COLUMNコラム

投資家インタビュー
DIMENSION株式会社
代表取締役社長 宮宗 孝光 氏

CFOは将来の計画を数値に落とす力を持つ重責者。信頼とロイヤリティでCEOを支える

メーカーからコンサルへの大きなキャリアチェンジ 「東京工業大学・大学院を飛び級で卒業されてからエンジニアとしてシャープに入社します。シャープではどんな仕事をしていたのでしょうか。」 レーザーダイオードの研究開発に少し携わった後、オプトデバイスに関する事業の立ち上げ、拡大に携わりました。オプトデバイスとは、電気を通電すると光る石のことで、照明のLED(発光ダイオード)やブルーレイディスクを読み取るレーザーダイオードなどが含まれます。私がシャープに入社した1998年は、視認性が高いLEDは高速道路の橙色の表示機のみにしか使われていませんでした。LED市場の広がりを予測したシャープは、事業を拡大させようとしているタイミングで、他用途での事業化に注力し始めました。 「その後、ドリームインキュベータに入社します。大きくキャリアチェンジすることになりますが、その背景・目的を教えてください。」 元々、太陽光発電に携わりたくてシャープに入社しました。当時のシャープは、太陽光発電やソーラーパネルにおいて、世界一のメーカーでした。しかし上記のとおり別の部署に配属され、太陽光発電に携わる仕事はできませんでした。私は「やりたいことをやるのが人生」だと思っていたので、早々に転職しようと決意し父親に相談しました。父は、電子デバイスの分野で有名な独立系商社の2代目社長でずっと経営に携わっていました。その父から、「何を言っているんだ。今はまだ会社のコストでしかないのだから、3年間は辞めずにご奉公しろ!」と、こっぴどく叱られました。そこで、トータルで3年半シャープに勤めてから退職しました。 その後、4ヶ月ほど次に何をするかを検討しました。元々経営に興味があったので、若くして経営に携われるコンサルティング業界に興味を持ちました。当時、コンサルタントとして有名だったのが、大前研一さんと堀紘一さんの2人。長く名が通っている方は、コンサルとして学ぶことがたくさんあるだろうと考え、門を叩こうと決めました。しかし、大前さんはすでにマッキンゼーを退職し、個人で仕事をされていたので、働かせてもらうのは難しいと判断しました。一方で、堀さんはボストンコンサルティンググループを退職し、ベンチャー企業を支援する会社(ドリームインキュベータ)を作ってメディアにも出られているタイミングでした。そこで、まだ創業2年目のドリームインキュベータに応募してなんとか採用してもらいました。 最低評価を受けたドリームインキュベータでの1年目 「ドリームインキュベータは優秀な人材の宝庫ですが、どのような事業を行っている会社でしょうか。また、宮宗さんはどういった仕事をされてきたのでしょうか。」 ドリームインキュベータは、創業期から大企業のコンサルティングで得たキャッシュをスタートアップに投資する事業をしていました。当時の組織は、バックオフィスの方を含めて40名くらい。経営陣、マネージャー、担当者のシンプルな3層構造の組織でした。MBAホルダーが多い中、私は他業界からの全くの未経験での入社でしたが、大企業のコンサルとスタートアップ投資の両方を担当することになりました。入社して早々に、あるベンチャー企業の社長プロジェクトでプレゼンをすることになったことは今でも鮮明に覚えています。1年目は右も左もわからず、全く仕事ができず、人事評価は最低ランクでした。そこから、必死に苦労して少しずつ仕事をマスターしていきました。 17名中10名が上場した勉強会 「その後、起業家との勉強会を主催され、参加メンバー17名中10名が上場するという素晴らしい成果を出していますが、開催に至った背景と目的、勉強会の内容について教えてください。」 起業家の勉強会は、私が最低評価を抜け出し、マネージャーに昇格した後の2006年にスタートさせました。自分でスタートアップの案件を発掘して、出資することができるようになった時期でした。 スタートアップと関わる中で、仕事には繋がらなかったとしても、未来を担う社長の皆様たちとの接点が切れてしまうのは残念だと感じることがありました。そこで、若手メンバーと学びたい経営者を集めて経験や苦労を話し合う機会となる勉強会を2人でスタートしました。今のようにSNSで採用や評価、事業拡大、IPOなどの情報を探すことが難しい時代でしたから、参加者も我々も多くのことを学びました。例えば、「上場したらIRはどうするのか」、「ストックオプションを付与した人が退職したときにはどのように会社の組織を維持するのか」など、議題を設定して話し合いました。この会で孫正義さんにもお会いしています。その後この勉強会からどんどん上場する起業家が出てきて、私自身もよい刺激とインプットをいただくことができました。 大切なことはすべてお客様から学んだ 「19年間にわたりドリームインキュベータで活躍しますが、そこで経験したことや学んだことを教えてください。」 スキル面はもちろんマインド面もすべてお客様から学びました。例えばM&Aについて、お客様の社長室長と投資銀行部門のトップの方からレクチャーしていただく機会をいただいたこともありました。「会社がどういう観点で買収案件を確認して、経営会議を通しているかを教えるから」と声をかけていただき、課題になる点も教わり、コンサルタントとして適切な対応をすることができました。 また、あるときは「逃げずにやり切る」ということを教わりました。上場直前までいっていたお客様がいらっしゃったのですが、監査を担当していた監査法人が解散してしまうというトラブルに見舞われました。その前後で、ライブドア・ショックやリーマンショックで景気が低迷し、資金繰りも悪化してしまい、結局上場ができなくなってしまいました。このままだと会社としての存続が難しくなってしまうということもあり、私が担当するよりも、創業者である堀さんや二代目社長に担当をした方が良い支援ができるのではと思い、担当変更を申し出たところ、そのような局面にもかかわらず社長は「私は君に頼んでいるんだ」と言ってくださったのです。 この言葉に私は奮起し、様々な企業を紹介することでなんとかその企業が持ちこたえるための支援に奔走しました。その後結局私の紹介ではなく、その社長ご自身のネットワークでつながった上場会社の100%子会社になることで、なんとか事なきを得ることとなりました。この社長の方からは、厳しい経営状況の中でのトップとしての姿勢を学びました。そこから15年ほど経っていますが、年に2回お食事の機会をいただき、様々なインプットをいただいています。このような経験を基に「逃げずにやり切る」ということは、私の軸の一つになったと思います。 上記のようなスタープレイヤーの方々の影響を受けて、必死に仕事をしていく中で、力がついていったという感覚です。私は、若いときの苦労は買ってでもしておいた方が良いと考えています。そうでないとリーダーにはなれない。また苦労した経験は絶対に後で活きます。ただ、今の時代には、ブラックな働き方といわれてもおかしくないので、誰にでもお勧めできることではないです。なんでも費用対効果が高い方やショートカットする方法を重視する方もお見受けしますが、それが仇となることもあるのではないかと思います。
CFOインタビュー
株式会社イントラスト
取締役執行役員 太田 博之 氏

数字で判断・表現し、社長と共に会社を大きくできるCFOの魅力

CFOの道に繋がった監査法人での経験 「公認会計士を目指したのはいつ頃からですか。また、目指した理由も教えてください。」 私は、高校時代に全く勉強しなかったので、一浪し、千葉大学法政経学部経済学科に入学しました。予備校に合格の挨拶に行ったときに、たまたま見た雑誌に「学部ごとの目指すキャリア」についての特集が掲載されていました。そこに「経済学科の人は公認会計士」と打ち出されていて、そこで会計士という仕事を知ったのです。当時は、目標を立てて勉強し大学に合格できたことへの達成感を覚えていたので、大学入学後も目標に向かって頑張ってみようと思いました。ただ、私は怠け者なので、実際の勉強は大学4年生から始め、卒業の2年後に合格しました。 「入所した監査法人では主にどのような仕事をしましたか。また、監査業務などで記憶に残っているエピソードはありますか。」 私は、当時の中央青山監査法人(みすず監査法人に名称変更後、解散)に入所し、上場会社の監査をメインに担当しました。製造業を担当することが多かったのですが、労働組合やファンド、公益財団法人の監査もしました。年次が上がるにつれて、上場準備会社も2社担当し、うち1社はマザーズに上場しました。また、日経から出版された『会計用語辞典』の編集もさせてもらうなど、いろいろな経験をすることができました。 1年目は、1日しか行かない会社も含めると100社くらいのクライアントを回りました。監査以外で、そこまでさまざまな業種、職種の方と話す機会はなかなかないですよね。出張に行くと、クライアントと監査法人のパートナーや上司と会食に行く機会が多く、お酒を飲みながら、クライアント企業の歴史、事業内容や業務フローなど細かくヒアリングさせていただいたことが記憶に残っています。振り返ると、どの業種にも共通するような根本的な話を聞かせてもらっていたと思います。貴重な経験でした。 「監査法人での監査や経営者と話をした経験が現在のCFOの道に繋がっていますか?」 確実に繋がっています。監査法人は、外部の立場ではあるものの、会社の数値を客観的に見ます。これは現在の業務に生きています。また、監査法人はマルチタスクです。小さい会社も含めると最高で11社を並行して担当しました。それぞれ予期せぬタイミングでトラブルが勃発し、それらに対応した経験は今に生きていると思います。ハードワークでしたが、20代でその経験をしていなければ、今この生活はできていないでしょう。 「CFOという職業を意識したのはいつ頃からですか。また、なぜ意識するようになったのでしょう。」 最初は「事業会社で、事業を経験してみたい」という漠然とした思いからスタートしました。監査は大事な仕事ですが、会社が担っている活動を一歩引いて外から見るので、事業そのもののプレーヤーではありません。CFOという職業を意識したのは20代後半くらいでしょうか。明確に「CFOになりたい」という思いがあったわけではありませんが、私が事業会社に価値を提供して、活躍できる場と考えると、ぼんやりとCFOへの道が見えたのです。 やりきって退職後、転職先を探す 「7年間勤務した監査法人を退職するきっかけや理由を教えてください。」 「事業会社に行きたい」という思いがあっても、仕事を抱えていたため、なかなか踏ん切りがつかない日々を送っていました。監査法人を退職する直接のきっかけは、勤めていたみすず監査法人が自主廃業したことです。そのタイミングで先輩や同期は、他の監査法人に転職したのですが、私は事業会社に勤務するという選択をしました。限界まで働くタイプなので、監査法人が廃業する最後の日まで働き、やりきった思いもありました。また、ちょうどそのタイミングで結婚したので、数ヶ月休んでから、転職先を探し始めました。 「転職に対するポリシーはありますか。これまで2度の転職をされていますが、いずれの場合も、退職前に次の転職先を決めていません。これにはどのような思いがあるのでしょう。」 私は、かなりハードに目の前にある仕事に向き合うタイプなので、次の転職を考えている余裕がないというのが正直なところです。転職先を決めてから退職するのではなく、今の仕事をやりきってから辞める。退職してから一旦リセットするといった意味合いが強いかもしれません。私にとっては、そのリセット期間が何年かおきの夏休みという感覚です。なかなか人生で夏休みを取れる機会はないですからね。1回目の転職の前は4ヶ月ほど休みましたが、2回目は子どもがいたので貯金の減りも早く1ヶ月だけ休みました。それでもリセットができて良かったです。ただ、このやり方が正解だとは思っていませんし、リスクもあるので他の方にはお勧めできません。 7年かけてシンガポール市場に上場 「1回目の転職先は事業会社でした。その理由とその会社の事業内容を教えてください。」 私が入社した会社はホールディングスで、7〜8社の子会社の管理をしていました。上場を目指しているものの1社では規模的に上場できないという会社が7〜8社集まってできあがったという経緯のある会社でした。子会社同士に事業上のシナジーがそこまであるわけではなく、それぞれに社長やオーナーがいるため、同じ方向を向くのはなかなか難しかったです。 「シンガポールのカタリスト市場に上場しますが、そこに至るまで7年を要しています。その間の苦労話と最終的に上場できた要因を教えてください。」 最初は、国内の上場を目指していたのですが、業績そのものが上場基準に足りていないところに、リーマンショックがきて一旦ストップになりました。Iの部まで作り、審査に入るくらいのタイミングでした。その後、東日本大震災も発生しました。再度、上場を目指そうとした頃に、ダイナムが香港証券取引所に上場した例があり、他国の市場に上場するという選択肢が見えてきました。当時は、監査法人を経由して、様々な証券会社が日本企業の誘致を図っていたのです。 最初は、韓国のコスダックを目指しました。韓国のPwCの現地事務所から日本語が話せる方に来てもらい監査を受けました。しかし、最終的には基準を満たしませんでした。そして、シンガポールのカタリスト市場を目指すことにしたのです。カタリストは証券会社がOKを出せば上場できる市場でした。準備は大変で、日本の基準をIFRSに変更して、英語で求められる資料を作りました。当時の私は経理部長の立場だったので、英語が堪能なCFOと一緒に作成しました。
投資家インタビュー
シーヴィーシー・アジア・パシフィック・ジャパン株式会社
プリンシパル 高槻 大輔 氏

Win-Winの仕組みで社会を支えるCVC 投資家から見た成功するCFOの要件

「世の中の役に立ちたい」という思いで海外経済協力基金に就職 「大学卒業後、海外経済協力基金(現在の国際協力機構/JICA)に入社されています。なぜ海外経済協力基金を選んだのでしょうか。また業務内容を教えてください。」 海外経済協力基金は、簡単にいうと日本版の世界銀行です。発展途上国向けに大型の資金援助をして、社会開発に役立てることが業務内容です。例えば、ベトナム版の日本坂トンネルを作る、カンボジア版の横浜港を作るといったプロジェクトに対して、長期に渡って資金援助を中心とした支援をすることが仕事です。現在は、さまざまな再編を経て、国際協力機構(JICA)になっています。海外経済協力基金を選んだ理由は、「世の中の役に立ちたい」という思いがあったからです。その一方で、単発で関わるような仕事ではなく、関わったことが未来につながるような仕事にしたいと考えていました。具体的には、長期にわたって支援が継続する資金開発援助が、その国の未来に貢献できるのではないかと思っていたのです。 「どんな仕事をなさったのでしょうか。」 1年目は、ちょうど日本輸出入銀行と統合して国際協力銀行ができるタイミングだったので、その準備でクタクタになるまで働いていました。会議の議事録を真っ赤に修正してもらったり、午前2時にコピー機を修理したりしながら「サラリーマンとはこういうことなんだな」と感じたことを今でも思い出します。2年目からは、ベトナムやカンボジア向けの資金援助を担当しました。例えば、港を作る時に開発資金を提供するといった仕事にあたりました。 また、海外経済協力基金は総合職社員全員に留学の機会を与える組織でした。外国語が話せなければ仕事になりませんし、仕事でコミュニケーションを取る相手も修士や博士ばかりという世界なので、現地で学ぶことが必要だったのです。留学した際には、国際関係論や経済学、語学を学ぶ方が多かったのですが、私はビジネススクールでビジネスを学びたいと考えました。当時の私は、港湾セクターを担当していました。そこでは、援助の世界では珍しく、海外との取引を通して外貨が直接入ってくる仕組みで、ビジネスのパワーの大きさを実感していたのです。援助は大海の一滴です。ビジネス全体がわからないと国の発展にも寄与できないのではないかと考えて、ビジネススクールでの学びを希望しました。そして、ラッキーなことにスタンフォード大学のビジネススクールから合格通知を貰うことができたのです。 スタンフォード大学で2年間学ぶ間、ベトナムの世界銀行事務所でのインターンなども経験しました。しかし、卒業時に辞令がくだり財務省への出向が言い渡されました。海外経済協力基金や財務省での仕事はスケールも大きく、とてもやりがいがあったのですが、日本を活性化する仕事に直接的に関わりたい、また自分の人生は主体的に選びたい、と考えて、転職することに決めました。 日本での可能性を感じたPEファンドへの転職 「なぜPEファンドに転職されたのでしょうか。」 私は、日本は発展した素晴らしい国なので、海外の途上国に貢献することができればやりがいを感じられるだろうと考えて、海外経済協力基金に就職しました。しかし、留学中は、ジャパンパッシング時代ということもあり、「日本は沈む国だよね」と思われていることに気が付きます。そこで、日本人としての闘志に火がつきました。また、大学時代の私はPEファンドという仕事を知りませんでした。留学先の同級生にPEファンドで働いている方がいて、その存在を知ったのです。日本には、潜在的な力を出しきれていない大企業やファミリー企業が多い。だからこそ、このPEファンドは日本に向いている仕組みなのではないかと考えて、勤めてみようと考えたのです。 CVCファンドの特徴 「世界的に大手の外資系投資ファンドにご勤務の後、現職のCVCアジア・パシフィック・ジャパン株式会社で、8年目を迎えていらっしゃいます。こちらはどのような特徴をお持ちの会社でしょうか。」 CVCアジア・パシフィック・ジャパン株式会社は、シティバンクが所属していた総合金融グループであるシティコープの自己資金投資部門がMBOをしてできたPEファンドで、40年程の歴史があります。「CVC」とは「シティ・ベンチャー・キャピタル」の頭文字でした。当社にはいくつかの特徴があり、1つ目はヨーロッパのチームが最初にMBOをして、次にアメリカ、最後にアジアという経緯で今のCVCになったので、ヨーロッパが本拠地でカバー力が強いという点です。多くのグローバルファンドはアメリカが本拠地です。2つ目は、チームでMBOしたことから始まっているので、絶対的な創業者はおらず、最初からチーム運営だったという特徴もあります。多くのグローバルファンドには創業者がいます。 3つ目は、ヨーロッパならではの価値観ですが、「グローバル」といえどもローカルな意識が強いという特徴があります。ヨーロッパの人たちは、フランス人はフランス人、イギリス人はイギリス人、ドイツ人はドイツ人という意識があります。ヨーロピアンスタンダードという発想よりは、フレンチスタンダード、ブリテンスダンダード、ジャーマンスタンダードというようにそれぞれが異なるので、すごくローカルを尊重する価値観なのです。他には、シティベンチャーキャピタルで、最初の段階ではベンチャーキャピタルをしていたので、リストラなどではなく、成長企業が好きですね。 CVCの投資基準 「御社の投資基準について教えてください。」 CVCには、トリプルB(Building Better Businesses) というモットーがあります。それは、いい会社に投資し、さらに良くしていくということです。「安いから買おう」、あるいは「大リストラをしてリターンを出そう」といった発想ではなく、良い会社がどうしたらさらに良くできるかという観点で投資をしています。株式会社ファイントゥデイさんや株式会社トライグループさんなど、投資先からもご理解いただけるのではないかと思います。 「平均すると保有期間はどれくらいになりますか。」 3から5年くらいが基本ですが、長いときは7年を超えるケースもあります。例えば、CVCの代表的な投資先の一つであるフォーミュラ1(F1)の株式は10年以上保有していました。 「出口戦略として、どうお考えになっていますか。売却や IPOなど、どういったケースが多いのでしょうか。」 あまり決まっていませんが、IPOするケースは多いです。その理由として、元がベンチャーキャピタルでグロースが好きという側面もあると思います。また、アジア各国は成長を遂げているので、成長企業も増えていきます。その結果、上場してイグジットしていくケースは多くなります。そして、ヨーロッパ起源のDNAとして、パートナーシップ投資が非常に多いという点も特徴でしょう。ヨーロッパは、ルイ・ヴィトン社などのようにファミリー企業が多く、同様にアジアもファミリー企業が多いです。その場合、CVCが単独で買収するのではなく、創業家が残るパターンが少なくありません。また、イグジットも丸ごとどこかに売却するのではなく、CVCが担っていた部分だけがなくなるというケースも多くなります。
CFOインタビュー
ロジスティード株式会社
常務執行役員 CFO 財務戦略本部長 本田 仁志 氏

東芝での15年間や大企業2社でのCFO経験を経てたどり着いたキャッシュフローを軸にした本質的な経営の重要性

上場企業CFOの土台を作った東芝での経験 「大学卒業後、日本を代表する大企業の東芝へ入社した理由を教えてください。」 私が社会人になった1990年は、まだバブル経済の余韻が残っている時代でしたので、大学のゼミの同期の大半が金融機関に就職していきました。ただ私は、みんなに合わせるのが好きではなく、また、目に見えないモノよりも、リアルなモノを作っている会社が楽しそうだと考えていました。当時の総合電機は、さまざまな製品を作り、グローバル展開もしていました。そういった点に可能性を感じて、東芝に入社しました。 「東芝で15年間勤務する中で、どのような業務に携わりましたか。順番に教えてください。」 経理部門に配属になり、まずは現場を知ることが重要だということで、dynabookというパーソナルコンピューターやRupoというワープロを製造している青梅工場に5年間ほど勤務しました。モノづくりの現場で、設計部門や製造部門とやり取りをしながら、原価計算や予算作成、分析などをしていました。基本的には、経理財務のレポートラインと、工場の製造部門・設計部門に対するレポートラインがありました。いわゆるデュアルレポートの仕組みが存在していました。そこで業務の基礎を作った上で、浜松町の本社に異動になりました。 「本社ではどのようなことをされていたのでしょうか。」 最初の1年は、財務部企画担当として、格付機関の対応などをしました。東芝は社債を発行していたので、信用格付を取得しており、格付機関とのやりとりが必要でした。格付機関に、キャッシュフロー、中期経営計画、会社の将来性などについて説明するために部内で初めてパワーポイントを使ってプレゼン資料を作成したことが印象に残っています。他には、今のDXのはしり、例えば、社内の情報共有ツールの導入などもしました。企画担当の業務範囲は広く、あらゆることに携わっていました。その後、4年ほど、全社規模の投融資管理、資金戦略策定、資金繰りを把握する業務を担当しました。 次に、管理会計を担当しました。当時はカンパニー制でしたので、カンパニーを受け持って、日常の予算実績やフォーキャストの管理、チャレンジ目標の数値設定などをしました。具体的には、P/Lやフリーキャッシュフローの目標値を設定して、それを現場に落としていくのです。家電やパソコンから原子力発電、はたまたインターネットビジネスなど、モデルの異なる事業を幅広く担当することができました。当時、東芝は1兆円ほどの有利子負債があり、財務基盤が弱いことに危機感を持っていたので、債権の流動化やノンコア事業、遊休資産の売却、セール・アンド・リースバックなどのアセットライト施策の実行やグループファイナンス制度導入によるキャッシュフロー改善にも取り組みました。 「東芝はどのような経営管理をしていたのでしょうか。」 予算についてはトップダウンで決まっていました。私の所属していた財務部では、コーポレートの視点で各カンパニーの特徴を理解した上で、その特徴を財務モデルに落として、シミュレーションをしながら、目標の利益やキャッシュを定めていました。これを基にして、カンパニーの方とディスカッションをします。その話の持っていき方にも戦略が必要です。過去の実績と今回の予算の差を分析して、「この部分はバッファを取っているのではないか?」といった指摘をすることもありました。 「予算ができた後は、どのように経営管理を行っていたのでしょうか。」 カンパニーから分析結果や6ヶ月先くらいまでのP/L、B/Sとキャッシュフローのローリングフォーキャストが上がってくるので、それに対して我々が質問をしていく形式で行っていました。予算とフォーキャストが乖離した場合には、アクションプランを作るなど臨機応変に対応していました。 「東芝での15年間で、どのようなスキルを身に着けることができましたか。」 上場企業CFOとしてのベースは東芝時代に身につけたと思っています。グループ内でバリューチェーン、サプライチェーンの一連の流れを持っており、調達から始まって、開発、製造、物流、販売までの全体を俯瞰することができた点もメーカーの良さでした。さらに、コンシューマー向けの家電からB to Bの原子力発電など多種多様な事業を幅広く経験できたことも、その後のキャリアの中で非常に役立ちました。当時は大変でしたが、短期間でローテーションしながら、かつ深くコミットを求められることも、今振り返るとありがたいことでした。 東芝は、不適切会計事件以降、ずっと苦しまれている印象ですが、私が勤務しているときは非常に実直で優秀な方が多かったと感じています。役職ではなく「さん」づけで呼び合い、非常にオープンな文化でした。議論好きな方が多く、侃々諤々と議論をしていました。例えば、「家電はコモディティ化しており、量販店に利益が流れていて儲からないので撤退した方がよい」という話になり、それについてのレポートをまとめて社長に持っていったこともありました。実際に撤退はしませんでしたが、そういった意見も受け止められる余裕があった時代だったのです。 また東芝の経理・財務部門では「自分で考えること」を強く求められました。新入社員の時代から、「どうすればいいですか?」という質問ではなく「こういう理由でこのようにすべきだと考えるのですが、いかがでしょうか?」という提案をすることが必要でした。このためにはOJTだけでなく、自分で自主的に学習することが必須であり、日常業務の範囲を超えた知識やスキルを読書などにより補う習慣が身に付きました。この習慣は私にとって得難い武器になったと思います。一方で、東芝の経理・財務部門における提案を求めるカルチャーが、経理・財務部門の自主的な「提案」という形に変容し、不適切会計における「忖度」を支えてしまったという側面もあったかもしれません。
CFOインタビュー
リガク・ホールディングス株式会社
専務執行役員CFO 三木 晃彦 氏

大手外資系企業と日系企業でのCFO経験 唯一無二の存在が語る経営の醍醐味とは

憧れる人物像に近づきたくIBMに入社 「大学卒業後、外資系グローバルIT企業である日本IBMに入社します。なぜIBMを選んだのですか。」 学生時代の部活で音楽系クラブに所属していて、米国に演奏旅行する機会がありました。そこで最初に演奏したのがIBMのサンノゼ工場だったのです。この時のコンサートマスターがIBMに勤められていたOBの方で、ペラペラの英語で司会もされました。「こんな人がいるのか! この会社に勤めると同じようになれるのかな?」と思いました。そんな経緯から、IBMに勤めることに憧れの気持ちを抱きました。 IBMはコンピューターの巨人と呼ばれていて、100年以上の歴史を持つ世界最大規模のグローバルIT企業です。当時、「マルチステーション5550」という企業向けPCが発売され、学生時代のゼミで使用していたこともあり、身近に感じ始めていました。実際の就職活動では、安定感のある日系企業からも内定を貰ったので、どちらに入社するか迷いましたが、「自分が憧れを抱いた会社に勤めたい」という純粋な思いから、IBMへの入社を決めました。英語も好きで、コンピューター企業の将来性に期待していたことも後押しとなりました。 「結局20年ほど勤務することになりますが、どのような業務を担ってきたのか教えてください。」 システム・エンジニア志望だったのですが、入社してすぐに開発製造部門の一事業部における予算管理という部署に配属されました。現在、日本でも注目を浴びているFP&Aという管理会計の役割の一つで、IBMは経営管理においても、最先端の手法を取り入れていました。学生時代に会計の勉強を殆どしていなかったので、実務では早々に壁にぶつかりました。そこで会計のスキルを身に付けるべく、税理士試験の簿記論の勉強をはじめ、幸い合格しました。その後、開発製造部門の予算管理システムを刷新するという、大きなプロジェクトのユーザー側リーダーを拝命しました。悪戦苦闘の連続でしたが、入社3年で経験できたことは、自分を成長させる良い機会でした。 入社5年目で米国赴任に大抜擢 「その後、米国に異動しました。本社では主にどのような仕事をされてきたのでしょうか。言語の壁も含めて、苦労はありませんでしたか。」 入社時の上司が米国の本社に赴任されていて、その方が米国で担当した仕事を若い人にやらせたいということで、私を呼んでくださったのです。本当に有難いことでした。 一年目は、ニューヨーク州でAsia Pacific地域の製品企画部門の予算管理を担いました。二年目は、フロリダ州にあったパソコン研究所で開発費管理の仕事をしました。人生で最初の一人暮らしが海外でしたので、言葉、慣習、車の運転など、仕事以外にも毎日がチャレンジでした。ただ、年齢の近い現地の仲間と良い関係を築けたので、仕事や生活面で助けて貰い、休日も一緒にパーティーやスポーツ、習い事などをしました。おかげで赴任から約3か月で、すっかり溶け込むことができました。 米国公認会計士と米国公認管理会計士のW取得の効果 「税理士の簿記論を取得した後、米国公認会計士や米国公認管理会計士の資格を取得されたのですね。その理由を教えてください。」 米国公認会計士を取得しようと思ったのは、IBMの会計が米国基準でしたし、グローバルで活躍できるプロフェッショナルになりたかったからです。米国での生活が安定してから本格的に始め、日本に帰任後約1年で全科目を合格しました。米国公認管理会計士の資格は、米国赴任中にIBMの友人から薦められました。当時からIBMは、FP&Aの役割を重視していたからです。この資格を取得するには、原価管理、予算策定、予実分析、コーポレート・ファイナンス、投資の意思決定などを学びます。実際に勉強を始めたのはここから数年後でしたが、仕事に直結する内容でしたので、日々の業務と照らし合わせながら楽しく学べ、合格することができました。 「資格は仕事において役に立っていますか。」 米国公認会計士に合格した頃から、周りの人が自分をファイナンスのプロフェッショナルとして見てくれるようになったと感じました。また勉強の過程で身に付いた会計の知識は、自信に繋がりました。米国公認管理会計士については、実務で携わってきたことをセオリーで裏付けることができ、FP&Aの技術的なスキルを強化できたと思います。どちらの資格も、仕事において非常に役立っています。 「グローバルの外資系企業にいる上では、米国公認会計士と米国公認管理会計士の資格を持っていた方が有利なのですね。」 有利という表現が適切かは分かりませんが、個人的には、より有効に活かせると思っています。日本人の米国公認会計士は、英語が得意で、外資系企業の日本法人に勤める方が多いと思います。しかし、米国公認会計士が事業会社で働く場合の主戦場となる制度会計、開示、財務等の業務は、本社(海外)で行うものが多いです。子会社である日本法人だと、担当する範囲がどうしても狭くなると思います。また監査法人で働く場合ですと、米国公認会計士は日本で公認会計士の独占業務ができません。 では、活躍の場はどこが大きいかというと、グローバルで事業を展開し、US GAAP やIFRSを導入する日系企業での制度会計や、外資系企業における管理会計の分野だと思います。特に外資系企業は株主へのリターンを強く意識することから財務業績をとても重視するため、管理会計に関わる人員が日系企業に比べて多いと感じています。 管理会計に活躍の機会が多いという話をすると、米国公認管理会計士だけを取得すれば良いのではと思われるかもしれません。ただ私は、両方あると一層活きてくると思っています。米国公認会計士の資格取得を通じて、会計の基礎をしっかりと身につけることは重要です。その上に、米国公認管理会計士の勉強を通じて、管理会計のスキルが加わっていく。管理会計は応用編なので、適切な意思決定を支える盤石な会計知識が欠かせないのです。 価格設定担当者としての学び 「2年間の米国赴任を経て、日本に戻ってからはどのような仕事をされていたのでしょうか。」 当時、東京にあったIBM Asia Pacific(AP)本社(日本IBMの親会社)に出向となり、日本を含むアジア地域において製品やサービスの価格を設定する仕事に就きました。出向期間を終えて日本IBMに戻ってからは、当時のIBMが全世界で取り組み始めたアウトソーシング事業部に、価格設定支援の役割で配属されました。IBM AP本社に出向していた時の経験を生かして、アウトソーシングの価格設定モデルを開発しました。また大型案件の価格を設定する役割も担いました。これまで実務や資格取得の勉強を通じて習得してきた会計のスキルが、価格設定に必要となるコスト見積り、収益性分析などで発揮することができました。 ファイナンス部門は、ビジネスの現場に居る人たちから番人のように思われます。しかし、アウトソーシングの契約を締結するためには、ファイナンス部門の人の役割が重要でした。価格設定に関わるのみならず、お客様の会社のCFOに、アウトソーシングの財務上のメリットを説明することもありました。その際には、お客様の会計基準や管理会計手法を理解して話す必要がありました。自分の経験とスキルを最大限活用しながら、営業やサービス部門の人たちと一緒になって取り組んだ貴重な機会でした。そして部下を持つマネージャーに昇進しました。引き続き、多くのアウトソーシング案件の成約に組織として携わり、当事業を大きく成長させる一翼を担えたと思っています。 事業部CFOの戸惑い 「39歳でPC事業部のCFOとなります。責任範囲も広くなり、部下も増えたことに対して、戸惑いはありませんでしたか。また、CFOとしてどのような役割を担ったのかも教えてください。」 日本IBMの一事業部とはいえ、CFOという役割に当初はかなり戸惑いました。アウトソーシングの価格設定の役割は、どんなに大きな案件でも、成約するという観点で同じ方向を向いた人たちと仕事をしていました。それに対してCFOになると立場が異なります。事業部全体を売上・利益・キャッシュフローの観点で成長させる責任がある一方で、個別のアクションが適切であるかを冷静に判断する必要があります。営業部門から将来のために投資をしたいと提案があっても、こちらの分析では適切なリターンが見込めないため、意見が衝突することも少なくありませんでした。また内部統制をきっちりと浸透させる役割も重要です。事業のアクセルとブレーキをバランス良く踏む必要がある、難しい役割だと感じました。業績報告では「悪化している理由は何か?」「どうやってリカバーするのか?」という質問のみならず、「あなたは何に貢献できるのか?」「何をコミットするのか?」と問われることも少なくなかったです。 「そのような困難な状況にどのように対処していったのですか。」 当時の日本IBMのCFOから、事業部CFOの重要な役割は、事業部長やチームから「信頼されるビジネス・パートナーになること」だと学びました。専門性・スキル・経験は異なるものの、事業部もCFO部門も、会社や事業部を継続して成長させるというゴールは同じです。「一緒にゴールを目指す」と思えば、お互いが足りない部分を補完し合いながら、行動することができます。決して馴れ合うのではなく、対等な立場でお互いが良いところ・悪いところを指摘し合い、認めあい、補正しあいながら、共通のゴールに向かって進めていく。この姿勢が企業価値の向上に欠かせないことを学びました。そして業績報告においても、自分がビジネスのオーナーシップを持って説明できるようになりました。困難にぶつかった時には、この考え方に立ち返るようにしてきました。
CFOインタビュー
グリー株式会社
取締役CFO 大矢 俊樹 氏

多様な企業のCFOを経験して見えた地平 その魅力や求められるCEOとの関係性とは?

ソフトバンクの勢いに衝撃を受けSBIへ転職 「大学3年生で公認会計士に合格していますが、いつ頃から会計士を目指していたのでしょうか。また、その理由を教えてください。」 大学1年生の途中から会計士を目指すようになりました。「手に職を付けておきたい」と考えていたところ、在学していた慶應義塾大学では会計士を目指す人が多かったので自然な流れで選びました。 「卒業後、大手監査法人のトーマツに入所されています。どのようなことを担当されましたか。」 主に会計監査を担当しました。この時期に、メーカーや小売、卸売、商社、銀行、保険会社などさまざまな業種・業態を見ることができました。会計監査に加えて、IPO支援やコンサルティング、バリュエーション、M&Aの調査などを幅広く担当させていただきました。 「7年間トーマツに在籍し転職していますが、そのきっかけは何だったのですか。また、そのまま残ってパートナーになる道は考えなかったのですか。」 もともと監査法人にずっといることは考えておらず、ある程度の経験を積んだら違う道に進みたいと思っていました。例えば、税理事務所を開業することや事業会社への転職などさまざまな道を検討していました。1999〜2000年当時は、インターネットが盛り上がっており、マザーズやナスダック・ジャパンが創設された時代です。特にソフトバンクの勢いがすごく、孫(正義)さんがナスダック・ジャパンを作った時に、「証券市場を作ることなんてできるのか!」と衝撃を受けました。それが決め手となって、ソフトバンクの関連会社であったソフトバンク・インベストメント(現:SBIホールディングス)に転職することにしたのです。 キャリアの基礎となったSBI 「監査法人と異質の世界に転職して戸惑いはありませんでしたか。」 ありました。監査法人はクライアントからは先生のような扱いを受けます。また、社内においてもプロジェクト単位で仕事をするため、直接的な上司がおらず、みんなが資格を持っているので、新人でもリスペクトされるような文化でした。一方で、SBIは、北尾(吉孝)さんの会社なので、野村證券出身の方が多く、野村證券の雰囲気が多少なりともあると感じました。野村證券は「投資先を見つけてくるまで帰ってくるな」と言われるというイメージがありますよね(笑)。監査法人とは社風が全く違うので、戸惑いはありましたし、慣れるまで大変でした。 「この転職の判断はキャリアを大きく決定づける分岐点だったようにも思います。その当時の自分の決断をどう思われますか。」 良かったと思います。投資やインターネットによる市場の盛り上がり、そのダイナミズムを経験することができたのは私のキャリアに大きな影響を与えました。1つのベンチャーファンドに1500億円ほど集まるような時代で、その投資先を支援することによる学びも大きなものでした。 「SBIでは、大きな投資ファンドの組成・運営、投資先のCFOなどの実績を重ねられています。具体的にどのような経験をされたのか教えてください。」 SBIには3年半しかいませんでしたが、前半は1500億円のファンドを組成する責任者として、企画を作ったり、投資家のデューデリジェンスを受けたりしました。その後、実際に投資をして、管理体制を作っていきました。後半は、バイアウトのファンドを組成して、その投資先の名古屋のサワコー・コーポレーションという建設会社にCFO的なポジションで携わりました。この会社は、ナスダックに上場していたのですが、残念ながら会社を清算したので、SBIがスポンサーとして入り、バイアウトファンドで出資をして再建をすることになったのです。当時、私は32歳で、CFOの仕事に憧れがありましたので、手を挙げてやらせてもらうことになりました。ただ、懸命に努力はしていましたが、振り返ると、経験不足でたいしたことはできていなかったように思います。 ヤフーへの転職と買収先でのCFO経験 「その後、どういった経緯でヤフーに転職したのでしょうか。」 1年ほどで部署が異動になったため、サワコー・コーポレーションでの役割も終えました。次に、経営企画の仕事をすることになったのですが、事業会社のCFOを目指したいという思いが捨てきれませんでした。そんな時に、インターネット業界では有名な、ヤフーで経営戦略部長を務められて、2018年に鬼籍に入られた佐藤 完さんという方からお誘いいただき、グループ会社であるヤフーに転職することになったのです。 「当時のヤフーの規模や、当初担った業務を教えてください。」 当時は、売上750億円ほど、社員数は1000人くらいだったと記憶しています。毎年倍々で成長していました。当時のCFOの梶川(朗)さんが上司となりました。最初の9か月ほどは、広くヤフーのことを知るために内部監査を経験し、その後、経営企画の仕事で主にM&Aを担当しました。 「そのM&Aの仕事とのつながりで、『筆まめ』シリーズで有名なクレオのCFOになられたのですね。その経緯とミッションを教えてください。」 クレオは、社長の井上(雅博)さんの「エンジニアのリソース不足を解消するためにエンジニアを大量に供給してくれるパートナーを探したい」という意向を受けて、探してきた会社でした。ヤフーからクレオに役員を派遣するタイミングで、井上さんと僕が入りました。井上さんが役員会に出た時に、クレオの業績管理に不安があったので、きちんと業績を管理した方がよいということになり、私がCFOとして入ることになったのです。 CFOとして行った数々の改革 「5年間クレオの取締役CFOを務めます。苦労の連続だったと思いますが、主にどのような改革をされたのか教えてください。」 当初は常勤でもなかったですし、半年ほどで役割を終え、ヤフーに戻る予定でしたが、問題が予想以上に根深かったので、常勤で継続することになりました。最初の段階では、不動産などの不良資産を整理するなど、バランスシートの改善に取り組みました。また、『筆まめ』以外のBtoBの人事給与や会計などのパッケージソフトについては、業績が悪く過剰に資産化していました。資産化すると、その年度は業績が改善したように見えますが、償却費が累積していくので問題を先送りしただけです。そこで、そうした項目を減損して整理しました。この取り組みは、目に見えて改善できるので、仕事をした気になるのですが、しょせん会計上の話であり、事業自体は改善していません。事業構造自体を改善しないと、何も変わらないということに気がつきました。 事業構造自体の改善という意味では、パッケージソフト事業が、品質が安定しないためにアフターコストが膨大になっているという問題がありました。品質の問題は現場の技術者を巻き込んで徐々に改善するしかありませんが、並行してビジネスモデルを変更する必要がありました。当時は、イニシャルコストとしてライセンス料を、ランニングコストとして保守料をもらっていましたが、比較するとライセンス料の比重が重かったのです。ライセンス料の利益率は高いですが、受注販売なので売上状況に大きく左右されます。そのため、大きな案件を失注してしまうと業績を下方修正せざるを得ないという状況でした。こうした体制では安定しませんので、ストックの収入を増やすために保守料の比重を大きくする必要がありました。そこで、1年間だけ僕が事業責任者になって、利益改善に取り組みました。 さらに、希望退職者も募りました。最後に持株会社化もしました。その当時で35年ほどの歴史がある会社で、ずっと事業部制を採っていたのですが、惰性感がありました。僕は、組織が人に与える影響はすごく大きいと考えているので、持株会社にして、事業部を事業会社に、事業部長を社長にしました。事業部長と社長とでは、自分自身の意識や周りからの見られ方が全く変わります。会社のことを自分ごと化して考えられるようになったという意味で、かなり効果があったように思います。 このように5年間でさまざまな改善をして、ようやく黒字にすることができました。 「なぜ、そのようなさまざまな改革ができたのでしょうか。」 1人でできることは少ないので、現場の意見をよく聞き、マネジメント間でも話し合い、井上さんにも相談しながら策を練っていきました。うまくいっていないことには、経緯や理由があるはずです。それを司っている組織や人を無視しても上手くはいきません。話を聞く際には、皆さんの意見の集合知を把握しようとするのではなく、一定の切り口や仮説を持ちながら進めることを意識していました。 「上場企業の取締役CFOという経験はその後のキャリアにどう影響していますか。」 経営企画のような経営をサポートする立場から、本当の意味で経営サイドの立場を経験しました。経営においては、自分がジャッジした回数や経験が重要です。35歳から40歳くらいまでにそういった経験をさせていただけたことは、すごくありがたかったですし、その後のキャリアの基礎になっています。
CFOインタビュー
株式会社パワーエックス
執行役CFO 藤田 利之 氏

心に火が灯り挑戦したベンチャーのCFO 事業会社やFASでの知見が結実した成功への道

苦しかった事業会社での経験 「公認会計士を目指したのはいつ頃からですか。それはなぜですか。」 高校2年生の時です。私は、小さいころから父から「理系の大学に進学したほうがいい」「手に職をつけたほうがいい」と言われてきました。私自身も数学が好きだったので、理系に進もうと考えていたのですが、高校2年生で文理選択をする際に、理系でやりたいことが見出せず悩みました。そんな時に、書店で見つけた資格の本に、公認会計士について書かれていました。当時は勝手に「企業のドクター」のようなイメージを感じ、数学的な要素や経営的な要素があり、面白そうな仕事だと感じました。また、性格的に学校の先生や先輩との上下関係がそこまでうまくやれるタイプではなかったので、当時から大きな組織で出世していくサラリーマンは向いていないと思っていましたので、独立できる資格ということも魅力に思えました。父にも「理系には進まないけれど、資格取得をして手に職をつけたいと思っている」と話をし、会計士を目指すことにしたのです。 その後、大学に進学し、大学2年生から勉強をスタートしました。最初はなかなか勉強に身が入らず、結局合格したのは卒業して2年目なので、受験勉強に4年半くらいかかり、資格の取得にはかなり苦労しました。当時は、大学入学時がまだバブルと呼ばれた好景気な社会で、世の中も大学も浮かれており、就職に苦労するという雰囲気ではありませんでした。しかし、大学3年生頃にバブルが崩壊し、社会が一変し、大学4年時には、友人が就職で苦労するのを見て、今から就職活動をしてもすでに難しいと感じました。私は、そこでやっと「会計士に受かるしかない」と覚悟を決めることができました。その後、やっと合格しますが、バブルは崩壊しており、合格者であっても半数が監査法人に就職ができないという年でもあり、今度は就職の苦労が始まりました。 「それで、監査法人に入所せず事業会社に就職したのでしょうか。」 景気悪化に伴い監査法人での採用人数がそもそも少なく、どこにも受かりませんでした。とにかく早く働いて稼ぎたいとの思いで、ソニー・ミュージックエンターテインメントに中途入社し、グループ人事の一環で、キャラクターグッズのライセンスビジネスや化粧品ビジネスを行っていた子会社のソニークリエイティブプロダクツという会社の経理に配属になりました。事業会社でサラリーマンになりたくない、と思って、会計士の勉強を始めたはずなのに、結局、最初は事業会社に就職するということになりました。 やっと得た仕事ですが、社会人経験が全くないまま中途入社したので、そのあと地獄のように大変でした。会社の人からは、「会計士試験に受かったすごい人が入社してきた」と思われていたようですが、私は名刺の渡し方、電話の取り方も知りません。愚痴る同期もいません。期待に全く応えられず、会計士試験に合格したプライドは一気に崩れ、毎日遅くまで残業し、土日も出勤と地獄の日々を送ることになりました。 「そこで経験されたピンチや苦労について教えてください。」 新人なので、電話を取ったり、お茶を出したり、お弁当を買いに行ったり、請求書を封筒に入れたり、大量の伝票の仕訳をしたり、という仕事をしながらも、会計士2次試験合格者の期待として監査法人の対応をしたり、取締役会の資料を作ったりという業務も任されていました。しかし、会計士2次試験合格者とはいっても、仕事自体が初めてで、仕訳を切った実務経験もありませんし、取締役会の資料と言われてもイメージが湧きませんでした。しかも、ソニーの連結孫会社だったので連結決算のため、毎月の月次決算スケジュールはタイトで、キャパオーバーが続き、ミスを連発しました。自身の力不足も相まって上司ではなく、先輩や同僚からも怒られることも多々ありました。入社して半年で10kg痩せました。 加えて、一般事業会社なので、監査法人と違って補習所に行くシステムもありませんでした。試験の日とディスカッションの日だけは、なんとか半日の有給を取って、ギリギリ単位を取りました。会計士2次試験に苦労して合格し、就職に苦労し、そして最初の職場でもかなり辛い日々が続きました。まだ、独立できる公認会計士になれるイメージもわかず、日々の仕事に追われる日々でした。 営業から契約締結まで担当したトーマツでの経験 「1年ほど勤めた後に、退職して、監査法人トーマツの静岡事務所に入所されています。それはなぜですか。」 事業会社での1年間で疲れ果て、また、初心に戻って会計士としての監査の経験をし、独立を目指すために地元の静岡県に帰ろうと思ったからです。1年早く合格した大学時代の友人がトーマツの静岡事務所で働いていて、その友人から所長を紹介してもらい、即入社が決まりました。 「静岡事務所ならではの得難い経験があったと思いますが、具体的にはどんな経験やスキルを習得することができたと思いますか。」 当時のトーマツの静岡事務所は、出張所のような位置付けから事務所に格上げされてそれほど立っておらず、所長も40歳前半で若いメンバーの事務所でした。監査法人において、通常は、営業はパートナーしか担いませんが、静岡事務所では、事業規模の拡大のために営業研修があり、スタッフから営業マインドを植え付けられました。私が在籍した際には、スタッフからシニアスタッフに昇進するためには、クリアしなければならない営業ノルマがありました。当時、ちょうと東証マザーズやナスダックジャパンが設立され、IPOを目指す会社が増える傾向にありました。そこで、問い合わせがあった会社に対して、ショートレビューをして課題を抽出し、レポートを書いて、提案をして、コンサル契約あるいは監査契約を結んでといったように案件を獲得しました。 ここで、前職での経理の実務経験が非常に活き、成長に向けた体制整備の案件を数件獲得でき、月に何回か訪問し、月次制度を整えたり、内部の仕組み作ったりしていきました。トーマツの静岡事務所は、約4年間と短い期間でしたが、地方事務所のおかげで、かかわる業種も幅広く、早期に現場のインチャージも経験でき、加えて、営業から監査やコンサルまで、様々ななことを経験させていただきました。今思えば、非常にいい経験だったと思いますが、当時はとにかく忙しかったことを覚えています。 「監査法人というよりベンチャー企業のようなイメージですね。」 監査法人の中では、伸び盛りの地方事務所で、かつ、顧客もベンチャー企業も多かったので、まさにベンチャー企業のような事務所でした。ただ、私自身は、入社当時は、ベンチャー企業のような環境で働きたいと思っていたわけでもなく、同期の合格者から1年遅れてトーマツに入社したので、懸命に業務に打ち込むことで早く、試験合格の同期に追いつきたい、との思いだけでがむしゃらにやっていただけでした。ただ、それがベンチャー企業の参画に繋がった部分もあるかもしれません。
CFOインタビュー
株式会社東京通信グループ
取締役執行役員CFO 赤堀 政彦 氏

27歳でCFOにチャレンジ!関わる企業とともに成長し、挑戦を続けた先に見えた経営の醍醐味とは

新卒にして企業買収や業務提携を担当 「大学卒業後、シーエー・モバイル(現:CAM)に入社します。この選択が赤堀さんのその後のキャリアを決定づけたと言っても過言ではない気がしています。なぜシーエー・モバイルを選んだのですか。」 将来のキャリアを鑑み、企業買収に関するアドバイザリーやコンサルティングの仕事を探していました。アドバイザーという外部の立ち位置で探していましたが、シーエー・モバイルから自社の企業買収や事業提携の担当者というポジションで採用いただきました。結果的には、外部のアドバイザーとしてではなく、内部で意思決定に関与できる立ち位置に関心を持って入社を決めました。シーエー・モバイルでの日々により、たくさんの失敗をしながら経験値を増やすということが、私のスタイルになりました。当時はあまり失敗ばかりしたくないと思っていましたが。 27才で投資先のCFOにチャレンジ その後セレンディップ・コンサルティングに入社しました。入社前から様々なコンサルティング業務を経験できることは説明を受けていました。2年程はM&Aに関連したアドバイスをしたり、中期経営計画や人事制度を構築したりと様々な業務に従事しました。その後、セレンディップ・コンサルティング自身が企業に投資をするという方針変更を実施しました。 「それをきっかけに、27歳の時に投資先の取締役管理部長に就任されるのですね。これは自ら希望したのですか。また、不安はありませんでしたか。」 自分から希望しました。今から考えるとかなり無謀な挑戦だと思います。無知だからこそ手を挙げられたのでしょうね。最初は売上60億円、従業員は1,500人ほどのベーカリーを中心とした食品製造小売販売業の取締役管理部長、いわゆるCFOをしました。借入金が大きく、赤字も数億円と業績が良くない会社だったため、当時は候補者があまりいなかったのかもしれません。それならば、自分がやってみようと決意しました。 「初めての経験ですよね。」 何も分からないところからのスタートです。プロジェクトベースのものであればまだイメージができますが、経理実務はさっぱり分かりません。仕訳の切り方も給与計算も分からず、「承認のルートとは何ですか?」という状態からスタートしたので、業務を進めながら勉強していきました。 「実務的な問題だけでなく、人のマネジメントも大変だったのではないでしょうか。」 そうですね。当時は、がむしゃらにやっているだけで、周りが見えておらず、性格もきつかったと思います。「なんとしても黒字にしないと、この会社は潰れてしまう。社員のみんなを路頭に迷わせるわけにはいかない」と思っていました。それが正しいと信じていました。今振り返ると、もっとやりようはあったのでではないかと思いますが。 売上を失った失敗経験 「こちらでの失敗の経験があれば教えてください」 大きく売上を失ってしまったことがあります。あるスーパーマーケットチェーンにベーカリーショップを出店していたのですが、店の老朽化などの影響で売上が思わしくなかったため、賃料の交渉をしました。あまりにも赤字が大きく交渉しすぎてしまい、GMS側の役員と部長から「全店舗から出ていってくれ」と言われてしまい、億円単位で売上を失うことになってしまいました。そのGMSに出店している店舗は赤字だったので閉店させた方が良かったのですが、閉店するにもコストがかかりますし、働いている人たちをどうするのかといった問題が生じました。今振り返るともっと上手い交渉の仕方はあったと思います。 「食品製造小売販売業でのCFOの経験は、ある意味では再生案件ですよね。再生案件は難しいので、一般的には経験豊富な方がCFOとして入っていくケースが多いです。赤堀さんはそれを27歳という若さで経験された。振り返ってみて、どのような経験になりましたか。」 当時は上司に言われたことを本当にがむしゃらにしていただけです。たまたま上司に恵まれていて、たまたまやったことが上手くいった。上司は狙ってやっていたそうですが、それすら当時の私には分かりませんでした。だた、本当に良い経験をさせてもらいました。 「さらに、30歳でセレンディップ・コンサルティング本体で取締役管理部門管掌という管理のトップを任されます。不安はありませんでしたか。」 当時は、がむしゃらすぎて不安を感じている暇すらなかったのですが、今考えると不安しかなかったですね。また、能力的にも不足していたので、経験を重ねて乗り越えましたが、上司が僕に時間を惜しみなくかけてくださったことも大きかったです。ただ、当時はそんなことにも気付けてはいませんでした。色々な人に迷惑をかけながらも、結果的には資金調達ができて、企業買収・M&Aもできました。 一方で、このCFO経験は、僕の中に悩みや葛藤を生みました。自分が理想とするCFO像と自分とのギャップがあまりに大きいことを認識しました。そもそも「CFOの仕事とは何か」といったことが、きちんと腹落ちできていなかったのです。人の言葉を聞いたり、本を読んだりしてもしっくりこない。しっくりこないまま進めていました。 「その当時は分からないにしても、今振り返るとどういうことをすればより上手くいったと思いますか。」 当時、上司から「考える時間を作りなさい」とよく言われていました。当時はピンときませんでしたが、今はそういう時間をとるようにしています。世の中に溢れている答えのないことに対して考えを巡らせる時間をとることが必要だったのではないかと思います。