎い(私だけではなく)外大生が彼らと戦うのは厳しい、また、なかには英語も堪能な学生もいて、「語学だけでは差別化にならないな」とも感じていました。
    正直、銀行で出世するイメージも意欲も持てておらず、「海外駐在ができたらラッキー」くらいの感覚でした。ただ、自分でもニューヨーク支店長や国際部長になれるかもと考えて、大手行ではなく横浜銀行に決めました。

    「横浜銀行に15年間勤務することになりますが、どのような業務を経験しましたか。」

    最初に配属されたのは、歌舞伎町の角にあった新宿支店でした。バブルの時代、神奈川県内ではなく、都銀としのぎを削るエリアだったため、支店長をはじめ、まさに“精鋭揃い”の支店でした。その分、厳しく鍛えられましたが、相変わらず金融知識には疎く、恥ずかしながら、簿記4級の試験にも落ちる不良行員でした。
    つい最近、当時の支店長、次の支店長、次長と飲む機会がありました。各々役員に出世された方々ですが、私がベンチャー企業やジャフコで経験してきた話をとても熱心に聞いてくださり、「田村の話は(他の元行員と違って)本当に面白いな」と言われて、とても嬉しかったですね。

    花形部署へ栄転も、3ヶ月で異動に

    相変わらず校内試験はダメでしたが、新宿支店での営業成績はそこそこ評価されて、花形とされていた為替ディーラーの部署に異動になりました。当時は、今のように厳格なリスク管理体制が整っておらず、“勘”に頼った為替ディーリングが主流でした。ただ、行内では「もっと厳格なリスク管理をしていこう」という雰囲気が広がり始めていたようです。そんななかでも、先輩方は「最初は損をするのが仕事みたいなものだよ」とアドバイスしてくれて、私もその言葉を信じていたのですが…結果として、毎月大損を出し続け、わずか3か月でディーラーを“クビ”になりました。

    ソブリンデットの処理部門で活躍

    同期の中でも“出世頭”として花形部署に異動したはずが、たった3ヶ月でディーラーをクビに…。その後、上司から「為替ディーラー以外で希望する仕事はある?」と聞かれ、「とりあえず海外に関わる仕事がしたい」と伝えたところ、当時大きな問題となっていた(かつ誰もやりたがらない)発展途上国向けソブリンデット(政府や政府系機関向け融資)を処理する部署に異動となりました。
    当時の邦銀は「国は潰れない」という前提で、発展途上国に多額の貸し出しをしていて、それが返済不能となり不良債権化してしまいました。企業であれば、倒産すれば損金処理ができますが、国は潰れないため税務上のメリットもなく、銀行にとって非常に厄介な存在でした。

    この問題は国際金融の大問題となり、1989年にアメリカ財務長官だったニコラス・ブレイディが「ブレイディ・プラン」を打ち出しました。これは、不良債権化した銀行債務を証券化して新たな市場で流通させるという、銀行ローン証券化の先駆けです。その証券化を前提に、外銀は邦銀から不良債権を買い漁りました。たとえば、邦銀がブラジルに100億円貸していた場合、それを30億円で外銀に売却する。その外銀(またはその顧客)が何らかの方法で40億円を回収すれば、10億円の利益になる、という仕組みです。
    横浜銀行も、体力に比してソブリンデットを過剰に抱えており、その処理が急務でした。私は(誰も行きたがらない)その担当部署に配属されましたが、幸運なことにローンの証券化業務の経験者がほとんどいなかったため、最年少ながら実務を任されることになりました。具体的には、横浜銀行が保有するソブリンデットやブレディ債を外資系銀行に売却する際の窓口として、交渉や契約、さらに巨額損失を役員会に上程するための資料作成まで担当しました。

    海外でMBA取得のチャンスを掴む

    意外なことに、懸案のソブリンデット処理実績を高く評価していただき、海外留学生に選抜されました。入行当初、「いつか海外駐在できたらいいな」という、漠然とした希望はありましたが、MBA留学に強い憧れがあったわけではありません。ただ、仕事で接する外資系金融機関の担当者は、誰もが一流ビジネススクール出身でした。彼らと対等に仕事をしていくには、自分もきちんと学びたいと思うようになり、それがMBA受験に向けた強いモチベーションになりました。
    振り返ってみると、もしあのまま為替ディーラーを続けていても、横浜銀行で出世はしてないはずです。むしろ、3ヶ月でクビになったことで、自分に合った仕事に巡り会えました。本当に、人の運命はわからないものですね。よく「与えられた場所で咲きなさい」と言われますが、まさにその通りだと実感しています。

    「34歳の時、米国ダートマス大学でMBAを取得します。この経験は役に立ちましたか。」

    間違いなく、MBAの経験は大きな財産になりました。今でこそ、早稲田、慶應、一橋といった国内大学にも質の高いMBAプログラムがあり、私がアメリカで学んだようなファイナンスやアカウンティングの知識は、日本にいながら十分に習得できると思います。それでも、2年間という限られた時間の中で、経営者として必要なマーケティング、会計、HR、工場運営、企業倫理、コミュニケーションなどを、バランスよく効率的に学べたことは、貴重な経験でした。

    言語のハンデを抱えながら、バックグラウンドの異なる世界中のクラスメートと学ぶ環境は、非常に“悲惨”かつ刺激的でした。決して楽しいことばかりではなく、何よりも、どんなに厳しい局面に立たされても、「留学時代に比べれば大したことはない」と思えたことは、今でも精神的な支えになっています。
    昨今の海外MBAは、2年間で4,000万円も掛かるそうで、私費留学は負担が大き過ぎますね。でも、絶対に元は取れますよ。頑張れ、日本人!

    「MBA留学はCFOを目指すうえでお勧めでしょうか。」

    MBAはCFO→CEOを目指す人にはお勧めです。私の持論ですが、最初からCFOだけを目指している人は良いCFOにはなれません。以前の私には「CFOをやりたい」というのは「経理部長をやりたい」、「数字相手の仕事がしたい」、「リーダーではなく参謀でいたい」と同義に聞こえました。そういう人は、MBAではなく、大学の商学部で学んだほうがいいと思います。

    ジャフコグループ株式会社
    社外取締役/監査等委員 田村 茂 氏
    1985年4月 ㈱横浜銀行入行 2000年6月 ㈱メンバーズ入社 経営管理部長兼公開準備室長 2000年8月 同社 管理担当取締役(CFO) 2002年9月 ㈱アプリックス入社 経営管理本部長(CFO) 2003年6月 オリックス㈱入社 投資銀行本部プリンシパルインベストメント バイスプレジデント 2005年8月 医療産業㈱(現 ㈱MICメディカル)入社 上席執行役員社長室長 2006年8月 同社 取締役副社長 2010年6月 同社 代表取締役社長 2014年10月 同社 取締役会長 2015年5月 ㈱メディアドゥ 社外監査役 2015年6月 燦ホールディングス㈱ 社外監査役 2017年6月 ジャフコ グループ㈱ 社外取締役/監査等委員(現任) 2018年11月 ㈱コーチ・エイ社外取締役 2024年5月 ㈱UMITO社外取締役(現任) 2024年7月 ㈱レイヤード社外取締役/監査等委員(現任)