車競技から武富士
「安永さんは本当にユニークな経歴をされていますよね。学生時代に自分のキャリアについて考えていましたか? ご自身で望んだ結果なのか、自然に任せた結果なのでしょうか。」
実は私は、高校から大学まで自転車競技に打ち込んできて、将来はプロを目指していました。ですから、当時は就職についてほとんど考えていませんでした。
短距離では学生選手権6位、長距離でも10位入賞と、どちらでも結果を残せたのですが、プロとして、短距離の競輪を目指すのか、長距離のロードレースを目指すのか、ずっと迷っていました。短距離と長距離では、求められる筋肉やトレーニングも異なる中で、両方に挑戦し続けた結果、大学4年で膝を壊し、引退することになってしまったのです。
突然、「これからどうするんだ」という現実に向き合うことになりました。当時はまさに就職氷河期。必死に就職活動をして、なんとか3社から内定をいただきました。
1社は、建設会社の営業職。もう1社は、4年間アルバイトをしていたマクドナルド。そして最後が今はなき武富士でした。
建設会社は、まだバブルの空気が残っていて厳しそうだと感じました。マクドナルドは土日勤務が基本だったので、「これでは彼女を作れないな」と思いました。
一方で、当時はバブル崩壊後で銀行業界が勢いを失う中、武富士やアコムといったノンバンク業界が急成長していました。特別な理由があったわけではありませんが、「勢いのある業界なら面白そうだな」という感覚で、武富士を選びました。
「武富士に5年間勤められていますね。どういう業務をされていたのでしょうか?」
最初は、支店で資金の回収をしました。その後、本社に呼ばれて、経理部門の配属になりました。経理は全くやったことがなかったので、アカウンティングではなく、債権の台帳の整理などをしていました。
同水準の給与を求めて外資系企業への転職
「その後、外資系企業に転職されています。その理由を教えてください。」
一番大きかったのは、給与水準ですね。
私は人当たりの良さや、可愛がられる力には恵まれていたようで、武富士では周囲の方に引き上げてもらう形で給料も上がっていきました。仕事の能力で評価されていたというより、オーナー企業らしい、気に入られて伸びていくタイプだったと思います。当時としては、給与水準も比較的高い方でした。ただ、転職活動を始めると、大きく2つの壁がありました。
1つは、当時の武富士を取り巻く社会的なイメージです。社長逮捕など、さまざまな問題が報道されていて、会社のブランドイメージがかなり厳しい状況でした。
もう1つは、給与水準のギャップです。できれば同じくらいの年収を維持したいと思っていたのですが、転職市場ではなかなか難しかった。当時27〜28歳の平均は年収400万円前後。一方、武富士では600万円ほどいただいていました。転職によって年収は下がりましたが、少しでも条件の近い環境を求めて、最終的に外資系企業を選びました。
「どんな会社で、どのような業務を担当されたのでしょうか。」
世田谷にあるタイコヘルスケアジャパン(現:コヴィディエン)という医療機器メーカーに入社し、日本シャウトという会社へ出向する形で勤務していました。タイコグループ全体では、売上規模が約4兆円、医療部門だけでも約1兆円ある大きなグループで、その日本本部での勤務でした。
最初は、一般的な経理業務からスタートしました。武富士時代に得意だった売掛債権管理(AR)を担当し、その後は買掛金、固定資産管理と、半年くらいのペースでさまざまな業務を経験させてもらいました。当時の部長からは、「やる気だけはピカイチだな」と言われていました。私は「残業でも夜中でも何でもやります」というタイプだったので、どんどん仕事を任せてもらえたんです。一般的な経理業務をひととおり経験させてもらった後、決算業務にも携わるようになりました。

「日本のCFOもいらしたのでしょうか。その方との距離感はどうでしたか。」
日本のCFOはいましたが、かなり距離はありましたね。組織としては、課長代理、課長、部長、その上にCFOという階層だったので、直接の接点はほとんどありません。経理部門だけでも30人ほどいる大きな組織でした。
そこで驚いたのが、日本企業とはまったく違う「経理の強さ」です。
武富士時代の経理は、どちらかというと数字をまとめて決算を作る役割が中心でした。予算管理については、経営企画側が一部担っていたと思います。
一方、外資系企業では、CFOが予算管理まで担います。だからこそ、財務会計よりも、本社向けのレポーティングや管理会計、コントローラー業務の方が重要視されていました。数字を使いながらビジネスを発信していく。CFOがCEOと対等に話している会社は日本では少ないですよね。
私自身は、まず本社向けのレポーティング業務を経験し、その先にコントローラー、最終的には予算管理まで担えるようになりたいと考えていました。
「コントローラーになりたい」USCPAとUSCMAを取得
「それでUSCPAにチャレンジされたのですね。」
そうです。外資系企業では、レポーティング業務がいわば花形です。英語力に加え、米国会計基準の知識も必要で、給与水準も高かったのです。そこで、「外資系でキャリアを伸ばしていくにはUSCPA(米国公認会計士)が必要だ」と感じるようになりました。当時、厚生労働省の資格取得支援制度で25万円ほどの補助金が出ていたため、それを活用してUSCPAの勉強を始めました。その後、USCMA(米国公認管理会計士)の資格も取得しました。
そして、レポーティング業務を経験し、その先で管理会計や予算管理に携わって、ある程度経験を積んだら転職も視野に入れていました。
そんな時に、「どうせ辞めるなら、統計学を使った事業改善をやってみないか」と声をかけてもらったんです。そこからは、経理部門に在籍しながら、CFO直下で各部署の業務改善プロジェクトに関わるようになりました。
当時は、GE が生み出した「シックスシグマ」という業務改善手法が注目されていました。統計的な分析を用いて、「どこに無駄があるのか」「どこに集中すべきか」を可視化し、業務効率や品質を改善していく考え方です。私はブラックベルトとして、その改善プロジェクトの主導を担当していました。
「英語はどうやって強化したのでしょうか?」
英語には、本当に苦労しました。私はそれまで自転車競技一筋でやってきたので、入社当時のTOEICスコアは300点くらい。ほとんど英語ができない状態で、外資系企業に飛び込んだんです。会社の英語研修制度も活用して、ECCの一番基礎クラスから勉強を始めました。そこから1年半ほどでTOEIC700点台前半、2年ほどで810点くらいまで伸ばしました。とにかく、がむしゃらでしたね。仕事をしながら英語を勉強して、並行してUSCPAの勉強も続けていました。
外資系企業では、資格取得のために仕事をセーブする人も少なくありません。ただ、私は実務経験も同時に積みたいと考えていたので、両方やるスタンスでした。そうなると、削れるのは睡眠時間しかない。今振り返ると、あれは若かったからできたことだと思います。タイコヘルスケアジャパンにいた頃は、本当に仕事と勉強と英語、その3つにすべてを注いでいました。

