COLUMNコラム

CFOインタビュー
株式会社TWOSTONE & Sons
取締役CFO 加藤 真 氏

大企業での経験こそ、ベンチャーで活きる。「企業の経営に対して意見を言える立場になる」を体現した道筋

「企業の経営に対して意見を言える立場になる」というブレない思い 「学生時代は自分のキャリアをどのように考えていましたか。」 私は学生の頃から、横軸に時間と縦軸にポジションを頭の中で描いて、今の自分がどこにいるか、将来どこにいきたいかを考える癖がありました。そして、いつまでに何を習得しなくてはいけないのかを逆算していきます。これが自己分析だと理解しています。そのため、高校時代に「企業の経営に対して意見を言える立場になりたい」と考えてからは、それを実現するために歩を進めていきました。いろいろな仕事を調べる中で経営企画という仕事を知り、そこを目標に据えました。経営に対して意見を言い、自分の意見が採用されて、会社を良い方向へ動かすような仕事である経営企画の仕事を担うために、まずは経営を学ぼうと中央大学の経営学部に入学しました。 「大学卒業からフレンテ(現:湖池屋)退職までのキャリアについてお聞かせください。」 新卒時の会社選びの観点は3つありました。1つ目は、経営に対して意見を言える人になるために、正しい知識、スタンダードなやり方を身につけられる上場企業であること。実は、上場しているベンチャー企業からも内定をもらっていたのですが、ベンチャーは将来挑戦したいと考えていたため、まずは全体の流れを理解できる上場企業を選ぶことにしました。2つ目は、全体が見える会社が良いと思っており、規模が小さい会社であることも重要視しました。3つ目は、経営企画になるためには会社の数字を理解できるようになることが必要だと思っていたので、経理職。それも原価計算のできるメーカーの経理職の募集がある会社を希望しました。 上場企業で経理のスタンダードを学ぶ 結局、安川電機の子会社のワイ・イー・データ(現:安川コントロール)という会社にご縁があって入社しました。ただ、私は人とのコミュニケーションも好きでお喋りな方なので、一般的な経理の人物イメージとは異なります。そのため、入社時に社長から「最初から経理に配属されて社内だけになるのではなく、一度社会を見てこい」と言われ、1年半ほど営業企画やマーケティングを経験してから経理に配属になりました。 その後、2年ほど経理をしていたのですが、ありがたいことに親会社の安川電機の人事部に引っ張ってもらうことになりました。プライム上場企業の人事の仕事。希望する方も多い仕事です。人事から経営企画に進むキャリアパスもあるため、食わず嫌いは良くないと思い、チャレンジをしてみました。しかし、残念ながら私には合いませんでした。「まだ経理の仕事をやりきれていない」という思いもあり、改めて経理としてのキャリアを作るために転職を決意しました。転職時の会社選びの観点は新卒時と同様で、フレンテ(現:湖池屋)にご縁があり転職しました。 「フレンテを退職した理由を教えてください。」 もともとのキャリアの考え方として、30歳までを修行期間。その後はベンチャーに転職したいと思っていました。また転職する前に、日清食品がフレンテに資本参画しました。今後、日清食品の影響力が増したら、私のキャリアにも限界がくるだろうと思いました。実際に、私が退職した後にも日清食品の増資があり、今は日清食品の連結子会社となっています。 さらに、評価の面でも限界を感じたという点もあります。在籍する中で、業務を習得する。既存の業務の効率化を行うのは当たり前だと思ってやってきました。それだけだと業務もマンネリ化しますし、何かないかなと思っていたところで日清食品から入ってきた資金を運用することを思いつきました。過去の資産運用の規程を引っ張り出し、自ら委員を選んで組織を組成し、会長に直提案しながら、資産運用を開始しました。結果として3000〜4000万円の営業外利益を生み出したのですが、評価は普段と変わらずB ' (ダッシュ)。今はそうでもないとは思いますが、当時は管理部門があまり評価されない文化があったように感じていたので、「そうだよな」という気持ちもありました。私は「もっと仕事がしたい」と思っていたのですが、「きっとここにいても報われることはないのだろう」と感じ、残る意味が見いだせなくなりました。このような理由から、退職する決意が固まりました。 フレンテを退職する際に、執行役員の方をはじめ、色々な方に引き止めのお話をいただきました。そのまま残っていたら、将来的には管理系の重職を任せてもらえるポジションにいたかもしれません。しかし、新たな道に進みたい思いが増し、退職しました。 ベンチャーで受けたカルチャーショック 「3社目でベンチャーに飛び込みます。どんなことを目的に、ベンチャーへ飛び込んだのですか。カルチャーショックはありましたか。」 カルチャーショックはすごかったです。精神的に追い詰められて、辞めようか、大企業に戻ろうかと真剣に悩みました。フレンテにいた頃は、それなりの評価をいただいていましたし、自分自身でも仕事はできる方だと思っていました。しかし、自分が力を発揮できる大前提として、周囲の方が一定以上のレベルであること、仕組みができている環境があったということがあります。仕組みに則れば、当然のように正しい情報が出てきて、それを処理すれば決算ができる。この“当たり前”に囲まれた中では、私は仕事ができていました。 しかし、ベンチャーはそうではなかった。入社してすぐ目にしたのは、3〜4ヶ月分処理されていない書類。その書類が積み重なっていて、伝票入力されたものなのか、実際に支払いが済んだものなのかすら分からないという状況。つまり、3〜4ヶ月、月次決算が締まっていないという状態でした。それを目の当たりにしたときは、なかなかしびれましたね。経理のマネージャー候補として入社したので、管理者はいるのですが、月次決算を締めないことが当たり前の環境でしたので、やり切らずに帰宅している。やらなくてはいけないことがわかっている側からすると、誰も疑問を持っていない状況がとても気持ちが悪かったです。「なぜ情報が来ない」「この状態をどうすればいいのだろう」「この組織に自分がいていいのだろうか」「この組織で自分の能力を生かせるのだろうか」「このままでは自分が腐ってくのではないか」など、3ヶ月くらい思い悩みました。 ただ、就職活動のときも2週間くらい悩み続けるなど、元々悩むのは得意というか慣れっこではありました。この時も3ヶ月くらいノイローゼになるくらいすごく悩んで、ふと気づいたことがありました。「若くして経営に意見を言えるようになるには、与えられた環境で成果を出すのではなく、混沌とした環境を正していくことにこそ価値があるのではないか」と思ったのです。つまり、大企業で培った“当たり前”をベンチャーの組織へインストールする。早く出世するためには、早く責任のあるポジションを任せてもらうためには、そういう力が絶対に必要ですし、そもそもそのために大企業に入ったはず、と初心にかえり、一気に道がひらけました。この時に、今の自分の思考のベースが出来上がったのではないかと考えています。そして、振り返ると結果として、自分のアプローチは一つの正解例だったと思っています。 整理・仕組化・分散であるべき姿に改革  「実務的な変革はご苦労が多かったのではないでしょうか。」 大変でしたね。最初は、1人で進めていくしかないので、とにかく時間を使って、あるべき形をインストールしていきました。私自身、ハードワーク自体は苦ではありません。事実、新卒で入社したワイ・イー・データでも、一定期間ハードワークをして、自分で業務を整理した経験がありましたので、今回もまずは整理からはじめました。ベンチャー企業の役員陣もその現状には不満がありましたので、私が業務を整理することで、役員が感じていた「数字が遅い」「数字が綺麗じゃない」などの不便さを解消できました。結果として会社も良くなり、私に対する評価も変わり、意見が通りやすくなっていきました。 次に仕組化です。整理することにより、会社の流れが見えてくるので、それを仕組化していきます。例えば、当時は全てをスプレッドシートで管理していたので、誰がいつ何を承認したのかがわかりませんでした。それらを明確化させるためにExcelに変更しました。そして、分散です。営業事務に協力してもらう体制を整え、自分の煩雑な作業を分散化していきました。みんなの5分は、1人の100分。携わる人数を増やすことでだいぶ楽になりました。 「整理整頓は決算のことを真に理解していないとできませんよね。」 その通りだと思います。そこは経験が無駄ではなかったと思いました。また整理整頓については、特に最初の会社で固定資産システムの導入を担当した時に鍛えられました。システム導入は、あるべき姿を理解する必要がありますが、誰もそのあるべき姿を教えてはくれません。そこで、自分でとことん考えました。この経験がベースになっていると思います。
投資家インタビュー
日本ベンチャーキャピタル株式会社
代表取締役会長 奥原 主一 氏

CFOに求めることは、CEOが前向きな仕事に専念できる環境を作る覚悟と柔軟性

「未来が予測できない」コンサルティングファームへ就職 「奥原様は、東京大学、大学院で工学系の学問を学ばれましたが、なぜコンサルティングファームに就職されたのですか。」 私は、自分に何か特別な才能があるとは思っていないので、周囲と同じことを続けて退職する40年後の自分が容易に想像できてしまいました。「1度しかない人生、せっかくならば想像もできない、面白そうなことをしてみたい」と思いました。 「コンサルティングファームへの就職は、親御さんも驚かれたのではないでしょうか。」 コンサルどころか、パン屋だと勘違いしていました(笑)。アンダーセンコンサルティング(現:アクセンチュア)は就職にあたって親宛に「4月から息子さんがうちの会社で働きます。よろしくお願いします」といった内容の葉書を送っていました。それを見た親は、アンデルセンのパン屋と同じロゴだと勘違いし、「なんでパン屋に行くんだ?」と電話をしてきたのです。未だに私がコンサルに就職したことをわかっていません。 「アンダーセンコンサルティングではどのような仕事をしていたのでしょうか。」 アンダーセンコンサルティングには、いろいろな部署があるのですが、私が最初に担当したのは、横浜にあるソニーの中央研究所で知財の洗い出しをして、それらを活用して何ができるかを考える仕事でした。限られた人しか配属されない部署ですが、振り返ると、この仕事が一番面白かったです。今思うと、当時、正二十面体のボール型で時計、電話、音楽を聴く機能などがついたもの があったのですが、これをうまく発展させることができていれば、iPodやiPadになっていたのではないかと思います。もし先に発売になっていたら、Appleはなかったかもしれません。 視力の低下から公認会計士の資格取得へ 「その後、難易度の高い公認会計士の資格を取得なさいましたが、なぜ取得しようと思ったのですか。また、奥原様は監査法人に勤務されていませんが、就職を考えたことはなかったのでしょうか。」 結局、アンダーセンコンサルティングを2年で退職しました。退職の理由は、目が悪くなって、仕事を継続することが難しくなってしまったからです。学生時代から、システム系の勉強をして目が悪かったところに、就職後もソニーでずっとブラウン管を見ていてさらに悪化してしまいました。いろいろな眼科を回ったのですが、明確な診断には辿り着けず、インターネットで論文検索をしてみると、「もしかしたら、かなりまずい病気なのではないか」ということに気がつきました。そこで、日本で手術ができる病院を探して診てもらったところ、「手術によって普通の近視程度の視力には戻せるけれど、現在の仕事を続けるのは難しいのではないか」と言われてしまったのです。そこで、アンダーセンコンサルティングを退職して目の手術をしました。目は神経が集合しているので、手術後は遠くは見えるけれど近くは見えないという状態が続き、半年くらいリハビリをしました。新聞を読んでも頭痛がしなくなるまで時間がかかりました。 その時期は、テレビをラジオ代わりにして音を聞いて過ごしていたのですが、たまたまネットスケープが上場したというニュースを耳にしました。その時に、初めてアメリカにはベンチャーキャピタリストという職業があって、その人たちがマーク・アンドリーセン(ネットスケープの創業者)という大学院生の起業を応援して大きくしていったことを知ったのです。そして、日本にもベンチャーキャピタリストのような仕事があればやってみたいと思うようになりました。 当時同棲していた現在の妻が税理士の仕事をしており、日本の中小企業に粉飾が多いということは知っていました。僕みたいなバックグラウンドの人間がキャピタリストの仕事をしようとしても、このままではきっと粉飾に騙されるだろうと考えました。そこで、会計や法律をまんべんなく学ぶことができる資格を取ろうと思い、公認会計士を目指し、2年間勉強して合格したのです。ですから、最初から監査法人に入る気はありませんでした。ただ、私が受験した2年間は合格者数が過去最低だったらしく、少ない合格者の座席の一つを奪ったことは悪かったなと思っています。 念願のベンチャーキャピタリストに 「そして、日本ベンチャーキャピタル(NVCC)に入社します。大きくキャリアチェンジすることになりますが、その選択をした理由をお聞かせください。」 NVCCが、独立系のベンチャーキャピタル(以下、VC)だったからです。独立系のVCを3社回ったのですが、うち2社は経験者のみの採用でした。まだできたばかりだった当社は未経験者でも採用してくれたのです。当時としては珍しいと思いますが、メールに「私はこんなに優秀なので、採用しないと損をしますよ」といった内容の文章を記し、自己PRやレジュメを添付して送りました。その後、連絡があり、総務の面接、役員面接、社長面接とあっという間に進み、1998年の1月4日、正月明けから転職しました。その頃、大手の金融機関は子会社としてVCを持っていました。しかし、連結会計がない時代でしたので、そのほとんどが親会社の不良債権を飛ばす対象となってしまっていたのです。そういった場所では、まともな投資は行っていないだろうと考え、最初から独立系のVCだけを狙って転職活動をしました。 日本ベンチャーキャピタルの特徴 「NVCCはVC業界の中でもユニークな組織です。NVCCの成り立ちや特色を教えてください。」 NVCCは、自らベンチャー企業を興し、各分野で成功をおさめている事業家や、ベンチャー支援に熱意を持つ大手企業などが結集し、これまでとは異なる支援型の本格的なVCをめざして、1996年に設立されました。当時、経済同友会でVCを作ろうという動きがあり、ウシオ電機の牛尾治朗さん、セコムの飯田亮さん、オリックスの宮内義彦さん、日本生命の伊藤助成さん、そして会長を務めたコスモ証券の文箭安雄が発起人として創業しました。それに参画、賛同していただける方を徐々に増やしながら現在に至ります。 金融知識がないことをプラスに、手探りで業務スタート 「投資をする分野や方針は決まっていたのでしょうか。」 全く決まっていませんでした。私が入社したのは創業2年目で、当時、日本に独立系のVCがほとんどなかったので、社内だけでなく、日本中に業務を教えられる人がいませんでした。「この業界は本当に歴史がないから、自分で考えて進めていかなくてはいけない。幸い私は金融機関に勤めていた経験がなく知識もないので、彼らがハードルに感じることに対して私はハードルに感じない。これは逆にプラスになるはずだ」とポジティブに考えました。まだ、ウェブサイトが充実している時代ではなかったので、最初はアメリカのVCの教科書を読み漁って真似をすることからスタートしました。 「具体的にどんな仕事をしていたのですか。」 本当に手探りでひたすら投資をしてきました。アメリカのセオリーどおりにやってみて、うまくいかなければ次は取り入れないし、良かったら日本流にアレンジするというやり方で進めました。弊社にも過去含めて50名以上のキャピタリストが在籍し、累計で1100社以上投資致しましたが、キャピタリストとして1件目の投資が上場したのは私だけです。それくらい運には恵まれてきました。 「入社して10年ほどで取締投資部長に就任されています。」 2008年に取締役投資部長になりました。この頃は採用を増やしすぎていて、能力が不足している人もかなりいたように思います。さらに、就任した直後にリーマン・ショック。創業者の文箭(安雄)とこの会社をどうすべきかについて、何度も話し合いました。ただ、そんな中でも、投資は継続していました。
それからのCFO
川島 崇 氏

″いろいろ″あるから経営は面白い。修羅場でこそ問われる「CFOの信念と覚悟」

監査法人で求められたのは期待以上の成果 「公認会計士を目指したのはいつ頃からですか。また、それはなぜですか。」 高校3年生の浪人が決まったときです。遊んでばかりだったくせに、なぜか受験失敗は完全に想定外でした(笑)。しかも友人達はちゃっかり現役合格。これはマズいことになったと思いましたね。ただ、この挫折は真剣に人生設計を考える機会となりました。当時はバブルが崩壊した頃で、「将来ビジネスの世界で経営者として挑戦と貢献ができればいいな」程度の漠然とした考えが浮かんでいました。そして情報収集のため書店で資格の本をペラペラ立ち読みしていると、まず弁護士が目に入ったわけです。当時の司法試験合格率は3%…さすがに厳しそうだと思いましたね。次に目に付いたのは聞いたこともない資格、公認会計士でした。なんと合格率6%、司法試験の倍です!直感的にイケると思いましたね。実はこれが公認会計士との運命の出会いです(笑)。そして色々調べると、公認会計士資格はビジネスに役立ちそうだとわかり、真剣に目指すことにしました。大学合格後は、ダブルスクールとアルバイトに勤しみながら、卒業後に合格しました。もしこの年不合格だったらバイト先の店長になる予定でしたので、運が良かったと思います(笑)。 「入所して10年間勤めた監査法人では、主にどのような仕事をされていましたか。また、記憶に残っているエピソードがあれば教えてください。」 メインは監査業務ですが、デューデリやM&A、株価評価、IPO支援、内部統制、企業再生などのコンサル業務も数多く担当しました。当時は、監査法人の独立性が厳しく問われる環境ではなかったので、クライアントの懐に入り込むような仕事が多かったですね。個人的に通常の監査業務より、コンサル業務の方が提案にクリエイティブ性が求められ、クライアントの成長に貢献している実感があって好きでした。 印象に残っているのは、東証一部のグローバルクライアントに対し、内部統制リスクを特定して業務改善を提案する仕事です。これはまだJ-SOX法や内部統制監査が存在しない頃の話です。定期的に各支社へ出張し、1年間で1周する流れを繰り返していました。具体的には、初日に営業や製造部門など複数の会社関係者にインタビューし、裏付け資料を調査します。2日目は詳細を詰めて、課題提起と改善行動計画を報告書に取りまとめ、夕方には支社長へプレゼンします。改善行動計画はフォローアップのため、実効性があり行動を促す内容が要求されます。しかも私の上司は全くレビューをしない派でしたので(笑)、私の作成した報告書はそのまま取締役会へ提出されるわけです。そのため事実誤認や不明瞭な記述は許されませんでしたし、何より前回と同じような指摘内容では価値がないわけです。 タイトなスケジュールで期待以上の成果を要求される、プレッシャーのかかる業務でしたが、「営業から会計に至る会社業務の仕組みや組織の論理」を深く理解できたことや「仮説思考で計画を立て、効率的に有用な情報を引き出し、改善行動へのコミットを得る」といった力が鍛えられたと思います。入社1年目からこのような業務に関われたのは大変ラッキーでした。 まさかのベンチャーへの転職、「気が狂ったのか?」 「監査法人で得たスキルは事業会社のCFOとしても役に立っていますか。」 監査では、クライアントの外部環境、様々な制約条件や変動要因を複合的に捉え、多面的に分析した上でリスクを特定し、計画を立てチームを動かして効率的に業務を進めることが要求されます。こういったスキルは、事業会社でもデータの裏付けを持って、企業の現状を客観的に把握・分析することや、将来予測や課題解決に取り組む際には大いに役立ちましたね。 また、実は監査法人時代に中小企業診断士資格を取得しています。財務や会計領域はスペシャリストとして知識や経験を深掘りできましたが、企業経営という広い視野を持つには、ビジネス全領域に渡るゼネラリスト的な知識が必要と考えたからです。診断士試験では財務会計領域以外に、経営戦略、マーケティング、生産管理、情報システム、人的資源管理、経営法務、新規事業開発、助言理論などを体系的に学ぶことができました。ベンチャーのCFOはあらゆる事業領域に首を突っ込まざるを得なくなるわけですが、知識があるとないとでは問題解決への入りが異なりますので、とても価値があったと思います。 「10年間勤務した監査法人を退所してベンチャー企業に入社なさいました。その理由を教えてください。また、そのベンチャー企業はどんな事業をしていたのですか。」 当時は「失われた15年」の頃でした。私は日本経済には新しいビジネスの誕生が必要だと思い、ベンチャー企業でイノベーションを起こすことに貢献したいと考えるようになりました。その中でも、日本発の強みを持ち、海外へ事業展開できる会社を転職先に探していました。そして入社を決めたのは、日本が得意とするIP(知的財産権)の企画制作、そしてそれらをクロスメディア・クロスボーダーでプロデュースするベンチャー企業です。ただ、当時は今と違って監査法人からベンチャー企業へ飛び込むなんて異例中の異例でしたので、「気が狂ったのか?」と上司から多くの反対と引き留めをして頂きました。至極真っ当な意見で「ごもっともです」としか言えないのですが(笑)、何度もお話をして最後は気持ちよく送り出して頂きました。 実は、私にはベンチャーへの挑戦に理屈じゃない、こだわりがあったのです。それは監査人としてベンチャー企業と関わる中で生まれました。私はIPO支援をしながら、同い年位の方が責任あるポジションで、周囲を引っ張り、正解のない世界で頭を悩ませながら取り組んでいく姿をずっと見ていました。そして上場した時、彼らがまるで高校球児が甲子園で優勝したかのように狂喜乱舞している姿を見て、素直に羨ましいなと思いました。「何歳になっても熱狂できる仕事に携わっていたい。それにはアドバイザーでは足りない、プレイヤーになるしかない!」と考えていたのです。 転職1ヶ月、リーマン・ショックでいきなりの倒産危機 「2008年の入社だとリーマン・ショックの時期と重なります。影響はありませんでしたか。」 はい、転職1ヶ月後にまさかのリーマン・ショックです(笑)。当社は事業が軌道に乗り、勝負のアクセルをまさに踏んだタイミングでした。しかしそれが完全に裏目となって、極めて深刻なダメージを受けました。資金の急激な流出が止まらなくなり、数か月後に資金ショートで倒産することが、明らかな状況に陥ったのです!組織内に動揺が走り、幹部をはじめ役職員がどんどん逃げ出し、雰囲気も悪くなって組織体制はボロボロに。辞めた幹部の競合企業立ち上げや、風評被害も起こりビジネス環境は極めて悪化しました。 私の転職当時に予定していた上場準備の開始は完全にストップ。私は入社1か月で企業再生に集中することになったのです!資金ショートまでのカウントダウンは始まっていましたので、私はすぐさま経営改善計画を作成して、社長に提案し実行に移しました。それまでの営業や開発は社長の経験や感覚に頼っていた面が大きかったのですが、財務分析を裏付けにセールスミックス再編やコスト構造改革を推し進め、1円でも多く利益を出し、1日でも支払いを先延ばしするように動きました。また、多くの金融機関に融資の相談をしましたが、定期預金の解約すらも拒否されるなど全て断られました。ただその後も諦めずに何行も粘り強く交渉して、何とか融資を受けることができました。 これらの取り組みで延命ができ、決算期を越えられる見通しが立ちましたが、着地見込みは債務超過。このままでは金融機関との交渉がさらにハードになることが想定されます。そこで私は自己資金を投じて資本増強。これでなんとか債務超過を回避することができました。またこの時期に資本政策の組み直しも行いました。通常、資本政策は不可逆性がありますが、既存株主達が譲渡に極めて前向き姿勢の環境でしたので、ある意味チャンスだったんです。私は交渉役として取りまとめましたが、対立して辞めた元幹部の既存株主には、また違った気を使いましたね(笑)。
CFOインタビュー
株式会社ストルアス
管理部 部長(コンロトーラー) 安田 健子 氏

ファイナンスや英語の知見を活かし、日系企業から外資系コントローラーになるまでの道のり

債権回収も経験したリクルートでの学び 「大学卒業後、リクルートに就職した理由を教えてください。」 就職活動をスタートした頃に、たまたま1〜2日ほどアルバイトでリクルートに行く機会がありました。その時に、リクルートの社員の方から「興味があったら働いてみないか」と声をかけていただきました。その後、何度か職場を見学させてもらい、活気があって面白そうな会社だと思い、応募しました。 「リクルートではどのような業務を担当したのでしょうか。」 営業経理という部署に配属となりました。学生時代は英語を専攻していましたが、当時のリクルートには英語を活かせる部署はなかったので、最初に配属された部署の仕事をしっかり覚えていこうと考えていました。結果的に、この配属が経理・会計の道への入口となりました。営業経理は、広告の注文を確定し、納品、請求、入金までの一連の流れの管理を担う部署です。元々は経理部門にあったのですが、動きをスピーディにするために各ビジネス部門に移管されました。私はSUUMOを取り扱っている住宅部門の企画室に配属になりました。 しばらくすると、バブルがはじけ、滞留債権の回収までを担当しなくてはならなくなりました。営業や法務と連携したり、小さい企業に対しては課長と一緒に訪問したりして、債権回収業務を経験しました。与信管理や債権回収の業務は、どの企業でも重要な仕事です。振り返ってみると、会計・経理のキャリアの最初の段階で、これらの業務を経験できたことはとても幸運でした。その後のキャリアでも必ず必要な知識、経験として役立っています。 外資系企業への転職を目指し、US CMA(米国公認管理会計士)を取得 「いつ頃からFP&Aの仕事に興味を持つようになったのでしょうか。」 リクルートでビジネス部門へと異動になり、分析、組織変更支援、企画、新商品開発のステータス管理、プロジェクトの管理などを経験する機会をいただきました。また、統括・企画・営業・システム・審査などの関連部門との協働が増え、ビジネス自体をより深く理解できるようになりました。一層仕事が面白く感じられるようになったのです。ビジネス理解のために宅建の資格も取得しました。 入社10年ほど経った頃、営業経理という仕事にもアウトソーシングの波が押し寄せ、担当していた仕事の7割ほどを外部に移管することになりました。その頃から真剣に将来の生業を考えるようになりました。会計や経理の仕事は好きでしたが、大学卒業後も英語を継続して勉強していたこともあり、将来的には英語を活かして外資系企業で働きたいという思いが強くなっていきました。調べていくと、外資系企業にはコントローラーという仕事があるということを知りました。コントローラーは、会計・経理の知識を基盤にビジネスパートナーとして活躍する仕事です。知れば知るほど、興味を持っていきました。 「USCMAやUSCFMの資格はいつ頃取得したのでしょうか。また、なぜ取得しようと思ったのですか。」 外資系企業でコントローラーになりたいと思い始めてから、そのポジションに就くために必要な知識があることを証明できる資格を取得したいと考えました。USCPA(米国公認会計士)を取るか、USCMA(米国公認管理会計士)を取るか迷った末、ビジネスをサポートする上ではUSCMAだと自分なりに考えてそちらを選びました。私の強みは、近くでビジネスをサポートする会計を理解していることであり、そこを基盤にしていきたいと考えたからです。USCMAの勉強をし始めると同時期に、石橋 善一郎さんをはじめ、コントローラーやCFOとして実際に活躍されている方々にお会いして非常に刺激を受けました。尊敬するロールモデルに少しでも近づきたいという思いで一生懸命学び、2005年にUSCMAを取得しました。USCFM(米国公認経営管理士)は、カーギルに転職した後の2007年に取得しました。 「内部監査人の資格も取得したのはなぜでしょう。」 現職のストルアスに入社してから必要に迫られて、ISO9001の内部監査人の資格を取得しました。ストルアスは、社員数が50人程度の小さな会社です。内部監査人の資格については、ビジネスシステム導入と全社ISO9001取得のプロジェクトにおいて、ビジネスシステムの内部監査を担うために取得しました。この役割により、ビジネスにおける重要プロセスを理解することができました。 カーギルジャパンへの転職 「20年ほど勤務したリクルートを退職して、念願の外資系企業に転職されました。外資系企業のなかで、なぜカーギルジャパンを選んだのでしょうか。また、不安はありませんでしたか。」 しっかりと資格を取ってから、外資系企業へ応募していこうと思っていましたが、20年も日本企業に在籍していたため、外資系企業の経験がないという理由で不採用となった会社もありました。その点、カーギルジャパンはリクルートでの経験も考慮しての採用でした。また、面接の際に、採用担当者の話を聞き、この方たちと一緒に仕事をしたいと思ったことが決め手となりました。不安よりも外資系企業のコントローラーになりたいという思いの方が強かったです。1度しかない人生、やるだけやってダメならば諦めもつくと、覚悟を決めていました。 「カーギルジャパンの事業内容や日本における組織について教えてください。」 カーギルジャパンは、全世界に、農業・食品・金融・工業製品を供給する米国の穀物メジャーの日本法人です。当時は、400名ほどの従業員がいました。東食を買収して日本でのビジネス規模を拡大していました。私の在籍当時は、日本で10〜14のビジネスユニット(BU)がビジネスを展開していました。日本における2大BUは、穀物油脂本部と東食でした。ファイナンス組織は、各BUのBS・PL・予算策定・ビジネスサポート・リスクマネジメント・内部外部監査などを担っていました。経理だけでなく、為替のポジション管理など、財務的なことも担当しました。 周囲を巻き込んで自主的に開催した勉強会 「カーギルジャパンではどのような業務からスタートしたのですか。」 私は、経理部に配属となり、穀物油脂本部のシニアアカウンタントとして業務をスタートしました。担当はとうもろこしと油脂でした。リクルートでは、ビジネス部門の経理でしたので、基本的にはBSは見ず、PLの売上や原価などの決まった部分しか見ていませんでしたが、カーギルは、BS・PLを見ながら、リスクマネジメントやビジネスのサポートなども行い、広くファイナンスの立場からビジネスを支援する仕事でした。 「カーギルジャパンでは、リクルートで得たスキルは活かされましたか。」 リクルートで、非常に役に立つスキルを習得させてもらったと転職してから気がつきました。例えば、問題解決スキル、プレゼンテーションスキル、プロジェクトマネジメントスキル、システム導入・管理スキルなどです。リーダーシップやファシリテーションスキル・コニュニケーションスキルもそうです。 「カーギルジャパンで英語の勉強会などを開催されていたようですが、業務外での活動の原動力はどんなことだったのでしょうか。」 カーギルは外資系企業ですが、私が入社した時は外国の方がほとんどおらず、日常的には英語を使用しない環境でした。そのため、今後に備えて学んでいく必要があると考えて、有志を募って、ランチタイムに英語の勉強会を開催することにしたのです。他にも、苦手なことや未経験のリスクマネジメントなどについても勉強会を開催しました。1人よりみんなで学ぶ方が刺激になりますし、私自身も楽しいので、「こういうことをやりたいのですが、みんなで集まって勉強会をしてみない?」と声をかけていました。 「その後、事業部のファイナンスマネージャーになられています。主な役割や実績を教えてください。」 穀物油脂本部のコントローラーの下にマネージャーが2名いるという体制で、昇進してそのうちの1名になりました。メンバー2名と一緒に、担当部署の会計全般とリスクマネジメント、予算策定、戦略サポートを担当し、新たなプロセス導入や内部統制の強化等を実現しました。 「そのときに、苦労したことがあれば教えてください。」 カーギルはトレーディングもしているため、特殊な会計知識を身につけておかないとついていけません。複雑な仕組みやテクニックが必要で、そこを学ぶことが一番大変でした。私は、カリスマトレーダーと呼ばれる方に勝手に弟子入りし、3〜4ヶ月ぐらい特訓を受けて、疑問点を解消してもらう機会を得ました。すごく親切にわかりやすく教えていただき感謝しています。その知見が基盤となって、その後はどんどん仕事が面白くなっていきました。
投資家インタビュー
ジャフコグループ株式会社
パートナー 小沼 晴義 氏

国内最大手VCのベンチャーキャピタリストがCFOに求める「忠実さ」と「客観的な判断」のバランス

企業紹介の冊子で知ったベンチャーキャピタルという仕事 「大学卒業後、なぜベンチャーキャピタルであるジャフコに入社されたのでしょうか。」 当時はインターネットがない時代でしたので、大学3年生の時にリクルートから送られてくる業種別の企業紹介の冊子を見て、就職先を探していました。そこでベンチャーキャピタルのページが目に留まったことがきっかけです。ジャフコ以外にも日本アジア投資や日本エンタープライズ・ディベロップメント(NED)、日本インベストメント・ファイナンスなど4〜5社が掲載されていたと記憶しています。 私はその時に初めてベンチャーキャピタルという仕事を知りました。リスクをとって、ベンチャー企業や中小企業に投資し、成長支援をして、株式上場までお手伝いをする。そして、成果に応じてキャピタルゲインを得るという仕事に魅力を感じて、ベンチャーキャピタル業界を第一志望として就職活動を開始しました。例えば、投資をした1億円が上場して評価額が100億円になれば粗利は99億円という世界です。他にはなかなかない面白いビジネスだと思いました。 ベンチャーキャピタルの仕事とジャフコの特徴 「誰もが知るジャフコですが、改めて事業内容と特徴についてお話しください。」 ベンチャーキャピタルの仕事は、機関投資家を含めた出資者からお金をお預かりして、ファンドを設立するところから始まります。それから有望な起業家への接触を行い成長性のあるスタートアップへ出資をします。出資後は、成長に必要な人材の採用、販路拡大のためのマーケティング活動などを含めて様々な形で経営をサポートしていきます。企業の売上と利益が上がり、株式上場やM&AなどでExitができれば、ようやく保有している株式が流動化しますので、売却して現金化し、ファンドに戻して、ファンドの出資者に分配します。これが一連のサイクルです。 ジャフコは、昨年(2023年)ちょうど50周年を迎え、今年で51年目になります。現存する企業では日本最古で最大級のベンチャーキャピタルです。累計の投資先上場会社数が約1000社超、累計のファンド運用額が1兆円を超えており、これだけの実績があるベンチャーキャピタルは世界的に見ても少ないと思います。日本を中心に、アメリカ・アジアで多様な業種のスタートアップに投資をしています。日本国内では、ベンチャーキャピタル事業とバイアウト事業を実施しています。アメリカではIcon Ventures、アジアではJAFCO Asiaという社名で、ベンチャーキャピタル事業を行っています。 豊富な資金をもとに、スタートアップの資金調達に併せて、大型の出資も提供できます。また、新卒採用、キャリア採用を行い、豊富な人員が揃っていることも特徴の一つです。ベンチャーキャピタル部門に約40名、投資先のスタートアップの支援をするビジネスディベロップメント部門に約20名、全てフルタイムのメンバーなので、手厚く投資先の成長支援を行うことが可能です。 「現在、上場しているベンチャーキャピタルは何社あるのでしょうか?」 当社に加えて、日本アジア投資さん、フューチャーベンチャーキャピタルさんですね。ベンチャーキャピタルは、出資者と株主という2つのステークホルダーがいる特性上、上場する難しさがあります。株主の方にとっては、株価や配当を上げる意味でROE(自己資本利益率=当期純利益÷自己資本)が重要です。一方で、この事業は景気が悪い時にも投資を継続することが重要で、そのためには潤沢な資金をあらかじめ持っておく必要もあります。資金を確保しつつも、ROEを上げるために、自己資本を含めて余計な資産を持たないという経営をしなくてはならないのです。そうはいっても、エクイティファイナンスができるという上場のメリットは大きいです。当社も昨年、CBで150億円の資金調達をしました。 ベンチャーキャピタリストの魅力と輝かしい実績 「ベンチャーキャピタルリストとして32年のキャリアがありますが、その魅力ややりがい、そして大変さを教えてください。」 自らが主人公として、事業を立ち上げる起業家とは立場が違いますが、出資を通じてスタートアップの成長に関わることができる、役に立つことができる、ということにはやりがいがあります。新しい産業を創出し、経済を良くしていくことの社会性は大きいです。今後の日本経済においても、重要な役回りだと思います。また、大変な仕事ですが、長く続けていくことによって、自分としても成果を上げられるビジネスです。 ただ、難しいのは、失敗がつきもので、投資先の半分くらいはうまくいかないということです。落ち込みながらもチャレンジし続ける気持ちが重要です。常に投資候補先の経営者とコミュニケーションとりながら、新しい投資をして、成長支援することを繰り返しています。 「輝かしい実績を作ってこられましたが、これまでのIPOやM&Aの数を教えてください。」 IPOは途中から関わった会社も含めると22社で、M&Aは13社の合計35社です。持分譲渡は除いています。 「Forbes Japanの「日本で最も影響力のあるベンチャー投資家ランキング」に3回選出、「Japan Venture Awards」でベンチャーキャピタリスト奨励賞も受賞されています。それぞれどのような賞なのでしょうか。」 Forbes Japanの「日本で最も影響力のあるベンチャー投資家ランキング」は、Forbes Japanという月刊誌が、日本ベンチャーキャピタル協会(JVCA)の協力のもと、会員企業にアンケート調査を行い、その回答から作成した10位までのランキングです。1年間のIPOとM&Aなどによって得たキャピタルゲインを対象としてランクキングを作成しており、2023年版は4位に選んでいただきました。私としては、投資先の経営者が素晴らしかったに過ぎないと考えています。 「Japan Venture Awards」のベンチャーキャピタリスト奨励賞は、中小機構がバックアップして1年に1回開催されているベンチャーアワードです。スタートアップの経営者の表彰がメインですが、何年か前からベンチャーキャピタリスト年間2〜3人が選ばれも表彰されているようです。こちらもたまたまご縁があって、2020年に選出していただきました。 投資の際に重視する「経営者と事業内容のマッチング」 「小沼様の投資の判断基準を教えてください。」 ひとことで言うのは難しいのですが、経営者の経営手腕を見ているという感覚でしょうか。その方らしい事業であることや、ビジョンが明確であること、そして、どう経営されているかなどを確認します。また、一人では経営はできませんので、幹部社員の採用をはじめとして、人の集め方・巻き込み方も重視しています。 「経営者と事業内容のマッチングも大切なのですね。」 そうですね。経営者と事業性の組み合わせ、市場機会をとらえるタイミングなどが、うまく噛み合っていると良いですね。例えば、私が全く経験したことがない建築の設計を事業とすることは、ミスマッチだと思うのです。その方にふさわしい、その方なりの事業をされていることが大切です。 サービスや商品が市場に適合している状態を示す、プロダクトマーケットフィット(PMF)という言葉があり、我々は、よく起業家に「それはPMFの状態ですか?」と質問します。同じように、起業家がその市場に合っているか、「ファウンダー・マーケット・フィット」とも言えるような状態が大切だと思います。また市場性も重要で、これから成長していく市場と成長が止まった市場とでは、やはり大きな違いがありますよね。
投資家インタビュー
DIMENSION株式会社
代表取締役社長 宮宗 孝光 氏

CFOは将来の計画を数値に落とす力を持つ重責者。信頼とロイヤリティでCEOを支える

メーカーからコンサルへの大きなキャリアチェンジ 「東京工業大学・大学院を飛び級で卒業されてからエンジニアとしてシャープに入社します。シャープではどんな仕事をしていたのでしょうか。」 レーザーダイオードの研究開発に少し携わった後、オプトデバイスに関する事業の立ち上げ、拡大に携わりました。オプトデバイスとは、電気を通電すると光る石のことで、照明のLED(発光ダイオード)やブルーレイディスクを読み取るレーザーダイオードなどが含まれます。私がシャープに入社した1998年は、視認性が高いLEDは高速道路の橙色の表示機のみにしか使われていませんでした。LED市場の広がりを予測したシャープは、事業を拡大させようとしているタイミングで、他用途での事業化に注力し始めました。 「その後、ドリームインキュベータに入社します。大きくキャリアチェンジすることになりますが、その背景・目的を教えてください。」 元々、太陽光発電に携わりたくてシャープに入社しました。当時のシャープは、太陽光発電やソーラーパネルにおいて、世界一のメーカーでした。しかし上記のとおり別の部署に配属され、太陽光発電に携わる仕事はできませんでした。私は「やりたいことをやるのが人生」だと思っていたので、早々に転職しようと決意し父親に相談しました。父は、電子デバイスの分野で有名な独立系商社の2代目社長でずっと経営に携わっていました。その父から、「何を言っているんだ。今はまだ会社のコストでしかないのだから、3年間は辞めずにご奉公しろ!」と、こっぴどく叱られました。そこで、トータルで3年半シャープに勤めてから退職しました。 その後、4ヶ月ほど次に何をするかを検討しました。元々経営に興味があったので、若くして経営に携われるコンサルティング業界に興味を持ちました。当時、コンサルタントとして有名だったのが、大前研一さんと堀紘一さんの2人。長く名が通っている方は、コンサルとして学ぶことがたくさんあるだろうと考え、門を叩こうと決めました。しかし、大前さんはすでにマッキンゼーを退職し、個人で仕事をされていたので、働かせてもらうのは難しいと判断しました。一方で、堀さんはボストンコンサルティンググループを退職し、ベンチャー企業を支援する会社(ドリームインキュベータ)を作ってメディアにも出られているタイミングでした。そこで、まだ創業2年目のドリームインキュベータに応募してなんとか採用してもらいました。 最低評価を受けたドリームインキュベータでの1年目 「ドリームインキュベータは優秀な人材の宝庫ですが、どのような事業を行っている会社でしょうか。また、宮宗さんはどういった仕事をされてきたのでしょうか。」 ドリームインキュベータは、創業期から大企業のコンサルティングで得たキャッシュをスタートアップに投資する事業をしていました。当時の組織は、バックオフィスの方を含めて40名くらい。経営陣、マネージャー、担当者のシンプルな3層構造の組織でした。MBAホルダーが多い中、私は他業界からの全くの未経験での入社でしたが、大企業のコンサルとスタートアップ投資の両方を担当することになりました。入社して早々に、あるベンチャー企業の社長プロジェクトでプレゼンをすることになったことは今でも鮮明に覚えています。1年目は右も左もわからず、全く仕事ができず、人事評価は最低ランクでした。そこから、必死に苦労して少しずつ仕事をマスターしていきました。 17名中10名が上場した勉強会 「その後、起業家との勉強会を主催され、参加メンバー17名中10名が上場するという素晴らしい成果を出していますが、開催に至った背景と目的、勉強会の内容について教えてください。」 起業家の勉強会は、私が最低評価を抜け出し、マネージャーに昇格した後の2006年にスタートさせました。自分でスタートアップの案件を発掘して、出資することができるようになった時期でした。 スタートアップと関わる中で、仕事には繋がらなかったとしても、未来を担う社長の皆様たちとの接点が切れてしまうのは残念だと感じることがありました。そこで、若手メンバーと学びたい経営者を集めて経験や苦労を話し合う機会となる勉強会を2人でスタートしました。今のようにSNSで採用や評価、事業拡大、IPOなどの情報を探すことが難しい時代でしたから、参加者も我々も多くのことを学びました。例えば、「上場したらIRはどうするのか」、「ストックオプションを付与した人が退職したときにはどのように会社の組織を維持するのか」など、議題を設定して話し合いました。この会で孫正義さんにもお会いしています。その後この勉強会からどんどん上場する起業家が出てきて、私自身もよい刺激とインプットをいただくことができました。 大切なことはすべてお客様から学んだ 「19年間にわたりドリームインキュベータで活躍しますが、そこで経験したことや学んだことを教えてください。」 スキル面はもちろんマインド面もすべてお客様から学びました。例えばM&Aについて、お客様の社長室長と投資銀行部門のトップの方からレクチャーしていただく機会をいただいたこともありました。「会社がどういう観点で買収案件を確認して、経営会議を通しているかを教えるから」と声をかけていただき、課題になる点も教わり、コンサルタントとして適切な対応をすることができました。 また、あるときは「逃げずにやり切る」ということを教わりました。上場直前までいっていたお客様がいらっしゃったのですが、監査を担当していた監査法人が解散してしまうというトラブルに見舞われました。その前後で、ライブドア・ショックやリーマンショックで景気が低迷し、資金繰りも悪化してしまい、結局上場ができなくなってしまいました。このままだと会社としての存続が難しくなってしまうということもあり、私が担当するよりも、創業者である堀さんや二代目社長に担当をした方が良い支援ができるのではと思い、担当変更を申し出たところ、そのような局面にもかかわらず社長は「私は君に頼んでいるんだ」と言ってくださったのです。 この言葉に私は奮起し、様々な企業を紹介することでなんとかその企業が持ちこたえるための支援に奔走しました。その後結局私の紹介ではなく、その社長ご自身のネットワークでつながった上場会社の100%子会社になることで、なんとか事なきを得ることとなりました。この社長の方からは、厳しい経営状況の中でのトップとしての姿勢を学びました。そこから15年ほど経っていますが、年に2回お食事の機会をいただき、様々なインプットをいただいています。このような経験を基に「逃げずにやり切る」ということは、私の軸の一つになったと思います。 上記のようなスタープレイヤーの方々の影響を受けて、必死に仕事をしていく中で、力がついていったという感覚です。私は、若いときの苦労は買ってでもしておいた方が良いと考えています。そうでないとリーダーにはなれない。また苦労した経験は絶対に後で活きます。ただ、今の時代には、ブラックな働き方といわれてもおかしくないので、誰にでもお勧めできることではないです。なんでも費用対効果が高い方やショートカットする方法を重視する方もお見受けしますが、それが仇となることもあるのではないかと思います。
CFOインタビュー
株式会社イントラスト
取締役執行役員 太田 博之 氏

数字で判断・表現し、社長と共に会社を大きくできるCFOの魅力

CFOの道に繋がった監査法人での経験 「公認会計士を目指したのはいつ頃からですか。また、目指した理由も教えてください。」 私は、高校時代に全く勉強しなかったので、一浪し、千葉大学法政経学部経済学科に入学しました。予備校に合格の挨拶に行ったときに、たまたま見た雑誌に「学部ごとの目指すキャリア」についての特集が掲載されていました。そこに「経済学科の人は公認会計士」と打ち出されていて、そこで会計士という仕事を知ったのです。当時は、目標を立てて勉強し大学に合格できたことへの達成感を覚えていたので、大学入学後も目標に向かって頑張ってみようと思いました。ただ、私は怠け者なので、実際の勉強は大学4年生から始め、卒業の2年後に合格しました。 「入所した監査法人では主にどのような仕事をしましたか。また、監査業務などで記憶に残っているエピソードはありますか。」 私は、当時の中央青山監査法人(みすず監査法人に名称変更後、解散)に入所し、上場会社の監査をメインに担当しました。製造業を担当することが多かったのですが、労働組合やファンド、公益財団法人の監査もしました。年次が上がるにつれて、上場準備会社も2社担当し、うち1社はマザーズに上場しました。また、日経から出版された『会計用語辞典』の編集もさせてもらうなど、いろいろな経験をすることができました。 1年目は、1日しか行かない会社も含めると100社くらいのクライアントを回りました。監査以外で、そこまでさまざまな業種、職種の方と話す機会はなかなかないですよね。出張に行くと、クライアントと監査法人のパートナーや上司と会食に行く機会が多く、お酒を飲みながら、クライアント企業の歴史、事業内容や業務フローなど細かくヒアリングさせていただいたことが記憶に残っています。振り返ると、どの業種にも共通するような根本的な話を聞かせてもらっていたと思います。貴重な経験でした。 「監査法人での監査や経営者と話をした経験が現在のCFOの道に繋がっていますか?」 確実に繋がっています。監査法人は、外部の立場ではあるものの、会社の数値を客観的に見ます。これは現在の業務に生きています。また、監査法人はマルチタスクです。小さい会社も含めると最高で11社を並行して担当しました。それぞれ予期せぬタイミングでトラブルが勃発し、それらに対応した経験は今に生きていると思います。ハードワークでしたが、20代でその経験をしていなければ、今この生活はできていないでしょう。 「CFOという職業を意識したのはいつ頃からですか。また、なぜ意識するようになったのでしょう。」 最初は「事業会社で、事業を経験してみたい」という漠然とした思いからスタートしました。監査は大事な仕事ですが、会社が担っている活動を一歩引いて外から見るので、事業そのもののプレーヤーではありません。CFOという職業を意識したのは20代後半くらいでしょうか。明確に「CFOになりたい」という思いがあったわけではありませんが、私が事業会社に価値を提供して、活躍できる場と考えると、ぼんやりとCFOへの道が見えたのです。 やりきって退職後、転職先を探す 「7年間勤務した監査法人を退職するきっかけや理由を教えてください。」 「事業会社に行きたい」という思いがあっても、仕事を抱えていたため、なかなか踏ん切りがつかない日々を送っていました。監査法人を退職する直接のきっかけは、勤めていたみすず監査法人が自主廃業したことです。そのタイミングで先輩や同期は、他の監査法人に転職したのですが、私は事業会社に勤務するという選択をしました。限界まで働くタイプなので、監査法人が廃業する最後の日まで働き、やりきった思いもありました。また、ちょうどそのタイミングで結婚したので、数ヶ月休んでから、転職先を探し始めました。 「転職に対するポリシーはありますか。これまで2度の転職をされていますが、いずれの場合も、退職前に次の転職先を決めていません。これにはどのような思いがあるのでしょう。」 私は、かなりハードに目の前にある仕事に向き合うタイプなので、次の転職を考えている余裕がないというのが正直なところです。転職先を決めてから退職するのではなく、今の仕事をやりきってから辞める。退職してから一旦リセットするといった意味合いが強いかもしれません。私にとっては、そのリセット期間が何年かおきの夏休みという感覚です。なかなか人生で夏休みを取れる機会はないですからね。1回目の転職の前は4ヶ月ほど休みましたが、2回目は子どもがいたので貯金の減りも早く1ヶ月だけ休みました。それでもリセットができて良かったです。ただ、このやり方が正解だとは思っていませんし、リスクもあるので他の方にはお勧めできません。 7年かけてシンガポール市場に上場 「1回目の転職先は事業会社でした。その理由とその会社の事業内容を教えてください。」 私が入社した会社はホールディングスで、7〜8社の子会社の管理をしていました。上場を目指しているものの1社では規模的に上場できないという会社が7〜8社集まってできあがったという経緯のある会社でした。子会社同士に事業上のシナジーがそこまであるわけではなく、それぞれに社長やオーナーがいるため、同じ方向を向くのはなかなか難しかったです。 「シンガポールのカタリスト市場に上場しますが、そこに至るまで7年を要しています。その間の苦労話と最終的に上場できた要因を教えてください。」 最初は、国内の上場を目指していたのですが、業績そのものが上場基準に足りていないところに、リーマンショックがきて一旦ストップになりました。Iの部まで作り、審査に入るくらいのタイミングでした。その後、東日本大震災も発生しました。再度、上場を目指そうとした頃に、ダイナムが香港証券取引所に上場した例があり、他国の市場に上場するという選択肢が見えてきました。当時は、監査法人を経由して、様々な証券会社が日本企業の誘致を図っていたのです。 最初は、韓国のコスダックを目指しました。韓国のPwCの現地事務所から日本語が話せる方に来てもらい監査を受けました。しかし、最終的には基準を満たしませんでした。そして、シンガポールのカタリスト市場を目指すことにしたのです。カタリストは証券会社がOKを出せば上場できる市場でした。準備は大変で、日本の基準をIFRSに変更して、英語で求められる資料を作りました。当時の私は経理部長の立場だったので、英語が堪能なCFOと一緒に作成しました。