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それからのCFO
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元アマゾンジャパンCFO、元クラークスジャパンCEO/宮増 浩 氏

日系企業から外資系企業、そしてCFOからCEOへ。大きく変わっていった目に見える景色

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※インタビュアー/バリューアップパートナー株式会社 代表取締役 大塚寿昭
INDEX

    大学で教えながら、戦略の理論を独学

    「Amazonを約4年で辞め、千葉商科大学の客員教授となった理由を教えてください。」

    Amazonである程度の貢献はできたと思いますが、同時に自分には経営や戦略の基本的な知識が欠けているということを実感しました。僕は大学では理工系、実務では会計系一筋で、経営や戦略の理論を学んだことがありませんでした。だから、これらに関する議論や提案の質も低く、ローカルCEOや事業部責任者の方々と比べると、自分がかなり劣っていると感じました。そこできちんと理論を学びたいと思いました。
    今更、MBAへ留学する年齢でもなかったので、CEOの仕事を外で探しながら、独学で経営、戦略の勉強を始めました。丁度そのときに千葉商科大学大学院会計ファイナンス研究科から管理会計を教えるポジションあるとお声がけいただいたので、そこで教鞭をとることにしました。同時に、日本実業出版会社から、「管理会計実践」という書籍の執筆依頼をいただきましたので、独学、教鞭、執筆の3つを同時進行させました。収入は激減しましたが、とても充実した期間を過ごすことができました。

    「その後、ナイキジャパンの売上総利益管理部長に就任します。そこでのミッションを教えてください。」

    経営、戦略の基礎が一通り理解できるようになり、自然とCEOやCOOを目指したいと考えていました。このポジションは管理会計に専念し、日本のCFOにレポートし、経営、戦略に携わることのできる、うってつけのものでした。ミッションは、言葉の通り、売上高、総利益の最大化を図る事にありました。四半期ごとの予算や長期の戦略を達成するために、頻繁に営業部と打ち合わせ、出荷、価格、在庫、値引き、返品等の具体的なアクション決めることが主な業務でした。
    当時の主力製品は、フットウエア、アパレル、エクイップメントで、その内、フットウエアの売上比率が高く、日々の業務を通じて、靴の市場がどのような状況で、消費者は何を求めているか、そこで自社の製品をどのチャネルに合わせて、売上高・利益を拡大してゆくか等の流れがぼんやり理解できるようになりました。もう一つ役に立ったのは、在庫管理とアウトレットビジネスの重要性です。これについては後述します。

    CFOからCEOとなった景色の違い

    「クラークスジャパンでCEOのポジションに就きます。CFOとCEOでは見える景色は全く異なりますし、責任が重くなりますよね。」

    はい、端的には、売上高〇〇、営業利益△△というような予算や目標値が与えられ、それが達成できれば来期も続投、できなければクビという世界なので、C F O 時代と比べ、プレッシャーが高くなりました。とはいえ、それを気にしたりいつも悩んでいるわけにはいきませんので、とにかく、長所短所に着目して、具体的アクションを練り、実行、修正を繰り返すだけでした。
    また、顧客、ブランド、組織、取引先等にも影響を与えるポジションなので、こちらも同様に強化しようと心がけました。実際にお会いしたり、ご挨拶させていただいた方の数もC F O時代と比べ、飛躍的に増えました。

    「CEOの話がきた際には、「やってやろう」という思いでしたか?」

    半分「はい」、半分「いいえ」でした。千葉商科大学、ナイキ時代の約4年間、希望を温めてきたポジションだったので、ローカルCEOに慣れたことは嬉しかったのですが、当時の上司であったアジアパシフィックVPから、「あくまで暫定措置で、別の良い候補者が見つかり次第、交代させる」と言われていたので、純粋に喜べませんでした。ただ、「業績を上げて、1日でも長くCEOを務めよう」という思いはありました。
    又、無理をしたり、格好つけることはやめようと思いました。営業やマーケティングの経験がないので、「戦略はこうすべきだ」、「事業改革はこうすべきだ」と掲げても空回りや失敗すると思いました。始めのうちは、あくまで、売上高、利益等の実績を残すことのみに専念しようと考えました。

    「CEOになって、まずはどんなことに取り組みましたか。」

    CEOになって数ヶ月が過ぎた頃、最初の危機が訪れました。大手顧客から頂ける来期の受注が大幅に悪化する情報を得ました。当時は、売上高のほぼ全てを卸事業に頼っていたので、もしそれが起これば、今期の売上高、利益は予算、昨年比を下回ることとなり、会社の業績が大幅に悪化します。又、僕のCEO在任もそこまでになります。
    来期の受注は今期の店頭販売にほぼ連動して決められており、今期の店頭販売は、婦人靴の百貨店での不振が続いていました。その理由を、営業責任者、商品企画責任者等に尋ねると、「ブランド力が落ちている」、「足入れが悪い」、「競合が伸びてきている」等、一般的なもので、いま一つ腑に落ちませんでした。自分でも社内のデータを見ましたが、これといった理由は見つかりませんでした。

    そんな時ふと思いついたのが、アポなしの店頭訪問でした。平日の夕方、都内の主要百貨店を、アポなしで一般顧客に混じって一人で訪問し、現場や顧客、競合等を自分の目で確かめました。始めに着いたある銀座の百貨店で、まず目に入ってきたのは、婦人靴売り場では、ある商品の人気が高く、多くのブランドがその商品を全面に打ち出していました。消費者の方々も、そのコーナーに多く滞留しており、試着や購入も多いことがわかりました。ところが、自社のその商品の在庫はなく、代わりに別の商品が棚に並んでいました。その後、銀座地区のその他の百貨店、新宿地区、池袋地区の百貨店をまわりましたが、状況はほぼ同じでした。その後、社内に戻り、店頭販売不振の理由の再調査をしました。

    その詳細を語ることは出来ませんが、いくつかの要因が重なり婦人靴の百貨店での売上高が悪いことを突き止めました。
    それらはブランドや商品には起因しておらず、人為的、システム的なもので、そこさえ改善すれば、来期の店頭販売は回復できると推論しました。受注の期限が迫っていたので、それを裏付けできるデータや写真等のバックアップ資料をまとめ、大手顧客の上層部の方に直訴にゆきました。彼らも今期の売上高不振の理由がいまひとつ不明瞭だったので、僕の分析、提案はある程度信頼、理解して頂くことができました。結果、来期の受注は、今期とほぼ同等を頂くことができ、最初の危機を乗り切ることができました。この経験から、データのみならず、現場の重要性を痛感しました。これを機に、全国の売場を見て回る事を始めました。売場は、大小合わせると100箇所を超えていたので、社内会議を月曜日に集中させ、それ以外の日を外出に当てました。

    次に進めたのは、旧品在庫の現金化、小売事業の立ち上げでした。僕がCEOになった時、自社の旧品在庫は、グループ企業内では問題視されていませんでしたが、他社の経験から高い水準にあると思いました。また、ナイキでの経験から、ブランド企業にとってアウトレット事業は不可欠で、旧品在庫の処理にとどまらず、安定した売上、利益を生み出し、新商品を市場に循環させ、上手くすればブランド価値向上にもつながると認識していました。そこで、小売事業を立ち上げ、旧品在庫を現金化しようと思いました。

    上司に相談したところ、同意、承認していただき、第一号店を岡山県倉敷市に出店しました。初期投資、費用を抑えるため、アウトソーシングを使いながら、最小限の追加人員でスタートしました。多くの社員は小売の経験がなかったのですが、献身的に立ち上げに協力してくれました。中でも、特に店舗開発、マーケティングの責任者は、正に職人と呼ばれる様な仕事ぶりで、関係者の賞賛や信頼を得て、実績を積み重ねました。出展は加速し、全国で10店舗ほどになりました。

    この後は、eコマース事業にフォーカスし、自社サイトを立ち上げたり、マーケットプレイスも急拡大させました。新たに採用したeコマース事業責任者も正に職人と呼ばれる仕事ぶりで、素晴らしいチームを築いてくれました。彼女は、グループ企業内でも常にトップの成長率を達成し、マーケットプレイスから何度も表彰を受けました。
    上記三人に加え、管理会計責任者からも、重要なデータ、アドバイス等を提供いただきました。これらの方々のお陰で僕は、重要な舵取り、顧客、取引先、英国本社等との調整等にフォーカスする事ができ、いくつもの危機を乗りきる事ができました。

    結局、6年間弱CEOを務めますが、その後はどんなことに注力しましたか。

    卸、小売、eコマース事業が揃うと、安定した売上高、利益が確保できる様になりました。僕にも若干の余裕の様なものが生まれ、次はブランド価値向上を目指そうと思いました。当時、僕の見たフットウエアやファッションブランドには、2つのタイプがありました。一つは、そのブランドの伝統にこだわり続けるもの、もう一つは、伝統や中核の部分は残しつつ、一部、イノベーションや時代の変化を取り入れるものでした。僕の主観では、ナイキは典型的な後者の成功例で、クラークスもその要素をもう少し取り入れても良いのではと感じていました。

    当時のクラークスの消費者層は、海外文化に精通し、伝統的なファッションを好み、百貨店や専門店で購入する中高年層が大きな比率を占めていました。顧客層を広げる、ブランド価値向上のために、もう一段階若く、音楽、文化、ファッションを一体に捉え、カジュアルなファッションやスニーカーを好む層を狙ってみたいと思いました。
    その構想や具体案、予算等をまとめ、社内や僕の上司、英国本社と議論を重ねました。約半分が忠義的、残り半分が反対、上司がどちらでもないという立場であったので、とりあえず、日本独自のプロジェクトとしてスタートさせました。

    「具体的にどのように進めたのでしょうか」

    まず、営業政策をプッシュ型からプル型に変えました。プッシュ型とは、小売の店舗、卸の取引先、取扱う商品数を増やし、市場に商品を大量投下することにより、事業の拡大を図る方法です。一方のプル型は、その様な行為を抑制し、その代わりブランド発信を消費者に直接行い、もし消費者が気にいってもらえれば、自然な形で事業の拡大を図る方法です。当時、フットウエア市場はある意味飽和状態と感じていたので、逆の発想を試そうと思いました。
    次に、マーケティングのSNS、シーディング、イベント、コラボレーションを従来のものからスニーカー世代に共感してもらえる様なものに大きく変えました。ある商品がコアなヒップホップ文化と相性が良かったため、この部分にフォーカスし、商業さを抑えた、オーセンティックで、オーガニックなメッセージを発信し続けました。

    このような日本独自の活動は、SNSの媒体を通じて行われるため、その内容は、英国本社に筒抜けでした。「これは良い」、「これはダメ」、「これはやり過ぎ」、「これは伝統をぶちこわす」等、大論争が起こりました。ブランドという無形のものを対象とし、正しい、間違いを定義しづらいマーケティング活動について、このプロジェクトを仕切ってくれたマーケティング責任者と僕への風当たりが日々強まってゆきました。
    そんな中、市場のSNSを包括的に把握できるシステムがあることを知り、それを導入し、詳細を調べてみました。すると、閲覧数、投稿数、内容、属性、その後の行動、拡散度合い等は、ほぼ狙った一段若いスニーカー層に浸透しているがわかりました。売上高や、新規取引先も同様の結果を示していました。これらの2つのデータを、英国本社や関係者に報告すると、反論や風当たりは徐々に収まり、日本以外の国でもこれに似た動きが少しづつ出てきました。

    「ここでも、データ主義、現場主義が役に立ったのですね。」

    はい。現場主義は、現代のネット、デジタル、バーチャル、人工知能等の世界と逆行していますよね。ただ、昭和生まれの僕にとっては、とても重宝しました。
    又、現場主義は、当初、現場を「見る」、現場の人の意見を「聞く」から始まりましたが、徐々に現場に「参加する」、現場で「働く」が加わりました。接客、販売、店舗管理等を店長の方々から教えてもらい、店舗に訪問した際に、消費者に靴を販売したり、その他のサポート業務するようにしました。結果は、売れたり売れなかったりでしたが、現場の方々の考えを理解し、彼らとの距離感を縮め、実質的な経営を進めるには効果的でした。

    元アマゾンジャパンCFO、元クラークスジャパンCEO
    宮増 浩 氏
    1986年 キャノン株式会社 入社 1997年 インテルジャパン株式会社 入社 2001年 MSCソフトウェア株式会社 アジアパシフィックCFO 2005年 アシストシンコー株式会社 CFO 兼 SVP 2007年 アマゾンジャパン株式会社 CFO 2011年 千葉商科大学会計大学院 客員教授 2012年 ナイキジャパン合同会社 売上総利益FD 2014年 クラークスジャパン株式会社 CEO