福島の企業へ転職
「その後、福島の外資系企業に転職されました。なぜその会社を選んだのでしょうか。ポジションがあったわけですか?」
タイコヘルスケアジャパンでお世話になった部長が定年を迎えたタイミングで、自分自身も次のステップを考えるようになりました。外資系企業ではありましたが、日本法人として長く根付いている会社だったこともあり、ある種の“壁”のようなものを感じていたんです。
レポーティングや提案はできても、最終的な意思決定をするのはコントローラーやその上の経営層です。自分はあくまで上司に報告・提案をする立場で、決定権はありませんでした。
もちろん、その立場で学べることは多かったのですが、一方で「自分で意思決定をしない限り、本当の意味で責任を負うこともできない」と感じるようになりました。そこから先の成長を考えた時に、「やはり、自分で判断し、責任を持てる仕事がしたい」と思うようになりました。
そんな時に、たまたま管理部門のトップ、いわゆるコントローラー職の話をいただき、転職することを決めました。オン・セミコンダクターという会社です。
「福島に転職とは思い切りましたよね。」
妻がアトピーを抱えていて、「空気のきれいな場所に引っ越したい」という思いがありました。ちょうどそのタイミングで、自分自身にも新しい挑戦の話が重なったので、「これはもう運命だな」と感じました。東京にも同じようなポジションはありましたが、地方でここまで裁量の大きい、チャレンジングな仕事に出会えることはなかなかありません。温泉も近くにありましたし、環境としても魅力的でした。入社したのは31〜32歳くらいの頃です。
実は、私は少し特殊な立場で、米国本社採用でした。日本法人では組織上、社長直属のように見えるのですが、実際のレポートラインはアメリカにありました。アジアリージョン直轄という形で、社長の経費精算ですら、最終的には私を通さないと承認されないような立場でした。採用面接もアメリカ・フェニックスまで行っています。実は時差ボケで寝坊してしまい、起きたら面接時間が終わったという失敗談もあり、本当に「よく受かったな」と今でも思います(笑)。
入社して、アメリカ本社で経営陣と話をしていく中で、「管理部門を全部見てほしい」という話になりました。肩書きとしては「財務経理部長兼管理部長」でしたが、半年ほど経つ頃には、経理・財務だけでなく、物流、購買、人事まで含めて、管理部門全体を統括する形になっていました。
大規模なリストラでメンタル崩壊
「責任も重いですし、経験したことのない部署も多く抱えることになったのですね。最初は戸惑いもあったのではないですか? 特に、年上の部長陣との連携も必要だったと思います。」
めちゃくちゃ大変でした。
ただ、私は短期間で集中的に勉強することは比較的得意だったんです。英語も1年ほど必死に勉強しましたし、USCPAも、USCMAも短期間で集中して学びました。前職時代に取り組んだ物流改善もそうです。新しい分野に挑戦すること自体にやりがいを感じるタイプなので、キャッチアップという意味では大丈夫でした。
一方で、組織面ではかなり難しさもありました。当時は、私の下に60歳前後の部長、45歳くらいの課長がいるような組織体制でした。外資系とはいえ、若い人間が突然上司として来ることには、やはり強い抵抗感がありますよね。だからこそ、周囲との信頼関係づくりは非常に意識していました。
当時の社長には、今でも本当にお世話になっています。会社として「いろいろ改善していかなければいけない」という課題感をお持ちの中、私を評価して、あのポジションを任せてくださったそうです。
「組織規模は、どれくらいだったのでしょうか。」
会社全体では700名くらいで、管理部門だけでも20名ほどいたと思います。
その後に会社を辞める理由にもつながっていくのですが、当時はマレーシアなどへの工場の移転が進んでいて、言ってしまえば大規模なリストラを進めなければならない状況でした。管理部門もほぼ半減しました。
最初の大きなリストラの時点で、かなり精神的にはきつかったですね。ただ、その立場にいる以上、やらざるを得ませんでした。誰を残し、誰に退職をお願いするのか、自分が面談をしながら判断していかなければならなかった。しかも、東京と違って、地方では次の仕事も簡単には見つかりません。再就職支援をどうするのか、その費用をどう負担するのか、そういったことまでアメリカ本社と交渉しなければいけませんでした。
何とかその局面は乗り越えました。結果としてコスト削減が進み、会社は過去最高益までいったんです。ところが今度は、「浮いたコストを使って、さらにリストラを進めろ」という話になった。そこで、自分のメンタルは完全に崩壊しました。胃が痛くて、2回も救急車で病院に運び込まれました。結局2年ほど勤めて退職しました。

「未来を救う」ディープテックの会社へ
「次はディープテックの世界に飛び込まれていますよね。そこまでリスクを取ったきっかけや気持ちをお聞きしたいです。」
ちょうど、2回のリストラ対応で精神的にかなり追い込まれていた時期に、テレビ番組『情熱大陸』で、「未来のロボット」という特集として CYBERDYNE が紹介されているのを見たんです。社長が、「テクノロジーで人の未来を救いたい」「少子高齢化という日本の課題に対して、ロボット技術で貢献したい」という想いで会社を立ち上げていたことを知りました。その考え方に強く惹かれたんです。転職活動を広くしていたわけではなく、「もう、この会社しかない」と思いました。
当時でも高齢化率は30%近くあり、「これからは高齢者が高齢者を支える社会になる」と言われていました。社会保障費を抑えるためにも、本当は働きたいのに身体的な理由で働けない人たちが、テクノロジーの力で長く働けるようになればいい、そう思いました。
リストラ対応に追われ続けてメンタルがかなり疲弊していたので、「未来を向いた仕事がしたい」という気持ちもありました。あと、外資系企業で本社に振り回される経験をしてきたので、逆に、「日本発で、海外も含めて世界展開していく会社」に強い憧れを持つようになったこともあります。
「どうやって当時の社長に自分を売り込んだのでしょうか。」
当時、採用ページは一応あって「これから会社を大きくして上場を目指す」と書かれていたので、連絡しました。それくらい、私はCYBERDYNEのHAL®(Hybrid Assistive Limb®)というロボットに未来を感じていたんです。
すると、「まず副社長と面談してください」という話になって、会津若松から筑波まで車で行って面接を受けました。その後、「もう一度来てください」と言われて、合計2回面接をしました。
「報酬面はどうだったのでしょうか。」
正直、報酬は半分、もしくは半分以下になりました。初年度は前年収ベースで税金がかかるので、かなり大変でしたね。
「ご家族から反対はなかったのでしょうか。」
結婚した当時も、そこまで高収入だったわけではなかったですし、妻はあまり何も言わなかったですね。当時、妻は福島で仕事を見つけて働いていたので、転職に伴って辞めてもらう必要がありました。それでも、「どうしてもこれがやりたい」と自分の気持ちを伝えたところ、理解してくれました。
「そうまでして選んだCYBERDYNEは、どのような会社ですか?」
CYBERDYNE は、進行性の神経難病や脳卒中、脊髄損傷の患者さんが装着することで歩行を支援する、世界初の装着型サイボーグ「HAL®(Hybrid Assistive Limb®)」を開発している会社です。
HAL®は、体から出る微弱な電気信号を読み取り、「自分がこう動きたい」という意思に合わせて動作します。そうやって思った通りに動くことを繰り返すことで、脳と神経のつながり方そのものを変えていくんです。つまり、筋力を補助するだけではなく、脳の使い方を再学習させる。だからHAL®はロボットではなく、医療機器として位置づけられています。「装着している時だけ歩ける」のではなく、外した後も歩けるようになる、そこが大きなポイントでした。
「管理部門の責任者として入社されたわけですが、上場を目指す上でどんな苦労がありましたか。」
前職で抱えていた仕事をきちんとやり切ってから辞めたいと思っていました。そのことを社長に話したところ、「そういう人の方が信用できる」と言っていただき、入社時期を半年待ってもらったんです。ただ、半年後に入社してみたら、すでに経理部長が入っていたんですよ(笑)。
「じゃあ、自分は何をするんだろう?」と思ったら、「経営管理部長として、アカウンティング以外を全部やってくれ」という話になったんです。そこからは、資金調達、社内規程の整備、内部統制の構築など、経理以外の管理業務を一通り担当しました。経理部長も部下ゼロ、私も部下ゼロ。今みたいにインターネットで何でも調べられる時代でもありませんし、もちろんAIもありません。だから、本当に全部、自分たちで手を動かして作っていきました。
当時は、会社として最低限の規程しか整っておらず、就業規則や定款はあるものの、例えば賃金規程すらない状態。雛形を探してきて、自社の実態に合わせて一つひとつ作り変えていかなければいけませんでした。そうやって、ゼロから少しずつ積み上げていった感じです。
「この仕事も楽しみながらできていたのでしょうか。」
今だから振り返って言えますけど、本当に「死ぬんじゃないか」と思うくらい大変でした。社長には「早く上場したい」という強い思いがあったので、必要な体制や仕組みを短期間で一気に作り上げなければなりませんでした。そうしたプレッシャーもあって、当時の経理部長が辞めてしまい、一時期は私が経理まで兼務していました。その後、監査法人から非常に優秀な方をご紹介いただき、経理をお任せできるようになりました。そこからは、自分は資金調達や上場準備など、より経営寄りの業務に集中していきました。

