COLUMNコラム

それからのCFOの記事一覧

CFOはゴールではありません、その後も形を変えて活躍しているCFOを知ることで、今何をすべきかが見えてきます。

川島 崇 氏

″いろいろ″あるから経営は面白い。修羅場でこそ問われる「CFOの信念と覚悟」

監査法人で求められたのは期待以上の成果 「公認会計士を目指したのはいつ頃からですか。また、それはなぜですか。」 高校3年生の浪人が決まったときです。遊んでばかりだったくせに、なぜか受験失敗は完全に想定外でした(笑)。しかも友人達はちゃっかり現役合格。これはマズいことになったと思いましたね。ただ、この挫折は真剣に人生設計を考える機会となりました。当時はバブルが崩壊した頃で、「将来ビジネスの世界で経営者として挑戦と貢献ができればいいな」程度の漠然とした考えが浮かんでいました。そして情報収集のため書店で資格の本をペラペラ立ち読みしていると、まず弁護士が目に入ったわけです。当時の司法試験合格率は3%…さすがに厳しそうだと思いましたね。次に目に付いたのは聞いたこともない資格、公認会計士でした。なんと合格率6%、司法試験の倍です!直感的にイケると思いましたね。実はこれが公認会計士との運命の出会いです(笑)。そして色々調べると、公認会計士資格はビジネスに役立ちそうだとわかり、真剣に目指すことにしました。大学合格後は、ダブルスクールとアルバイトに勤しみながら、卒業後に合格しました。もしこの年不合格だったらバイト先の店長になる予定でしたので、運が良かったと思います(笑)。 「入所して10年間勤めた監査法人では、主にどのような仕事をされていましたか。また、記憶に残っているエピソードがあれば教えてください。」 メインは監査業務ですが、デューデリやM&A、株価評価、IPO支援、内部統制、企業再生などのコンサル業務も数多く担当しました。当時は、監査法人の独立性が厳しく問われる環境ではなかったので、クライアントの懐に入り込むような仕事が多かったですね。個人的に通常の監査業務より、コンサル業務の方が提案にクリエイティブ性が求められ、クライアントの成長に貢献している実感があって好きでした。 印象に残っているのは、東証一部のグローバルクライアントに対し、内部統制リスクを特定して業務改善を提案する仕事です。これはまだJ-SOX法や内部統制監査が存在しない頃の話です。定期的に各支社へ出張し、1年間で1周する流れを繰り返していました。具体的には、初日に営業や製造部門など複数の会社関係者にインタビューし、裏付け資料を調査します。2日目は詳細を詰めて、課題提起と改善行動計画を報告書に取りまとめ、夕方には支社長へプレゼンします。改善行動計画はフォローアップのため、実効性があり行動を促す内容が要求されます。しかも私の上司は全くレビューをしない派でしたので(笑)、私の作成した報告書はそのまま取締役会へ提出されるわけです。そのため事実誤認や不明瞭な記述は許されませんでしたし、何より前回と同じような指摘内容では価値がないわけです。 タイトなスケジュールで期待以上の成果を要求される、プレッシャーのかかる業務でしたが、「営業から会計に至る会社業務の仕組みや組織の論理」を深く理解できたことや「仮説思考で計画を立て、効率的に有用な情報を引き出し、改善行動へのコミットを得る」といった力が鍛えられたと思います。入社1年目からこのような業務に関われたのは大変ラッキーでした。 まさかのベンチャーへの転職、「気が狂ったのか?」 「監査法人で得たスキルは事業会社のCFOとしても役に立っていますか。」 監査では、クライアントの外部環境、様々な制約条件や変動要因を複合的に捉え、多面的に分析した上でリスクを特定し、計画を立てチームを動かして効率的に業務を進めることが要求されます。こういったスキルは、事業会社でもデータの裏付けを持って、企業の現状を客観的に把握・分析することや、将来予測や課題解決に取り組む際には大いに役立ちましたね。 また、実は監査法人時代に中小企業診断士資格を取得しています。財務や会計領域はスペシャリストとして知識や経験を深掘りできましたが、企業経営という広い視野を持つには、ビジネス全領域に渡るゼネラリスト的な知識が必要と考えたからです。診断士試験では財務会計領域以外に、経営戦略、マーケティング、生産管理、情報システム、人的資源管理、経営法務、新規事業開発、助言理論などを体系的に学ぶことができました。ベンチャーのCFOはあらゆる事業領域に首を突っ込まざるを得なくなるわけですが、知識があるとないとでは問題解決への入りが異なりますので、とても価値があったと思います。 「10年間勤務した監査法人を退所してベンチャー企業に入社なさいました。その理由を教えてください。また、そのベンチャー企業はどんな事業をしていたのですか。」 当時は「失われた15年」の頃でした。私は日本経済には新しいビジネスの誕生が必要だと思い、ベンチャー企業でイノベーションを起こすことに貢献したいと考えるようになりました。その中でも、日本発の強みを持ち、海外へ事業展開できる会社を転職先に探していました。そして入社を決めたのは、日本が得意とするIP(知的財産権)の企画制作、そしてそれらをクロスメディア・クロスボーダーでプロデュースするベンチャー企業です。ただ、当時は今と違って監査法人からベンチャー企業へ飛び込むなんて異例中の異例でしたので、「気が狂ったのか?」と上司から多くの反対と引き留めをして頂きました。至極真っ当な意見で「ごもっともです」としか言えないのですが(笑)、何度もお話をして最後は気持ちよく送り出して頂きました。 実は、私にはベンチャーへの挑戦に理屈じゃない、こだわりがあったのです。それは監査人としてベンチャー企業と関わる中で生まれました。私はIPO支援をしながら、同い年位の方が責任あるポジションで、周囲を引っ張り、正解のない世界で頭を悩ませながら取り組んでいく姿をずっと見ていました。そして上場した時、彼らがまるで高校球児が甲子園で優勝したかのように狂喜乱舞している姿を見て、素直に羨ましいなと思いました。「何歳になっても熱狂できる仕事に携わっていたい。それにはアドバイザーでは足りない、プレイヤーになるしかない!」と考えていたのです。 転職1ヶ月、リーマン・ショックでいきなりの倒産危機 「2008年の入社だとリーマン・ショックの時期と重なります。影響はありませんでしたか。」 はい、転職1ヶ月後にまさかのリーマン・ショックです(笑)。当社は事業が軌道に乗り、勝負のアクセルをまさに踏んだタイミングでした。しかしそれが完全に裏目となって、極めて深刻なダメージを受けました。資金の急激な流出が止まらなくなり、数か月後に資金ショートで倒産することが、明らかな状況に陥ったのです!組織内に動揺が走り、幹部をはじめ役職員がどんどん逃げ出し、雰囲気も悪くなって組織体制はボロボロに。辞めた幹部の競合企業立ち上げや、風評被害も起こりビジネス環境は極めて悪化しました。 私の転職当時に予定していた上場準備の開始は完全にストップ。私は入社1か月で企業再生に集中することになったのです!資金ショートまでのカウントダウンは始まっていましたので、私はすぐさま経営改善計画を作成して、社長に提案し実行に移しました。それまでの営業や開発は社長の経験や感覚に頼っていた面が大きかったのですが、財務分析を裏付けにセールスミックス再編やコスト構造改革を推し進め、1円でも多く利益を出し、1日でも支払いを先延ばしするように動きました。また、多くの金融機関に融資の相談をしましたが、定期預金の解約すらも拒否されるなど全て断られました。ただその後も諦めずに何行も粘り強く交渉して、何とか融資を受けることができました。 これらの取り組みで延命ができ、決算期を越えられる見通しが立ちましたが、着地見込みは債務超過。このままでは金融機関との交渉がさらにハードになることが想定されます。そこで私は自己資金を投じて資本増強。これでなんとか債務超過を回避することができました。またこの時期に資本政策の組み直しも行いました。通常、資本政策は不可逆性がありますが、既存株主達が譲渡に極めて前向き姿勢の環境でしたので、ある意味チャンスだったんです。私は交渉役として取りまとめましたが、対立して辞めた元幹部の既存株主には、また違った気を使いましたね(笑)。
元アマゾンジャパンCFO、元クラークスジャパンCEO
宮増 浩 氏

日系企業から外資系企業、そしてCFOからCEOへ。大きく変わっていった目に見える景色

日系企業で芽生えた「職人タイプを目指す」という思い 「大学卒業後、キヤノンに入社されています。そこでの業務内容と転職を考えた動機を教えてください。」 最初は資材部にバイヤーとして配属されましたが、一年ほど経って原価管理部に異動になりました。当時の主力製品であった複写機製品の構成部品を分解し、原価を計算し、それらの低減を進めてゆくことに取り組みました。転職を考えるようになったきっかけは、恥ずかしながら約11年間昇格ができなかったとこと、希望していた海外赴任が実現できなかったことでした。ただ一番大きかったのは、徐々に芽生えた自分の職業観が、会社の求めるものと違うと気づいたことでした。 当時僕が見た職業観は、会社人タイプと職人タイプの2つがあるように見えました。前者は、会社から与えられた求められたものを卒なくこなし、配置転換や転勤にもどんどん応じてゆくいわゆるジェネラリストタイプです。後者は一つの領域に特化し、ひたすらその専門性を高めてゆく、いわゆるプロフェッショナルのタイプです。僕は不器用で、捻くれ者だったので、前者に適応できませんでした。一方、原価管理や一部携わることのできた会計については、興味がどんどん膨らんでゆき、自分に合うのは後者だなと思い始めました。ところが、長く会社に勤めていると、重要な組織変更や人事異動の際に、前者が重宝され、後者がそうでなくなる傾向や、政治や派閥のようなものが見えてきました。 この2つの職業観を妻に話すと、彼女の生まれ育った英国では、終身雇用や前者は少数派で、むしろ後者が多数派で、彼女の両親や親戚もそうであることを教えてくれました。親しい友人に転職についてこっそり相談すると、ほとんどが「大企業を自ら辞めるのは愚かな選択」と言われ、大きな迷いが生じました。色々考えた末、どちらが正しい・間違いという答えはなく、どちらが自分に合いそうかという観点から、外資系企業への転職を決意しました。 その後、密かに転職活動を始めたのですが、散々な結果となりました。ある転職エージェントからは、「あなたは外資の経験も会計の経験もないですね。原価管理なんて会計の一部分しかないでしかないので、あなたの職歴に価値はありません」と言われました。10社ほどから同じような返答をされて、目の前が真っ暗になりました。また、他のエージェントからは、「あなたみたいな人は価値がない、このままでは将来何にもなれない」といった人格否定もされたほどでした。そこでカチンときて、「では、どうしたら僕は外資で働けるのですか?」と怒りながら聞くと、その方はしばらく考えたあと、「少なくとも資格がないとね」とおっしゃったのです。 「その一言がきっかけで、米国公認会計士の資格を取得されたのでしょうか。」 そうです。そのまま退席して、その足で神保町の三省堂に飛び込んで、確か当時の6階にあった資格コーナーに行きました。原価管理の経験を活かせる資格を探していった結果、公認会計士、税理士、MBA、米国公認会計士の4候補が挙がりました。公認会計士も税理士も難関ですよね。MBAも膨大な学費、滞在費がかかるため、消去法で米国公認会計士の勉強をすることにしました。会社に内緒で勉強し、2年ほどかけて合格しました。結婚したばかりでお金がなかったので、半分独学、半分予備校に行くというスタイルで学習しました。 モンタナ州で試験に合格、イリノイ州で登録後、転職活動を再開しました。当時のエージェントは限られていたので、2年前にボロクソに言われたエージェントを再度訪問しました。すると、米国公認会計士の資格をとったというだけで、手のひら返したような対応を受けました。僕の人間や人格が変わったわけではないのに、これほど外見で判断するように世の中は浅はかなのかと思いました。結果として、多くの企業を紹介いただいて、3社の中からインテルを選びました。 「その頃からCFOへの道は意識していたのでしょうか。」 その時はまだ意識していなかったですね。ただ、当時の僕は既に30代前半で、新卒でインテルに入社された方と比べて約10年遅れのスタートなので、早く追いつかなくてはいけないということは考えていました。 「インテルを選んだ最大の理由を教えてください。」 当時は、シリコンバレーブームで、今でいうマイクロソフト、アップル、デル、ヒューレットパッカード、サンマイクロ、オラクル、インテルなどのハイテク企業が急成長している時期でした。また、メーカーなので、とっつきやすいだろうと考えたという背景もありました。 衝撃を受けたインテルでの2つの出来事 「インテルに入社した初日に宮増さんの職業観を形作る経験をされたそうですね。」 入社した日に、米国人の上司からファイナンスチャーターという経理部の倫理規程の書かれた文書を渡されました。そこには、経理部のミッションは、①法を遵守すること、②資産を守ること、③利益に貢献することと、又、万一、これらに反するような指示が上司や関係者からあれば、それを拒否して、米国本社のホットラインに連絡するように書かれていました。以前、首を傾げるような上司からの指示や、これはどうかとうかなという慣習を受け入れた苦い経験がありましたが、このファイナンスチャーターを見て、心のわだかまりが取れたように感じました。また、ファイナンスチャーターの内容は、米国公認会計士が守るべき倫理規定と一貫した内容でした。これで職業人としての再スタートが切れるのだなと思いました。 また、当時の経理部コントローラーを務められていた石橋善一郎さん(※)にも大きな感銘を受けました。石橋さんは、平社員の僕にとって、3段階上の職責を務められ、雲の上のような存在でした。ところが、上司、同僚、部下へ平等に接し、正直で裏表のない人格者でした。会議でも、自分の意見を率直に理論的に述べ、他の違う意見にも耳を傾け、多くの出席者が納得のゆく結論を導き出していました。英語も堪能で力強く、米国人もうんうんと首をうなずきながら石橋さんの発言を聞いていました。それまで僕が見てきたリーダーシップ像とは全く異なるもので、自分も将来、このような方を目指したいと思いました。又、その時にCFOのビジョンが見えた気がしました。 「インテルではどのような仕事をしていましたか。初めての外資で戸惑いや苦労もあったかと思います。」 最初の2年は管理会計、次の2年は財務会計を担当しました。人事評価の厳しさには正直戸惑いました。年度毎の目標は、基本的に同一ポジションの前任者の実績を越えなければならず、具体的なアクションは上司と相談して決めます。評価は、その目標への達成度合いで客観的に判断され、フォーマルなもので半年に一度、インフォーマルなものは逐次行われました。また、部内で一位から最下位までのランキングも付けられ、グローバルレベルでそのレベリングが行われました。それらの結果が悪いと、勧告が出された後に、是正プログラムを受けなければならず、これに引っかからないように実績を上げることに必死でした。また、前職と比べ、自主裁量は大きく与えられた反面、仕事量は膨大に増えました。決算、予算、分析、監査、定例会議、プロジェクト、トレーニング等が目白押しで、夜中まで働き対応し、妻や生まれたばかりの子供に迷惑をかけてしまいました。 一方、トレーニングはとても充実していました。例えば、新人経理部員の3ヶ月目、半年後、1年後等に受けるべきトレーニングが決められており、多くのものは業務の如何に関わらず、1週間の参加が義務付けられていました。開催地は本社のあるサンタクララや、製造工場のあるオレゴン、アリゾナ、ペナン等、世界各地で行われました。トレーニング会場に行くと、国、人種、言語、年齢、性別、背景の異なる人で埋め尽くされ、まさに多国籍企業で働いているのだと実感しました。 「インテルでの4年間はすごく濃かったのですね。インテルで得られた経験や身についたスキルは何でしょう。」 最もありがたかったことは、外資系企業の会計業務の重要な部分の実務を経験し、全体像が把握できるようになった事です。財務会計では、主計、報告、監査、税務、固定資産等、管理会計では、予算策定、実績管理、分析、アクション策定等をこなし、米国公認会計士試験で学んだ理論を、そのまま実務で実践することができました。のちに僕が見たCFOには大きく分けて2パターンがあり、一つは金融系・MBA系出身者で、もう一つは現場系・CPA系でした。僕は後者に属しますが、その基礎ができた気がしました。 もう一つありがたかったのは、自主学習について、組織や国の壁を越えて、サポートしてくれる風土があった事です。当時、僕の業務に直接関係はありませんでしたが、連結決算と移転価格税制に興味を持ちました。前者は、自分が作成した日本の子会社の財務諸表がどのように米国本社で連結され投資家等に公表されるのか、又、後者は、日米間以外では、どのような処理が行われているのか知りたくなりました。社内のツテを使って米国本社の担当部署とその責任者を紹介してもらい、米国出張に合わせて面談を依頼すると、連結会計の責任者も、移転価格の責任者もあっさり引き受けてくれました。彼らにとっては、忙しい日常業務の中、日本から来た一担当者に時間を割く義務はありませんでした。ところが、どちらの方も丁寧にプロセスやシステムを説明をしてくれ、その後、関係部員を紹介したり、食事にまで連れていってくれました。彼らの親切さに感謝したと同時に、なんと懐の深い風土を持つ企業なのだなと思いました。不思議な事に、この二つの自主学習は、数年後、次に勤めた企業で役立つ事になり、詳細は後述します。 今、僕の職歴を振り返ると、初期にインテルで厳しい経験をした事が、インテルを退社した後も役に立ちました。例えば、目標設定は、上司や会社から求められなくても、自ら高い基準のものを、年度毎、月毎に設定するようになり、それは60歳になった今でも続けています。
元レノボ・ジャパン 取締役CFO、元日本ケロッグ合同会社 CFO
池側 千絵 氏

「楽しい」を原動力に仕事・子育て・学びを追いかけ続けてたどり着いた「自身の役割」

イギリス語学留学とP&Gファイナンス部門に入るまで 「外資系グローバル企業の日本子会社CFOとして活躍、現在はコンサルタント、教育者、研究者、並びに事業会社の社外取締役として活躍されている池側さん。時系列に沿ってお話をうかがっていきます。まず、大学在学中にイギリスに語学留学されていますが、その理由をお聞かせください。」 当時、将来どのような仕事に就くのかを深く考えていなかった私は、まわりに文学部か教育学部に進学する女子高生が多かったので、自分も文学部英文学科に進学しました。英語教師志望でなく、英文学科の学びにも関心を持てなかったので経済学部に入り直したいと思いながらも、友達ができ、ESS(English Speaking Society)という英語でディベートをする部活も楽しかったので、そのまま学生時代を過ごしていました。大学3年生の終わりの春に母とハワイ旅行をした時、現地での私の英会話を聞いた母から「英文学科なのに意外と英語ができないのね」と言われ、その一言がきっかけで留学をすることを決めました。 折しもバブルで父の会社の持株会の株価が上がって、今なら少し資金が作れると母が言うので(笑)。すぐに休学届を出し、大学4年生になる年の6月から翌年の2月までロンドンとパリの語学学校に留学しました。急に思いついたので大学に留学することはできなかったんですけどね。私が帰ってきたタイミングから、バブルで就職が楽になる時期に突入し、4月には外資のコンサル会社に、6月にはP&G(プロクター・アンド・ギャンブル・ファー・イースト・インク)に内定をいただき、早めに就活が終わりました。 「なぜP&Gを選ばれたのでしょうか。」 私は、男女平等のお給料をいただける会社で働くことを目指していました。すでに男女雇用機会均等法が施行されていたものの、日本の有名大企業では超高学歴の女性を総合職で少数雇用する程度。そこで、外資のP&Gに入社できたらいいなと思っていました。P&Gは職種別採用なので、会社説明会から職種別に分かれていました。マーケティングが有名なので宣伝本部の説明会に行ってみたのですが人があふれていたので断念し、隣の経営管理本部(ファイナンス部門)を受けてみることにしました。もちろんその頃はFP&A(Financial Planning & Analysis)という言葉もなく業務内容も知らなかったので、いわゆる経理部だと思っていました。実は、ロンドン留学の際に、英語以外にもできることを探そうと思い、ビジネスアドミニストレーションのコースを取り、英語で簿記を少しだけ学んだことがあったので、少しイメージが湧いていたのです。文系ですが数学が得意だったことも理由の一つです。 日本より20年は進んでいるP&Gでの経験 「P&Gで17年間ほど勤務されますが、どのような部門でどのような業務を担当されたのでしょうか。また、どのようなスキルを身に着けることができましたか。」 私が入社した時のP&Gは、本社が大阪にありました。しかし、「本社で新人を見る余裕はない」と言われ、パンパース、ウィスパーなどを製造している兵庫県の明石工場の経理部での勤務となりました。明石工場では、経理・原価計算を担当しました。半年ほどして、大阪本社に異動になり、先輩に教わりながら、日本支社全体の利益とキャッシュフローの管理をするようになりました。1年目の終わりになると、わけが分からないながらも、日本支社全体の中期経営計画や単年度予算をまとめたり、予算の進捗管理と本社への報告をしたりするようになりました。時代は1990年代、アメリカではFP&Aが始まっていたようです。経理部が1つのフロアに集まっていた時代から、経理部の中で事業に近い仕事をする一部の人たちは、事業部の中に席を置くようになったのです。P&Gでもその流れに沿って、3年目の私もビューティーケアのシャンプーやコンデショナー部門に席を置いてもらいました。 現在もある「パンテーン」というシャンプーを日本でローンチする時の財務分析は私が担当しました。当時の職場は、教育やプロセスが整備されておらず、あまりきちんと教えてもらえないのは当たり前でした。業務にあてる時間も長く、毎日11時半ぐらいまでひたすら働いていました。無駄な作業も多かったかもしれません。その後、明石工場に戻り、今でいうサプライチェーンファイナンス、工場のサプライチェーンの人々に張り付いて、購買から製造・物流まで一通り原価をコントロールする財務分析の仕事も経験しました。4〜5年目になると、本社勤務で課長になり、部下3名とともに日本支社全体の利益管理を担当することになりました。その頃までには、生理用品がすごく売れたこともあり、P&Gは神戸の六甲アイランドに30階建ての自社ビルを建てて、香港にあったアジアヘッドクォーターを日本に移しました。 それに伴い、私は日本部門からアジア部門に異動し、アジア13ヶ国の研究開発費と販管費を管理するという仕事を担当しました。予算管理のチームには、フィリピン人の上司がいて、その下で私が販管費を、他の人が利益を管理しました。そこで、アメリカ人のアジアCEO/CFOやアジアの優秀なメンバーと一緒に働けるようになりました。アジア社長と日本社長のアメリカ人がのちに本社の社長になるなど、消費者市場のレベルが高い日本がP&G本社でも注目されていたころでもありました。そのころからいよいよグローバル企業で働いているという実感を持てる環境になってきました。そのあたりから、女性活躍やダイバーシティの推進も始まっていきました。 「P&G は何歩も先に進んでいたのですね。」 1990年代には世界共通のERP導入が始まっていましたし、シェアードサービスが始まって経理業務を海外に移したり、全世界のブランドごとの損益を本社が集計して我々もパソコン上で見られるようになっていましたから、日本企業より20年以上進んでいる印象です。1995年には、阪神・淡路大震災が起き、六甲アイランドの本社ビルがしばらく使えなくなったので、大阪の臨時本社に出勤するということも経験しました。その後、32歳の頃に、日本の洗剤事業のファイナンス責任者である部長職(事業CFOポジション)にしていただきました。 実は、その少し前から出産を考え始めており、昇進を受けてよいか逡巡する時期でした。産婦人科に行ってみると、子宮筋腫と子宮内膜症と卵巣嚢腫と診断されて、入院して手術もしました。また、術後も継続して治療もしました。また、私は、経営管理的な仕事や会計まわりの仕事は得意で評価が良かったのですが、事業CFOの仕事は本格的に経験したことがなく、得意か不得意かさえも分かりませんでした。そういったことについて、当時のフィリピン人の男性上司とこまめにコミュニケーションをとっており、「人生の複雑な時期ではあるけれど、とにかくやってみたらどうだろう」と洗剤事業のCFOポジションを空けてくれたので、チャレンジすることにしました。将来子会社CFOの仕事をするには管理系と事業系の両方の経験が必要だと強く勧めてくれたのです。出産後には、わざわざ東京から日経新聞の記者が取材に来ました。「管理職になってから出産する」ことが珍しかったようです。
石橋 善一郎 氏

【前編】FP&Aプロフェッショナルが目指したCFOへのキャリア。そして、その先に見えた自身の役割とは

FP&AプロフェッショナルとしてCFOを目指す 現在は、「CFOのその後のキャリア」として、職業人団体や会計大学院・経営大学院でCFOを目指すプロフェッショナルへの啓蒙および教育活動をなさっている石橋さん。現在に至るまでのご経歴を時系列で伺います。 「大学卒業後、富士通に入社していますが、いつ頃からCFOという職業を意識したのですか。」 私は、1982年に富士通に入社して、経理部でも財務部でもなく、海外子会社の事業を管理する海外事業管理部に配属されました。1980年代の日本において、CFOという概念はほとんどありませんでしたので、国内勤務の3年間は、経理や財務のスキルを使って事業管理を行う経営管理業務が自身の仕事だと認識していました。4年目にシリコンバレーにある富士通アメリカへ駐在となります。ここでも、電算機、通信機、半導体などの製品事業部レベルの富士通アメリカの子会社(富士通の孫会社)の事業管理をしていました。この時に初めて、CFOという職業に出会います。各子会社に米国人のCEOとCFOがセットで配置されていました。彼らと仕事をする中で、CFOの仕事とは、経理や財務だけでなく、むしろ最もメインの業務である事業管理や経営管理を行うFP&Aという仕事であるということを知りました。当時はCFOになりたいという思いは抱いていませんでしたが、振り返ると、ここで出会ったCFOの方々が後の私のロールモデルの1つとなりました。 「FP&Aについて、簡単にご説明をお願いします。」 FP&Aの定義は誰に伝えるかが大事なので、日本企業の子会社で事業管理をしていた20代の私自身に向けた説明をします。FP&Aとは、本社レベルではなく事業部レベル(工場や営業所や研究所や子会社や海外子会社をイメージしてください)で、事業戦略の形成・実行の当事者としてビジネスパートナーになり、中長期的に事業価値を成長させることです。そして、そのためには、事業と事業戦略を理解すること、事業部のことを理解すること、事業部の人々と仕事上の関係を構築することの3点が大切です。FP&Aを構成する主要な要素は、FP&Aプロセス、FP&A組織、FP&AプロフェッショナルおよびFP&Aテクノロジーの4つです。もっと詳しく知りたい方は、拙著『CFOとFP&A』と『FP&A入門』(いずれも中央経済社)を参考にしてください。グローバル企業においてFP&A組織は、CFO組織の真ん中に存在します。 日本でのキャリアに夢を描けずMBA取得へ ・その後、スタンフォード大学に留学された理由を教えてください。 富士通アメリカで3年働いた後、自分が日本本社に戻るイメージが持てませんでした。正直なところ、日本企業におけるサラリーマンの働き方やキャリアにあまり夢がないなと思ったのです。そこでMBAを取得しようと決意しました。当時はMBA取得後に何をするかのイメージはなく、CFOに就くことも意識していませんでした。ただ、MBAが何かになるためのステップになるのではないかと思ったのです。そして、どうせ学ぶのであれば、最高のビジネススクールがよいと考え、スタンフォード大学のビジネススクールに入学しました。MBA課程では、1年目は、戦略論やマーケティング、統計学、ファイナンスなど経営学全般を学びました。2年目の選択科目は管理会計や企業財務関連の科目を中心に履修しました。MBAで学んだことは、FP&Aプロフェッショナルとして真のビジネスパートナーとなることの基盤になりました。現在、会計大学院・経営大学院で教えていることも、ここで学んだことの延長線にあります。 「目指すべきはCFO」と気づいた経営コンサルタントとしての経験 「その後、経営コンサルタントになっていますね。」 MBA取得後は戦略コンサルティング会社で経営コンサルタントとして働くことにしました。ただ、1年ほど働いて、自分のやりたいことではないと気がつき、退職しました。経営コンサルタントは組織の外から経営者をサポートする仕事。私は企業の中で直接、経営に関わりたかったのです。キャリア選択の際に私が大切にしてきたことは3つあります。1つ目は、「自分はその仕事が好きか、嫌いか」ということです。私は、スタンフォード大学経営大学院での学びと会計や財務の知識を活かした業務に携わりたいと考えていましたが、公認会計士のように監査法人で働きたいわけではなく、企業内で事業に関わりたいと思っていました。 2つ目が、「その仕事は自分に向いているか、いないか」ということです。私は数字を扱って客観的に説明することが得意なので、それに関わる仕事がしたいと考えていました。3つ目は、「その仕事からの経験と自己学習を積み重ねることによって、長期間においてプロフェッショナルとして成長を継続することができるか」ということです。経営コンサルタントの仕事に携わる中で、「グローバル企業においてCFOはCEOのビジネスパートナーとしてFP&Aの仕事をしていた。もしかしたら、CFOという仕事こそが、私が好きで、得意で、将来の自分にリターンがある仕事かもしれない」と思うようになったのです。 インテルへ入社し、真のCFO組織に出会う CFOを目指すならば、どこの企業がいいのかを考えました。当時は日本企業にCFOという役職が存在しませんでしたので、外資系企業で働くしかないと思いました。そこで、当時シリコンバレーで人気があった、Intel、Microsoft、Apple、Sun MicrosystemsなどのIT企業の日本法人数社に、「私は将来CFOになりたいです。ただ、まだマネージャーにもなったことがありません。CFO組織のマネージャーとして入社させてください」とレジュメを書いて送りました。その中から、インテル日本法人のカナダ人の社長が、「1回お会いしましょう」と返事をしてくださり、東京本社で面接をすることになったのです。 当時、インテルの日本法人には、20名ほどのCFO組織があり、経理、財務、FP&Aの3つのセクションがありました。すでにマネージャーがいらしたので、新設のセクションを作ってもらい、マネージャーとして入社しました。その後、FP&Aセクションのマネージャーが退職されたので、FP&Aセクションのマネージャーになりました。 「その頃のCFOのロールモデルはいたのでしょうか。」 インテルには、米国本社に本社CFO、その下に米国、欧州、日本およびアジアの4つの地域にも4人の地域CFOがいました。日本法人のCFOは本社CFOの直属の部下でした。インテルのCFO組織は風通しが良く、全世界のCFO組織のメンバー全員がチームになっていました。つまり、インテル日本法人に入社した瞬間に、グローバル企業のCFO組織が見えるようになったのです。私にとっては、CFOになるための役割を学ぶことができる多くのロールモデルの方々と出会うことができる組織でした。 さらに、経理組織、財務組織とFP&A組織の関係性もよく分かりました。 言い換えるならば、FP&Aプロフェッショナルは、CFOになるための一丁目一番地にあるということが見えてきたのです。私には、ずっとFP&A組織のリーダーでいたいという思いがありました。本質的には、FP&Aは経営管理であり、CEOが担うべきものです。経営者として最終的にはCEOに就きたいと思っていましたが、そのステップとして、CEOのビジネスパートナーのCFOとして経営に関与したいと思うようになったのです。インテルに入社して、CFOを目指すFP&Aプロフェッショナルとしてのキャリアへの思いを再認識しました。
石橋 善一郎 氏

【後編】FP&Aプロフェッショナルが目指したCFOへのキャリア。そして、その先に見えた自身の役割とは

日本トイザらスでの楽しさと苦しさ 「次も再生ファンドの投資先であるトイザらスに転職されます。なぜあえて大変な会社を選んだのですか。」 D&Mが東証一部に上場したときに、これから5年間ここで同じことをするべきだろうか、と考えました。そんな時、別のPEファンドから、「日本トイザらスって知っていますか? 2年連続赤字ですが、事業再生したいのでCFOとして入社しませんか」という電話があったのです。そこで、私の希望を伝えました。1つ目は、単なるCFOではなく、副社長として入ること、もう1つは、副社長CFOで成功できた暁には社長にしてもらえること。この2つに対して米国本社社長と面談をした際に了承を得たので、転職を決断しました。CFOがやるべきことはCEOの真のビジネスパートナーとして経営することです。でも、本当にしたかったのは、CEOとして経営することでした。ですから、CEOになれる可能性があるCFOのポジションに着きたいと思っていたのです。 「日本トイザらスではどのような経験をされましたか。」 日本トイザらスには、代表取締役副社長兼CFOとして入社し、CEOの信任を得て従来のCFOを超えた役割を担うことができました。店舗運営や店舗開発、サプライチェーンや物流やEコマースを担当しました。事業会社ならではの本当に楽しい経験でした。日本トイザらスは全国に160店ほどあるのですが、入社した3年間で全店舗を訪問しました。北海道や九州などへは、休みの日に自費で店舗を訪問し、店長さんと話をしました。また、日本にある2つの大きな物流センターでは、生産性を上げるためのプロジェクトの一員になって、繁忙期であるクリスマスの乗り越え方を考えたり、実際にクリスマスに応援として出荷作業に従事したりもしました。他にも、実店舗だけでは売り上げが下がっていくので、オンラインストアが必要だと考え、電子商取引のためのオンラインシステムの開発のプロジェクトのリーダーになって、ゼロから日本でシステムを開発しました。こういったことが、事業管理に携わることの本分だと思っています。 私のCFOのスタイルは、CFOとして事業部長のビジネスパートナーになることでした。事業部長は、店舗運営の専門家、物流業務の専門家、電子商取引の専門家です。彼らとチームになって、日本トイザらスのために新しいことをどうやっていくかを考える。それが私にとってはCFOの仕事であって、事業会社における仕事の1番楽しいことでした。 一方で、難しかったことは、CFOとしての守りの役割とビジネスパートナーとしての攻めの役割をどのように両立させるかということでした。例えば、店舗開発戦略や物流戦略やEC戦略を実行するための投資を行う際に、日本子会社の代表として米国本社に投資案を提案する立場にあったのと同時に、CFO組織の一員として投資案を審査する立場にありました。CFOは企業価値を守る責任を有している一方で、CEOのビジネスパートナーとして企業価値を成長させる責任を有しています。2つの役割を持っているわけです。 「CFOの場合、CEOとの関係で一番注意しなければならない点は何でしょう。」 CFOにとって、CEOは最も大事なビジネスパートナーです。CEOの成功は自分の成功につながります。しかし、一口にCEOといっても様々な人間がいます。仮に、CEOと衝突してクビになったとしても、転職できるようにプロフェッショナルとしての専門性を磨き続ける必要があると思います。日本トイザらスで10年間働き続けられたのは、CEOとの関係が良かったからです。カナダ人の女性で、人格・識見ともに立派なCEOでした。彼女と一緒に仕事をすることで小売業を1から10まで勉強させてもらうことができました。CEOとの信頼関係を築くために、2つのことを心がけました。 1つ目は、客観的な視点で事実を基に議論することです。CFOが得意なのは、数字から経営戦略についての話をすることです。物流、営業、サプライチェーン、業務部門などの部分で、数字で戦略実行のサポートするところは非常に大事だと思います。CEOにできないことをフォローすることが大切ですね。もう1つは、CEOとビジネスパートナーとして共通の目標を設定し、結果を出すことです。チームとしていかに目標を設定して、その目標に向かってPDCAサイクルを回すか。損益計算書の目標管理も大事ですが、それだけではありません。チームとして業務上オペレーションの目標も設定して、それを達成できるかどうかまで見る。例えば、人員計画もそうですし、各部門の配置人数、何カ月後にはどうなるかというところまで、全部CFOとしての視点が重要だと思います。この面でCFOを支援するのがFP&A組織なのです。 CFOの役割と魅力 「一言でCFOの役割を教えてください。」 CFOの役割は中長期的に企業価値を上げることです。企業価値は事業価値の総和です。事業価値とは、事業部が生み出すキャッシュフローの現在価値です。これは、企業財務では、本質的価値と呼ばれています。CFOが本当に目指すのは、事業部が生み出す事業価値の本質的価値を中長期的に最大化することです。株主価値とその市場価値の最大化ではありません。企業価値をどうやって上げるかがCFOの役割の根幹にあります。 「では、CFOの魅力はなんでしょうか。」 1つ目は、プロフェッショナル(Professional)として自分の経験や学習から蓄積した後天的な才能を活かすことができることです。私はCFOが日本企業におけるCFOのように、ある日突然、会社の都合でなるものだとは考えません。それは実務家(Practitioner)です。CFOはFP&Aプロフェッショナルがキャリアを通じて目指すものだと考えています。私はFP&Aプロフェッショナルとしてのキャリアの途中で、資格試験やMBA取得の過程で学び続けることの重要性を実感しました。CFOを目指すキャリアは、プロフェッショナルとして学び続けるキャリアなのです。 もう1つは、3つのC、CEO+CFO+CHROの一つである経営チームの一員であるということです。「人的資本経営」の伊藤邦雄先生のレポートには、CEO、CFOと並んで大事な3番目の役割がCHROだと示されています。他にもCがつく役職がありますが、CEOとCFOとCHROの3つのトライアングルが経営者チームの根幹です。CFOは経営者チームの一員であるということが、CFOの魅力だと思います。人的資本経営の本質は、3つのCのトライアングルで経営戦略と人材戦略を形成・実行することによって、中長期的に企業価値を成長させることです。株主価値とその市場価値の最大化を目的としてCFOが投資家と対話することは、人的資本経営の本質ではありません。
渡邉 淳 氏

多様な経験から辿り着いた「誰かの役に立ちたい」という思い。学び続ける先に待つものとは?

ゼロからの会計士受験への挑戦 「高専卒業後、富士通に入社してエンジニアとしてのキャリアをスタートしていますが、その後、1回目のキャリアチェンジで公認会計士の勉強を始めます。これはなぜですか。」 正直にお答えすると、自分がエンジニアとしてまったく使い物にならなかったからです。典型的な大企業勤務のダメなサラリーマンでした。3年間で富士通を退職し、エンジニア職ではない仕事をしたいと思いましたが、世の中そんなに甘くありません。そこで、資格を取得してやり直そうと考えました。難関資格で、高専卒でも受験ができ、かつ興味が持てたのが公認会計士資格でした。書店で、資格の大辞典のような本を見つけ、そこに「難易度は高いが、給料もよくて会社の経営に物申すことができるすごい資格」といったことが書かれていて惹かれました。周囲に会計士はおらず、7科目中1科目も学んだことがない、本当にゼロからのスタートでしたが、チャレンジしてみようと思いました。 「受験勉強は辛くなかったですか?」 暗黒時代ですよね。最初の1年間は、毎日勉強しかしていませんでした。実は富士通に勤めている時から、妻と付き合っていて、受験勉強を始める時に妻の両親に「富士通を辞めて、公認会計士試験にチャレンジします。合格したらもう一度ご挨拶に来ます」と宣言していました。受からないといけない状態に追い込まれているので、1年で受かろうと本気で頑張りました。1年目は不合格で2年かけて合格しました。 「合格後は青山監査法人に入所されていますね。エンジニアから会計監査業務への戸惑いはありませんでしたか。監査法人では主にどのような仕事をしていましたか。」 私の場合、キャリアアップではなくて、ゼロからのやり直しでしたので、謙虚な気持ちで入っていくことができました。また、エンジニア職の経験はたった3年でしたので、戸惑いも一切ありませんでした。入社してすぐは、上場企業と外資系企業の財務諸表監査が多かったです。何年か経つと、監査に加えて、デューデリジェンス、上場支援、決算早期化プロジェクトなども担当するようになりました。 IPO審査を深く知るために証券会社の引受審査部に出向 「監査法人に在籍しながら野村證券の引受審査部に出向されますが、その理由を教えてください。また、引受審査部ではどのような仕事をしたのでしょうか。」 監査法人のイントラネット(社内掲示板)に、「野村證券に出向したい人を1名公募します」と掲載されていて、立候補しました。応募は7〜8名で、その中から選んでくださったと聞いています。それまで何年かIPO準備会社の支援をしていたのですが、上場するどころか上場に近いところまでも進まない会社が多かったのです。また、成功事例に携わった経験がない自分が指導をすることに不安や虚しさを感じていました。やるべきことを伝えられても、どのレベルまでやれば合格できるかを伝えることができなかったからです。証券会社の引受審査部は、まさに上場できるか否かを判断する部署です。そこで経験を積めば、自信をもって「ここまでやれば上場できます」と言えるようになるだろうなと。 また、IPOの最大手の野村證券という点も魅力に感じました。引受審査部での仕事は大きく分けて2つあります。1つはIPOと上場市場変更の審査です。これらは1年近い期間をかけて、じっくり会社全体の審査をします。もう1つはPOファイナンスといわれる上場企業の増資や社債の売出しなどについての審査です。こちらは2週間などの短期決戦です。どちらも数件を同時並行で担当します。2年間という短い期間でしたが、自分が担当した会社だけでなく、相当数のIPO審査の事例をみることができ非常に勉強になりました。かなり忙しかったのですが、期間が決まっていたこともあり、率先して出来るだけ多くの仕事を受けるようにしていました。 「IPO周りの何でも屋」IPOコンサルティング会社での経験 「2回目のキャリアチェンジで、監査法人を退所してIPOコンサルティングの会社ラルクに入社します。その理由を教えてください。」 証券会社から監査法人に戻って、1年で退職しています。恩もありますし、IPOについての力が磨かれた手応えもあり貢献できると考えていたので、しばらくは監査法人でIPO支援を行う予定でした。しかし、出向から戻る前くらいから監査法人の関与先でいくつかの会計不祥事が起きてしまい、IPO関連の仕事が一気になくなってしまったのです。そんな時にラルクの鈴木(博司)社長に出会います。ラルクは会計士、かつ、証券会社か証券取引所でIPO業務を経験している人しか採用しないという専門家集団でしたが、私もその条件に当てはまっていたこともあり、何度もお誘いをくださいました。当初は、「まだ監査法人でやることあるので」と断っていたのですが、鈴木さんに「IPOコンサルタントを始めるには若いほうがいいよ」と口説かれて、「確かに」と納得し転職することにしました。今、振り返ると、良いタイミングで転職できたと思います。 「IPOコンサルティング会社では、どういう業務を行いましたか。」 IPOコンサルの多くは、決算業務を支援する、開示書類を作成する、上場申請書類を作成する、内部監査をする、規程を作るなど、上場準備でやるべきことのうち特定の領域を支援している会社が多いようです。ラルクは、先ほどもお話ししましたがコンサルタントの質にこだわり、「IPOに向けては大概のことであれば解決の仕方を知っています」というスタンスでサポートしていました。IPOは、他がどんなにうまくいっていても、1つの項目で躓いていたら落とされるというトータルで判断される世界。ラルクは、上場できる可能性がそれなりにあるが、何かが引っかかって苦しんでいる急病人に緊急出動して対応するような仕事でした。なんとか審査に合格できるよう、足りないものを一緒に埋める職人です。 上場審査に向けての書類づくりや審査対応のサポートなどがメインですが、審査で問題になっていることについて経営者と議論することもあれば、管理系人材の採用なども。足りないパートへの対応を何でもやりました。管理系人材の採用に関しては、人材エージェントへの手配や求人票の作成、面接などもけっこうやりました。上場プロジェクトメンバーに退職者が出て、「良い人を採用してくださいね」とお願いしても、なかなかうまくいきません。それならば入り込んで採用までサポートしようと思い、やってみたらうまくいったのです。人材採用の難しさも理解できました。私は、手伝うことで、喜んでもらえる、成果が出ることであれば、辛い役回りでも引き受けるべきであると考えていました。 その一方で、支援先に対しては、ノウハウを全部差し上げて自立してもらうことを目標としていました。上場のための特有の作業であれば我々が行えばよいのですが、上場後も上場企業として続いていきますので、それ以外の会社としての機能は支援先自身に身につけてもらうというスタンスでした。こういった点もラルクの特徴かもしれませんね。 ラルクでの仕事は、監査法人での会計まわりの経験と証券会社でのIPO審査の経験を総動員して取り組むため難易度は高かったのですが、感謝していただけてやりがいを感じました。自身もこれが天職だと感じた瞬間がありましたし、妻からも「IPOコンサルの仕事が1番向いてるように見えてたよ」と言われたことがあります。