COLUMNコラム

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シーヴィーシー・アジア・パシフィック・ジャパン株式会社
プリンシパル 高槻 大輔 氏

Win-Winの仕組みで社会を支えるCVC 投資家から見た成功するCFOの要件

「世の中の役に立ちたい」という思いで海外経済協力基金に就職 「大学卒業後、海外経済協力基金(現在の国際協力機構/JICA)に入社されています。なぜ海外経済協力基金を選んだのでしょうか。また業務内容を教えてください。」 海外経済協力基金は、簡単にいうと日本版の世界銀行です。発展途上国向けに大型の資金援助をして、社会開発に役立てることが業務内容です。例えば、ベトナム版の日本坂トンネルを作る、カンボジア版の横浜港を作るといったプロジェクトに対して、長期に渡って資金援助を中心とした支援をすることが仕事です。現在は、さまざまな再編を経て、国際協力機構(JICA)になっています。海外経済協力基金を選んだ理由は、「世の中の役に立ちたい」という思いがあったからです。その一方で、単発で関わるような仕事ではなく、関わったことが未来につながるような仕事にしたいと考えていました。具体的には、長期にわたって支援が継続する資金開発援助が、その国の未来に貢献できるのではないかと思っていたのです。 「どんな仕事をなさったのでしょうか。」 1年目は、ちょうど日本輸出入銀行と統合して国際協力銀行ができるタイミングだったので、その準備でクタクタになるまで働いていました。会議の議事録を真っ赤に修正してもらったり、午前2時にコピー機を修理したりしながら「サラリーマンとはこういうことなんだな」と感じたことを今でも思い出します。2年目からは、ベトナムやカンボジア向けの資金援助を担当しました。例えば、港を作る時に開発資金を提供するといった仕事にあたりました。 また、海外経済協力基金は総合職社員全員に留学の機会を与える組織でした。外国語が話せなければ仕事になりませんし、仕事でコミュニケーションを取る相手も修士や博士ばかりという世界なので、現地で学ぶことが必要だったのです。留学した際には、国際関係論や経済学、語学を学ぶ方が多かったのですが、私はビジネススクールでビジネスを学びたいと考えました。当時の私は、港湾セクターを担当していました。そこでは、援助の世界では珍しく、海外との取引を通して外貨が直接入ってくる仕組みで、ビジネスのパワーの大きさを実感していたのです。援助は大海の一滴です。ビジネス全体がわからないと国の発展にも寄与できないのではないかと考えて、ビジネススクールでの学びを希望しました。そして、ラッキーなことにスタンフォード大学のビジネススクールから合格通知を貰うことができたのです。 スタンフォード大学で2年間学ぶ間、ベトナムの世界銀行事務所でのインターンなども経験しました。しかし、卒業時に辞令がくだり財務省への出向が言い渡されました。海外経済協力基金や財務省での仕事はスケールも大きく、とてもやりがいがあったのですが、日本を活性化する仕事に直接的に関わりたい、また自分の人生は主体的に選びたい、と考えて、転職することに決めました。 日本での可能性を感じたPEファンドへの転職 「なぜPEファンドに転職されたのでしょうか。」 私は、日本は発展した素晴らしい国なので、海外の途上国に貢献することができればやりがいを感じられるだろうと考えて、海外経済協力基金に就職しました。しかし、留学中は、ジャパンパッシング時代ということもあり、「日本は沈む国だよね」と思われていることに気が付きます。そこで、日本人としての闘志に火がつきました。また、大学時代の私はPEファンドという仕事を知りませんでした。留学先の同級生にPEファンドで働いている方がいて、その存在を知ったのです。日本には、潜在的な力を出しきれていない大企業やファミリー企業が多い。だからこそ、このPEファンドは日本に向いている仕組みなのではないかと考えて、勤めてみようと考えたのです。 CVCファンドの特徴 「世界的に大手の外資系投資ファンドにご勤務の後、現職のCVCアジア・パシフィック・ジャパン株式会社で、8年目を迎えていらっしゃいます。こちらはどのような特徴をお持ちの会社でしょうか。」 CVCアジア・パシフィック・ジャパン株式会社は、シティバンクが所属していた総合金融グループであるシティコープの自己資金投資部門がMBOをしてできたPEファンドで、40年程の歴史があります。「CVC」とは「シティ・ベンチャー・キャピタル」の頭文字でした。当社にはいくつかの特徴があり、1つ目はヨーロッパのチームが最初にMBOをして、次にアメリカ、最後にアジアという経緯で今のCVCになったので、ヨーロッパが本拠地でカバー力が強いという点です。多くのグローバルファンドはアメリカが本拠地です。2つ目は、チームでMBOしたことから始まっているので、絶対的な創業者はおらず、最初からチーム運営だったという特徴もあります。多くのグローバルファンドには創業者がいます。 3つ目は、ヨーロッパならではの価値観ですが、「グローバル」といえどもローカルな意識が強いという特徴があります。ヨーロッパの人たちは、フランス人はフランス人、イギリス人はイギリス人、ドイツ人はドイツ人という意識があります。ヨーロピアンスタンダードという発想よりは、フレンチスタンダード、ブリテンスダンダード、ジャーマンスタンダードというようにそれぞれが異なるので、すごくローカルを尊重する価値観なのです。他には、シティベンチャーキャピタルで、最初の段階ではベンチャーキャピタルをしていたので、リストラなどではなく、成長企業が好きですね。 CVCの投資基準 「御社の投資基準について教えてください。」 CVCには、トリプルB(Building Better Businesses) というモットーがあります。それは、いい会社に投資し、さらに良くしていくということです。「安いから買おう」、あるいは「大リストラをしてリターンを出そう」といった発想ではなく、良い会社がどうしたらさらに良くできるかという観点で投資をしています。株式会社ファイントゥデイさんや株式会社トライグループさんなど、投資先からもご理解いただけるのではないかと思います。 「平均すると保有期間はどれくらいになりますか。」 3から5年くらいが基本ですが、長いときは7年を超えるケースもあります。例えば、CVCの代表的な投資先の一つであるフォーミュラ1(F1)の株式は10年以上保有していました。 「出口戦略として、どうお考えになっていますか。売却や IPOなど、どういったケースが多いのでしょうか。」 あまり決まっていませんが、IPOするケースは多いです。その理由として、元がベンチャーキャピタルでグロースが好きという側面もあると思います。また、アジア各国は成長を遂げているので、成長企業も増えていきます。その結果、上場してイグジットしていくケースは多くなります。そして、ヨーロッパ起源のDNAとして、パートナーシップ投資が非常に多いという点も特徴でしょう。ヨーロッパは、ルイ・ヴィトン社などのようにファミリー企業が多く、同様にアジアもファミリー企業が多いです。その場合、CVCが単独で買収するのではなく、創業家が残るパターンが少なくありません。また、イグジットも丸ごとどこかに売却するのではなく、CVCが担っていた部分だけがなくなるというケースも多くなります。
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元レノボ・ジャパン 取締役CFO、元日本ケロッグ合同会社 CFO
池側 千絵 氏

「楽しい」を原動力に仕事・子育て・学びを追いかけ続けてたどり着いた「自身の役割」

イギリス語学留学とP&Gファイナンス部門に入るまで 「外資系グローバル企業の日本子会社CFOとして活躍、現在はコンサルタント、教育者、研究者、並びに事業会社の社外取締役として活躍されている池側さん。時系列に沿ってお話をうかがっていきます。まず、大学在学中にイギリスに語学留学されていますが、その理由をお聞かせください。」 当時、将来どのような仕事に就くのかを深く考えていなかった私は、まわりに文学部か教育学部に進学する女子高生が多かったので、自分も文学部英文学科に進学しました。英語教師志望でなく、英文学科の学びにも関心を持てなかったので経済学部に入り直したいと思いながらも、友達ができ、ESS(English Speaking Society)という英語でディベートをする部活も楽しかったので、そのまま学生時代を過ごしていました。大学3年生の終わりの春に母とハワイ旅行をした時、現地での私の英会話を聞いた母から「英文学科なのに意外と英語ができないのね」と言われ、その一言がきっかけで留学をすることを決めました。 折しもバブルで父の会社の持株会の株価が上がって、今なら少し資金が作れると母が言うので(笑)。すぐに休学届を出し、大学4年生になる年の6月から翌年の2月までロンドンとパリの語学学校に留学しました。急に思いついたので大学に留学することはできなかったんですけどね。私が帰ってきたタイミングから、バブルで就職が楽になる時期に突入し、4月には外資のコンサル会社に、6月にはP&G(プロクター・アンド・ギャンブル・ファー・イースト・インク)に内定をいただき、早めに就活が終わりました。 「なぜP&Gを選ばれたのでしょうか。」 私は、男女平等のお給料をいただける会社で働くことを目指していました。すでに男女雇用機会均等法が施行されていたものの、日本の有名大企業では超高学歴の女性を総合職で少数雇用する程度。そこで、外資のP&Gに入社できたらいいなと思っていました。P&Gは職種別採用なので、会社説明会から職種別に分かれていました。マーケティングが有名なので宣伝本部の説明会に行ってみたのですが人があふれていたので断念し、隣の経営管理本部(ファイナンス部門)を受けてみることにしました。もちろんその頃はFP&A(Financial Planning & Analysis)という言葉もなく業務内容も知らなかったので、いわゆる経理部だと思っていました。実は、ロンドン留学の際に、英語以外にもできることを探そうと思い、ビジネスアドミニストレーションのコースを取り、英語で簿記を少しだけ学んだことがあったので、少しイメージが湧いていたのです。文系ですが数学が得意だったことも理由の一つです。 日本より20年は進んでいるP&Gでの経験 「P&Gで17年間ほど勤務されますが、どのような部門でどのような業務を担当されたのでしょうか。また、どのようなスキルを身に着けることができましたか。」 私が入社した時のP&Gは、本社が大阪にありました。しかし、「本社で新人を見る余裕はない」と言われ、パンパース、ウィスパーなどを製造している兵庫県の明石工場の経理部での勤務となりました。明石工場では、経理・原価計算を担当しました。半年ほどして、大阪本社に異動になり、先輩に教わりながら、日本支社全体の利益とキャッシュフローの管理をするようになりました。1年目の終わりになると、わけが分からないながらも、日本支社全体の中期経営計画や単年度予算をまとめたり、予算の進捗管理と本社への報告をしたりするようになりました。時代は1990年代、アメリカではFP&Aが始まっていたようです。経理部が1つのフロアに集まっていた時代から、経理部の中で事業に近い仕事をする一部の人たちは、事業部の中に席を置くようになったのです。P&Gでもその流れに沿って、3年目の私もビューティーケアのシャンプーやコンデショナー部門に席を置いてもらいました。 現在もある「パンテーン」というシャンプーを日本でローンチする時の財務分析は私が担当しました。当時の職場は、教育やプロセスが整備されておらず、あまりきちんと教えてもらえないのは当たり前でした。業務にあてる時間も長く、毎日11時半ぐらいまでひたすら働いていました。無駄な作業も多かったかもしれません。その後、明石工場に戻り、今でいうサプライチェーンファイナンス、工場のサプライチェーンの人々に張り付いて、購買から製造・物流まで一通り原価をコントロールする財務分析の仕事も経験しました。4〜5年目になると、本社勤務で課長になり、部下3名とともに日本支社全体の利益管理を担当することになりました。その頃までには、生理用品がすごく売れたこともあり、P&Gは神戸の六甲アイランドに30階建ての自社ビルを建てて、香港にあったアジアヘッドクォーターを日本に移しました。 それに伴い、私は日本部門からアジア部門に異動し、アジア13ヶ国の研究開発費と販管費を管理するという仕事を担当しました。予算管理のチームには、フィリピン人の上司がいて、その下で私が販管費を、他の人が利益を管理しました。そこで、アメリカ人のアジアCEO/CFOやアジアの優秀なメンバーと一緒に働けるようになりました。アジア社長と日本社長のアメリカ人がのちに本社の社長になるなど、消費者市場のレベルが高い日本がP&G本社でも注目されていたころでもありました。そのころからいよいよグローバル企業で働いているという実感を持てる環境になってきました。そのあたりから、女性活躍やダイバーシティの推進も始まっていきました。 「P&G は何歩も先に進んでいたのですね。」 1990年代には世界共通のERP導入が始まっていましたし、シェアードサービスが始まって経理業務を海外に移したり、全世界のブランドごとの損益を本社が集計して我々もパソコン上で見られるようになっていましたから、日本企業より20年以上進んでいる印象です。1995年には、阪神・淡路大震災が起き、六甲アイランドの本社ビルがしばらく使えなくなったので、大阪の臨時本社に出勤するということも経験しました。その後、32歳の頃に、日本の洗剤事業のファイナンス責任者である部長職(事業CFOポジション)にしていただきました。 実は、その少し前から出産を考え始めており、昇進を受けてよいか逡巡する時期でした。産婦人科に行ってみると、子宮筋腫と子宮内膜症と卵巣嚢腫と診断されて、入院して手術もしました。また、術後も継続して治療もしました。また、私は、経営管理的な仕事や会計まわりの仕事は得意で評価が良かったのですが、事業CFOの仕事は本格的に経験したことがなく、得意か不得意かさえも分かりませんでした。そういったことについて、当時のフィリピン人の男性上司とこまめにコミュニケーションをとっており、「人生の複雑な時期ではあるけれど、とにかくやってみたらどうだろう」と洗剤事業のCFOポジションを空けてくれたので、チャレンジすることにしました。将来子会社CFOの仕事をするには管理系と事業系の両方の経験が必要だと強く勧めてくれたのです。出産後には、わざわざ東京から日経新聞の記者が取材に来ました。「管理職になってから出産する」ことが珍しかったようです。
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HYUGA PRIMARY CARE株式会社
取締役 CFO 大西 智明 氏

経営者の生き方とは山頂がない山登りのようなもの。挑戦と努力を続けて社会へ恩返しをしたい

「ビジネスは面白い」という気づき 「大西さんは、中部電力のプラントオペレーターからキャリアをスタートしていますね。技術畑の方がビジネスに興味を持った背景を教えてください。」 原子力発電所で働いていた入社2年目の頃、発電所の運転課長である上司にビジネスマン育成研修に行くように勧められました。内容もわからないままに参加したのですが、困難を乗り越えるための方法やマインドなどが研修テーマで、「お! ビジネスって面白いな」と興味を持ったのです。そこから、ビジネス書も読み始めました。社内のベンチャー育成制度に応募していました。ベンチャーとしては立ち上げることはできませんでしたが、社内公募制がスタートしたので第1号として、本社の経営戦略本部という企画部門に異動しました。そこでは、ベネッセコーポレーションとの介護事業や不動産開発事業などの新規プロジェクトにも携わりました。 「そういったご経験を経て、会計事務所に転職されていますね。」 会計事務所への転職の理由は、名古屋から福岡に帰らなくてはならないという家庭の事情がありました。自分が担当して作った中部電力の子会社に異動する予定があったのですが、結局難しくなってしまったので、それならば経営コンサルタントをしてみたいと思ったのです。コンサルティング会社のような社名だったので転職したのですが、実際は会計事務所でした(笑)。経営に携わりたいという思いがあったので、企業の社長とお話しできる機会が多いことはありがたかったのですが、税務や会計について詳しく学ぶ修行期間がありました。 事業再生の会社の中での経験 「会計事務所での2年間の修行を経て、事業再生を検討する企業へ取締役CFOとして転職されています。なぜあえて厳しい道を選んだのでしょう。」 取締役CFOというと格好良く聞こえるかもしれませんが、そんなことはありません。従業員が20名くらいの会社です。会計事務所でお手伝いしていた会社で、創業者の社長から「もう年やけん、辞めたい」と相談されていました。会計事務所で事業承継のサポートをしようと考えていたのですが、当時は、今のように一般的ではなく、反対されてしまいます。そこで、僕が会計事務所を辞めて、社内に入り、事業承継の支援をすることにしたのです。会長にはお子さんがいらっしゃらなかったので、社内昇格で承継を進めていこうと考えていた矢先に、リーマンショックが起こります。売上が半分以下まで減少し、赤字に転落しました。先に事業再生しなければ承継どころではないという状況に陥ってしまったのです。 「それは大変でしたね。その中で、最も苦労したことを教えてください。」 とにかくお金がなかったことです。従業員に給料が支払えなくなりそうな時には、私個人の貯金を会社に入れて賄いました。日単位ではなく、分単位で資金繰りをしていました。当時まだ手形の割引をしていたので、朝、割引するために銀行へ向かいました。銀行員に「本当にこの現場は稼働していますよね?」と確認され、車で現場にお連れして、「ちゃんと動いているでしょう」と安心してもらい、ようやく手形を割引いてもらってお金を作ったこともあります。 「事業再生は辛く苦しいと思いますが、何がモチベーションになっていたのでしょうか。」 本当に「ビジネスやっているな」という感覚があったことでしょうか。お金がなかったので、税理士も弁護士も社労士も雇えず、全て自分たちで一つずつ乗り越えていきました。止血をするために、コストカットもしました。法人税の申告書も手書きで作成しましたし、週1回、従業員に休業をしてもらい、それに伴う休業補償などの労務の対応もしました。また、訴訟についても「どうせ負ける裁判なら1人で行ってきます」と裁判所に行ったこともありました。そういう意味では、あまり自分の領域を限定しないようにしています。新規事業を立ち上げたときは自分で営業も行います。設計図を書いて、机を作ったこともあります。福岡の三越の時計売り場の修理工場の机は、私が設計した机で、10年経った今でも取り扱い会社のカタログに載ってます。 「振り返ってみて、この時期にはどのようなスキルが必要だったと思いますか?」 小さい会社だったので、「これが私の仕事です」と制限していたら会社は良くなりません。「何でもやる」という気持ちで、そのときどきで必要な勉強をして、すぐ実行していきました。そういうマインドやスキルは必要だったように思います。 「よく心が折れませんでしたね。大西さんは、精神的にも体力的にもタフなのでしょうか。」 そんなことはありません。ただ、思い起こせば、原子力発電所の運転員のときも、たまに火報がなると1番最初に現場に到着していました。トラブルなどがあった時に躊躇しないタイプではあると思います。 「社長とはどういう関係性でしたか。」 「これをやらなければ倒産する」という状況なので、お互いに「これでいこう」と合意したら、すぐに実行するという状況でした。ぶつかったことはありません。「大西ちゃんが言うならそうしよう」と言ってくれていました。信頼関係がなければ、会社は倒産していたと思います。 「そういう苦しい状況の中でMBAも取得されていますよね。よくMBAにも目を向けられましたね。」 元々興味があったんです。中部電力には、素晴らしい学歴の同期が多く、海外へMBA留学をする人もいました。でも僕は高専卒で、大学卒の資格がないので、それにチャレンジすることもできなかった。しかし、ある時、高専卒でも論文を2〜3本書くことで入学できるビジネススクールがあることを知って、大前研一さんが誰かもよくわからないまま、大前さんのビジネススクールに飛び込んだんです。取締役は、時間を自由に使えるので、隙間の時間を有効に活用して勉強し、3年間かけて卒業しました。
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石橋 善一郎 氏

【前編】FP&Aプロフェッショナルが目指したCFOへのキャリア。そして、その先に見えた自身の役割とは

FP&AプロフェッショナルとしてCFOを目指す 現在は、「CFOのその後のキャリア」として、職業人団体や会計大学院・経営大学院でCFOを目指すプロフェッショナルへの啓蒙および教育活動をなさっている石橋さん。現在に至るまでのご経歴を時系列で伺います。 「大学卒業後、富士通に入社していますが、いつ頃からCFOという職業を意識したのですか。」 私は、1982年に富士通に入社して、経理部でも財務部でもなく、海外子会社の事業を管理する海外事業管理部に配属されました。1980年代の日本において、CFOという概念はほとんどありませんでしたので、国内勤務の3年間は、経理や財務のスキルを使って事業管理を行う経営管理業務が自身の仕事だと認識していました。4年目にシリコンバレーにある富士通アメリカへ駐在となります。ここでも、電算機、通信機、半導体などの製品事業部レベルの富士通アメリカの子会社(富士通の孫会社)の事業管理をしていました。この時に初めて、CFOという職業に出会います。各子会社に米国人のCEOとCFOがセットで配置されていました。彼らと仕事をする中で、CFOの仕事とは、経理や財務だけでなく、むしろ最もメインの業務である事業管理や経営管理を行うFP&Aという仕事であるということを知りました。当時はCFOになりたいという思いは抱いていませんでしたが、振り返ると、ここで出会ったCFOの方々が後の私のロールモデルの1つとなりました。 「FP&Aについて、簡単にご説明をお願いします。」 FP&Aの定義は誰に伝えるかが大事なので、日本企業の子会社で事業管理をしていた20代の私自身に向けた説明をします。FP&Aとは、本社レベルではなく事業部レベル(工場や営業所や研究所や子会社や海外子会社をイメージしてください)で、事業戦略の形成・実行の当事者としてビジネスパートナーになり、中長期的に事業価値を成長させることです。そして、そのためには、事業と事業戦略を理解すること、事業部のことを理解すること、事業部の人々と仕事上の関係を構築することの3点が大切です。FP&Aを構成する主要な要素は、FP&Aプロセス、FP&A組織、FP&AプロフェッショナルおよびFP&Aテクノロジーの4つです。もっと詳しく知りたい方は、拙著『CFOとFP&A』と『FP&A入門』(いずれも中央経済社)を参考にしてください。グローバル企業においてFP&A組織は、CFO組織の真ん中に存在します。 日本でのキャリアに夢を描けずMBA取得へ ・その後、スタンフォード大学に留学された理由を教えてください。 富士通アメリカで3年働いた後、自分が日本本社に戻るイメージが持てませんでした。正直なところ、日本企業におけるサラリーマンの働き方やキャリアにあまり夢がないなと思ったのです。そこでMBAを取得しようと決意しました。当時はMBA取得後に何をするかのイメージはなく、CFOに就くことも意識していませんでした。ただ、MBAが何かになるためのステップになるのではないかと思ったのです。そして、どうせ学ぶのであれば、最高のビジネススクールがよいと考え、スタンフォード大学のビジネススクールに入学しました。MBA課程では、1年目は、戦略論やマーケティング、統計学、ファイナンスなど経営学全般を学びました。2年目の選択科目は管理会計や企業財務関連の科目を中心に履修しました。MBAで学んだことは、FP&Aプロフェッショナルとして真のビジネスパートナーとなることの基盤になりました。現在、会計大学院・経営大学院で教えていることも、ここで学んだことの延長線にあります。 「目指すべきはCFO」と気づいた経営コンサルタントとしての経験 「その後、経営コンサルタントになっていますね。」 MBA取得後は戦略コンサルティング会社で経営コンサルタントとして働くことにしました。ただ、1年ほど働いて、自分のやりたいことではないと気がつき、退職しました。経営コンサルタントは組織の外から経営者をサポートする仕事。私は企業の中で直接、経営に関わりたかったのです。キャリア選択の際に私が大切にしてきたことは3つあります。1つ目は、「自分はその仕事が好きか、嫌いか」ということです。私は、スタンフォード大学経営大学院での学びと会計や財務の知識を活かした業務に携わりたいと考えていましたが、公認会計士のように監査法人で働きたいわけではなく、企業内で事業に関わりたいと思っていました。 2つ目が、「その仕事は自分に向いているか、いないか」ということです。私は数字を扱って客観的に説明することが得意なので、それに関わる仕事がしたいと考えていました。3つ目は、「その仕事からの経験と自己学習を積み重ねることによって、長期間においてプロフェッショナルとして成長を継続することができるか」ということです。経営コンサルタントの仕事に携わる中で、「グローバル企業においてCFOはCEOのビジネスパートナーとしてFP&Aの仕事をしていた。もしかしたら、CFOという仕事こそが、私が好きで、得意で、将来の自分にリターンがある仕事かもしれない」と思うようになったのです。 インテルへ入社し、真のCFO組織に出会う CFOを目指すならば、どこの企業がいいのかを考えました。当時は日本企業にCFOという役職が存在しませんでしたので、外資系企業で働くしかないと思いました。そこで、当時シリコンバレーで人気があった、Intel、Microsoft、Apple、Sun MicrosystemsなどのIT企業の日本法人数社に、「私は将来CFOになりたいです。ただ、まだマネージャーにもなったことがありません。CFO組織のマネージャーとして入社させてください」とレジュメを書いて送りました。その中から、インテル日本法人のカナダ人の社長が、「1回お会いしましょう」と返事をしてくださり、東京本社で面接をすることになったのです。 当時、インテルの日本法人には、20名ほどのCFO組織があり、経理、財務、FP&Aの3つのセクションがありました。すでにマネージャーがいらしたので、新設のセクションを作ってもらい、マネージャーとして入社しました。その後、FP&Aセクションのマネージャーが退職されたので、FP&Aセクションのマネージャーになりました。 「その頃のCFOのロールモデルはいたのでしょうか。」 インテルには、米国本社に本社CFO、その下に米国、欧州、日本およびアジアの4つの地域にも4人の地域CFOがいました。日本法人のCFOは本社CFOの直属の部下でした。インテルのCFO組織は風通しが良く、全世界のCFO組織のメンバー全員がチームになっていました。つまり、インテル日本法人に入社した瞬間に、グローバル企業のCFO組織が見えるようになったのです。私にとっては、CFOになるための役割を学ぶことができる多くのロールモデルの方々と出会うことができる組織でした。 さらに、経理組織、財務組織とFP&A組織の関係性もよく分かりました。 言い換えるならば、FP&Aプロフェッショナルは、CFOになるための一丁目一番地にあるということが見えてきたのです。私には、ずっとFP&A組織のリーダーでいたいという思いがありました。本質的には、FP&Aは経営管理であり、CEOが担うべきものです。経営者として最終的にはCEOに就きたいと思っていましたが、そのステップとして、CEOのビジネスパートナーのCFOとして経営に関与したいと思うようになったのです。インテルに入社して、CFOを目指すFP&Aプロフェッショナルとしてのキャリアへの思いを再認識しました。
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石橋 善一郎 氏

【後編】FP&Aプロフェッショナルが目指したCFOへのキャリア。そして、その先に見えた自身の役割とは

日本トイザらスでの楽しさと苦しさ 「次も再生ファンドの投資先であるトイザらスに転職されます。なぜあえて大変な会社を選んだのですか。」 D&Mが東証一部に上場したときに、これから5年間ここで同じことをするべきだろうか、と考えました。そんな時、別のPEファンドから、「日本トイザらスって知っていますか? 2年連続赤字ですが、事業再生したいのでCFOとして入社しませんか」という電話があったのです。そこで、私の希望を伝えました。1つ目は、単なるCFOではなく、副社長として入ること、もう1つは、副社長CFOで成功できた暁には社長にしてもらえること。この2つに対して米国本社社長と面談をした際に了承を得たので、転職を決断しました。CFOがやるべきことはCEOの真のビジネスパートナーとして経営することです。でも、本当にしたかったのは、CEOとして経営することでした。ですから、CEOになれる可能性があるCFOのポジションに着きたいと思っていたのです。 「日本トイザらスではどのような経験をされましたか。」 日本トイザらスには、代表取締役副社長兼CFOとして入社し、CEOの信任を得て従来のCFOを超えた役割を担うことができました。店舗運営や店舗開発、サプライチェーンや物流やEコマースを担当しました。事業会社ならではの本当に楽しい経験でした。日本トイザらスは全国に160店ほどあるのですが、入社した3年間で全店舗を訪問しました。北海道や九州などへは、休みの日に自費で店舗を訪問し、店長さんと話をしました。また、日本にある2つの大きな物流センターでは、生産性を上げるためのプロジェクトの一員になって、繁忙期であるクリスマスの乗り越え方を考えたり、実際にクリスマスに応援として出荷作業に従事したりもしました。他にも、実店舗だけでは売り上げが下がっていくので、オンラインストアが必要だと考え、電子商取引のためのオンラインシステムの開発のプロジェクトのリーダーになって、ゼロから日本でシステムを開発しました。こういったことが、事業管理に携わることの本分だと思っています。 私のCFOのスタイルは、CFOとして事業部長のビジネスパートナーになることでした。事業部長は、店舗運営の専門家、物流業務の専門家、電子商取引の専門家です。彼らとチームになって、日本トイザらスのために新しいことをどうやっていくかを考える。それが私にとってはCFOの仕事であって、事業会社における仕事の1番楽しいことでした。 一方で、難しかったことは、CFOとしての守りの役割とビジネスパートナーとしての攻めの役割をどのように両立させるかということでした。例えば、店舗開発戦略や物流戦略やEC戦略を実行するための投資を行う際に、日本子会社の代表として米国本社に投資案を提案する立場にあったのと同時に、CFO組織の一員として投資案を審査する立場にありました。CFOは企業価値を守る責任を有している一方で、CEOのビジネスパートナーとして企業価値を成長させる責任を有しています。2つの役割を持っているわけです。 「CFOの場合、CEOとの関係で一番注意しなければならない点は何でしょう。」 CFOにとって、CEOは最も大事なビジネスパートナーです。CEOの成功は自分の成功につながります。しかし、一口にCEOといっても様々な人間がいます。仮に、CEOと衝突してクビになったとしても、転職できるようにプロフェッショナルとしての専門性を磨き続ける必要があると思います。日本トイザらスで10年間働き続けられたのは、CEOとの関係が良かったからです。カナダ人の女性で、人格・識見ともに立派なCEOでした。彼女と一緒に仕事をすることで小売業を1から10まで勉強させてもらうことができました。CEOとの信頼関係を築くために、2つのことを心がけました。 1つ目は、客観的な視点で事実を基に議論することです。CFOが得意なのは、数字から経営戦略についての話をすることです。物流、営業、サプライチェーン、業務部門などの部分で、数字で戦略実行のサポートするところは非常に大事だと思います。CEOにできないことをフォローすることが大切ですね。もう1つは、CEOとビジネスパートナーとして共通の目標を設定し、結果を出すことです。チームとしていかに目標を設定して、その目標に向かってPDCAサイクルを回すか。損益計算書の目標管理も大事ですが、それだけではありません。チームとして業務上オペレーションの目標も設定して、それを達成できるかどうかまで見る。例えば、人員計画もそうですし、各部門の配置人数、何カ月後にはどうなるかというところまで、全部CFOとしての視点が重要だと思います。この面でCFOを支援するのがFP&A組織なのです。 CFOの役割と魅力 「一言でCFOの役割を教えてください。」 CFOの役割は中長期的に企業価値を上げることです。企業価値は事業価値の総和です。事業価値とは、事業部が生み出すキャッシュフローの現在価値です。これは、企業財務では、本質的価値と呼ばれています。CFOが本当に目指すのは、事業部が生み出す事業価値の本質的価値を中長期的に最大化することです。株主価値とその市場価値の最大化ではありません。企業価値をどうやって上げるかがCFOの役割の根幹にあります。 「では、CFOの魅力はなんでしょうか。」 1つ目は、プロフェッショナル(Professional)として自分の経験や学習から蓄積した後天的な才能を活かすことができることです。私はCFOが日本企業におけるCFOのように、ある日突然、会社の都合でなるものだとは考えません。それは実務家(Practitioner)です。CFOはFP&Aプロフェッショナルがキャリアを通じて目指すものだと考えています。私はFP&Aプロフェッショナルとしてのキャリアの途中で、資格試験やMBA取得の過程で学び続けることの重要性を実感しました。CFOを目指すキャリアは、プロフェッショナルとして学び続けるキャリアなのです。 もう1つは、3つのC、CEO+CFO+CHROの一つである経営チームの一員であるということです。「人的資本経営」の伊藤邦雄先生のレポートには、CEO、CFOと並んで大事な3番目の役割がCHROだと示されています。他にもCがつく役職がありますが、CEOとCFOとCHROの3つのトライアングルが経営者チームの根幹です。CFOは経営者チームの一員であるということが、CFOの魅力だと思います。人的資本経営の本質は、3つのCのトライアングルで経営戦略と人材戦略を形成・実行することによって、中長期的に企業価値を成長させることです。株主価値とその市場価値の最大化を目的としてCFOが投資家と対話することは、人的資本経営の本質ではありません。