COLUMNコラム

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#CFO
HYUGA PRIMARY CARE株式会社
取締役 CFO 大西 智明 氏

経営者の生き方とは山頂がない山登りのようなもの。挑戦と努力を続けて社会へ恩返しをしたい

「ビジネスは面白い」という気づき 「大西さんは、中部電力のプラントオペレーターからキャリアをスタートしていますね。技術畑の方がビジネスに興味を持った背景を教えてください。」 原子力発電所で働いていた入社2年目の頃、発電所の運転課長である上司にビジネスマン育成研修に行くように勧められました。内容もわからないままに参加したのですが、困難を乗り越えるための方法やマインドなどが研修テーマで、「お! ビジネスって面白いな」と興味を持ったのです。そこから、ビジネス書も読み始めました。社内のベンチャー育成制度に応募していました。ベンチャーとしては立ち上げることはできませんでしたが、社内公募制がスタートしたので第1号として、本社の経営戦略本部という企画部門に異動しました。そこでは、ベネッセコーポレーションとの介護事業や不動産開発事業などの新規プロジェクトにも携わりました。 「そういったご経験を経て、会計事務所に転職されていますね。」 会計事務所への転職の理由は、名古屋から福岡に帰らなくてはならないという家庭の事情がありました。自分が担当して作った中部電力の子会社に異動する予定があったのですが、結局難しくなってしまったので、それならば経営コンサルタントをしてみたいと思ったのです。コンサルティング会社のような社名だったので転職したのですが、実際は会計事務所でした(笑)。経営に携わりたいという思いがあったので、企業の社長とお話しできる機会が多いことはありがたかったのですが、税務や会計について詳しく学ぶ修行期間がありました。 事業再生の会社の中での経験 「会計事務所での2年間の修行を経て、事業再生を検討する企業へ取締役CFOとして転職されています。なぜあえて厳しい道を選んだのでしょう。」 取締役CFOというと格好良く聞こえるかもしれませんが、そんなことはありません。従業員が20名くらいの会社です。会計事務所でお手伝いしていた会社で、創業者の社長から「もう年やけん、辞めたい」と相談されていました。会計事務所で事業承継のサポートをしようと考えていたのですが、当時は、今のように一般的ではなく、反対されてしまいます。そこで、僕が会計事務所を辞めて、社内に入り、事業承継の支援をすることにしたのです。会長にはお子さんがいらっしゃらなかったので、社内昇格で承継を進めていこうと考えていた矢先に、リーマンショックが起こります。売上が半分以下まで減少し、赤字に転落しました。先に事業再生しなければ承継どころではないという状況に陥ってしまったのです。 「それは大変でしたね。その中で、最も苦労したことを教えてください。」 とにかくお金がなかったことです。従業員に給料が支払えなくなりそうな時には、私個人の貯金を会社に入れて賄いました。日単位ではなく、分単位で資金繰りをしていました。当時まだ手形の割引をしていたので、朝、割引するために銀行へ向かいました。銀行員に「本当にこの現場は稼働していますよね?」と確認され、車で現場にお連れして、「ちゃんと動いているでしょう」と安心してもらい、ようやく手形を割引いてもらってお金を作ったこともあります。 「事業再生は辛く苦しいと思いますが、何がモチベーションになっていたのでしょうか。」 本当に「ビジネスやっているな」という感覚があったことでしょうか。お金がなかったので、税理士も弁護士も社労士も雇えず、全て自分たちで一つずつ乗り越えていきました。止血をするために、コストカットもしました。法人税の申告書も手書きで作成しましたし、週1回、従業員に休業をしてもらい、それに伴う休業補償などの労務の対応もしました。また、訴訟についても「どうせ負ける裁判なら1人で行ってきます」と裁判所に行ったこともありました。そういう意味では、あまり自分の領域を限定しないようにしています。新規事業を立ち上げたときは自分で営業も行います。設計図を書いて、机を作ったこともあります。福岡の三越の時計売り場の修理工場の机は、私が設計した机で、10年経った今でも取り扱い会社のカタログに載ってます。 「振り返ってみて、この時期にはどのようなスキルが必要だったと思いますか?」 小さい会社だったので、「これが私の仕事です」と制限していたら会社は良くなりません。「何でもやる」という気持ちで、そのときどきで必要な勉強をして、すぐ実行していきました。そういうマインドやスキルは必要だったように思います。 「よく心が折れませんでしたね。大西さんは、精神的にも体力的にもタフなのでしょうか。」 そんなことはありません。ただ、思い起こせば、原子力発電所の運転員のときも、たまに火報がなると1番最初に現場に到着していました。トラブルなどがあった時に躊躇しないタイプではあると思います。 「社長とはどういう関係性でしたか。」 「これをやらなければ倒産する」という状況なので、お互いに「これでいこう」と合意したら、すぐに実行するという状況でした。ぶつかったことはありません。「大西ちゃんが言うならそうしよう」と言ってくれていました。信頼関係がなければ、会社は倒産していたと思います。 「そういう苦しい状況の中でMBAも取得されていますよね。よくMBAにも目を向けられましたね。」 元々興味があったんです。中部電力には、素晴らしい学歴の同期が多く、海外へMBA留学をする人もいました。でも僕は高専卒で、大学卒の資格がないので、それにチャレンジすることもできなかった。しかし、ある時、高専卒でも論文を2〜3本書くことで入学できるビジネススクールがあることを知って、大前研一さんが誰かもよくわからないまま、大前さんのビジネススクールに飛び込んだんです。取締役は、時間を自由に使えるので、隙間の時間を有効に活用して勉強し、3年間かけて卒業しました。
#CFO
石橋 善一郎 氏

【前編】FP&Aプロフェッショナルが目指したCFOへのキャリア。そして、その先に見えた自身の役割とは

FP&AプロフェッショナルとしてCFOを目指す 現在は、「CFOのその後のキャリア」として、職業人団体や会計大学院・経営大学院でCFOを目指すプロフェッショナルへの啓蒙および教育活動をなさっている石橋さん。現在に至るまでのご経歴を時系列で伺います。 「大学卒業後、富士通に入社していますが、いつ頃からCFOという職業を意識したのですか。」 私は、1982年に富士通に入社して、経理部でも財務部でもなく、海外子会社の事業を管理する海外事業管理部に配属されました。1980年代の日本において、CFOという概念はほとんどありませんでしたので、国内勤務の3年間は、経理や財務のスキルを使って事業管理を行う経営管理業務が自身の仕事だと認識していました。4年目にシリコンバレーにある富士通アメリカへ駐在となります。ここでも、電算機、通信機、半導体などの製品事業部レベルの富士通アメリカの子会社(富士通の孫会社)の事業管理をしていました。この時に初めて、CFOという職業に出会います。各子会社に米国人のCEOとCFOがセットで配置されていました。彼らと仕事をする中で、CFOの仕事とは、経理や財務だけでなく、むしろ最もメインの業務である事業管理や経営管理を行うFP&Aという仕事であるということを知りました。当時はCFOになりたいという思いは抱いていませんでしたが、振り返ると、ここで出会ったCFOの方々が後の私のロールモデルの1つとなりました。 「FP&Aについて、簡単にご説明をお願いします。」 FP&Aの定義は誰に伝えるかが大事なので、日本企業の子会社で事業管理をしていた20代の私自身に向けた説明をします。FP&Aとは、本社レベルではなく事業部レベル(工場や営業所や研究所や子会社や海外子会社をイメージしてください)で、事業戦略の形成・実行の当事者としてビジネスパートナーになり、中長期的に事業価値を成長させることです。そして、そのためには、事業と事業戦略を理解すること、事業部のことを理解すること、事業部の人々と仕事上の関係を構築することの3点が大切です。FP&Aを構成する主要な要素は、FP&Aプロセス、FP&A組織、FP&AプロフェッショナルおよびFP&Aテクノロジーの4つです。もっと詳しく知りたい方は、拙著『CFOとFP&A』と『FP&A入門』(いずれも中央経済社)を参考にしてください。グローバル企業においてFP&A組織は、CFO組織の真ん中に存在します。 日本でのキャリアに夢を描けずMBA取得へ ・その後、スタンフォード大学に留学された理由を教えてください。 富士通アメリカで3年働いた後、自分が日本本社に戻るイメージが持てませんでした。正直なところ、日本企業におけるサラリーマンの働き方やキャリアにあまり夢がないなと思ったのです。そこでMBAを取得しようと決意しました。当時はMBA取得後に何をするかのイメージはなく、CFOに就くことも意識していませんでした。ただ、MBAが何かになるためのステップになるのではないかと思ったのです。そして、どうせ学ぶのであれば、最高のビジネススクールがよいと考え、スタンフォード大学のビジネススクールに入学しました。MBA課程では、1年目は、戦略論やマーケティング、統計学、ファイナンスなど経営学全般を学びました。2年目の選択科目は管理会計や企業財務関連の科目を中心に履修しました。MBAで学んだことは、FP&Aプロフェッショナルとして真のビジネスパートナーとなることの基盤になりました。現在、会計大学院・経営大学院で教えていることも、ここで学んだことの延長線にあります。 「目指すべきはCFO」と気づいた経営コンサルタントとしての経験 「その後、経営コンサルタントになっていますね。」 MBA取得後は戦略コンサルティング会社で経営コンサルタントとして働くことにしました。ただ、1年ほど働いて、自分のやりたいことではないと気がつき、退職しました。経営コンサルタントは組織の外から経営者をサポートする仕事。私は企業の中で直接、経営に関わりたかったのです。キャリア選択の際に私が大切にしてきたことは3つあります。1つ目は、「自分はその仕事が好きか、嫌いか」ということです。私は、スタンフォード大学経営大学院での学びと会計や財務の知識を活かした業務に携わりたいと考えていましたが、公認会計士のように監査法人で働きたいわけではなく、企業内で事業に関わりたいと思っていました。 2つ目が、「その仕事は自分に向いているか、いないか」ということです。私は数字を扱って客観的に説明することが得意なので、それに関わる仕事がしたいと考えていました。3つ目は、「その仕事からの経験と自己学習を積み重ねることによって、長期間においてプロフェッショナルとして成長を継続することができるか」ということです。経営コンサルタントの仕事に携わる中で、「グローバル企業においてCFOはCEOのビジネスパートナーとしてFP&Aの仕事をしていた。もしかしたら、CFOという仕事こそが、私が好きで、得意で、将来の自分にリターンがある仕事かもしれない」と思うようになったのです。 インテルへ入社し、真のCFO組織に出会う CFOを目指すならば、どこの企業がいいのかを考えました。当時は日本企業にCFOという役職が存在しませんでしたので、外資系企業で働くしかないと思いました。そこで、当時シリコンバレーで人気があった、Intel、Microsoft、Apple、Sun MicrosystemsなどのIT企業の日本法人数社に、「私は将来CFOになりたいです。ただ、まだマネージャーにもなったことがありません。CFO組織のマネージャーとして入社させてください」とレジュメを書いて送りました。その中から、インテル日本法人のカナダ人の社長が、「1回お会いしましょう」と返事をしてくださり、東京本社で面接をすることになったのです。 当時、インテルの日本法人には、20名ほどのCFO組織があり、経理、財務、FP&Aの3つのセクションがありました。すでにマネージャーがいらしたので、新設のセクションを作ってもらい、マネージャーとして入社しました。その後、FP&Aセクションのマネージャーが退職されたので、FP&Aセクションのマネージャーになりました。 「その頃のCFOのロールモデルはいたのでしょうか。」 インテルには、米国本社に本社CFO、その下に米国、欧州、日本およびアジアの4つの地域にも4人の地域CFOがいました。日本法人のCFOは本社CFOの直属の部下でした。インテルのCFO組織は風通しが良く、全世界のCFO組織のメンバー全員がチームになっていました。つまり、インテル日本法人に入社した瞬間に、グローバル企業のCFO組織が見えるようになったのです。私にとっては、CFOになるための役割を学ぶことができる多くのロールモデルの方々と出会うことができる組織でした。 さらに、経理組織、財務組織とFP&A組織の関係性もよく分かりました。 言い換えるならば、FP&Aプロフェッショナルは、CFOになるための一丁目一番地にあるということが見えてきたのです。私には、ずっとFP&A組織のリーダーでいたいという思いがありました。本質的には、FP&Aは経営管理であり、CEOが担うべきものです。経営者として最終的にはCEOに就きたいと思っていましたが、そのステップとして、CEOのビジネスパートナーのCFOとして経営に関与したいと思うようになったのです。インテルに入社して、CFOを目指すFP&Aプロフェッショナルとしてのキャリアへの思いを再認識しました。
#CFO
石橋 善一郎 氏

【後編】FP&Aプロフェッショナルが目指したCFOへのキャリア。そして、その先に見えた自身の役割とは

日本トイザらスでの楽しさと苦しさ 「次も再生ファンドの投資先であるトイザらスに転職されます。なぜあえて大変な会社を選んだのですか。」 D&Mが東証一部に上場したときに、これから5年間ここで同じことをするべきだろうか、と考えました。そんな時、別のPEファンドから、「日本トイザらスって知っていますか? 2年連続赤字ですが、事業再生したいのでCFOとして入社しませんか」という電話があったのです。そこで、私の希望を伝えました。1つ目は、単なるCFOではなく、副社長として入ること、もう1つは、副社長CFOで成功できた暁には社長にしてもらえること。この2つに対して米国本社社長と面談をした際に了承を得たので、転職を決断しました。CFOがやるべきことはCEOの真のビジネスパートナーとして経営することです。でも、本当にしたかったのは、CEOとして経営することでした。ですから、CEOになれる可能性があるCFOのポジションに着きたいと思っていたのです。 「日本トイザらスではどのような経験をされましたか。」 日本トイザらスには、代表取締役副社長兼CFOとして入社し、CEOの信任を得て従来のCFOを超えた役割を担うことができました。店舗運営や店舗開発、サプライチェーンや物流やEコマースを担当しました。事業会社ならではの本当に楽しい経験でした。日本トイザらスは全国に160店ほどあるのですが、入社した3年間で全店舗を訪問しました。北海道や九州などへは、休みの日に自費で店舗を訪問し、店長さんと話をしました。また、日本にある2つの大きな物流センターでは、生産性を上げるためのプロジェクトの一員になって、繁忙期であるクリスマスの乗り越え方を考えたり、実際にクリスマスに応援として出荷作業に従事したりもしました。他にも、実店舗だけでは売り上げが下がっていくので、オンラインストアが必要だと考え、電子商取引のためのオンラインシステムの開発のプロジェクトのリーダーになって、ゼロから日本でシステムを開発しました。こういったことが、事業管理に携わることの本分だと思っています。 私のCFOのスタイルは、CFOとして事業部長のビジネスパートナーになることでした。事業部長は、店舗運営の専門家、物流業務の専門家、電子商取引の専門家です。彼らとチームになって、日本トイザらスのために新しいことをどうやっていくかを考える。それが私にとってはCFOの仕事であって、事業会社における仕事の1番楽しいことでした。 一方で、難しかったことは、CFOとしての守りの役割とビジネスパートナーとしての攻めの役割をどのように両立させるかということでした。例えば、店舗開発戦略や物流戦略やEC戦略を実行するための投資を行う際に、日本子会社の代表として米国本社に投資案を提案する立場にあったのと同時に、CFO組織の一員として投資案を審査する立場にありました。CFOは企業価値を守る責任を有している一方で、CEOのビジネスパートナーとして企業価値を成長させる責任を有しています。2つの役割を持っているわけです。 「CFOの場合、CEOとの関係で一番注意しなければならない点は何でしょう。」 CFOにとって、CEOは最も大事なビジネスパートナーです。CEOの成功は自分の成功につながります。しかし、一口にCEOといっても様々な人間がいます。仮に、CEOと衝突してクビになったとしても、転職できるようにプロフェッショナルとしての専門性を磨き続ける必要があると思います。日本トイザらスで10年間働き続けられたのは、CEOとの関係が良かったからです。カナダ人の女性で、人格・識見ともに立派なCEOでした。彼女と一緒に仕事をすることで小売業を1から10まで勉強させてもらうことができました。CEOとの信頼関係を築くために、2つのことを心がけました。 1つ目は、客観的な視点で事実を基に議論することです。CFOが得意なのは、数字から経営戦略についての話をすることです。物流、営業、サプライチェーン、業務部門などの部分で、数字で戦略実行のサポートするところは非常に大事だと思います。CEOにできないことをフォローすることが大切ですね。もう1つは、CEOとビジネスパートナーとして共通の目標を設定し、結果を出すことです。チームとしていかに目標を設定して、その目標に向かってPDCAサイクルを回すか。損益計算書の目標管理も大事ですが、それだけではありません。チームとして業務上オペレーションの目標も設定して、それを達成できるかどうかまで見る。例えば、人員計画もそうですし、各部門の配置人数、何カ月後にはどうなるかというところまで、全部CFOとしての視点が重要だと思います。この面でCFOを支援するのがFP&A組織なのです。 CFOの役割と魅力 「一言でCFOの役割を教えてください。」 CFOの役割は中長期的に企業価値を上げることです。企業価値は事業価値の総和です。事業価値とは、事業部が生み出すキャッシュフローの現在価値です。これは、企業財務では、本質的価値と呼ばれています。CFOが本当に目指すのは、事業部が生み出す事業価値の本質的価値を中長期的に最大化することです。株主価値とその市場価値の最大化ではありません。企業価値をどうやって上げるかがCFOの役割の根幹にあります。 「では、CFOの魅力はなんでしょうか。」 1つ目は、プロフェッショナル(Professional)として自分の経験や学習から蓄積した後天的な才能を活かすことができることです。私はCFOが日本企業におけるCFOのように、ある日突然、会社の都合でなるものだとは考えません。それは実務家(Practitioner)です。CFOはFP&Aプロフェッショナルがキャリアを通じて目指すものだと考えています。私はFP&Aプロフェッショナルとしてのキャリアの途中で、資格試験やMBA取得の過程で学び続けることの重要性を実感しました。CFOを目指すキャリアは、プロフェッショナルとして学び続けるキャリアなのです。 もう1つは、3つのC、CEO+CFO+CHROの一つである経営チームの一員であるということです。「人的資本経営」の伊藤邦雄先生のレポートには、CEO、CFOと並んで大事な3番目の役割がCHROだと示されています。他にもCがつく役職がありますが、CEOとCFOとCHROの3つのトライアングルが経営者チームの根幹です。CFOは経営者チームの一員であるということが、CFOの魅力だと思います。人的資本経営の本質は、3つのCのトライアングルで経営戦略と人材戦略を形成・実行することによって、中長期的に企業価値を成長させることです。株主価値とその市場価値の最大化を目的としてCFOが投資家と対話することは、人的資本経営の本質ではありません。
#CFO
渡邉 淳 氏

多様な経験から辿り着いた「誰かの役に立ちたい」という思い。学び続ける先に待つものとは?

ゼロからの会計士受験への挑戦 「高専卒業後、富士通に入社してエンジニアとしてのキャリアをスタートしていますが、その後、1回目のキャリアチェンジで公認会計士の勉強を始めます。これはなぜですか。」 正直にお答えすると、自分がエンジニアとしてまったく使い物にならなかったからです。典型的な大企業勤務のダメなサラリーマンでした。3年間で富士通を退職し、エンジニア職ではない仕事をしたいと思いましたが、世の中そんなに甘くありません。そこで、資格を取得してやり直そうと考えました。難関資格で、高専卒でも受験ができ、かつ興味が持てたのが公認会計士資格でした。書店で、資格の大辞典のような本を見つけ、そこに「難易度は高いが、給料もよくて会社の経営に物申すことができるすごい資格」といったことが書かれていて惹かれました。周囲に会計士はおらず、7科目中1科目も学んだことがない、本当にゼロからのスタートでしたが、チャレンジしてみようと思いました。 「受験勉強は辛くなかったですか?」 暗黒時代ですよね。最初の1年間は、毎日勉強しかしていませんでした。実は富士通に勤めている時から、妻と付き合っていて、受験勉強を始める時に妻の両親に「富士通を辞めて、公認会計士試験にチャレンジします。合格したらもう一度ご挨拶に来ます」と宣言していました。受からないといけない状態に追い込まれているので、1年で受かろうと本気で頑張りました。1年目は不合格で2年かけて合格しました。 「合格後は青山監査法人に入所されていますね。エンジニアから会計監査業務への戸惑いはありませんでしたか。監査法人では主にどのような仕事をしていましたか。」 私の場合、キャリアアップではなくて、ゼロからのやり直しでしたので、謙虚な気持ちで入っていくことができました。また、エンジニア職の経験はたった3年でしたので、戸惑いも一切ありませんでした。入社してすぐは、上場企業と外資系企業の財務諸表監査が多かったです。何年か経つと、監査に加えて、デューデリジェンス、上場支援、決算早期化プロジェクトなども担当するようになりました。 IPO審査を深く知るために証券会社の引受審査部に出向 「監査法人に在籍しながら野村證券の引受審査部に出向されますが、その理由を教えてください。また、引受審査部ではどのような仕事をしたのでしょうか。」 監査法人のイントラネット(社内掲示板)に、「野村證券に出向したい人を1名公募します」と掲載されていて、立候補しました。応募は7〜8名で、その中から選んでくださったと聞いています。それまで何年かIPO準備会社の支援をしていたのですが、上場するどころか上場に近いところまでも進まない会社が多かったのです。また、成功事例に携わった経験がない自分が指導をすることに不安や虚しさを感じていました。やるべきことを伝えられても、どのレベルまでやれば合格できるかを伝えることができなかったからです。証券会社の引受審査部は、まさに上場できるか否かを判断する部署です。そこで経験を積めば、自信をもって「ここまでやれば上場できます」と言えるようになるだろうなと。 また、IPOの最大手の野村證券という点も魅力に感じました。引受審査部での仕事は大きく分けて2つあります。1つはIPOと上場市場変更の審査です。これらは1年近い期間をかけて、じっくり会社全体の審査をします。もう1つはPOファイナンスといわれる上場企業の増資や社債の売出しなどについての審査です。こちらは2週間などの短期決戦です。どちらも数件を同時並行で担当します。2年間という短い期間でしたが、自分が担当した会社だけでなく、相当数のIPO審査の事例をみることができ非常に勉強になりました。かなり忙しかったのですが、期間が決まっていたこともあり、率先して出来るだけ多くの仕事を受けるようにしていました。 「IPO周りの何でも屋」IPOコンサルティング会社での経験 「2回目のキャリアチェンジで、監査法人を退所してIPOコンサルティングの会社ラルクに入社します。その理由を教えてください。」 証券会社から監査法人に戻って、1年で退職しています。恩もありますし、IPOについての力が磨かれた手応えもあり貢献できると考えていたので、しばらくは監査法人でIPO支援を行う予定でした。しかし、出向から戻る前くらいから監査法人の関与先でいくつかの会計不祥事が起きてしまい、IPO関連の仕事が一気になくなってしまったのです。そんな時にラルクの鈴木(博司)社長に出会います。ラルクは会計士、かつ、証券会社か証券取引所でIPO業務を経験している人しか採用しないという専門家集団でしたが、私もその条件に当てはまっていたこともあり、何度もお誘いをくださいました。当初は、「まだ監査法人でやることあるので」と断っていたのですが、鈴木さんに「IPOコンサルタントを始めるには若いほうがいいよ」と口説かれて、「確かに」と納得し転職することにしました。今、振り返ると、良いタイミングで転職できたと思います。 「IPOコンサルティング会社では、どういう業務を行いましたか。」 IPOコンサルの多くは、決算業務を支援する、開示書類を作成する、上場申請書類を作成する、内部監査をする、規程を作るなど、上場準備でやるべきことのうち特定の領域を支援している会社が多いようです。ラルクは、先ほどもお話ししましたがコンサルタントの質にこだわり、「IPOに向けては大概のことであれば解決の仕方を知っています」というスタンスでサポートしていました。IPOは、他がどんなにうまくいっていても、1つの項目で躓いていたら落とされるというトータルで判断される世界。ラルクは、上場できる可能性がそれなりにあるが、何かが引っかかって苦しんでいる急病人に緊急出動して対応するような仕事でした。なんとか審査に合格できるよう、足りないものを一緒に埋める職人です。 上場審査に向けての書類づくりや審査対応のサポートなどがメインですが、審査で問題になっていることについて経営者と議論することもあれば、管理系人材の採用なども。足りないパートへの対応を何でもやりました。管理系人材の採用に関しては、人材エージェントへの手配や求人票の作成、面接などもけっこうやりました。上場プロジェクトメンバーに退職者が出て、「良い人を採用してくださいね」とお願いしても、なかなかうまくいきません。それならば入り込んで採用までサポートしようと思い、やってみたらうまくいったのです。人材採用の難しさも理解できました。私は、手伝うことで、喜んでもらえる、成果が出ることであれば、辛い役回りでも引き受けるべきであると考えていました。 その一方で、支援先に対しては、ノウハウを全部差し上げて自立してもらうことを目標としていました。上場のための特有の作業であれば我々が行えばよいのですが、上場後も上場企業として続いていきますので、それ以外の会社としての機能は支援先自身に身につけてもらうというスタンスでした。こういった点もラルクの特徴かもしれませんね。 ラルクでの仕事は、監査法人での会計まわりの経験と証券会社でのIPO審査の経験を総動員して取り組むため難易度は高かったのですが、感謝していただけてやりがいを感じました。自身もこれが天職だと感じた瞬間がありましたし、妻からも「IPOコンサルの仕事が1番向いてるように見えてたよ」と言われたことがあります。