立て直しで芽生えた「社長になりたい」という思い
「アプリックスを短期で退職して、オリックスの投資銀行本部に転職なさいました。そこでの業務内容を教えてください。また、投資銀行本部の仕事は銀行やベンチャーでの経験が生かされたと思いますか。」
当時のオリックスは、元銀行員にとって特に魅力的な会社とは思えませんでしたが、ベンチャー企業2社で続けてリストラをしたことで、心がかなり疲弊していて、もう一度、大きな金融機関で腰を据えて働きたいという気持ちになりました。
オリックスでは、投資銀行本部のプリンシパルインベストメント(自己投資)チームに配属されました。PEファンドと同じような業務で、バイアウト投資を担当しました。要するに、企業を割安で買収し、価値を高めたうえで、再び売却する――というビジネスモデルです。チームは、オリックスのプロパー社員と私のような外部出身の専門人材で構成されて、弁護士や会計士、コンサルタント出身者などが集まっていました。私は特に資格を持ってませんでしたが、リストラクチャリング(事業再生)の現場経験が評価され、CRO(チーフ・リストラクチャリング・オフィサー)として採用されました。
最初に担当した案件は、民事再生手続中だった京都の回転寿司チェーン「フーズネット」の再建です。
かっぱ寿司から招聘した社長のもと、オリックスから出向した私と若手メンバーでチームを組み、再建に奔走しました。2年弱ほど、週末以外はほぼ京都で過ごす日々が続きました。このフーズネットの社長が本当に素晴らしい人物で、経営手腕はもちろん、人としての魅力もあり、彼と仕事をする中で、私は初めて「自分も社長に挑戦してみたい」と思うようになったのです。それまでの私は、ビジネススクールで学んだ「正しいことを正しく進める」管理部長タイプの仕事を心掛けていました。しかし、現実の経営はそう単純ではありません。たとえ理屈が通っていても、職人が気持ちよく働けなければお店は繁盛しません。そうした“現場の機微”を私は理解できていなかったとに、社長の仕事ぶりを見て気づかされました。社長は現場叩き上げでありながら、経営面では私の意見にも真摯に耳を傾けてくれました。その姿勢に学ぶことも多く、経営者になりたいという思いが強くなりました。おかげ様で、フーズネットの再建は大成功で、オリックスも大儲けしました。
上場を前に投資先に転籍
東京勤務に戻って、大きな転機となる「投資先企業への転籍」という決断をすることになります。きっかけは、出資していた医薬品開発関連ベンチャー「MICメディカル」を担当したことです。当時の上司からは、「できれば上場をさせたいが、難しければ売却も視野に入れる。(他社からスカウトしてきた)社長の下で、社長室長として上場準備を進めてほしい」と指示されました。
上場準備が順調に進む中で、主幹事の野村証券から「大株主からの独立性という観点で、重要幹部の田村さんはMICメディカルに転籍し“プロパー社員”として経営に関わるべきです。そうでなければ、別の人を正式に採用して下さい」と指示がありました。私自身、オリックスに強い帰属意識があったわけではありません。加えて、このタイミングで転籍すれば、上場前のストックオプションを貰えるという打算もありました。もちろん、「経営の中核にもっと深く関わりたい」という気持ちもあって、最終的に転籍を決断しました。
「転籍先のMICメディカル社はどのような事業を展開していたのですか。」
MICメディカルは、製薬会社が新薬開発において実施する、治験を支援するCRO(Contract Research Organization)という業態の会社でした。私がこの会社に関わり始めてから4年ほど経った2007年、無事に株式上場を果たしました。業界内では3〜4番手のポジションで、業績も比較的安定しており、いわゆる“小型上場”ではありましたが、堅実な成長が見込まれていました。
当初の戦略は、上場を足がかりに我々が中核となって他社をロールアップ(同業他社を次々と買収して業界再編を主導する戦略)し、業界内での存在感を高めていくというものでしたが、リーマンショック、そして東日本大震災と続く経済環境の悪化もあって、株価は低迷していました。上場前の比較的高値で株式を保有していただいた株主の方々に、なんとか報いる方法を模索するようになりました。
2度のTOBでエムスリーの子会社に
「2010年には代表取締役に就任されています。任期中にエムスリーのTOBによる子会社化(上場廃止)という大きな決断をされました。その決断をした理由を教えてください。」
当時の社長は、臨床開発のプロでしたが、金融や経営に関してはやや不得手でした。そこで、社長は会長に、私自身が副社長から社長に就任しました。そして打開策として掲げたのが、「自社単独ではなく、他企業の傘下に入り、その資本力を活かしてロールアップを実行し、業界のトップを目指す」という方針転換でした。
最初に資本業務提携を結んだのは、中堅システムインテグレーターとして上場していたシーエーシーで、TOB(株式公開買付け)により約40%の株式を保有してもらいました。しかし、シーエーシー側に明確な成長戦略がなく、どこかIRの材料とされている印象を持ち、保有株を引き取ってくれる新たなパートナーを探し始めました。
ある証券会社の紹介で、医療情報プラットフォームで急成長していたエムスリーが興味を示してくれ、なんと時価の約2倍という株価で買収してくれました。この2度目のTOBにより、MICメディカルは2012年にエムスリー100%子会社となり、同時に上場廃止となりました。私は、エムスリー傘下で3年間社長を務めて退任しましたが、MICメディカルでは、上場準備→上場→2度のTOB→上場廃止と、なかなか得難い貴重な経験をさせてもらいました。

代表取締役の苦労
「上場会社の代表取締役社長として、どのような苦労がありましたか。」
幸か不幸か、MICメディカルは上場していたとはいえ、小型株で機関投資家や大株主が不在でした。そのため、外部から経営に対して強く意見されることはほとんどなく、シーエーシーに買収された後も、前述のとおり大きな経営関与はありませんでした。つまり、良くも悪くも経営のかじ取りは自分で考え、自分で決断するしかない状況でした。もし経営に失敗しても、すぐに社長を解任されることはなかったかもしれませんが、逆にそれが大きなプレッシャーでもありました。「誰も何も言ってこない。だからこそ、自分が間違った判断はできない」──そうした緊張感のなかで経営をしていました。
エムスリーの100%子会社となってからは、全く異なるフェーズに入りました。エムスリーグループの一員として、同社の優れた経営手法を実践することが求められ、当然ながら結果が出なければ、社長交代もあり得る環境です。正直なところ、クビになってもいいという気持ちも少しはありましたが、実際にはエムスリーの方針に従って経営すると、驚くほど業績も回復しました。谷村社長から求められることは、どれも本質的かつ的確で、「自分では思いつかない発想」や「エムスリーという巨大インフラがあってこそ実現できること」に、何度も驚かされました。
谷村さんの期待に応えるというプレッシャーは常にありましたが、経営者として非常に学びの多い3年間だったと思います。とはいえ、このポジションを長く続けるイメージは持てませんでした。もし10歳若ければ、エムスリーの経営スタイルをもっと深く学び、別のフィールドでその知見を活かすという選択肢もあったかもしれません。その頃、子どもたちのサポートが必要だった時期でもあり、「今がいいタイミングだ」と感じて、53歳で社長を退任し、以前から後継者としてスカウトしていたナンバー2に会社を託すことができました。
社外取締役としてのキャリアのスタート
「退任後、社外取締役として第二のキャリアをスタートさせます。どんな思いをお持ちでしたか。」
自分でも少し意外だったのですが、MICメディカルを退社したあと、数社から「社外役員になってほしい」とお声掛けをいただきました。おかげで「当面は生活に困ることはなさそうだ」と、ほっとした記憶があります。その頃、50歳だった妻が、スペインで9か月間パティシエ修行をすると言い出して、彼女の夢を後押しするいいきっかけにもなりました。仕事中心だった私にとっては、“罪滅ぼし”の気持ちも込めて、妻の背中を押す決断ができたのは、社外役員という新しい働き方に出会えたからだと思います。
実際に社外役員(監査役)として働いてみると、それまでの自分のキャリアとは違った視点で経営を見る面白さがありました。
「8年前からはジャフコグループの社外取締役(現在は常勤監査等委員)をはじめ、複数の社外取締役に就任されていますよね。」
そのきっかけは、外資系PEファンドであるリバーサイド・パートナーズから顧問就任の打診を受けたことでした。採用にあたってレファレンスチェックが必要だったため、私はエムスリーの谷村社長と、ジャフコの豊貴社長(当時)にお願いしました。ところが、就任から1年も経たないうちに、リバーサイドが「日本にはバイアウト投資の機会が少ない」との判断から、事実上撤退することになりました。当時のアメリカ基準では、日本企業のバリュエーション(EBITDA倍率など)が高過ぎたようです。
「せっかくレファレンスをいただいたのに、1年も経たず辞めることになって申し訳ない」とお二人にお詫びをしたところ、豊貴社長から「じゃあ、ジャフコの社外取締役やらない?」と誘われました。もしレファレンスをお願いしていなかったら、ジャフコとのご縁はなかったかもしれません。
当時、ジャフコの社外取締役の一人は、元大蔵省事務次官の田波耕治さんという超大物だったので、「本当に私でいいですか?」という思いもありました。横浜銀行の歴代頭取は大蔵省事務次官経験者が就任されていて、私が銀行員時代には頭取と話すらしたことがなかったわけですからね。豊貴社長は、「田村さんに期待しているのは、形式ばった社外取締役ではなく、何でも言いたいことを言ってもらうこと。好きにやっていいから、会社のために働いてほしい。10年一緒にやりましょう」と言ってくれました。さらに、社外取締役として2年経った時に、「常勤の監査等委員が引退されるから、田村さんが常勤監査等委員を兼務してくれませんか?」と打診され、現在の役職となっています。
