イギリス語学留学とP&Gファイナンス部門に入るまで
「外資系グローバル企業の日本子会社CFOとして活躍、現在はコンサルタント、教育者、研究者、並びに事業会社の社外取締役として活躍されている池側さん。時系列に沿ってお話をうかがっていきます。まず、大学在学中にイギリスに語学留学されていますが、その理由をお聞かせください。」
当時、将来どのような仕事に就くのかを深く考えていなかった私は、まわりに文学部か教育学部に進学する女子高生が多かったので、自分も文学部英文学科に進学しました。英語教師志望でなく、英文学科の学びにも関心を持てなかったので経済学部に入り直したいと思いながらも、友達ができ、ESS(English Speaking Society)という英語でディベートをする部活も楽しかったので、そのまま学生時代を過ごしていました。大学3年生の終わりの春に母とハワイ旅行をした時、現地での私の英会話を聞いた母から「英文学科なのに意外と英語ができないのね」と言われ、その一言がきっかけで留学をすることを決めました。
折しもバブルで父の会社の持株会の株価が上がって、今なら少し資金が作れると母が言うので(笑)。すぐに休学届を出し、大学4年生になる年の6月から翌年の2月までロンドンとパリの語学学校に留学しました。急に思いついたので大学に留学することはできなかったんですけどね。私が帰ってきたタイミングから、バブルで就職が楽になる時期に突入し、4月には外資のコンサル会社に、6月にはP&G(プロクター・アンド・ギャンブル・ファー・イースト・インク)に内定をいただき、早めに就活が終わりました。
「なぜP&Gを選ばれたのでしょうか。」
私は、男女平等のお給料をいただける会社で働くことを目指していました。
すでに男女雇用機会均等法が施行されていたものの、日本の有名大企業では超高学歴の女性を総合職で少数雇用する程度。そこで、外資のP&Gに入社できたらいいなと思っていました。P&Gは職種別採用なので、会社説明会から職種別に分かれていました。マーケティングが有名なので宣伝本部の説明会に行ってみたのですが人があふれていたので断念し、隣の経営管理本部(ファイナンス部門)を受けてみることにしました。もちろんその頃はFP&A(Financial Planning & Analysis)という言葉もなく業務内容も知らなかったので、いわゆる経理部だと思っていました。実は、ロンドン留学の際に、英語以外にもできることを探そうと思い、ビジネスアドミニストレーションのコースを取り、英語で簿記を少しだけ学んだことがあったので、少しイメージが湧いていたのです。文系ですが数学が得意だったことも理由の一つです。
日本より20年は進んでいるP&Gでの経験
「P&Gで17年間ほど勤務されますが、どのような部門でどのような業務を担当されたのでしょうか。また、どのようなスキルを身に着けることができましたか。」
私が入社した時のP&Gは、本社が大阪にありました。しかし、「本社で新人を見る余裕はない」と言われ、パンパース、ウィスパーなどを製造している兵庫県の明石工場の経理部での勤務となりました。明石工場では、経理・原価計算を担当しました。半年ほどして、大阪本社に異動になり、先輩に教わりながら、日本支社全体の利益とキャッシュフローの管理をするようになりました。1年目の終わりになると、わけが分からないながらも、日本支社全体の中期経営計画や単年度予算をまとめたり、予算の進捗管理と本社への報告をしたりするようになりました。時代は1990年代、アメリカではFP&Aが始まっていたようです。経理部が1つのフロアに集まっていた時代から、経理部の中で事業に近い仕事をする一部の人たちは、事業部の中に席を置くようになったのです。P&Gでもその流れに沿って、3年目の私もビューティーケアのシャンプーやコンデショナー部門に席を置いてもらいました。
現在もある「パンテーン」というシャンプーを日本でローンチする時の財務分析は私が担当しました。当時の職場は、教育やプロセスが整備されておらず、あまりきちんと教えてもらえないのは当たり前でした。業務にあてる時間も長く、毎日11時半ぐらいまでひたすら働いていました。無駄な作業も多かったかもしれません。その後、明石工場に戻り、今でいうサプライチェーンファイナンス、工場のサプライチェーンの人々に張り付いて、購買から製造・物流まで一通り原価をコントロールする財務分析の仕事も経験しました。4〜5年目になると、本社勤務で課長になり、部下3名とともに日本支社全体の利益管理を担当することになりました。その頃までには、生理用品がすごく売れたこともあり、P&Gは神戸の六甲アイランドに30階建ての自社ビルを建てて、香港にあったアジアヘッドクォーターを日本に移しました。
それに伴い、私は日本部門からアジア部門に異動し、アジア13ヶ国の研究開発費と販管費を管理するという仕事を担当しました。予算管理のチームには、フィリピン人の上司がいて、その下で私が販管費を、他の人が利益を管理しました。そこで、アメリカ人のアジアCEO/CFOやアジアの優秀なメンバーと一緒に働けるようになりました。アジア社長と日本社長のアメリカ人がのちに本社の社長になるなど、消費者市場のレベルが高い日本がP&G本社でも注目されていたころでもありました。そのころからいよいよグローバル企業で働いているという実感を持てる環境になってきました。そのあたりから、女性活躍やダイバーシティの推進も始まっていきました。
「P&G は何歩も先に進んでいたのですね。」
1990年代には世界共通のERP導入が始まっていましたし、シェアードサービスが始まって経理業務を海外に移したり、全世界のブランドごとの損益を本社が集計して我々もパソコン上で見られるようになっていましたから、日本企業より20年以上進んでいる印象です。1995年には、阪神・淡路大震災が起き、六甲アイランドの本社ビルがしばらく使えなくなったので、大阪の臨時本社に出勤するということも経験しました。その後、32歳の頃に、日本の洗剤事業のファイナンス責任者である部長職(事業CFOポジション)にしていただきました。
実は、その少し前から出産を考え始めており、昇進を受けてよいか逡巡する時期でした。産婦人科に行ってみると、子宮筋腫と子宮内膜症と卵巣嚢腫と診断されて、入院して手術もしました。また、術後も継続して治療もしました。また、私は、経営管理的な仕事や会計まわりの仕事は得意で評価が良かったのですが、事業CFOの仕事は本格的に経験したことがなく、得意か不得意かさえも分かりませんでした。そういったことについて、当時のフィリピン人の男性上司とこまめにコミュニケーションをとっており、「人生の複雑な時期ではあるけれど、とにかくやってみたらどうだろう」と洗剤事業のCFOポジションを空けてくれたので、チャレンジすることにしました。将来子会社CFOの仕事をするには管理系と事業系の両方の経験が必要だと強く勧めてくれたのです。出産後には、わざわざ東京から日経新聞の記者が取材に来ました。「管理職になってから出産する」ことが珍しかったようです。