COLUMNコラム

#USCPAの記事一覧

#USCPA
リガク・ホールディングス株式会社
専務執行役員CFO 三木 晃彦 氏

大手外資系企業と日系企業でのCFO経験 唯一無二の存在が語る経営の醍醐味とは

憧れる人物像に近づきたくIBMに入社 「大学卒業後、外資系グローバルIT企業である日本IBMに入社します。なぜIBMを選んだのですか。」 学生時代の部活で音楽系クラブに所属していて、米国に演奏旅行する機会がありました。そこで最初に演奏したのがIBMのサンノゼ工場だったのです。この時のコンサートマスターがIBMに勤められていたOBの方で、ペラペラの英語で司会もされました。「こんな人がいるのか! この会社に勤めると同じようになれるのかな?」と思いました。そんな経緯から、IBMに勤めることに憧れの気持ちを抱きました。 IBMはコンピューターの巨人と呼ばれていて、100年以上の歴史を持つ世界最大規模のグローバルIT企業です。当時、「マルチステーション5550」という企業向けPCが発売され、学生時代のゼミで使用していたこともあり、身近に感じ始めていました。実際の就職活動では、安定感のある日系企業からも内定を貰ったので、どちらに入社するか迷いましたが、「自分が憧れを抱いた会社に勤めたい」という純粋な思いから、IBMへの入社を決めました。英語も好きで、コンピューター企業の将来性に期待していたことも後押しとなりました。 「結局20年ほど勤務することになりますが、どのような業務を担ってきたのか教えてください。」 システム・エンジニア志望だったのですが、入社してすぐに開発製造部門の一事業部における予算管理という部署に配属されました。現在、日本でも注目を浴びているFP&Aという管理会計の役割の一つで、IBMは経営管理においても、最先端の手法を取り入れていました。学生時代に会計の勉強を殆どしていなかったので、実務では早々に壁にぶつかりました。そこで会計のスキルを身に付けるべく、税理士試験の簿記論の勉強をはじめ、幸い合格しました。その後、開発製造部門の予算管理システムを刷新するという、大きなプロジェクトのユーザー側リーダーを拝命しました。悪戦苦闘の連続でしたが、入社3年で経験できたことは、自分を成長させる良い機会でした。 入社5年目で米国赴任に大抜擢 「その後、米国に異動しました。本社では主にどのような仕事をされてきたのでしょうか。言語の壁も含めて、苦労はありませんでしたか。」 入社時の上司が米国の本社に赴任されていて、その方が米国で担当した仕事を若い人にやらせたいということで、私を呼んでくださったのです。本当に有難いことでした。 一年目は、ニューヨーク州でAsia Pacific地域の製品企画部門の予算管理を担いました。二年目は、フロリダ州にあったパソコン研究所で開発費管理の仕事をしました。人生で最初の一人暮らしが海外でしたので、言葉、慣習、車の運転など、仕事以外にも毎日がチャレンジでした。ただ、年齢の近い現地の仲間と良い関係を築けたので、仕事や生活面で助けて貰い、休日も一緒にパーティーやスポーツ、習い事などをしました。おかげで赴任から約3か月で、すっかり溶け込むことができました。 米国公認会計士と米国公認管理会計士のW取得の効果 「税理士の簿記論を取得した後、米国公認会計士や米国公認管理会計士の資格を取得されたのですね。その理由を教えてください。」 米国公認会計士を取得しようと思ったのは、IBMの会計が米国基準でしたし、グローバルで活躍できるプロフェッショナルになりたかったからです。米国での生活が安定してから本格的に始め、日本に帰任後約1年で全科目を合格しました。米国公認管理会計士の資格は、米国赴任中にIBMの友人から薦められました。当時からIBMは、FP&Aの役割を重視していたからです。この資格を取得するには、原価管理、予算策定、予実分析、コーポレート・ファイナンス、投資の意思決定などを学びます。実際に勉強を始めたのはここから数年後でしたが、仕事に直結する内容でしたので、日々の業務と照らし合わせながら楽しく学べ、合格することができました。 「資格は仕事において役に立っていますか。」 米国公認会計士に合格した頃から、周りの人が自分をファイナンスのプロフェッショナルとして見てくれるようになったと感じました。また勉強の過程で身に付いた会計の知識は、自信に繋がりました。米国公認管理会計士については、実務で携わってきたことをセオリーで裏付けることができ、FP&Aの技術的なスキルを強化できたと思います。どちらの資格も、仕事において非常に役立っています。 「グローバルの外資系企業にいる上では、米国公認会計士と米国公認管理会計士の資格を持っていた方が有利なのですね。」 有利という表現が適切かは分かりませんが、個人的には、より有効に活かせると思っています。日本人の米国公認会計士は、英語が得意で、外資系企業の日本法人に勤める方が多いと思います。しかし、米国公認会計士が事業会社で働く場合の主戦場となる制度会計、開示、財務等の業務は、本社(海外)で行うものが多いです。子会社である日本法人だと、担当する範囲がどうしても狭くなると思います。また監査法人で働く場合ですと、米国公認会計士は日本で公認会計士の独占業務ができません。 では、活躍の場はどこが大きいかというと、グローバルで事業を展開し、US GAAP やIFRSを導入する日系企業での制度会計や、外資系企業における管理会計の分野だと思います。特に外資系企業は株主へのリターンを強く意識することから財務業績をとても重視するため、管理会計に関わる人員が日系企業に比べて多いと感じています。 管理会計に活躍の機会が多いという話をすると、米国公認管理会計士だけを取得すれば良いのではと思われるかもしれません。ただ私は、両方あると一層活きてくると思っています。米国公認会計士の資格取得を通じて、会計の基礎をしっかりと身につけることは重要です。その上に、米国公認管理会計士の勉強を通じて、管理会計のスキルが加わっていく。管理会計は応用編なので、適切な意思決定を支える盤石な会計知識が欠かせないのです。 価格設定担当者としての学び 「2年間の米国赴任を経て、日本に戻ってからはどのような仕事をされていたのでしょうか。」 当時、東京にあったIBM Asia Pacific(AP)本社(日本IBMの親会社)に出向となり、日本を含むアジア地域において製品やサービスの価格を設定する仕事に就きました。出向期間を終えて日本IBMに戻ってからは、当時のIBMが全世界で取り組み始めたアウトソーシング事業部に、価格設定支援の役割で配属されました。IBM AP本社に出向していた時の経験を生かして、アウトソーシングの価格設定モデルを開発しました。また大型案件の価格を設定する役割も担いました。これまで実務や資格取得の勉強を通じて習得してきた会計のスキルが、価格設定に必要となるコスト見積り、収益性分析などで発揮することができました。 ファイナンス部門は、ビジネスの現場に居る人たちから番人のように思われます。しかし、アウトソーシングの契約を締結するためには、ファイナンス部門の人の役割が重要でした。価格設定に関わるのみならず、お客様の会社のCFOに、アウトソーシングの財務上のメリットを説明することもありました。その際には、お客様の会計基準や管理会計手法を理解して話す必要がありました。自分の経験とスキルを最大限活用しながら、営業やサービス部門の人たちと一緒になって取り組んだ貴重な機会でした。そして部下を持つマネージャーに昇進しました。引き続き、多くのアウトソーシング案件の成約に組織として携わり、当事業を大きく成長させる一翼を担えたと思っています。 事業部CFOの戸惑い 「39歳でPC事業部のCFOとなります。責任範囲も広くなり、部下も増えたことに対して、戸惑いはありませんでしたか。また、CFOとしてどのような役割を担ったのかも教えてください。」 日本IBMの一事業部とはいえ、CFOという役割に当初はかなり戸惑いました。アウトソーシングの価格設定の役割は、どんなに大きな案件でも、成約するという観点で同じ方向を向いた人たちと仕事をしていました。それに対してCFOになると立場が異なります。事業部全体を売上・利益・キャッシュフローの観点で成長させる責任がある一方で、個別のアクションが適切であるかを冷静に判断する必要があります。営業部門から将来のために投資をしたいと提案があっても、こちらの分析では適切なリターンが見込めないため、意見が衝突することも少なくありませんでした。また内部統制をきっちりと浸透させる役割も重要です。事業のアクセルとブレーキをバランス良く踏む必要がある、難しい役割だと感じました。業績報告では「悪化している理由は何か?」「どうやってリカバーするのか?」という質問のみならず、「あなたは何に貢献できるのか?」「何をコミットするのか?」と問われることも少なくなかったです。 「そのような困難な状況にどのように対処していったのですか。」 当時の日本IBMのCFOから、事業部CFOの重要な役割は、事業部長やチームから「信頼されるビジネス・パートナーになること」だと学びました。専門性・スキル・経験は異なるものの、事業部もCFO部門も、会社や事業部を継続して成長させるというゴールは同じです。「一緒にゴールを目指す」と思えば、お互いが足りない部分を補完し合いながら、行動することができます。決して馴れ合うのではなく、対等な立場でお互いが良いところ・悪いところを指摘し合い、認めあい、補正しあいながら、共通のゴールに向かって進めていく。この姿勢が企業価値の向上に欠かせないことを学びました。そして業績報告においても、自分がビジネスのオーナーシップを持って説明できるようになりました。困難にぶつかった時には、この考え方に立ち返るようにしてきました。
#USCPA
元アマゾンジャパンCFO、元クラークスジャパンCEO
宮増 浩 氏

日系企業から外資系企業、そしてCFOからCEOへ。大きく変わっていった目に見える景色

日系企業で芽生えた「職人タイプを目指す」という思い 「大学卒業後、キヤノンに入社されています。そこでの業務内容と転職を考えた動機を教えてください。」 最初は資材部にバイヤーとして配属されましたが、一年ほど経って原価管理部に異動になりました。当時の主力製品であった複写機製品の構成部品を分解し、原価を計算し、それらの低減を進めてゆくことに取り組みました。転職を考えるようになったきっかけは、恥ずかしながら約11年間昇格ができなかったとこと、希望していた海外赴任が実現できなかったことでした。ただ一番大きかったのは、徐々に芽生えた自分の職業観が、会社の求めるものと違うと気づいたことでした。 当時僕が見た職業観は、会社人タイプと職人タイプの2つがあるように見えました。前者は、会社から与えられた求められたものを卒なくこなし、配置転換や転勤にもどんどん応じてゆくいわゆるジェネラリストタイプです。後者は一つの領域に特化し、ひたすらその専門性を高めてゆく、いわゆるプロフェッショナルのタイプです。僕は不器用で、捻くれ者だったので、前者に適応できませんでした。一方、原価管理や一部携わることのできた会計については、興味がどんどん膨らんでゆき、自分に合うのは後者だなと思い始めました。ところが、長く会社に勤めていると、重要な組織変更や人事異動の際に、前者が重宝され、後者がそうでなくなる傾向や、政治や派閥のようなものが見えてきました。 この2つの職業観を妻に話すと、彼女の生まれ育った英国では、終身雇用や前者は少数派で、むしろ後者が多数派で、彼女の両親や親戚もそうであることを教えてくれました。親しい友人に転職についてこっそり相談すると、ほとんどが「大企業を自ら辞めるのは愚かな選択」と言われ、大きな迷いが生じました。色々考えた末、どちらが正しい・間違いという答えはなく、どちらが自分に合いそうかという観点から、外資系企業への転職を決意しました。 その後、密かに転職活動を始めたのですが、散々な結果となりました。ある転職エージェントからは、「あなたは外資の経験も会計の経験もないですね。原価管理なんて会計の一部分しかないでしかないので、あなたの職歴に価値はありません」と言われました。10社ほどから同じような返答をされて、目の前が真っ暗になりました。また、他のエージェントからは、「あなたみたいな人は価値がない、このままでは将来何にもなれない」といった人格否定もされたほどでした。そこでカチンときて、「では、どうしたら僕は外資で働けるのですか?」と怒りながら聞くと、その方はしばらく考えたあと、「少なくとも資格がないとね」とおっしゃったのです。 「その一言がきっかけで、米国公認会計士の資格を取得されたのでしょうか。」 そうです。そのまま退席して、その足で神保町の三省堂に飛び込んで、確か当時の6階にあった資格コーナーに行きました。原価管理の経験を活かせる資格を探していった結果、公認会計士、税理士、MBA、米国公認会計士の4候補が挙がりました。公認会計士も税理士も難関ですよね。MBAも膨大な学費、滞在費がかかるため、消去法で米国公認会計士の勉強をすることにしました。会社に内緒で勉強し、2年ほどかけて合格しました。結婚したばかりでお金がなかったので、半分独学、半分予備校に行くというスタイルで学習しました。 モンタナ州で試験に合格、イリノイ州で登録後、転職活動を再開しました。当時のエージェントは限られていたので、2年前にボロクソに言われたエージェントを再度訪問しました。すると、米国公認会計士の資格をとったというだけで、手のひら返したような対応を受けました。僕の人間や人格が変わったわけではないのに、これほど外見で判断するように世の中は浅はかなのかと思いました。結果として、多くの企業を紹介いただいて、3社の中からインテルを選びました。 「その頃からCFOへの道は意識していたのでしょうか。」 その時はまだ意識していなかったですね。ただ、当時の僕は既に30代前半で、新卒でインテルに入社された方と比べて約10年遅れのスタートなので、早く追いつかなくてはいけないということは考えていました。 「インテルを選んだ最大の理由を教えてください。」 当時は、シリコンバレーブームで、今でいうマイクロソフト、アップル、デル、ヒューレットパッカード、サンマイクロ、オラクル、インテルなどのハイテク企業が急成長している時期でした。また、メーカーなので、とっつきやすいだろうと考えたという背景もありました。 衝撃を受けたインテルでの2つの出来事 「インテルに入社した初日に宮増さんの職業観を形作る経験をされたそうですね。」 入社した日に、米国人の上司からファイナンスチャーターという経理部の倫理規程の書かれた文書を渡されました。そこには、経理部のミッションは、①法を遵守すること、②資産を守ること、③利益に貢献することと、又、万一、これらに反するような指示が上司や関係者からあれば、それを拒否して、米国本社のホットラインに連絡するように書かれていました。以前、首を傾げるような上司からの指示や、これはどうかとうかなという慣習を受け入れた苦い経験がありましたが、このファイナンスチャーターを見て、心のわだかまりが取れたように感じました。また、ファイナンスチャーターの内容は、米国公認会計士が守るべき倫理規定と一貫した内容でした。これで職業人としての再スタートが切れるのだなと思いました。 また、当時の経理部コントローラーを務められていた石橋善一郎さん(※)にも大きな感銘を受けました。石橋さんは、平社員の僕にとって、3段階上の職責を務められ、雲の上のような存在でした。ところが、上司、同僚、部下へ平等に接し、正直で裏表のない人格者でした。会議でも、自分の意見を率直に理論的に述べ、他の違う意見にも耳を傾け、多くの出席者が納得のゆく結論を導き出していました。英語も堪能で力強く、米国人もうんうんと首をうなずきながら石橋さんの発言を聞いていました。それまで僕が見てきたリーダーシップ像とは全く異なるもので、自分も将来、このような方を目指したいと思いました。又、その時にCFOのビジョンが見えた気がしました。 「インテルではどのような仕事をしていましたか。初めての外資で戸惑いや苦労もあったかと思います。」 最初の2年は管理会計、次の2年は財務会計を担当しました。人事評価の厳しさには正直戸惑いました。年度毎の目標は、基本的に同一ポジションの前任者の実績を越えなければならず、具体的なアクションは上司と相談して決めます。評価は、その目標への達成度合いで客観的に判断され、フォーマルなもので半年に一度、インフォーマルなものは逐次行われました。また、部内で一位から最下位までのランキングも付けられ、グローバルレベルでそのレベリングが行われました。それらの結果が悪いと、勧告が出された後に、是正プログラムを受けなければならず、これに引っかからないように実績を上げることに必死でした。また、前職と比べ、自主裁量は大きく与えられた反面、仕事量は膨大に増えました。決算、予算、分析、監査、定例会議、プロジェクト、トレーニング等が目白押しで、夜中まで働き対応し、妻や生まれたばかりの子供に迷惑をかけてしまいました。 一方、トレーニングはとても充実していました。例えば、新人経理部員の3ヶ月目、半年後、1年後等に受けるべきトレーニングが決められており、多くのものは業務の如何に関わらず、1週間の参加が義務付けられていました。開催地は本社のあるサンタクララや、製造工場のあるオレゴン、アリゾナ、ペナン等、世界各地で行われました。トレーニング会場に行くと、国、人種、言語、年齢、性別、背景の異なる人で埋め尽くされ、まさに多国籍企業で働いているのだと実感しました。 「インテルでの4年間はすごく濃かったのですね。インテルで得られた経験や身についたスキルは何でしょう。」 最もありがたかったことは、外資系企業の会計業務の重要な部分の実務を経験し、全体像が把握できるようになった事です。財務会計では、主計、報告、監査、税務、固定資産等、管理会計では、予算策定、実績管理、分析、アクション策定等をこなし、米国公認会計士試験で学んだ理論を、そのまま実務で実践することができました。のちに僕が見たCFOには大きく分けて2パターンがあり、一つは金融系・MBA系出身者で、もう一つは現場系・CPA系でした。僕は後者に属しますが、その基礎ができた気がしました。 もう一つありがたかったのは、自主学習について、組織や国の壁を越えて、サポートしてくれる風土があった事です。当時、僕の業務に直接関係はありませんでしたが、連結決算と移転価格税制に興味を持ちました。前者は、自分が作成した日本の子会社の財務諸表がどのように米国本社で連結され投資家等に公表されるのか、又、後者は、日米間以外では、どのような処理が行われているのか知りたくなりました。社内のツテを使って米国本社の担当部署とその責任者を紹介してもらい、米国出張に合わせて面談を依頼すると、連結会計の責任者も、移転価格の責任者もあっさり引き受けてくれました。彼らにとっては、忙しい日常業務の中、日本から来た一担当者に時間を割く義務はありませんでした。ところが、どちらの方も丁寧にプロセスやシステムを説明をしてくれ、その後、関係部員を紹介したり、食事にまで連れていってくれました。彼らの親切さに感謝したと同時に、なんと懐の深い風土を持つ企業なのだなと思いました。不思議な事に、この二つの自主学習は、数年後、次に勤めた企業で役立つ事になり、詳細は後述します。 今、僕の職歴を振り返ると、初期にインテルで厳しい経験をした事が、インテルを退社した後も役に立ちました。例えば、目標設定は、上司や会社から求められなくても、自ら高い基準のものを、年度毎、月毎に設定するようになり、それは60歳になった今でも続けています。
#USCPA
元レノボ・ジャパン 取締役CFO、元日本ケロッグ合同会社 CFO
池側 千絵 氏

「楽しい」を原動力に仕事・子育て・学びを追いかけ続けてたどり着いた「自身の役割」

イギリス語学留学とP&Gファイナンス部門に入るまで 「外資系グローバル企業の日本子会社CFOとして活躍、現在はコンサルタント、教育者、研究者、並びに事業会社の社外取締役として活躍されている池側さん。時系列に沿ってお話をうかがっていきます。まず、大学在学中にイギリスに語学留学されていますが、その理由をお聞かせください。」 当時、将来どのような仕事に就くのかを深く考えていなかった私は、まわりに文学部か教育学部に進学する女子高生が多かったので、自分も文学部英文学科に進学しました。英語教師志望でなく、英文学科の学びにも関心を持てなかったので経済学部に入り直したいと思いながらも、友達ができ、ESS(English Speaking Society)という英語でディベートをする部活も楽しかったので、そのまま学生時代を過ごしていました。大学3年生の終わりの春に母とハワイ旅行をした時、現地での私の英会話を聞いた母から「英文学科なのに意外と英語ができないのね」と言われ、その一言がきっかけで留学をすることを決めました。 折しもバブルで父の会社の持株会の株価が上がって、今なら少し資金が作れると母が言うので(笑)。すぐに休学届を出し、大学4年生になる年の6月から翌年の2月までロンドンとパリの語学学校に留学しました。急に思いついたので大学に留学することはできなかったんですけどね。私が帰ってきたタイミングから、バブルで就職が楽になる時期に突入し、4月には外資のコンサル会社に、6月にはP&G(プロクター・アンド・ギャンブル・ファー・イースト・インク)に内定をいただき、早めに就活が終わりました。 「なぜP&Gを選ばれたのでしょうか。」 私は、男女平等のお給料をいただける会社で働くことを目指していました。すでに男女雇用機会均等法が施行されていたものの、日本の有名大企業では超高学歴の女性を総合職で少数雇用する程度。そこで、外資のP&Gに入社できたらいいなと思っていました。P&Gは職種別採用なので、会社説明会から職種別に分かれていました。マーケティングが有名なので宣伝本部の説明会に行ってみたのですが人があふれていたので断念し、隣の経営管理本部(ファイナンス部門)を受けてみることにしました。もちろんその頃はFP&A(Financial Planning & Analysis)という言葉もなく業務内容も知らなかったので、いわゆる経理部だと思っていました。実は、ロンドン留学の際に、英語以外にもできることを探そうと思い、ビジネスアドミニストレーションのコースを取り、英語で簿記を少しだけ学んだことがあったので、少しイメージが湧いていたのです。文系ですが数学が得意だったことも理由の一つです。 日本より20年は進んでいるP&Gでの経験 「P&Gで17年間ほど勤務されますが、どのような部門でどのような業務を担当されたのでしょうか。また、どのようなスキルを身に着けることができましたか。」 私が入社した時のP&Gは、本社が大阪にありました。しかし、「本社で新人を見る余裕はない」と言われ、パンパース、ウィスパーなどを製造している兵庫県の明石工場の経理部での勤務となりました。明石工場では、経理・原価計算を担当しました。半年ほどして、大阪本社に異動になり、先輩に教わりながら、日本支社全体の利益とキャッシュフローの管理をするようになりました。1年目の終わりになると、わけが分からないながらも、日本支社全体の中期経営計画や単年度予算をまとめたり、予算の進捗管理と本社への報告をしたりするようになりました。時代は1990年代、アメリカではFP&Aが始まっていたようです。経理部が1つのフロアに集まっていた時代から、経理部の中で事業に近い仕事をする一部の人たちは、事業部の中に席を置くようになったのです。P&Gでもその流れに沿って、3年目の私もビューティーケアのシャンプーやコンデショナー部門に席を置いてもらいました。 現在もある「パンテーン」というシャンプーを日本でローンチする時の財務分析は私が担当しました。当時の職場は、教育やプロセスが整備されておらず、あまりきちんと教えてもらえないのは当たり前でした。業務にあてる時間も長く、毎日11時半ぐらいまでひたすら働いていました。無駄な作業も多かったかもしれません。その後、明石工場に戻り、今でいうサプライチェーンファイナンス、工場のサプライチェーンの人々に張り付いて、購買から製造・物流まで一通り原価をコントロールする財務分析の仕事も経験しました。4〜5年目になると、本社勤務で課長になり、部下3名とともに日本支社全体の利益管理を担当することになりました。その頃までには、生理用品がすごく売れたこともあり、P&Gは神戸の六甲アイランドに30階建ての自社ビルを建てて、香港にあったアジアヘッドクォーターを日本に移しました。 それに伴い、私は日本部門からアジア部門に異動し、アジア13ヶ国の研究開発費と販管費を管理するという仕事を担当しました。予算管理のチームには、フィリピン人の上司がいて、その下で私が販管費を、他の人が利益を管理しました。そこで、アメリカ人のアジアCEO/CFOやアジアの優秀なメンバーと一緒に働けるようになりました。アジア社長と日本社長のアメリカ人がのちに本社の社長になるなど、消費者市場のレベルが高い日本がP&G本社でも注目されていたころでもありました。そのころからいよいよグローバル企業で働いているという実感を持てる環境になってきました。そのあたりから、女性活躍やダイバーシティの推進も始まっていきました。 「P&G は何歩も先に進んでいたのですね。」 1990年代には世界共通のERP導入が始まっていましたし、シェアードサービスが始まって経理業務を海外に移したり、全世界のブランドごとの損益を本社が集計して我々もパソコン上で見られるようになっていましたから、日本企業より20年以上進んでいる印象です。1995年には、阪神・淡路大震災が起き、六甲アイランドの本社ビルがしばらく使えなくなったので、大阪の臨時本社に出勤するということも経験しました。その後、32歳の頃に、日本の洗剤事業のファイナンス責任者である部長職(事業CFOポジション)にしていただきました。 実は、その少し前から出産を考え始めており、昇進を受けてよいか逡巡する時期でした。産婦人科に行ってみると、子宮筋腫と子宮内膜症と卵巣嚢腫と診断されて、入院して手術もしました。また、術後も継続して治療もしました。また、私は、経営管理的な仕事や会計まわりの仕事は得意で評価が良かったのですが、事業CFOの仕事は本格的に経験したことがなく、得意か不得意かさえも分かりませんでした。そういったことについて、当時のフィリピン人の男性上司とこまめにコミュニケーションをとっており、「人生の複雑な時期ではあるけれど、とにかくやってみたらどうだろう」と洗剤事業のCFOポジションを空けてくれたので、チャレンジすることにしました。将来子会社CFOの仕事をするには管理系と事業系の両方の経験が必要だと強く勧めてくれたのです。出産後には、わざわざ東京から日経新聞の記者が取材に来ました。「管理職になってから出産する」ことが珍しかったようです。