COLUMNコラム

CFOインタビュー
株式会社パワーエックス
執行役CFO 藤田 利之 氏

心に火が灯り挑戦したベンチャーのCFO 事業会社やFASでの知見が結実した成功への道

苦しかった事業会社での経験 「公認会計士を目指したのはいつ頃からですか。それはなぜですか。」 高校2年生の時です。私は、小さいころから父から「理系の大学に進学したほうがいい」「手に職をつけたほうがいい」と言われてきました。私自身も数学が好きだったので、理系に進もうと考えていたのですが、高校2年生で文理選択をする際に、理系でやりたいことが見出せず悩みました。そんな時に、書店で見つけた資格の本に、公認会計士について書かれていました。当時は勝手に「企業のドクター」のようなイメージを感じ、数学的な要素や経営的な要素があり、面白そうな仕事だと感じました。また、性格的に学校の先生や先輩との上下関係がそこまでうまくやれるタイプではなかったので、当時から大きな組織で出世していくサラリーマンは向いていないと思っていましたので、独立できる資格ということも魅力に思えました。父にも「理系には進まないけれど、資格取得をして手に職をつけたいと思っている」と話をし、会計士を目指すことにしたのです。 その後、大学に進学し、大学2年生から勉強をスタートしました。最初はなかなか勉強に身が入らず、結局合格したのは卒業して2年目なので、受験勉強に4年半くらいかかり、資格の取得にはかなり苦労しました。当時は、大学入学時がまだバブルと呼ばれた好景気な社会で、世の中も大学も浮かれており、就職に苦労するという雰囲気ではありませんでした。しかし、大学3年生頃にバブルが崩壊し、社会が一変し、大学4年時には、友人が就職で苦労するのを見て、今から就職活動をしてもすでに難しいと感じました。私は、そこでやっと「会計士に受かるしかない」と覚悟を決めることができました。その後、やっと合格しますが、バブルは崩壊しており、合格者であっても半数が監査法人に就職ができないという年でもあり、今度は就職の苦労が始まりました。 「それで、監査法人に入所せず事業会社に就職したのでしょうか。」 景気悪化に伴い監査法人での採用人数がそもそも少なく、どこにも受かりませんでした。とにかく早く働いて稼ぎたいとの思いで、ソニー・ミュージックエンターテインメントに中途入社し、グループ人事の一環で、キャラクターグッズのライセンスビジネスや化粧品ビジネスを行っていた子会社のソニークリエイティブプロダクツという会社の経理に配属になりました。事業会社でサラリーマンになりたくない、と思って、会計士の勉強を始めたはずなのに、結局、最初は事業会社に就職するということになりました。 やっと得た仕事ですが、社会人経験が全くないまま中途入社したので、そのあと地獄のように大変でした。会社の人からは、「会計士試験に受かったすごい人が入社してきた」と思われていたようですが、私は名刺の渡し方、電話の取り方も知りません。愚痴る同期もいません。期待に全く応えられず、会計士試験に合格したプライドは一気に崩れ、毎日遅くまで残業し、土日も出勤と地獄の日々を送ることになりました。 「そこで経験されたピンチや苦労について教えてください。」 新人なので、電話を取ったり、お茶を出したり、お弁当を買いに行ったり、請求書を封筒に入れたり、大量の伝票の仕訳をしたり、という仕事をしながらも、会計士2次試験合格者の期待として監査法人の対応をしたり、取締役会の資料を作ったりという業務も任されていました。しかし、会計士2次試験合格者とはいっても、仕事自体が初めてで、仕訳を切った実務経験もありませんし、取締役会の資料と言われてもイメージが湧きませんでした。しかも、ソニーの連結孫会社だったので連結決算のため、毎月の月次決算スケジュールはタイトで、キャパオーバーが続き、ミスを連発しました。自身の力不足も相まって上司ではなく、先輩や同僚からも怒られることも多々ありました。入社して半年で10kg痩せました。 加えて、一般事業会社なので、監査法人と違って補習所に行くシステムもありませんでした。試験の日とディスカッションの日だけは、なんとか半日の有給を取って、ギリギリ単位を取りました。会計士2次試験に苦労して合格し、就職に苦労し、そして最初の職場でもかなり辛い日々が続きました。まだ、独立できる公認会計士になれるイメージもわかず、日々の仕事に追われる日々でした。 営業から契約締結まで担当したトーマツでの経験 「1年ほど勤めた後に、退職して、監査法人トーマツの静岡事務所に入所されています。それはなぜですか。」 事業会社での1年間で疲れ果て、また、初心に戻って会計士としての監査の経験をし、独立を目指すために地元の静岡県に帰ろうと思ったからです。1年早く合格した大学時代の友人がトーマツの静岡事務所で働いていて、その友人から所長を紹介してもらい、即入社が決まりました。 「静岡事務所ならではの得難い経験があったと思いますが、具体的にはどんな経験やスキルを習得することができたと思いますか。」 当時のトーマツの静岡事務所は、出張所のような位置付けから事務所に格上げされてそれほど立っておらず、所長も40歳前半で若いメンバーの事務所でした。監査法人において、通常は、営業はパートナーしか担いませんが、静岡事務所では、事業規模の拡大のために営業研修があり、スタッフから営業マインドを植え付けられました。私が在籍した際には、スタッフからシニアスタッフに昇進するためには、クリアしなければならない営業ノルマがありました。当時、ちょうと東証マザーズやナスダックジャパンが設立され、IPOを目指す会社が増える傾向にありました。そこで、問い合わせがあった会社に対して、ショートレビューをして課題を抽出し、レポートを書いて、提案をして、コンサル契約あるいは監査契約を結んでといったように案件を獲得しました。 ここで、前職での経理の実務経験が非常に活き、成長に向けた体制整備の案件を数件獲得でき、月に何回か訪問し、月次制度を整えたり、内部の仕組み作ったりしていきました。トーマツの静岡事務所は、約4年間と短い期間でしたが、地方事務所のおかげで、かかわる業種も幅広く、早期に現場のインチャージも経験でき、加えて、営業から監査やコンサルまで、様々ななことを経験させていただきました。今思えば、非常にいい経験だったと思いますが、当時はとにかく忙しかったことを覚えています。 「監査法人というよりベンチャー企業のようなイメージですね。」 監査法人の中では、伸び盛りの地方事務所で、かつ、顧客もベンチャー企業も多かったので、まさにベンチャー企業のような事務所でした。ただ、私自身は、入社当時は、ベンチャー企業のような環境で働きたいと思っていたわけでもなく、同期の合格者から1年遅れてトーマツに入社したので、懸命に業務に打ち込むことで早く、試験合格の同期に追いつきたい、との思いだけでがむしゃらにやっていただけでした。ただ、それがベンチャー企業の参画に繋がった部分もあるかもしれません。
CFOインタビュー
株式会社東京通信グループ
取締役執行役員CFO 赤堀 政彦 氏

27歳でCFOにチャレンジ!関わる企業とともに成長し、挑戦を続けた先に見えた経営の醍醐味とは

新卒にして企業買収や業務提携を担当 「大学卒業後、シーエー・モバイル(現:CAM)に入社します。この選択が赤堀さんのその後のキャリアを決定づけたと言っても過言ではない気がしています。なぜシーエー・モバイルを選んだのですか。」 将来のキャリアを鑑み、企業買収に関するアドバイザリーやコンサルティングの仕事を探していました。アドバイザーという外部の立ち位置で探していましたが、シーエー・モバイルから自社の企業買収や事業提携の担当者というポジションで採用いただきました。結果的には、外部のアドバイザーとしてではなく、内部で意思決定に関与できる立ち位置に関心を持って入社を決めました。シーエー・モバイルでの日々により、たくさんの失敗をしながら経験値を増やすということが、私のスタイルになりました。当時はあまり失敗ばかりしたくないと思っていましたが。 27才で投資先のCFOにチャレンジ その後セレンディップ・コンサルティングに入社しました。入社前から様々なコンサルティング業務を経験できることは説明を受けていました。2年程はM&Aに関連したアドバイスをしたり、中期経営計画や人事制度を構築したりと様々な業務に従事しました。その後、セレンディップ・コンサルティング自身が企業に投資をするという方針変更を実施しました。 「それをきっかけに、27歳の時に投資先の取締役管理部長に就任されるのですね。これは自ら希望したのですか。また、不安はありませんでしたか。」 自分から希望しました。今から考えるとかなり無謀な挑戦だと思います。無知だからこそ手を挙げられたのでしょうね。最初は売上60億円、従業員は1,500人ほどのベーカリーを中心とした食品製造小売販売業の取締役管理部長、いわゆるCFOをしました。借入金が大きく、赤字も数億円と業績が良くない会社だったため、当時は候補者があまりいなかったのかもしれません。それならば、自分がやってみようと決意しました。 「初めての経験ですよね。」 何も分からないところからのスタートです。プロジェクトベースのものであればまだイメージができますが、経理実務はさっぱり分かりません。仕訳の切り方も給与計算も分からず、「承認のルートとは何ですか?」という状態からスタートしたので、業務を進めながら勉強していきました。 「実務的な問題だけでなく、人のマネジメントも大変だったのではないでしょうか。」 そうですね。当時は、がむしゃらにやっているだけで、周りが見えておらず、性格もきつかったと思います。「なんとしても黒字にしないと、この会社は潰れてしまう。社員のみんなを路頭に迷わせるわけにはいかない」と思っていました。それが正しいと信じていました。今振り返ると、もっとやりようはあったのでではないかと思いますが。 売上を失った失敗経験 「こちらでの失敗の経験があれば教えてください」 大きく売上を失ってしまったことがあります。あるスーパーマーケットチェーンにベーカリーショップを出店していたのですが、店の老朽化などの影響で売上が思わしくなかったため、賃料の交渉をしました。あまりにも赤字が大きく交渉しすぎてしまい、GMS側の役員と部長から「全店舗から出ていってくれ」と言われてしまい、億円単位で売上を失うことになってしまいました。そのGMSに出店している店舗は赤字だったので閉店させた方が良かったのですが、閉店するにもコストがかかりますし、働いている人たちをどうするのかといった問題が生じました。今振り返るともっと上手い交渉の仕方はあったと思います。 「食品製造小売販売業でのCFOの経験は、ある意味では再生案件ですよね。再生案件は難しいので、一般的には経験豊富な方がCFOとして入っていくケースが多いです。赤堀さんはそれを27歳という若さで経験された。振り返ってみて、どのような経験になりましたか。」 当時は上司に言われたことを本当にがむしゃらにしていただけです。たまたま上司に恵まれていて、たまたまやったことが上手くいった。上司は狙ってやっていたそうですが、それすら当時の私には分かりませんでした。だた、本当に良い経験をさせてもらいました。 「さらに、30歳でセレンディップ・コンサルティング本体で取締役管理部門管掌という管理のトップを任されます。不安はありませんでしたか。」 当時は、がむしゃらすぎて不安を感じている暇すらなかったのですが、今考えると不安しかなかったですね。また、能力的にも不足していたので、経験を重ねて乗り越えましたが、上司が僕に時間を惜しみなくかけてくださったことも大きかったです。ただ、当時はそんなことにも気付けてはいませんでした。色々な人に迷惑をかけながらも、結果的には資金調達ができて、企業買収・M&Aもできました。 一方で、このCFO経験は、僕の中に悩みや葛藤を生みました。自分が理想とするCFO像と自分とのギャップがあまりに大きいことを認識しました。そもそも「CFOの仕事とは何か」といったことが、きちんと腹落ちできていなかったのです。人の言葉を聞いたり、本を読んだりしてもしっくりこない。しっくりこないまま進めていました。 「その当時は分からないにしても、今振り返るとどういうことをすればより上手くいったと思いますか。」 当時、上司から「考える時間を作りなさい」とよく言われていました。当時はピンときませんでしたが、今はそういう時間をとるようにしています。世の中に溢れている答えのないことに対して考えを巡らせる時間をとることが必要だったのではないかと思います。
投資家インタビュー
i-nest capital株式会社
代表パートナー 山中 卓 氏

「多様なVCが多様なスタートアップを育てるエコシステムの発展に寄与したい」、その思いにたどり着く道程とは

「業を興したい」という思いを持ち銀行からVCへ転身 「山中さんは東京大学卒業後、日本興業銀行に就職します。それから9年後にベンチャーキャピタルに転職しますが、そこに至るまでの経緯について教えてください。」 私は、大学卒業後の1994年に日本興業銀行(現:みずほ銀行)に入社しました。バブルの時代、1990年は日本興業銀行の時価総額が世界1位だったのです。ジャパン・アズ・ナンバーワンの頃ですね。しかし、その後、銀行業界全体が下り坂の時代に突入します。私が勤めていた1994年から2003年までは、坂道を下っていった9年間でした。入行してしばらく経つと公的資金が入り、2000年にはみずほグループになりました。私に限らず、興銀に入行した人は行名のとおり、業を興したいという気概を持っていたと思いますが、当時は業を興すというよりは、金融庁の監督に従って公的資金を返済していかなくてはならないという時期でした。 そんな時、興銀で机を並べてお世話になっていた先輩が、みずほ証券とNTTドコモとインターネット総合研究所という3社のジョイントCVCであるモバイルインターネットキャピタルに出向しました。そして、その先輩にお誘いいただき、私も転職することにしたのです。ちょうど1999年にマザーズ市場ができて上場が身近なものになってきていました。私が転職した2003年はまだVC業界は小さかったのですが、業を興すという仕事は、まさにこの業界でこそできるのではないかと思い、転職を決意しました。 「モバイルインターネットキャピタルはどのような特徴があるベンチャーキャピタルでしたか。」 IT系を中心にオールステージに投資をしているVCです。NTTドコモが、iモードで世の中を席巻していた頃に、携帯電話を使った次のサービス、次のソリューションを開拓していこうという趣旨で作られました。社名を変えた方がいいのではないかと議論された時期もありましたが、変えずに今に至っています。 「モバイルインターネットキャピタルでは、転職して12年で社長に就任されていますよね。」 私がモバイルインターネットキャピタルに転職した時は30歳前で、当時、一番若いキャピタリストでした。そこから経験を積み、12年後に社長に抜擢いただき、3年間社長を務めました。また、日本ベンチャーキャピタル協会(JVCA) 理事もさせていただきました。モバイルインターネットキャピタルで、キャピタリストとして一から育てていただいたと言っても過言ではありません。 独立後の1号ファンドでは5社がエグジット 「その後、2019年に現在のi-nest capitaを創業されています。その経緯を教えてください。」 3年間社長を経験すると、独立して自分で会社を経営してみたいと思うようになりました。そうは言っても、独立するにもトラックレコードが必要です。12年かけて自分自身のトラックレコードができたこと、社長としてファンドの運用経験を積めたことから、「タイミングがきた」と感じ、独立することにしました。私のわがままでの独立なので、申し訳なさも感じていました。しかし、結果的にはみずほグループにもNTTドコモにも、i-nest capitalのファンドにご出資いただいているんです。本当にありがたく、今も恩返しをするために活動しています。 「i-nest capitaの特徴を教えてください」 i-nest capitalでは、成長領域を広く捉えていきたいと考えており、IT系の企業が中心ですが、それ以外の先端技術の会社やメーカーなどにも幅広く投資しています。ステージはオールステージです。現在は、1号ファンドを組成して3年半が経ちました。39社に投資をしており、そのうち5社がエグジットしています。3社がIPO、2社がM&Aですね。全体で73億円のファンドで、現時点で投資しているのは6割弱です。その投資額は、エグジットした5社でほぼ回収できています。この実績を踏まえて、現在は2号ファンド設立の準備をしているところです。 ベンチャーキャピタリストの魅力と苦労 「山中さんはベンチャーキャピタリストとして20年のキャリアをお持ちですが、その魅力と大変さをお聞かせください。」 新たな産業を生み出し、育てていけることが魅力です。私もだいぶ年齢を重ねましたので、投資先の起業家はほぼ年下の方になりました。ベンチャーキャピタリストは、次の世代を担う企業を育てて、次の世代の方々を応援するという、夢がある素晴らしい仕事だと思います。日本には、これまでも素晴らしい企業がたくさんありましたが、新陳代謝をしていってこそ、次の活力が生まれてくると考えています。それが次の世代に対する責務だと考えて、頑張っています。 大変さについては、なんといってもファンドレイズ(ファンドの資金調達)ですね。お金をお預かりできないと仕事が始まりません。「お金を出してください」「はい、出します」と、そんな簡単な話ではありませんからね。ファンドレイズの期間は、ファンドレイズのことが片時も頭から離れません。これを果たさなければ組織は解散となり、従業員全員が路頭に迷うことになります。この業界に入るまでは、ファンドレイズがこんなにも大変だとは思ってもみませんでした。 「山中さんの投資基準を教えてください。」 最終的な判断基準は、ファンドの期間内に目標以上のリターンを得られると我々が評価した会社であることです。具体的な目標は、ホームページにも記載していますが、「投資回収倍率(MoC)3倍以上、IRR20%以上(グロス)」です。目標以上のリターンを得られると判断するための要素として重視しているのは、社長、経営チーム、取り組んでいるテーマなどです。レイターステージの会社であれば、ある程度事業が成り立っていることが証明されていますので、計画の確度を見ます。この条件で投資をして、IPOまでたどり着けるのか。たどり着いた時に、目標以上のリターンを得られるのか。ステージが進めば進むほど、投資の条件面をしっかり見ていく必要があります。一方で、シードやアーリーステージの会社は、株価(時価総額)は低いです。その株価で投資をして損をするということは、事業全体が上手くいかないということです。ですから、株価の水準よりも社長、経営チーム、取り組んでいるテーマに対する評価の比重が高くなります。 「投資において社長やCFOがどんな方であるかは、大切なポイントなのですね。」 比重として大きいです。社長には、人を巻き込む力が重要です。その一方で、完璧な人間はいませんので、投資という視点では、CFOの存在も重視します。CEOの右腕として、特にレーターステージではどんなCFOの方がいるのかも判断材料になりますね。 「これまでの投資の中で、印象に残っているベンチャーはありましたか。」 私は100社以上に投資をしてきましたので、たくさんの思い出があります。いい思い出も多いですが、「こんな目に合うのか」という痛い思い出もあります。 最近の良い例としては、カバーというVTuberのプロダクション会社が印象に残っています。我々が投資した3年前の段階でも非常に熱量の高い会社でした。しかし、オンライン中心の新しいビジネスモデルであり、ファンの熱量が高い分、これまでのファンが批判者となり炎上に繋がる場合もあるといった難しさもありました。こうした難しさを内包しながらも、今年3月に非常に素晴らしいIPOをされました。改めて、新しい領域にチャレンジすることは、リスクもありますが、大きなリターンが得られるものだと感じました。振り返ると、私自身は、VTuberに詳しいわけでも、投げ銭としてお金をつぎ込んだ経験もありませんでしたので、インサイトが足りなかった側面もありますが、逆に客観的に見ることができたという利点もあったと思います。
それからのCFO
元アマゾンジャパンCFO、元クラークスジャパンCEO
宮増 浩 氏

日系企業から外資系企業、そしてCFOからCEOへ。大きく変わっていった目に見える景色

日系企業で芽生えた「職人タイプを目指す」という思い 「大学卒業後、キヤノンに入社されています。そこでの業務内容と転職を考えた動機を教えてください。」 最初は資材部にバイヤーとして配属されましたが、一年ほど経って原価管理部に異動になりました。当時の主力製品であった複写機製品の構成部品を分解し、原価を計算し、それらの低減を進めてゆくことに取り組みました。転職を考えるようになったきっかけは、恥ずかしながら約11年間昇格ができなかったとこと、希望していた海外赴任が実現できなかったことでした。ただ一番大きかったのは、徐々に芽生えた自分の職業観が、会社の求めるものと違うと気づいたことでした。 当時僕が見た職業観は、会社人タイプと職人タイプの2つがあるように見えました。前者は、会社から与えられた求められたものを卒なくこなし、配置転換や転勤にもどんどん応じてゆくいわゆるジェネラリストタイプです。後者は一つの領域に特化し、ひたすらその専門性を高めてゆく、いわゆるプロフェッショナルのタイプです。僕は不器用で、捻くれ者だったので、前者に適応できませんでした。一方、原価管理や一部携わることのできた会計については、興味がどんどん膨らんでゆき、自分に合うのは後者だなと思い始めました。ところが、長く会社に勤めていると、重要な組織変更や人事異動の際に、前者が重宝され、後者がそうでなくなる傾向や、政治や派閥のようなものが見えてきました。 この2つの職業観を妻に話すと、彼女の生まれ育った英国では、終身雇用や前者は少数派で、むしろ後者が多数派で、彼女の両親や親戚もそうであることを教えてくれました。親しい友人に転職についてこっそり相談すると、ほとんどが「大企業を自ら辞めるのは愚かな選択」と言われ、大きな迷いが生じました。色々考えた末、どちらが正しい・間違いという答えはなく、どちらが自分に合いそうかという観点から、外資系企業への転職を決意しました。 その後、密かに転職活動を始めたのですが、散々な結果となりました。ある転職エージェントからは、「あなたは外資の経験も会計の経験もないですね。原価管理なんて会計の一部分しかないでしかないので、あなたの職歴に価値はありません」と言われました。10社ほどから同じような返答をされて、目の前が真っ暗になりました。また、他のエージェントからは、「あなたみたいな人は価値がない、このままでは将来何にもなれない」といった人格否定もされたほどでした。そこでカチンときて、「では、どうしたら僕は外資で働けるのですか?」と怒りながら聞くと、その方はしばらく考えたあと、「少なくとも資格がないとね」とおっしゃったのです。 「その一言がきっかけで、米国公認会計士の資格を取得されたのでしょうか。」 そうです。そのまま退席して、その足で神保町の三省堂に飛び込んで、確か当時の6階にあった資格コーナーに行きました。原価管理の経験を活かせる資格を探していった結果、公認会計士、税理士、MBA、米国公認会計士の4候補が挙がりました。公認会計士も税理士も難関ですよね。MBAも膨大な学費、滞在費がかかるため、消去法で米国公認会計士の勉強をすることにしました。会社に内緒で勉強し、2年ほどかけて合格しました。結婚したばかりでお金がなかったので、半分独学、半分予備校に行くというスタイルで学習しました。 モンタナ州で試験に合格、イリノイ州で登録後、転職活動を再開しました。当時のエージェントは限られていたので、2年前にボロクソに言われたエージェントを再度訪問しました。すると、米国公認会計士の資格をとったというだけで、手のひら返したような対応を受けました。僕の人間や人格が変わったわけではないのに、これほど外見で判断するように世の中は浅はかなのかと思いました。結果として、多くの企業を紹介いただいて、3社の中からインテルを選びました。 「その頃からCFOへの道は意識していたのでしょうか。」 その時はまだ意識していなかったですね。ただ、当時の僕は既に30代前半で、新卒でインテルに入社された方と比べて約10年遅れのスタートなので、早く追いつかなくてはいけないということは考えていました。 「インテルを選んだ最大の理由を教えてください。」 当時は、シリコンバレーブームで、今でいうマイクロソフト、アップル、デル、ヒューレットパッカード、サンマイクロ、オラクル、インテルなどのハイテク企業が急成長している時期でした。また、メーカーなので、とっつきやすいだろうと考えたという背景もありました。 衝撃を受けたインテルでの2つの出来事 「インテルに入社した初日に宮増さんの職業観を形作る経験をされたそうですね。」 入社した日に、米国人の上司からファイナンスチャーターという経理部の倫理規程の書かれた文書を渡されました。そこには、経理部のミッションは、①法を遵守すること、②資産を守ること、③利益に貢献することと、又、万一、これらに反するような指示が上司や関係者からあれば、それを拒否して、米国本社のホットラインに連絡するように書かれていました。以前、首を傾げるような上司からの指示や、これはどうかとうかなという慣習を受け入れた苦い経験がありましたが、このファイナンスチャーターを見て、心のわだかまりが取れたように感じました。また、ファイナンスチャーターの内容は、米国公認会計士が守るべき倫理規定と一貫した内容でした。これで職業人としての再スタートが切れるのだなと思いました。 また、当時の経理部コントローラーを務められていた石橋善一郎さん(※)にも大きな感銘を受けました。石橋さんは、平社員の僕にとって、3段階上の職責を務められ、雲の上のような存在でした。ところが、上司、同僚、部下へ平等に接し、正直で裏表のない人格者でした。会議でも、自分の意見を率直に理論的に述べ、他の違う意見にも耳を傾け、多くの出席者が納得のゆく結論を導き出していました。英語も堪能で力強く、米国人もうんうんと首をうなずきながら石橋さんの発言を聞いていました。それまで僕が見てきたリーダーシップ像とは全く異なるもので、自分も将来、このような方を目指したいと思いました。又、その時にCFOのビジョンが見えた気がしました。 「インテルではどのような仕事をしていましたか。初めての外資で戸惑いや苦労もあったかと思います。」 最初の2年は管理会計、次の2年は財務会計を担当しました。人事評価の厳しさには正直戸惑いました。年度毎の目標は、基本的に同一ポジションの前任者の実績を越えなければならず、具体的なアクションは上司と相談して決めます。評価は、その目標への達成度合いで客観的に判断され、フォーマルなもので半年に一度、インフォーマルなものは逐次行われました。また、部内で一位から最下位までのランキングも付けられ、グローバルレベルでそのレベリングが行われました。それらの結果が悪いと、勧告が出された後に、是正プログラムを受けなければならず、これに引っかからないように実績を上げることに必死でした。また、前職と比べ、自主裁量は大きく与えられた反面、仕事量は膨大に増えました。決算、予算、分析、監査、定例会議、プロジェクト、トレーニング等が目白押しで、夜中まで働き対応し、妻や生まれたばかりの子供に迷惑をかけてしまいました。 一方、トレーニングはとても充実していました。例えば、新人経理部員の3ヶ月目、半年後、1年後等に受けるべきトレーニングが決められており、多くのものは業務の如何に関わらず、1週間の参加が義務付けられていました。開催地は本社のあるサンタクララや、製造工場のあるオレゴン、アリゾナ、ペナン等、世界各地で行われました。トレーニング会場に行くと、国、人種、言語、年齢、性別、背景の異なる人で埋め尽くされ、まさに多国籍企業で働いているのだと実感しました。 「インテルでの4年間はすごく濃かったのですね。インテルで得られた経験や身についたスキルは何でしょう。」 最もありがたかったことは、外資系企業の会計業務の重要な部分の実務を経験し、全体像が把握できるようになった事です。財務会計では、主計、報告、監査、税務、固定資産等、管理会計では、予算策定、実績管理、分析、アクション策定等をこなし、米国公認会計士試験で学んだ理論を、そのまま実務で実践することができました。のちに僕が見たCFOには大きく分けて2パターンがあり、一つは金融系・MBA系出身者で、もう一つは現場系・CPA系でした。僕は後者に属しますが、その基礎ができた気がしました。 もう一つありがたかったのは、自主学習について、組織や国の壁を越えて、サポートしてくれる風土があった事です。当時、僕の業務に直接関係はありませんでしたが、連結決算と移転価格税制に興味を持ちました。前者は、自分が作成した日本の子会社の財務諸表がどのように米国本社で連結され投資家等に公表されるのか、又、後者は、日米間以外では、どのような処理が行われているのか知りたくなりました。社内のツテを使って米国本社の担当部署とその責任者を紹介してもらい、米国出張に合わせて面談を依頼すると、連結会計の責任者も、移転価格の責任者もあっさり引き受けてくれました。彼らにとっては、忙しい日常業務の中、日本から来た一担当者に時間を割く義務はありませんでした。ところが、どちらの方も丁寧にプロセスやシステムを説明をしてくれ、その後、関係部員を紹介したり、食事にまで連れていってくれました。彼らの親切さに感謝したと同時に、なんと懐の深い風土を持つ企業なのだなと思いました。不思議な事に、この二つの自主学習は、数年後、次に勤めた企業で役立つ事になり、詳細は後述します。 今、僕の職歴を振り返ると、初期にインテルで厳しい経験をした事が、インテルを退社した後も役に立ちました。例えば、目標設定は、上司や会社から求められなくても、自ら高い基準のものを、年度毎、月毎に設定するようになり、それは60歳になった今でも続けています。
CFOインタビュー
株式会社トランザクション・メディア・ネットワークス
専務取締役 管理本部長 CFO 西脇 徹 氏

高い専門性とビジネスパーソンの自信。事業をドライブする起業家マインドを併せ持つCFOのキャリアとは?

「逃げ出してはいけない」と会計士試験に再チャレンジ 「公認会計士を目指したのはいつ頃からですか。それはなぜですか。」 幼い頃から公認会計士という言葉はいつも耳にしていました。というのも、同居していた祖父が公認会計士で、新大阪で「西脇公認会計士事務所」を開設していたからです。父や叔父も同事務所に勤務していたのですが、父自身は公認会計士になることが叶わず、私にその夢を託してたんだと思います。父から強く誘導されたわけではありませんが、例えば、「お小遣いが欲しければ、お小遣い帳をつけるように。」と言われたり、「大学は経営学部(商学部)に行ったほうがよい。」と言われたりして、教育的に刷り込まれていったような気がします。私自身は、数学が好きだったので理系に進むか、そうでないなら学校の先生になりたいと思っていたのですが、高校生くらいから公認会計士を意識し出し、大学も会計士の合格者が一番多い慶應義塾大学(商学部)を選択しました。 そうとはいっても、当時は公認会計士試験の難易度は全く理解しておらず、「1日1,2時間勉強すればいいんでしょ。」と思っていたので、大学の体育会野球部に所属して、部活に明け暮れていました。当たり前ですが、部活は、練習以外にもグランド整備や先輩のユニホーム洗濯などで忙しく、勉強時間どころか睡眠時間も満足に取れず、母からも反対されるし、「この生活だと会計士に合格できない」と必要以上に焦ってしまい、1年生の春シーズン中に大学野球部を退部しました。その後、大学1年生の秋から、意気込んで公認会計士の専門学校に通うも、今度はあまりのテキスト量の多さに驚愕して、これまた焦ってしまい、「友達と遊びたい!」という気持ちも手伝って、「自分にはこの試験はムリ!」と、大学2年生の春には挫折してしまいました。今思うと、ほんとにダメな大学生ですよね。(笑) 「どのタイミングで会計士試験を再度目指すことにしたのでしょうか。」 結局、大学ではゼミ、サークル、バイト、海外旅行などで、一般的な大学生として楽しく過ごし、就職活動を迎えました。就職活動をする際には、面接で自分のことを語れるように自己分析をしますよね。自分は大学で何をやってきて、これから何をしたいんだろうと整理をする。自分のことを一生懸命に振り返るのですが、どうしてもうまく語れませんでした。何かモヤモヤした気持ちが残り続けていて、納得のいく就職活動につながらなかったのです。就職活動が終わった後も、自分自身を見つめる中で、「わざわざ野球まで辞めたのに、会計士試験も辞めちゃっている。 遅いけど今からでも会計士試験からは逃げ出してはいけないのではないか。」という結論に達し、大学4年生の冬に、某社から頂いていた内定を辞退し、会計士試験に再チャレンジすることにしたのです。大阪の実家に戻って親の援助を受けながらの受験でしたが、今回は難易度への理解と覚悟があったので、1回の試験で合格できました。専門学校に住んでるかのような毎日でしたので、友達もたくさんでき、受験なのに楽しい日々でした。勉強の動機としては、会計士になって何かをしたいということではなく、「逃げ出してはいけない」という気持ちだけで、将来の仕事を具体的に考えているわけではありませんでした。 監査法人で学んだ3つのこと 「入所した中央青山監査法人では、監査にとどまらず幅広い経験を積んでいますが、どのような仕事をされていたのでしょうか。その経験は今後のキャリアにどう影響していますか。」 会計士の二次試験に合格したら通常は監査法人に行きますので、私もそれに倣い、一社目に応募して内定をもらった中央青山監査法人の大阪事務所に入って、4年ほど働きました。大阪事務所は東京のような大規模事務所ではなかったので、比較的小ぶりな、売上規模で30億~300億円くらいのクライアントを担当していました。このタイミングで、会社全体を眺められたのは良かったですね。また、会計士不足で法人の人数が少なかったことから、会計士補の3年目あたりから現場主査業務を任せてもらえ、プロジェクトチームのアサインメンバーや監査項目を決めたり、クライアントの経理部長クラスと会話ができるようになりました。入所した頃は、単純チェックばかりで、仕事がつまらなく「やっぱり学校の先生になろう!」と思った時期もありましたが、そのあたりから仕事も少しずつ面白くなっていきました。その頃担っていた仕事の8割は監査業務でした。残りの2割は、PwCコンサルティングが引き受けた財務デューデリジェンスの仕事をしたり、新人採用活動のプロジェクトリーダーを担ったりしました。当時は、監査法人がコンサルティングすることも許されていた時代だったんです。 この監査という仕事を通じて主に3つのことを学び、その後のキャリアへの影響があったように思います。 1つ目は、「数字を確認する」こと。当たり前ですが、監査なので数字を確認することについての、一定の知識や慣習がつきました。 2つ目は、「チームで連携する」こと。会計士の人は個人プレーが多くなりがちですが、監査は1人では行えず、チームで連携しなくてはなりません。スタッフの立場でも、リーダーの立場でも、チームで仕事をすることに慣れたように思います。 3つ目は、「会社全体を眺める」こと。先ほどの話と重複しますが、小さめの会社を担当して全体を見られたことは非常に大きい経験でした。20〜30人の監査チームで「あなたは借入金だけ見ておいて」ということだと全体を俯瞰して見ることができずに、途中で挫折してしまっていたかもしれません。 財務省で得たビジネスパーソンとしての自信 「西脇さんは監査法人に在籍しながら財務省に出向されています。これは自身の希望ですか。また、そこでは主にどのような仕事をしていたのですか。」 財務省への出向は、監査法人のイントラネットで募集が出ていたので、自ら応募しました。これまた何をやるのかは理解していませんでしたが、「全く異なる世界で働けるのは面白そう」という軽い気持ちで応募したんです。霞が関という官僚の世界、さらに省の中のトップといわれる財務省で仕事ができ、しかも2年間で戻って来られることが保証されている。私は大阪勤務でしたから、却下されるだろうけど、ひとまず応募するだけしてみようと思いました。妻も大阪の人で、大阪にマンションも購入していたので、ずっと大阪にいるつもりだったのですが、「期間限定だし、久しぶりに東京に行ってみよう。」と思えたのです。結果的には、それほどの応募もなかったようで、法人内の面接を経て、財務省に出向することが決まり、引継ぎや引っ越しなどバタバタしました。 財務省での仕事の内容は、大臣官房文書課という組織にて、政策評価書の取りまとめをしていました。政策評価制度は「省庁は何をやっているかわからない」という国民からの批判に応えようと、大蔵省が財務省になった省庁再編のタイミングで新しく始まった制度でした。各省庁が自分の仕事を国民にアピール、ディスクローズしていく制度になります。その政策評価の測定ツールとして会計を活用しようということで、会計士が継続的に派遣されていました。しかし、実際のところ、会計ツールを入れると測定が難しい、定量的な評価はなじまないといった理由から、会計士としての知見はほぼ使われることはありませんでした。ですから、「会計士として来たのに、得意の会計は関係ないじゃん」「省内に誰一人として知り合いがいない」「よくわからない単語がとびかっていて、いったい何を話しているの?」という状態で、不安ばかりが募り、入省直後に2日間も有給休暇をとって、大阪に帰っちゃいました。(笑) ただ、1年経つとだいぶ慣れ、2年も経つと、財務省の中で政策評価について最も知っている人間となることができ、財務省の人事部からも「好きなだけいていいよ。」と言ってもらえて、何も会計を武器にしなくともビジネスパーソンとしてやっていけるなという自信が持てました。財務省の方々は日本のトップレベルで頭が良く仕事ができるので自分にも他人にも厳しいですし、大臣をはじめ政治家へ説明するためには論理的な文章を書く必要がありました。この経験は、非常に勉強になりましたし、自信につながりました。 「出向の間に、米国公認会計士の資格も取っていらっしゃいますね。」 財務省では、会計を使わなかったので、会計の知識が剥落しないように、それと英語力をもっと高めたいと思っていて、米国公認会計士の試験にチャレンジしました。政策評価の仕事は、3ヶ月かけて計画を作り、3ヶ月かけて取りまとめて作成するというサイクルでしたので、残りの6ヶ月は定時に帰れる毎日でした。その期間を利用して勉強し、順調に合格することができました。仕事後に専門学校に通ってビデオ講義を見て、自習室では問題をひたすら解いていました。当時は日本で受験ができなかったので、試験は2回にわけて、グアムまで行きましたが、ビジネスの格好をしてリゾート地を歩いてたのもいい思い出ですね。 「しかも財務省の野球部にも所属されていたそうですね。」 「大蔵」という草野球チームなんですが、千代田区軟式野球連盟1部とか2部に所属しています。当時28歳くらいで、実はもう選手としては野球をするつもりはなかったんですが、たまたま直属の上司が大蔵野球部の監督だったので、強引に誘われ、イヤイヤ試合にいきました。そしたら、初めの試合でスタメン外にされて、腹を立てていたところ、代打で特大本塁打を放ったら、2試合目から中心選手になりました。出向3年目には、監督から「キャプテンやれ」とも言われたのですが、「さすがに出向者がキャプテンやるのはおかしいですよ」とお断りをして(笑)。ただ、もう一度野球をやってみたら思ったより楽しくて、当時は、昼休みに、隣の金融庁の屋上のテニスコートで同僚とピッチング練習をしたり、同僚がつかまらない時は、財務省の地下にあるトレーニングジムで、体を鍛えてました。今でも「大蔵」の野球部に所属をしていて、情報交換を目的に、定期的に顔を出しています。もう歳なので、今は腹を立てずに、ベンチにも座ってますが、結果的に、いまの野球部のメンバーの中で5本の指に入るくらい長く続けているんじゃないですかね。 「結局、出向は2年ではなく延長したのでしょうか。」 出向期間は2年の予定でしたが、戻る時期に中央青山監査法人へ業務停止命令が出てしまいました。仲間からは「戻っても仕事はないよ」と言われていて、また、解散する可能性も噂されていたので、ひとまず1年間延長してもらいました。財務省側も「それはありがたい」と言ってくださったので、計3年間在籍しました。
CFOインタビュー
株式会社ジオコード
専務取締役CFO 吉田 知史 氏

ダイナミックに挑戦し、積み上げた多様な経験を、2度のベンチャーIPOに活かす

経営が身近にあった幼少期 「吉田さんはどのような環境で育ったのですか。」 私は、かつて鋳物の街として栄えていた埼玉県の川口市出身で、実家は鋳物工場を営んでいました。年輩の方は、吉永小百合さんが主演され、川口が舞台の『キューポラのある街』という映画を思い出すかもしれません。自宅は会社の事務所と併設で、道路を挟んで向かいに工場がある。工場では、週に2回ほど「吹き」といって鉄を溶かして鋳型に流し込む作業をしていてすごく熱くなるので、夏場はひと仕事終えた職人さん達と一緒にアイスクリームを食べるといった環境で育ちました。私は長男でしたので、小さな頃から祖父に「鋳物屋を継いでほしい」と言われて育ちました。経営が身近にあったという幼少期の原体験は、その後の意思決定に大きな影響を及ぼしていると思います。 「家業に関連する大学・学部を選択されたのでしょうか。」 ずっと家業を継ぐつもりでしたので、関連分野となるセラミックス等の新素材からバイオテクノロジーまで幅広く学ぶことができる、京都大学工学部工業化学科に進学しました。その後進んだ大学院(工学研究科分子工学専攻)では、学問的興味から家業とは関係ない量子化学を専攻しておりました。ただ、その頃になると地元の川口もかつて工場で賑わった下町の工業地帯から大分変貌を遂げ、工場の跡地にタワーマンションが建つなど都市化しはじめていて、もはや家業を継ぐことは難しいかもしれないと思うようになっていました。 そこで、将来の目標にできることは何かないかと模索を始めた時、ふらっと立ち寄った大学生協の書店で手に取った冊子に、中学・高校時代の陸上部の先輩の公認会計士試験合格体験談が掲載されているのを見つけたんです。そこから会計士を意識するようになりました。意識し出すと、実家にもよく会計士が来ていたことを思い出したり、中学・高校時代の同級生に会計士になっている人が何名かいたりして、さらに身近に感じるようになっていきました。早速先ほどの先輩に連絡をとって、京都から東京のトーマツの職場を見学しに行き、そこで「会計士の道に進もう」と思うようになったのです。一度そう思うとすぐに行動したくなり、大学院はいったん休学して会計士の勉強をスタートさせることにしました。 相性が悪かった会計士試験と社会科見学!? 「会計士試験の勉強はどう進めていきましたか。」 資格の学校に入って勉強をスタートしたのですが、会計士試験との相性が非常に悪くて、なかなか合格できませんでした。私は、コテコテの理系人間なので、理屈なく暗記するタイプの学習が全く合わなかったのです。三角関数でいえば、テストの場で加法定理からスタートして他の定理を導き出してから答えを出すというように。ですから、全体構造が見えない中で、専門学校の授業で「ここは暗記してください」と言われてもどうしてもできなくて、私だけ落ちこぼれていきました。例えば、会社法の定義の中に「有機的一体」という用語が出てきた時は、いったいこの先生は有機化学と無機化学を本質的に理解しているのだろうかなどと考えてしまって、全く定義が頭に入ってきませんでした(苦笑)。 「そこで、会計士試験から一時的に撤退して、コンサルティング会社に入社されるんですよね。」 会計士試験の勉強をしてみて全く才能がないと思い知らされたので、会計士への道は残しながらも、まずは社会人を経験しておこうと思い、現在のアビームコンサルティング㈱の前身であるTTRC(等松・トウシュ・ロスコンサルティング㈱)の第二新卒の中途採用に応募しました。コンサルティングが何をするのかすらよくわかっていませんでしたが、漠然と「面白そうだ」と思ったのです。運よく入社試験が、数的理解のような内容で全て解くことができ、50人中2人の枠に滑り込むことができました。 「その後、会計士試験の勉強を再開しますが、きっかけはどんなことだったのでしょうか。」 TTRCは、名称にもある通り、トーマツの子会社としてスタートした会社でしたので、トーマツから会計士や会計士補の方たちが出向してくるわけです。会計士の方たちと多く接すると、やはり会計士の資格を取らないと後悔すると改めて思うようになり、もう一度会計士試験にチャレンジすることにしました。TTRCでは、いきなり放送局のビッグプロジェクトに投入されたり、ハードな日々の連続でしたが、今振り返ると、社会人経験ともいえない、社会科見学のようなものでした(笑)。その後も、会計士試験には全く合格できなくて苦労しました。特に短答式試験では、複数の記述から、正しい記述の個数を選ぶ問題があったのですが、余計なことを考えすぎて、だいたい1つ個数がズレてしまうといった感じで、引き続き落ちこぼれていました。 「根本から考える傾向は頭のいい人の特徴ではないですか。」 いえいえ、私は、頭は良くないと思います。ただ、少し話は逸れますが、論理だけではなくて、直感のようなものも大切にしたいとは思っています。京大出身で有名な数学者である岡潔先生は、数学の問題を解く前に、情緒を大切にするために、お香を焚いていたらしいです。量子化学の分野でノーベル化学賞を受賞された福井謙一先生も自然を観察する中で育まれる直感を大切にすべきであるとおっしゃっています。使い勝手の良い論理をうまく使いながら、人間の根本にあるもの、醸し出してくるものも大切にする。この両方のバランスが大事なんだと思います。 2年目で頭角を現したオールドルーキー 「苦労して会計士になり、あずさ監査法人(当時の朝日監査法人)に入所されます。監査法人での仕事について今につながるようにエピソードがありましたら教えてください。」 当時の朝日監査法人には、5つの国内事業部と海外企業を担当するアンダーセンの合計6つの事業部がありました。日本の大手企業にアサインされる国内事業部には、主に若手で前途有望な人達が入るので、私のようなオールドルーキーは、アンダーセンに配属となりました。こちらは、英語ができる優秀な人とその他の人を引き受ける感じでした。私はもちろんその他の人。そこで、今でいう東証スタンダート市場の中・小型株の会社にアサインされました。監査は、端的に言えば、財務諸表上の数字が、会計基準に準拠して適正に処理されたうえで、適切に表示されているかについて保証をする業務です。その検証プロセスはまさにツリー構造で、一つひとつのファクトを積み上げて監査要点を証明し、最終的な監査意見を形成していくといったものです。したがって非常にロジカルで、理系の研究や実験と同じ発想なので、会計士試験とは裏腹に監査実務は私に非常に合っていると感じました。 「小さめの会社の方が、全体像が見えてよかったかもしれませんね。」 すごくラッキーだったと思います。小さい会社だと全体を俯瞰して見られます。会社がどう動いているかが見えるようになったので、2年目からは大手企業の子会社のインチャージを任せてもらえるようになりました。現在は、2社目のベンチャー企業にいますが、当時のこの経験がとても役立っています。
それからのCFO
元レノボ・ジャパン 取締役CFO、元日本ケロッグ合同会社 CFO
池側 千絵 氏

「楽しい」を原動力に仕事・子育て・学びを追いかけ続けてたどり着いた「自身の役割」

イギリス語学留学とP&Gファイナンス部門に入るまで 「外資系グローバル企業の日本子会社CFOとして活躍、現在はコンサルタント、教育者、研究者、並びに事業会社の社外取締役として活躍されている池側さん。時系列に沿ってお話をうかがっていきます。まず、大学在学中にイギリスに語学留学されていますが、その理由をお聞かせください。」 当時、将来どのような仕事に就くのかを深く考えていなかった私は、まわりに文学部か教育学部に進学する女子高生が多かったので、自分も文学部英文学科に進学しました。英語教師志望でなく、英文学科の学びにも関心を持てなかったので経済学部に入り直したいと思いながらも、友達ができ、ESS(English Speaking Society)という英語でディベートをする部活も楽しかったので、そのまま学生時代を過ごしていました。大学3年生の終わりの春に母とハワイ旅行をした時、現地での私の英会話を聞いた母から「英文学科なのに意外と英語ができないのね」と言われ、その一言がきっかけで留学をすることを決めました。 折しもバブルで父の会社の持株会の株価が上がって、今なら少し資金が作れると母が言うので(笑)。すぐに休学届を出し、大学4年生になる年の6月から翌年の2月までロンドンとパリの語学学校に留学しました。急に思いついたので大学に留学することはできなかったんですけどね。私が帰ってきたタイミングから、バブルで就職が楽になる時期に突入し、4月には外資のコンサル会社に、6月にはP&G(プロクター・アンド・ギャンブル・ファー・イースト・インク)に内定をいただき、早めに就活が終わりました。 「なぜP&Gを選ばれたのでしょうか。」 私は、男女平等のお給料をいただける会社で働くことを目指していました。すでに男女雇用機会均等法が施行されていたものの、日本の有名大企業では超高学歴の女性を総合職で少数雇用する程度。そこで、外資のP&Gに入社できたらいいなと思っていました。P&Gは職種別採用なので、会社説明会から職種別に分かれていました。マーケティングが有名なので宣伝本部の説明会に行ってみたのですが人があふれていたので断念し、隣の経営管理本部(ファイナンス部門)を受けてみることにしました。もちろんその頃はFP&A(Financial Planning & Analysis)という言葉もなく業務内容も知らなかったので、いわゆる経理部だと思っていました。実は、ロンドン留学の際に、英語以外にもできることを探そうと思い、ビジネスアドミニストレーションのコースを取り、英語で簿記を少しだけ学んだことがあったので、少しイメージが湧いていたのです。文系ですが数学が得意だったことも理由の一つです。 日本より20年は進んでいるP&Gでの経験 「P&Gで17年間ほど勤務されますが、どのような部門でどのような業務を担当されたのでしょうか。また、どのようなスキルを身に着けることができましたか。」 私が入社した時のP&Gは、本社が大阪にありました。しかし、「本社で新人を見る余裕はない」と言われ、パンパース、ウィスパーなどを製造している兵庫県の明石工場の経理部での勤務となりました。明石工場では、経理・原価計算を担当しました。半年ほどして、大阪本社に異動になり、先輩に教わりながら、日本支社全体の利益とキャッシュフローの管理をするようになりました。1年目の終わりになると、わけが分からないながらも、日本支社全体の中期経営計画や単年度予算をまとめたり、予算の進捗管理と本社への報告をしたりするようになりました。時代は1990年代、アメリカではFP&Aが始まっていたようです。経理部が1つのフロアに集まっていた時代から、経理部の中で事業に近い仕事をする一部の人たちは、事業部の中に席を置くようになったのです。P&Gでもその流れに沿って、3年目の私もビューティーケアのシャンプーやコンデショナー部門に席を置いてもらいました。 現在もある「パンテーン」というシャンプーを日本でローンチする時の財務分析は私が担当しました。当時の職場は、教育やプロセスが整備されておらず、あまりきちんと教えてもらえないのは当たり前でした。業務にあてる時間も長く、毎日11時半ぐらいまでひたすら働いていました。無駄な作業も多かったかもしれません。その後、明石工場に戻り、今でいうサプライチェーンファイナンス、工場のサプライチェーンの人々に張り付いて、購買から製造・物流まで一通り原価をコントロールする財務分析の仕事も経験しました。4〜5年目になると、本社勤務で課長になり、部下3名とともに日本支社全体の利益管理を担当することになりました。その頃までには、生理用品がすごく売れたこともあり、P&Gは神戸の六甲アイランドに30階建ての自社ビルを建てて、香港にあったアジアヘッドクォーターを日本に移しました。 それに伴い、私は日本部門からアジア部門に異動し、アジア13ヶ国の研究開発費と販管費を管理するという仕事を担当しました。予算管理のチームには、フィリピン人の上司がいて、その下で私が販管費を、他の人が利益を管理しました。そこで、アメリカ人のアジアCEO/CFOやアジアの優秀なメンバーと一緒に働けるようになりました。アジア社長と日本社長のアメリカ人がのちに本社の社長になるなど、消費者市場のレベルが高い日本がP&G本社でも注目されていたころでもありました。そのころからいよいよグローバル企業で働いているという実感を持てる環境になってきました。そのあたりから、女性活躍やダイバーシティの推進も始まっていきました。 「P&G は何歩も先に進んでいたのですね。」 1990年代には世界共通のERP導入が始まっていましたし、シェアードサービスが始まって経理業務を海外に移したり、全世界のブランドごとの損益を本社が集計して我々もパソコン上で見られるようになっていましたから、日本企業より20年以上進んでいる印象です。1995年には、阪神・淡路大震災が起き、六甲アイランドの本社ビルがしばらく使えなくなったので、大阪の臨時本社に出勤するということも経験しました。その後、32歳の頃に、日本の洗剤事業のファイナンス責任者である部長職(事業CFOポジション)にしていただきました。 実は、その少し前から出産を考え始めており、昇進を受けてよいか逡巡する時期でした。産婦人科に行ってみると、子宮筋腫と子宮内膜症と卵巣嚢腫と診断されて、入院して手術もしました。また、術後も継続して治療もしました。また、私は、経営管理的な仕事や会計まわりの仕事は得意で評価が良かったのですが、事業CFOの仕事は本格的に経験したことがなく、得意か不得意かさえも分かりませんでした。そういったことについて、当時のフィリピン人の男性上司とこまめにコミュニケーションをとっており、「人生の複雑な時期ではあるけれど、とにかくやってみたらどうだろう」と洗剤事業のCFOポジションを空けてくれたので、チャレンジすることにしました。将来子会社CFOの仕事をするには管理系と事業系の両方の経験が必要だと強く勧めてくれたのです。出産後には、わざわざ東京から日経新聞の記者が取材に来ました。「管理職になってから出産する」ことが珍しかったようです。
投資家インタビュー
株式会社アドバンテッジパートナーズ
パートナー 早川 裕 氏

PEファンドのパートナーから見た「魅力的なCFO」 成功するCFOの素養とは?

PEファンドに入社するまで 「アドバンテッジパートナーズで活躍されている早川さんですが、現在に至るまでの経歴を教えてください。」 私のキャリアは少し変わっているかもしれません。大学ではロボット工学を学び、独立系のシンクタンクに就職しました。当時、理系はそのまま大学院に進むか、大学の推薦で大手のメーカーに就職するケースが多かったと記憶しています。シンクタンクでは、原子力エネルギーに関する各国の安全規制動向の調査や事故事例の調査分析などを担当しました。エネルギー政策の分野は、技術だけでなく、政治も経済も、社会心理学だって絡んできます。次第に、そういった学問を多面的に学び、さまざまな事象を理解したいと思うようになったのです。そして、理系と文系をまたいで勉強ができるアメリカのカーネギーメロン大学の大学院に進学することにしました。シンクタンクで働き始めて4年目のことでした。 大学院では技術政策を学び、その分野で博士号を取得しました。そのままアメリカでアカデミアのキャリアを目指していましたが、コンサルティング会社のマッキンゼーから声をかけていただき経営コンサルタントの世界に入りました。マッキンゼーでは主に製造業やハイテク企業に対するコンサルティングプロジェクトに参加していましたが、キャリアの後半になると、PEファンドから依頼を受けて、事業会社の事業デューデリジェンス(DD)の仕事が増えていきました。株主の視点でも経営に関与できるPEファンドの仕事に興味を持つようになり、すでにマッキンゼーの先輩や同僚が活躍していたアドバンテッジパートナーズに2008年に転職することにしたのです。8年間勤務したマッキンゼーを退職しました。アドバンテッジパートナーズには主に投資先の企業価値向上プロジェクトを担当する役割で入社しましたが、2015年頃からは投資全体に関与するようになりました。当時も今も私が担当する投資先企業は製造業が中心です。 「組織で勝つ」という意識の強さが特徴 「アドバンテッジパートナーズは日本のPEファンドを牽引してきた独立系の大手投資ファンドですが、どのような特徴を持った会社でしょうか。」 日本で一番古いPEファンドの一つで、社員数も投資件数も多いので、業界のリーダーであるという自負があります。特徴としては、経営支援に重きを置くという姿勢を持っていることが挙げられます。経営管理の強化やコスト削減活動に加え、売上拡大など成長支援の取り組みを大切にしています。事業モデルの変革も必要あれば積極的に行います。売上拡大は、コスト削減よりも難易度が高いと思います。どうやって営業活動を活性化させるか。新たなお客様をどう開拓するか。値段をどう適正化するか。デジタルを使ったマーケティングや営業をどう進めていくか。あれやこれやと会社の方と議論させていただきます。事業モデルの変革とは、例えば、製品の売り切りモデルからサービスも含めたリカーリングモデルへ転換していくといったことが挙げられます。 PEファンドは金融機関に分類されると思いますが、我々はコンサルティング会社のような性質を持っていることも特徴の1つです。つまり、「組織で勝つ」という意識が高いです。自分の案件を担当することで成長するということだけではなく、社内で実施される組織横断的な活動への貢献も求めています。各案件で得た経験や知見を社内で共有し、それをまた別のメンバーが担当の投資先で活用する。どんなに優秀な人でも、1人のインプットとアウトプットの量には限界がありますので、組織で勝っていくことが重要だと思っています。さまざまなバックグラウンドを持ったメンバーが集まっていることも特徴です。シニアメンバーはコンサルティング会社出身が多いですが、組織全体としては、投資銀行出身者、FAS出身者、VC出身者など多様です。案件を多面的な視点で成功に導くということが大事ですが、各個人のスキルアップの観点でも異なるバックグラウンドを持っている者が集まっていることは重要です。近年ではプロフェッショナルメンバーの女性比率も高まっています。 投資の3つのポリシー 「これまでの投資対象と投資実績を可能な範囲でご説明ください。」 アドバンテッジパートナーズとしては、多様な業種業態に投資をしてきました。中でも、消費財、小売りやサービス業界が多く、例えば、クラシエや牛角、成城石井、コメダ珈琲、石井スポーツ、やる気スイッチ、キューサイなどが挙げられます。上場企業投資チームの方は、フジオフードシステムや物語コーポレーション、ルネサンスへの投資・経営支援などの実績があります。 「その中で、早川さんはこれまで特にどのような業種・規模感の会社に投資してきたのでしょうか。」 私自身の投資経験は、これまでの専門性が生きる領域ということもあり、ハイテクや製造業の企業が中心です。具体的には、自動車関連部品、厨房機器、産業機器や電子部品・デバイス、機械、プラスティック成形などです。投資担当先の規模感は、現在投資中の会社に限ると小さい方は売上100億円程度、大きい会社の場合には1000億円弱といったところです。 「早川さんの投資スタンスについてもお聞かせください。」 私が大事にしているポイントは3つです。1つは、技術でもサービスでも品質でも良いのですが、他社に真似されない、その会社にしかない要素があるかということです。私はいつも、「なぜこの会社はお客様から注文がもらえるのか? なぜ他社ではなくてこの会社なのか?」を理解するように心がけています。その理由を突き詰めた時に、この会社にしかない要素があり、だからこの会社に発注せざるを得ないということが見えてくれば、この会社には競争優位があると判断します。また、その競争優位を生み出すリーダーシップや組織能力も理解したいと思っています。 もう1つは、詳細な顧客セグメンテーションをして、市場を絞った上でのシェアが高いことです。性別や年齢などの在り来りなセグメンテーションではなく、できる限り詳細に分解されたセグメンテーションでのシェアを重視しています。マクロでみると世界シェア一桁%の会社も、サブセグメントで見るとシェア50%ということがあります。そして、なぜシェアを取れているかには必ず理由があります。その理由は、他社に真似できない要素を持っているということに行き着くので、1つ目のポイントと同義といえば同義なのですが、この観点も大切にしています。 そして最後に、その市場、特にその会社が属するサブセグメントは成長するか、という点も検証します。 「投資を決める際に、前職のマッキンゼーのようなコンサルティング会社にも入ってもらうことはありましたか?」 事業DDをコンサルティング会社に支援いただくことはよくあります。私も実際コンサルティング会社ではDDプロジェクトに関与しておりました。PEファンドの立場として大事なのは、コンサルティング会社に事業DDをお任せしてしまうのではなく、この観点で検証してほしいという、論点を明確にすることと考えています。5年間という投資期間もしっかり意識してもらうことも重要なポイントとなります。投資直後の100日計画の作成や実行、投資後しばらくしてからも特定の課題があって会社の方々だけでは解決が難しいと考えれば、コンサルティング会社の支援を仰ぐことは良くあります。