COLUMNコラム

#ベンチャーの記事一覧

#ベンチャー
株式会社パワーエックス
執行役CFO 藤田 利之 氏

心に火が灯り挑戦したベンチャーのCFO 事業会社やFASでの知見が結実した成功への道

苦しかった事業会社での経験 「公認会計士を目指したのはいつ頃からですか。それはなぜですか。」 高校2年生の時です。私は、小さいころから父から「理系の大学に進学したほうがいい」「手に職をつけたほうがいい」と言われてきました。私自身も数学が好きだったので、理系に進もうと考えていたのですが、高校2年生で文理選択をする際に、理系でやりたいことが見出せず悩みました。そんな時に、書店で見つけた資格の本に、公認会計士について書かれていました。当時は勝手に「企業のドクター」のようなイメージを感じ、数学的な要素や経営的な要素があり、面白そうな仕事だと感じました。また、性格的に学校の先生や先輩との上下関係がそこまでうまくやれるタイプではなかったので、当時から大きな組織で出世していくサラリーマンは向いていないと思っていましたので、独立できる資格ということも魅力に思えました。父にも「理系には進まないけれど、資格取得をして手に職をつけたいと思っている」と話をし、会計士を目指すことにしたのです。 その後、大学に進学し、大学2年生から勉強をスタートしました。最初はなかなか勉強に身が入らず、結局合格したのは卒業して2年目なので、受験勉強に4年半くらいかかり、資格の取得にはかなり苦労しました。当時は、大学入学時がまだバブルと呼ばれた好景気な社会で、世の中も大学も浮かれており、就職に苦労するという雰囲気ではありませんでした。しかし、大学3年生頃にバブルが崩壊し、社会が一変し、大学4年時には、友人が就職で苦労するのを見て、今から就職活動をしてもすでに難しいと感じました。私は、そこでやっと「会計士に受かるしかない」と覚悟を決めることができました。その後、やっと合格しますが、バブルは崩壊しており、合格者であっても半数が監査法人に就職ができないという年でもあり、今度は就職の苦労が始まりました。 「それで、監査法人に入所せず事業会社に就職したのでしょうか。」 景気悪化に伴い監査法人での採用人数がそもそも少なく、どこにも受かりませんでした。とにかく早く働いて稼ぎたいとの思いで、ソニー・ミュージックエンターテインメントに中途入社し、グループ人事の一環で、キャラクターグッズのライセンスビジネスや化粧品ビジネスを行っていた子会社のソニークリエイティブプロダクツという会社の経理に配属になりました。事業会社でサラリーマンになりたくない、と思って、会計士の勉強を始めたはずなのに、結局、最初は事業会社に就職するということになりました。 やっと得た仕事ですが、社会人経験が全くないまま中途入社したので、そのあと地獄のように大変でした。会社の人からは、「会計士試験に受かったすごい人が入社してきた」と思われていたようですが、私は名刺の渡し方、電話の取り方も知りません。愚痴る同期もいません。期待に全く応えられず、会計士試験に合格したプライドは一気に崩れ、毎日遅くまで残業し、土日も出勤と地獄の日々を送ることになりました。 「そこで経験されたピンチや苦労について教えてください。」 新人なので、電話を取ったり、お茶を出したり、お弁当を買いに行ったり、請求書を封筒に入れたり、大量の伝票の仕訳をしたり、という仕事をしながらも、会計士2次試験合格者の期待として監査法人の対応をしたり、取締役会の資料を作ったりという業務も任されていました。しかし、会計士2次試験合格者とはいっても、仕事自体が初めてで、仕訳を切った実務経験もありませんし、取締役会の資料と言われてもイメージが湧きませんでした。しかも、ソニーの連結孫会社だったので連結決算のため、毎月の月次決算スケジュールはタイトで、キャパオーバーが続き、ミスを連発しました。自身の力不足も相まって上司ではなく、先輩や同僚からも怒られることも多々ありました。入社して半年で10kg痩せました。 加えて、一般事業会社なので、監査法人と違って補習所に行くシステムもありませんでした。試験の日とディスカッションの日だけは、なんとか半日の有給を取って、ギリギリ単位を取りました。会計士2次試験に苦労して合格し、就職に苦労し、そして最初の職場でもかなり辛い日々が続きました。まだ、独立できる公認会計士になれるイメージもわかず、日々の仕事に追われる日々でした。 営業から契約締結まで担当したトーマツでの経験 「1年ほど勤めた後に、退職して、監査法人トーマツの静岡事務所に入所されています。それはなぜですか。」 事業会社での1年間で疲れ果て、また、初心に戻って会計士としての監査の経験をし、独立を目指すために地元の静岡県に帰ろうと思ったからです。1年早く合格した大学時代の友人がトーマツの静岡事務所で働いていて、その友人から所長を紹介してもらい、即入社が決まりました。 「静岡事務所ならではの得難い経験があったと思いますが、具体的にはどんな経験やスキルを習得することができたと思いますか。」 当時のトーマツの静岡事務所は、出張所のような位置付けから事務所に格上げされてそれほど立っておらず、所長も40歳前半で若いメンバーの事務所でした。監査法人において、通常は、営業はパートナーしか担いませんが、静岡事務所では、事業規模の拡大のために営業研修があり、スタッフから営業マインドを植え付けられました。私が在籍した際には、スタッフからシニアスタッフに昇進するためには、クリアしなければならない営業ノルマがありました。当時、ちょうと東証マザーズやナスダックジャパンが設立され、IPOを目指す会社が増える傾向にありました。そこで、問い合わせがあった会社に対して、ショートレビューをして課題を抽出し、レポートを書いて、提案をして、コンサル契約あるいは監査契約を結んでといったように案件を獲得しました。 ここで、前職での経理の実務経験が非常に活き、成長に向けた体制整備の案件を数件獲得でき、月に何回か訪問し、月次制度を整えたり、内部の仕組み作ったりしていきました。トーマツの静岡事務所は、約4年間と短い期間でしたが、地方事務所のおかげで、かかわる業種も幅広く、早期に現場のインチャージも経験でき、加えて、営業から監査やコンサルまで、様々ななことを経験させていただきました。今思えば、非常にいい経験だったと思いますが、当時はとにかく忙しかったことを覚えています。 「監査法人というよりベンチャー企業のようなイメージですね。」 監査法人の中では、伸び盛りの地方事務所で、かつ、顧客もベンチャー企業も多かったので、まさにベンチャー企業のような事務所でした。ただ、私自身は、入社当時は、ベンチャー企業のような環境で働きたいと思っていたわけでもなく、同期の合格者から1年遅れてトーマツに入社したので、懸命に業務に打ち込むことで早く、試験合格の同期に追いつきたい、との思いだけでがむしゃらにやっていただけでした。ただ、それがベンチャー企業の参画に繋がった部分もあるかもしれません。
#ベンチャー
i-nest capital株式会社
代表パートナー 山中 卓 氏

「多様なVCが多様なスタートアップを育てるエコシステムの発展に寄与したい」、その思いにたどり着く道程とは

「業を興したい」という思いを持ち銀行からVCへ転身 「山中さんは東京大学卒業後、日本興業銀行に就職します。それから9年後にベンチャーキャピタルに転職しますが、そこに至るまでの経緯について教えてください。」 私は、大学卒業後の1994年に日本興業銀行(現:みずほ銀行)に入社しました。バブルの時代、1990年は日本興業銀行の時価総額が世界1位だったのです。ジャパン・アズ・ナンバーワンの頃ですね。しかし、その後、銀行業界全体が下り坂の時代に突入します。私が勤めていた1994年から2003年までは、坂道を下っていった9年間でした。入行してしばらく経つと公的資金が入り、2000年にはみずほグループになりました。私に限らず、興銀に入行した人は行名のとおり、業を興したいという気概を持っていたと思いますが、当時は業を興すというよりは、金融庁の監督に従って公的資金を返済していかなくてはならないという時期でした。 そんな時、興銀で机を並べてお世話になっていた先輩が、みずほ証券とNTTドコモとインターネット総合研究所という3社のジョイントCVCであるモバイルインターネットキャピタルに出向しました。そして、その先輩にお誘いいただき、私も転職することにしたのです。ちょうど1999年にマザーズ市場ができて上場が身近なものになってきていました。私が転職した2003年はまだVC業界は小さかったのですが、業を興すという仕事は、まさにこの業界でこそできるのではないかと思い、転職を決意しました。 「モバイルインターネットキャピタルはどのような特徴があるベンチャーキャピタルでしたか。」 IT系を中心にオールステージに投資をしているVCです。NTTドコモが、iモードで世の中を席巻していた頃に、携帯電話を使った次のサービス、次のソリューションを開拓していこうという趣旨で作られました。社名を変えた方がいいのではないかと議論された時期もありましたが、変えずに今に至っています。 「モバイルインターネットキャピタルでは、転職して12年で社長に就任されていますよね。」 私がモバイルインターネットキャピタルに転職した時は30歳前で、当時、一番若いキャピタリストでした。そこから経験を積み、12年後に社長に抜擢いただき、3年間社長を務めました。また、日本ベンチャーキャピタル協会(JVCA) 理事もさせていただきました。モバイルインターネットキャピタルで、キャピタリストとして一から育てていただいたと言っても過言ではありません。 独立後の1号ファンドでは5社がエグジット 「その後、2019年に現在のi-nest capitaを創業されています。その経緯を教えてください。」 3年間社長を経験すると、独立して自分で会社を経営してみたいと思うようになりました。そうは言っても、独立するにもトラックレコードが必要です。12年かけて自分自身のトラックレコードができたこと、社長としてファンドの運用経験を積めたことから、「タイミングがきた」と感じ、独立することにしました。私のわがままでの独立なので、申し訳なさも感じていました。しかし、結果的にはみずほグループにもNTTドコモにも、i-nest capitalのファンドにご出資いただいているんです。本当にありがたく、今も恩返しをするために活動しています。 「i-nest capitaの特徴を教えてください」 i-nest capitalでは、成長領域を広く捉えていきたいと考えており、IT系の企業が中心ですが、それ以外の先端技術の会社やメーカーなどにも幅広く投資しています。ステージはオールステージです。現在は、1号ファンドを組成して3年半が経ちました。39社に投資をしており、そのうち5社がエグジットしています。3社がIPO、2社がM&Aですね。全体で73億円のファンドで、現時点で投資しているのは6割弱です。その投資額は、エグジットした5社でほぼ回収できています。この実績を踏まえて、現在は2号ファンド設立の準備をしているところです。 ベンチャーキャピタリストの魅力と苦労 「山中さんはベンチャーキャピタリストとして20年のキャリアをお持ちですが、その魅力と大変さをお聞かせください。」 新たな産業を生み出し、育てていけることが魅力です。私もだいぶ年齢を重ねましたので、投資先の起業家はほぼ年下の方になりました。ベンチャーキャピタリストは、次の世代を担う企業を育てて、次の世代の方々を応援するという、夢がある素晴らしい仕事だと思います。日本には、これまでも素晴らしい企業がたくさんありましたが、新陳代謝をしていってこそ、次の活力が生まれてくると考えています。それが次の世代に対する責務だと考えて、頑張っています。 大変さについては、なんといってもファンドレイズ(ファンドの資金調達)ですね。お金をお預かりできないと仕事が始まりません。「お金を出してください」「はい、出します」と、そんな簡単な話ではありませんからね。ファンドレイズの期間は、ファンドレイズのことが片時も頭から離れません。これを果たさなければ組織は解散となり、従業員全員が路頭に迷うことになります。この業界に入るまでは、ファンドレイズがこんなにも大変だとは思ってもみませんでした。 「山中さんの投資基準を教えてください。」 最終的な判断基準は、ファンドの期間内に目標以上のリターンを得られると我々が評価した会社であることです。具体的な目標は、ホームページにも記載していますが、「投資回収倍率(MoC)3倍以上、IRR20%以上(グロス)」です。目標以上のリターンを得られると判断するための要素として重視しているのは、社長、経営チーム、取り組んでいるテーマなどです。レイターステージの会社であれば、ある程度事業が成り立っていることが証明されていますので、計画の確度を見ます。この条件で投資をして、IPOまでたどり着けるのか。たどり着いた時に、目標以上のリターンを得られるのか。ステージが進めば進むほど、投資の条件面をしっかり見ていく必要があります。一方で、シードやアーリーステージの会社は、株価(時価総額)は低いです。その株価で投資をして損をするということは、事業全体が上手くいかないということです。ですから、株価の水準よりも社長、経営チーム、取り組んでいるテーマに対する評価の比重が高くなります。 「投資において社長やCFOがどんな方であるかは、大切なポイントなのですね。」 比重として大きいです。社長には、人を巻き込む力が重要です。その一方で、完璧な人間はいませんので、投資という視点では、CFOの存在も重視します。CEOの右腕として、特にレーターステージではどんなCFOの方がいるのかも判断材料になりますね。 「これまでの投資の中で、印象に残っているベンチャーはありましたか。」 私は100社以上に投資をしてきましたので、たくさんの思い出があります。いい思い出も多いですが、「こんな目に合うのか」という痛い思い出もあります。 最近の良い例としては、カバーというVTuberのプロダクション会社が印象に残っています。我々が投資した3年前の段階でも非常に熱量の高い会社でした。しかし、オンライン中心の新しいビジネスモデルであり、ファンの熱量が高い分、これまでのファンが批判者となり炎上に繋がる場合もあるといった難しさもありました。こうした難しさを内包しながらも、今年3月に非常に素晴らしいIPOをされました。改めて、新しい領域にチャレンジすることは、リスクもありますが、大きなリターンが得られるものだと感じました。振り返ると、私自身は、VTuberに詳しいわけでも、投げ銭としてお金をつぎ込んだ経験もありませんでしたので、インサイトが足りなかった側面もありますが、逆に客観的に見ることができたという利点もあったと思います。
#ベンチャー
株式会社トランザクション・メディア・ネットワークス
専務取締役 管理本部長 CFO 西脇 徹 氏

高い専門性とビジネスパーソンの自信。事業をドライブする起業家マインドを併せ持つCFOのキャリアとは?

「逃げ出してはいけない」と会計士試験に再チャレンジ 「公認会計士を目指したのはいつ頃からですか。それはなぜですか。」 幼い頃から公認会計士という言葉はいつも耳にしていました。というのも、同居していた祖父が公認会計士で、新大阪で「西脇公認会計士事務所」を開設していたからです。父や叔父も同事務所に勤務していたのですが、父自身は公認会計士になることが叶わず、私にその夢を託してたんだと思います。父から強く誘導されたわけではありませんが、例えば、「お小遣いが欲しければ、お小遣い帳をつけるように。」と言われたり、「大学は経営学部(商学部)に行ったほうがよい。」と言われたりして、教育的に刷り込まれていったような気がします。私自身は、数学が好きだったので理系に進むか、そうでないなら学校の先生になりたいと思っていたのですが、高校生くらいから公認会計士を意識し出し、大学も会計士の合格者が一番多い慶應義塾大学(商学部)を選択しました。 そうとはいっても、当時は公認会計士試験の難易度は全く理解しておらず、「1日1,2時間勉強すればいいんでしょ。」と思っていたので、大学の体育会野球部に所属して、部活に明け暮れていました。当たり前ですが、部活は、練習以外にもグランド整備や先輩のユニホーム洗濯などで忙しく、勉強時間どころか睡眠時間も満足に取れず、母からも反対されるし、「この生活だと会計士に合格できない」と必要以上に焦ってしまい、1年生の春シーズン中に大学野球部を退部しました。その後、大学1年生の秋から、意気込んで公認会計士の専門学校に通うも、今度はあまりのテキスト量の多さに驚愕して、これまた焦ってしまい、「友達と遊びたい!」という気持ちも手伝って、「自分にはこの試験はムリ!」と、大学2年生の春には挫折してしまいました。今思うと、ほんとにダメな大学生ですよね。(笑) 「どのタイミングで会計士試験を再度目指すことにしたのでしょうか。」 結局、大学ではゼミ、サークル、バイト、海外旅行などで、一般的な大学生として楽しく過ごし、就職活動を迎えました。就職活動をする際には、面接で自分のことを語れるように自己分析をしますよね。自分は大学で何をやってきて、これから何をしたいんだろうと整理をする。自分のことを一生懸命に振り返るのですが、どうしてもうまく語れませんでした。何かモヤモヤした気持ちが残り続けていて、納得のいく就職活動につながらなかったのです。就職活動が終わった後も、自分自身を見つめる中で、「わざわざ野球まで辞めたのに、会計士試験も辞めちゃっている。 遅いけど今からでも会計士試験からは逃げ出してはいけないのではないか。」という結論に達し、大学4年生の冬に、某社から頂いていた内定を辞退し、会計士試験に再チャレンジすることにしたのです。大阪の実家に戻って親の援助を受けながらの受験でしたが、今回は難易度への理解と覚悟があったので、1回の試験で合格できました。専門学校に住んでるかのような毎日でしたので、友達もたくさんでき、受験なのに楽しい日々でした。勉強の動機としては、会計士になって何かをしたいということではなく、「逃げ出してはいけない」という気持ちだけで、将来の仕事を具体的に考えているわけではありませんでした。 監査法人で学んだ3つのこと 「入所した中央青山監査法人では、監査にとどまらず幅広い経験を積んでいますが、どのような仕事をされていたのでしょうか。その経験は今後のキャリアにどう影響していますか。」 会計士の二次試験に合格したら通常は監査法人に行きますので、私もそれに倣い、一社目に応募して内定をもらった中央青山監査法人の大阪事務所に入って、4年ほど働きました。大阪事務所は東京のような大規模事務所ではなかったので、比較的小ぶりな、売上規模で30億~300億円くらいのクライアントを担当していました。このタイミングで、会社全体を眺められたのは良かったですね。また、会計士不足で法人の人数が少なかったことから、会計士補の3年目あたりから現場主査業務を任せてもらえ、プロジェクトチームのアサインメンバーや監査項目を決めたり、クライアントの経理部長クラスと会話ができるようになりました。入所した頃は、単純チェックばかりで、仕事がつまらなく「やっぱり学校の先生になろう!」と思った時期もありましたが、そのあたりから仕事も少しずつ面白くなっていきました。その頃担っていた仕事の8割は監査業務でした。残りの2割は、PwCコンサルティングが引き受けた財務デューデリジェンスの仕事をしたり、新人採用活動のプロジェクトリーダーを担ったりしました。当時は、監査法人がコンサルティングすることも許されていた時代だったんです。 この監査という仕事を通じて主に3つのことを学び、その後のキャリアへの影響があったように思います。 1つ目は、「数字を確認する」こと。当たり前ですが、監査なので数字を確認することについての、一定の知識や慣習がつきました。 2つ目は、「チームで連携する」こと。会計士の人は個人プレーが多くなりがちですが、監査は1人では行えず、チームで連携しなくてはなりません。スタッフの立場でも、リーダーの立場でも、チームで仕事をすることに慣れたように思います。 3つ目は、「会社全体を眺める」こと。先ほどの話と重複しますが、小さめの会社を担当して全体を見られたことは非常に大きい経験でした。20〜30人の監査チームで「あなたは借入金だけ見ておいて」ということだと全体を俯瞰して見ることができずに、途中で挫折してしまっていたかもしれません。 財務省で得たビジネスパーソンとしての自信 「西脇さんは監査法人に在籍しながら財務省に出向されています。これは自身の希望ですか。また、そこでは主にどのような仕事をしていたのですか。」 財務省への出向は、監査法人のイントラネットで募集が出ていたので、自ら応募しました。これまた何をやるのかは理解していませんでしたが、「全く異なる世界で働けるのは面白そう」という軽い気持ちで応募したんです。霞が関という官僚の世界、さらに省の中のトップといわれる財務省で仕事ができ、しかも2年間で戻って来られることが保証されている。私は大阪勤務でしたから、却下されるだろうけど、ひとまず応募するだけしてみようと思いました。妻も大阪の人で、大阪にマンションも購入していたので、ずっと大阪にいるつもりだったのですが、「期間限定だし、久しぶりに東京に行ってみよう。」と思えたのです。結果的には、それほどの応募もなかったようで、法人内の面接を経て、財務省に出向することが決まり、引継ぎや引っ越しなどバタバタしました。 財務省での仕事の内容は、大臣官房文書課という組織にて、政策評価書の取りまとめをしていました。政策評価制度は「省庁は何をやっているかわからない」という国民からの批判に応えようと、大蔵省が財務省になった省庁再編のタイミングで新しく始まった制度でした。各省庁が自分の仕事を国民にアピール、ディスクローズしていく制度になります。その政策評価の測定ツールとして会計を活用しようということで、会計士が継続的に派遣されていました。しかし、実際のところ、会計ツールを入れると測定が難しい、定量的な評価はなじまないといった理由から、会計士としての知見はほぼ使われることはありませんでした。ですから、「会計士として来たのに、得意の会計は関係ないじゃん」「省内に誰一人として知り合いがいない」「よくわからない単語がとびかっていて、いったい何を話しているの?」という状態で、不安ばかりが募り、入省直後に2日間も有給休暇をとって、大阪に帰っちゃいました。(笑) ただ、1年経つとだいぶ慣れ、2年も経つと、財務省の中で政策評価について最も知っている人間となることができ、財務省の人事部からも「好きなだけいていいよ。」と言ってもらえて、何も会計を武器にしなくともビジネスパーソンとしてやっていけるなという自信が持てました。財務省の方々は日本のトップレベルで頭が良く仕事ができるので自分にも他人にも厳しいですし、大臣をはじめ政治家へ説明するためには論理的な文章を書く必要がありました。この経験は、非常に勉強になりましたし、自信につながりました。 「出向の間に、米国公認会計士の資格も取っていらっしゃいますね。」 財務省では、会計を使わなかったので、会計の知識が剥落しないように、それと英語力をもっと高めたいと思っていて、米国公認会計士の試験にチャレンジしました。政策評価の仕事は、3ヶ月かけて計画を作り、3ヶ月かけて取りまとめて作成するというサイクルでしたので、残りの6ヶ月は定時に帰れる毎日でした。その期間を利用して勉強し、順調に合格することができました。仕事後に専門学校に通ってビデオ講義を見て、自習室では問題をひたすら解いていました。当時は日本で受験ができなかったので、試験は2回にわけて、グアムまで行きましたが、ビジネスの格好をしてリゾート地を歩いてたのもいい思い出ですね。 「しかも財務省の野球部にも所属されていたそうですね。」 「大蔵」という草野球チームなんですが、千代田区軟式野球連盟1部とか2部に所属しています。当時28歳くらいで、実はもう選手としては野球をするつもりはなかったんですが、たまたま直属の上司が大蔵野球部の監督だったので、強引に誘われ、イヤイヤ試合にいきました。そしたら、初めの試合でスタメン外にされて、腹を立てていたところ、代打で特大本塁打を放ったら、2試合目から中心選手になりました。出向3年目には、監督から「キャプテンやれ」とも言われたのですが、「さすがに出向者がキャプテンやるのはおかしいですよ」とお断りをして(笑)。ただ、もう一度野球をやってみたら思ったより楽しくて、当時は、昼休みに、隣の金融庁の屋上のテニスコートで同僚とピッチング練習をしたり、同僚がつかまらない時は、財務省の地下にあるトレーニングジムで、体を鍛えてました。今でも「大蔵」の野球部に所属をしていて、情報交換を目的に、定期的に顔を出しています。もう歳なので、今は腹を立てずに、ベンチにも座ってますが、結果的に、いまの野球部のメンバーの中で5本の指に入るくらい長く続けているんじゃないですかね。 「結局、出向は2年ではなく延長したのでしょうか。」 出向期間は2年の予定でしたが、戻る時期に中央青山監査法人へ業務停止命令が出てしまいました。仲間からは「戻っても仕事はないよ」と言われていて、また、解散する可能性も噂されていたので、ひとまず1年間延長してもらいました。財務省側も「それはありがたい」と言ってくださったので、計3年間在籍しました。
#ベンチャー
株式会社ジオコード
専務取締役CFO 吉田 知史 氏

ダイナミックに挑戦し、積み上げた多様な経験を、2度のベンチャーIPOに活かす

経営が身近にあった幼少期 「吉田さんはどのような環境で育ったのですか。」 私は、かつて鋳物の街として栄えていた埼玉県の川口市出身で、実家は鋳物工場を営んでいました。年輩の方は、吉永小百合さんが主演され、川口が舞台の『キューポラのある街』という映画を思い出すかもしれません。自宅は会社の事務所と併設で、道路を挟んで向かいに工場がある。工場では、週に2回ほど「吹き」といって鉄を溶かして鋳型に流し込む作業をしていてすごく熱くなるので、夏場はひと仕事終えた職人さん達と一緒にアイスクリームを食べるといった環境で育ちました。私は長男でしたので、小さな頃から祖父に「鋳物屋を継いでほしい」と言われて育ちました。経営が身近にあったという幼少期の原体験は、その後の意思決定に大きな影響を及ぼしていると思います。 「家業に関連する大学・学部を選択されたのでしょうか。」 ずっと家業を継ぐつもりでしたので、関連分野となるセラミックス等の新素材からバイオテクノロジーまで幅広く学ぶことができる、京都大学工学部工業化学科に進学しました。その後進んだ大学院(工学研究科分子工学専攻)では、学問的興味から家業とは関係ない量子化学を専攻しておりました。ただ、その頃になると地元の川口もかつて工場で賑わった下町の工業地帯から大分変貌を遂げ、工場の跡地にタワーマンションが建つなど都市化しはじめていて、もはや家業を継ぐことは難しいかもしれないと思うようになっていました。 そこで、将来の目標にできることは何かないかと模索を始めた時、ふらっと立ち寄った大学生協の書店で手に取った冊子に、中学・高校時代の陸上部の先輩の公認会計士試験合格体験談が掲載されているのを見つけたんです。そこから会計士を意識するようになりました。意識し出すと、実家にもよく会計士が来ていたことを思い出したり、中学・高校時代の同級生に会計士になっている人が何名かいたりして、さらに身近に感じるようになっていきました。早速先ほどの先輩に連絡をとって、京都から東京のトーマツの職場を見学しに行き、そこで「会計士の道に進もう」と思うようになったのです。一度そう思うとすぐに行動したくなり、大学院はいったん休学して会計士の勉強をスタートさせることにしました。 相性が悪かった会計士試験と社会科見学!? 「会計士試験の勉強はどう進めていきましたか。」 資格の学校に入って勉強をスタートしたのですが、会計士試験との相性が非常に悪くて、なかなか合格できませんでした。私は、コテコテの理系人間なので、理屈なく暗記するタイプの学習が全く合わなかったのです。三角関数でいえば、テストの場で加法定理からスタートして他の定理を導き出してから答えを出すというように。ですから、全体構造が見えない中で、専門学校の授業で「ここは暗記してください」と言われてもどうしてもできなくて、私だけ落ちこぼれていきました。例えば、会社法の定義の中に「有機的一体」という用語が出てきた時は、いったいこの先生は有機化学と無機化学を本質的に理解しているのだろうかなどと考えてしまって、全く定義が頭に入ってきませんでした(苦笑)。 「そこで、会計士試験から一時的に撤退して、コンサルティング会社に入社されるんですよね。」 会計士試験の勉強をしてみて全く才能がないと思い知らされたので、会計士への道は残しながらも、まずは社会人を経験しておこうと思い、現在のアビームコンサルティング㈱の前身であるTTRC(等松・トウシュ・ロスコンサルティング㈱)の第二新卒の中途採用に応募しました。コンサルティングが何をするのかすらよくわかっていませんでしたが、漠然と「面白そうだ」と思ったのです。運よく入社試験が、数的理解のような内容で全て解くことができ、50人中2人の枠に滑り込むことができました。 「その後、会計士試験の勉強を再開しますが、きっかけはどんなことだったのでしょうか。」 TTRCは、名称にもある通り、トーマツの子会社としてスタートした会社でしたので、トーマツから会計士や会計士補の方たちが出向してくるわけです。会計士の方たちと多く接すると、やはり会計士の資格を取らないと後悔すると改めて思うようになり、もう一度会計士試験にチャレンジすることにしました。TTRCでは、いきなり放送局のビッグプロジェクトに投入されたり、ハードな日々の連続でしたが、今振り返ると、社会人経験ともいえない、社会科見学のようなものでした(笑)。その後も、会計士試験には全く合格できなくて苦労しました。特に短答式試験では、複数の記述から、正しい記述の個数を選ぶ問題があったのですが、余計なことを考えすぎて、だいたい1つ個数がズレてしまうといった感じで、引き続き落ちこぼれていました。 「根本から考える傾向は頭のいい人の特徴ではないですか。」 いえいえ、私は、頭は良くないと思います。ただ、少し話は逸れますが、論理だけではなくて、直感のようなものも大切にしたいとは思っています。京大出身で有名な数学者である岡潔先生は、数学の問題を解く前に、情緒を大切にするために、お香を焚いていたらしいです。量子化学の分野でノーベル化学賞を受賞された福井謙一先生も自然を観察する中で育まれる直感を大切にすべきであるとおっしゃっています。使い勝手の良い論理をうまく使いながら、人間の根本にあるもの、醸し出してくるものも大切にする。この両方のバランスが大事なんだと思います。 2年目で頭角を現したオールドルーキー 「苦労して会計士になり、あずさ監査法人(当時の朝日監査法人)に入所されます。監査法人での仕事について今につながるようにエピソードがありましたら教えてください。」 当時の朝日監査法人には、5つの国内事業部と海外企業を担当するアンダーセンの合計6つの事業部がありました。日本の大手企業にアサインされる国内事業部には、主に若手で前途有望な人達が入るので、私のようなオールドルーキーは、アンダーセンに配属となりました。こちらは、英語ができる優秀な人とその他の人を引き受ける感じでした。私はもちろんその他の人。そこで、今でいう東証スタンダート市場の中・小型株の会社にアサインされました。監査は、端的に言えば、財務諸表上の数字が、会計基準に準拠して適正に処理されたうえで、適切に表示されているかについて保証をする業務です。その検証プロセスはまさにツリー構造で、一つひとつのファクトを積み上げて監査要点を証明し、最終的な監査意見を形成していくといったものです。したがって非常にロジカルで、理系の研究や実験と同じ発想なので、会計士試験とは裏腹に監査実務は私に非常に合っていると感じました。 「小さめの会社の方が、全体像が見えてよかったかもしれませんね。」 すごくラッキーだったと思います。小さい会社だと全体を俯瞰して見られます。会社がどう動いているかが見えるようになったので、2年目からは大手企業の子会社のインチャージを任せてもらえるようになりました。現在は、2社目のベンチャー企業にいますが、当時のこの経験がとても役立っています。
#ベンチャー
tripla株式会社
取締役CFO 岡 義人 氏

先を予測し、挑戦し続けたすべての経験が現在のCFOの道を作った

俯瞰してビジネスを見たいという思いが芽生えた監査法人時代 「会計士を目指したきっかけを教えてください。」 不安定な時代になっていく中で手に職をつけたいという思いがあり、大学合格後に弁護士か会計士を目指すことを考えました。ロースクールにかける時間とお金はなかったこと、早く社会に出たいと思っていたこと、法律より経済のほうが面白そうだと思ったことなどから、会計士を目指そうと決めたのが大学2年生のときです。理工学部で2年間過ごした後、試験を受けて経済学部に転部しました。その後、大学4年生のときに会計士試験に合格し、大学卒業直前の3月から監査法人トーマツで働き始めました。監査法人のリクルーターの方と接する中で、トーマツが最も厳しく育ててくれそうだと思ったからです。 「トーマツでは主にどのような仕事を担当していましたか。」 国内の監査部門に所属し、2年ほど大手総合商社を担当しました。大手総合商社の監査チームは、常時30名程度、システム監査も含めると40名程度の会計士が在籍するほどの大所帯であり、新人での配属であったため、自分は全体から見ると僅か一部しか把握することができませんでした(もちろん自分の力不足ということもあり)。それがもどかしく感じ、3年目には希望を出して、相対的に規模が小さめの上場企業を2社にアサインして頂きました。切り取られた一部分ではなく、俯瞰して会社のビジネスや組織全体を把握したいという思いを強く持つようになったのですが、それは、この社会人成り立て当初の経験が大きいように思います。 「トーマツを5年で退職されていますが、その理由を教えてください。」 会計士の資格と監査法人の経験はあくまで武器の1つと考えていたため、大学生の時から、20代のうちに転職しようという思いはありました。じゃあ次に何をするのかということは定まっておらず迷える子羊な感じでしたが(笑)。何年やったら転職というわけではなく、監査法人で、2つの目標を達成できたら転職しようと思っていました。1つは、ひと通り勘定科目を実務的に回せるようになること。もう1つは、抽象的ですが自分の仕事に納得感を持てるようになること。4年半程過ぎた頃に遅まきながらようやく自分の仕事に納得感は出始めそろそろかなと思い転職を決意しました。残りの半年は転職活動をしながら、比較的のんびり過ごしました(笑)トーマツは、クライアントファーストを掲げており、ハードでしたし、心身ともに鍛えられました。自分の社会人としての基礎を作ってもらったと思っています。 スキルの幅を拡げた事業会社の経営企画時代 「監査法人退職後、ソフトバンクに転職されたのですね。なぜソフトバンクを選ばれたのでしょうか。その時のソフトバンクの状況も教えてください。」 当時は、戦略コンサルか事業会社の経営企画のどちらかで迷いました。ファーム(監査法人)で働いていたので、事業会社で働くということを、身をもって経験したいという思いもあり、事業会社の経営企画に絞って探すこととしました。業種にはあまりこだわりはなかったのですが、様々な事業をスピーディに展開している会社の方が早く成長できるのではないかと考えると自然とIT企業を受ける形となりました。ソフトバンクともう1社に絞り、後は社風と面接された方(自分の上司になる方)で選びました。当時のソフトバンクはアメリカの通信大手スプリントを買収した直後で海外に勢いよく出て行くパワーを感じ、iPhoneブームの時代でもあったので、今後伸びていく産業や会社に身を置きたいという思いもありました。 職種は経営企画で、在籍期間中で多くの経験をさせて頂きました。約4年間在籍しましたが、最初の2年間の主な業務は予算策定や管理、各プロジェクトでは財務担当として収支計画やPL等を作りました。小さなものでは法人向け料金プランの検討から大きなものでは電波関連の数千億レベルまで規模は様々ですが、小さなものを含めると千本は作ったのではないかと思い、足腰を鍛えられました。また、検討中のプロジェクトについては、複数のシナリオを作り、実行するのか否か、するとしたらどのタイミングが良いのか等経営判断に役立てるためのシミュレーションも常時行っていました。予算管理では、私が担当するまで予算の精度が粗く、予実差がかなり出ていましたが、細分化して、連動するKPIを見直すことにより予測制度は相当改善させることができました。この精度改善や同時平行で進めていた社内の業務改善プロジェクトについてはしっかりご評価頂いたと思っています。 私がソフトバンク3年目の頃から、子会社の設立が増え始め、小規模ですが1社の管理部長を任されることになりました。また、ベンチャー企業への投資を行ったり、逆に社内ベンチャーへ出向して資金調達したり、法務も担当する等、3年目から業務の幅が一気に拡がりましたね。自動運転関連の事業を担当していた時は、事業部の人達といっしょに沖縄に出張へ行き、道路に出て交通整理や車の誘導等もしました。業務で交通整理やった会計士ってかなりレアではないかと思います(笑) 「異なる職種にいくことに戸惑いはありませんでしたか?」 転職直後は何をしているのかよくわからない状態が続きました。会社自体がとても目まぐるしく動く組織であり、経営企画は特にそうでした。入社当初は様々な企画が走っており、Y!モバイルの立ち上げ、スマホシフトに伴う料金プランの抜本的な変更、ペッパーのローンチ等がありました。部門全員が忙しく、教えてもらう時間を取れないため、師匠になりそうな方を探してついて回り、がむしゃらに覚えていきました。監査法人の仕事と事業会社の経営企画での仕事は、似て非なるものです。「レビューするvs自分で作成する」、「過去実績を扱うvs将来計画を扱う」、「財務会計vs管理会計」等の違いがあり、両者は全く異なります。 だた、プロフェッショナルとしての意識や責任感については、どちらにも通ずるものがあったと思います。ここで、所属していた時期がよかったというのもあるのかもしれませんが、手を挙げればさまざまな仕事を次々にやらせてもらうことができたことは非常に良い経験になりました。また、孫さんが「脳みそがちぎれるほど考えよ」と言っており、徹底して考え抜く風土が当時の組織にはありました。1つ1つの判断についてロジカルに思考して答えを出して行く徹底した姿勢は、ソフトバンク卒業後も役に立ちました。
#ベンチャー
HYUGA PRIMARY CARE株式会社
取締役 CFO 大西 智明 氏

経営者の生き方とは山頂がない山登りのようなもの。挑戦と努力を続けて社会へ恩返しをしたい

「ビジネスは面白い」という気づき 「大西さんは、中部電力のプラントオペレーターからキャリアをスタートしていますね。技術畑の方がビジネスに興味を持った背景を教えてください。」 原子力発電所で働いていた入社2年目の頃、発電所の運転課長である上司にビジネスマン育成研修に行くように勧められました。内容もわからないままに参加したのですが、困難を乗り越えるための方法やマインドなどが研修テーマで、「お! ビジネスって面白いな」と興味を持ったのです。そこから、ビジネス書も読み始めました。社内のベンチャー育成制度に応募していました。ベンチャーとしては立ち上げることはできませんでしたが、社内公募制がスタートしたので第1号として、本社の経営戦略本部という企画部門に異動しました。そこでは、ベネッセコーポレーションとの介護事業や不動産開発事業などの新規プロジェクトにも携わりました。 「そういったご経験を経て、会計事務所に転職されていますね。」 会計事務所への転職の理由は、名古屋から福岡に帰らなくてはならないという家庭の事情がありました。自分が担当して作った中部電力の子会社に異動する予定があったのですが、結局難しくなってしまったので、それならば経営コンサルタントをしてみたいと思ったのです。コンサルティング会社のような社名だったので転職したのですが、実際は会計事務所でした(笑)。経営に携わりたいという思いがあったので、企業の社長とお話しできる機会が多いことはありがたかったのですが、税務や会計について詳しく学ぶ修行期間がありました。 事業再生の会社の中での経験 「会計事務所での2年間の修行を経て、事業再生を検討する企業へ取締役CFOとして転職されています。なぜあえて厳しい道を選んだのでしょう。」 取締役CFOというと格好良く聞こえるかもしれませんが、そんなことはありません。従業員が20名くらいの会社です。会計事務所でお手伝いしていた会社で、創業者の社長から「もう年やけん、辞めたい」と相談されていました。会計事務所で事業承継のサポートをしようと考えていたのですが、当時は、今のように一般的ではなく、反対されてしまいます。そこで、僕が会計事務所を辞めて、社内に入り、事業承継の支援をすることにしたのです。会長にはお子さんがいらっしゃらなかったので、社内昇格で承継を進めていこうと考えていた矢先に、リーマンショックが起こります。売上が半分以下まで減少し、赤字に転落しました。先に事業再生しなければ承継どころではないという状況に陥ってしまったのです。 「それは大変でしたね。その中で、最も苦労したことを教えてください。」 とにかくお金がなかったことです。従業員に給料が支払えなくなりそうな時には、私個人の貯金を会社に入れて賄いました。日単位ではなく、分単位で資金繰りをしていました。当時まだ手形の割引をしていたので、朝、割引するために銀行へ向かいました。銀行員に「本当にこの現場は稼働していますよね?」と確認され、車で現場にお連れして、「ちゃんと動いているでしょう」と安心してもらい、ようやく手形を割引いてもらってお金を作ったこともあります。 「事業再生は辛く苦しいと思いますが、何がモチベーションになっていたのでしょうか。」 本当に「ビジネスやっているな」という感覚があったことでしょうか。お金がなかったので、税理士も弁護士も社労士も雇えず、全て自分たちで一つずつ乗り越えていきました。止血をするために、コストカットもしました。法人税の申告書も手書きで作成しましたし、週1回、従業員に休業をしてもらい、それに伴う休業補償などの労務の対応もしました。また、訴訟についても「どうせ負ける裁判なら1人で行ってきます」と裁判所に行ったこともありました。そういう意味では、あまり自分の領域を限定しないようにしています。新規事業を立ち上げたときは自分で営業も行います。設計図を書いて、机を作ったこともあります。福岡の三越の時計売り場の修理工場の机は、私が設計した机で、10年経った今でも取り扱い会社のカタログに載ってます。 「振り返ってみて、この時期にはどのようなスキルが必要だったと思いますか?」 小さい会社だったので、「これが私の仕事です」と制限していたら会社は良くなりません。「何でもやる」という気持ちで、そのときどきで必要な勉強をして、すぐ実行していきました。そういうマインドやスキルは必要だったように思います。 「よく心が折れませんでしたね。大西さんは、精神的にも体力的にもタフなのでしょうか。」 そんなことはありません。ただ、思い起こせば、原子力発電所の運転員のときも、たまに火報がなると1番最初に現場に到着していました。トラブルなどがあった時に躊躇しないタイプではあると思います。 「社長とはどういう関係性でしたか。」 「これをやらなければ倒産する」という状況なので、お互いに「これでいこう」と合意したら、すぐに実行するという状況でした。ぶつかったことはありません。「大西ちゃんが言うならそうしよう」と言ってくれていました。信頼関係がなければ、会社は倒産していたと思います。 「そういう苦しい状況の中でMBAも取得されていますよね。よくMBAにも目を向けられましたね。」 元々興味があったんです。中部電力には、素晴らしい学歴の同期が多く、海外へMBA留学をする人もいました。でも僕は高専卒で、大学卒の資格がないので、それにチャレンジすることもできなかった。しかし、ある時、高専卒でも論文を2〜3本書くことで入学できるビジネススクールがあることを知って、大前研一さんが誰かもよくわからないまま、大前さんのビジネススクールに飛び込んだんです。取締役は、時間を自由に使えるので、隙間の時間を有効に活用して勉強し、3年間かけて卒業しました。