COLUMNコラム

#IPOの記事一覧

#IPO
株式会社TWOSTONE & Sons
取締役CFO 加藤 真 氏

大企業での経験こそ、ベンチャーで活きる。「企業の経営に対して意見を言える立場になる」を体現した道筋

「企業の経営に対して意見を言える立場になる」というブレない思い 「学生時代は自分のキャリアをどのように考えていましたか。」 私は学生の頃から、横軸に時間と縦軸にポジションを頭の中で描いて、今の自分がどこにいるか、将来どこにいきたいかを考える癖がありました。そして、いつまでに何を習得しなくてはいけないのかを逆算していきます。これが自己分析だと理解しています。そのため、高校時代に「企業の経営に対して意見を言える立場になりたい」と考えてからは、それを実現するために歩を進めていきました。いろいろな仕事を調べる中で経営企画という仕事を知り、そこを目標に据えました。経営に対して意見を言い、自分の意見が採用されて、会社を良い方向へ動かすような仕事である経営企画の仕事を担うために、まずは経営を学ぼうと中央大学の経営学部に入学しました。 「大学卒業からフレンテ(現:湖池屋)退職までのキャリアについてお聞かせください。」 新卒時の会社選びの観点は3つありました。1つ目は、経営に対して意見を言える人になるために、正しい知識、スタンダードなやり方を身につけられる上場企業であること。実は、上場しているベンチャー企業からも内定をもらっていたのですが、ベンチャーは将来挑戦したいと考えていたため、まずは全体の流れを理解できる上場企業を選ぶことにしました。2つ目は、全体が見える会社が良いと思っており、規模が小さい会社であることも重要視しました。3つ目は、経営企画になるためには会社の数字を理解できるようになることが必要だと思っていたので、経理職。それも原価計算のできるメーカーの経理職の募集がある会社を希望しました。 上場企業で経理のスタンダードを学ぶ 結局、安川電機の子会社のワイ・イー・データ(現:安川コントロール)という会社にご縁があって入社しました。ただ、私は人とのコミュニケーションも好きでお喋りな方なので、一般的な経理の人物イメージとは異なります。そのため、入社時に社長から「最初から経理に配属されて社内だけになるのではなく、一度社会を見てこい」と言われ、1年半ほど営業企画やマーケティングを経験してから経理に配属になりました。 その後、2年ほど経理をしていたのですが、ありがたいことに親会社の安川電機の人事部に引っ張ってもらうことになりました。プライム上場企業の人事の仕事。希望する方も多い仕事です。人事から経営企画に進むキャリアパスもあるため、食わず嫌いは良くないと思い、チャレンジをしてみました。しかし、残念ながら私には合いませんでした。「まだ経理の仕事をやりきれていない」という思いもあり、改めて経理としてのキャリアを作るために転職を決意しました。転職時の会社選びの観点は新卒時と同様で、フレンテ(現:湖池屋)にご縁があり転職しました。 「フレンテを退職した理由を教えてください。」 もともとのキャリアの考え方として、30歳までを修行期間。その後はベンチャーに転職したいと思っていました。また転職する前に、日清食品がフレンテに資本参画しました。今後、日清食品の影響力が増したら、私のキャリアにも限界がくるだろうと思いました。実際に、私が退職した後にも日清食品の増資があり、今は日清食品の連結子会社となっています。 さらに、評価の面でも限界を感じたという点もあります。在籍する中で、業務を習得する。既存の業務の効率化を行うのは当たり前だと思ってやってきました。それだけだと業務もマンネリ化しますし、何かないかなと思っていたところで日清食品から入ってきた資金を運用することを思いつきました。過去の資産運用の規程を引っ張り出し、自ら委員を選んで組織を組成し、会長に直提案しながら、資産運用を開始しました。結果として3000〜4000万円の営業外利益を生み出したのですが、評価は普段と変わらずB ' (ダッシュ)。今はそうでもないとは思いますが、当時は管理部門があまり評価されない文化があったように感じていたので、「そうだよな」という気持ちもありました。私は「もっと仕事がしたい」と思っていたのですが、「きっとここにいても報われることはないのだろう」と感じ、残る意味が見いだせなくなりました。このような理由から、退職する決意が固まりました。 フレンテを退職する際に、執行役員の方をはじめ、色々な方に引き止めのお話をいただきました。そのまま残っていたら、将来的には管理系の重職を任せてもらえるポジションにいたかもしれません。しかし、新たな道に進みたい思いが増し、退職しました。 ベンチャーで受けたカルチャーショック 「3社目でベンチャーに飛び込みます。どんなことを目的に、ベンチャーへ飛び込んだのですか。カルチャーショックはありましたか。」 カルチャーショックはすごかったです。精神的に追い詰められて、辞めようか、大企業に戻ろうかと真剣に悩みました。フレンテにいた頃は、それなりの評価をいただいていましたし、自分自身でも仕事はできる方だと思っていました。しかし、自分が力を発揮できる大前提として、周囲の方が一定以上のレベルであること、仕組みができている環境があったということがあります。仕組みに則れば、当然のように正しい情報が出てきて、それを処理すれば決算ができる。この“当たり前”に囲まれた中では、私は仕事ができていました。 しかし、ベンチャーはそうではなかった。入社してすぐ目にしたのは、3〜4ヶ月分処理されていない書類。その書類が積み重なっていて、伝票入力されたものなのか、実際に支払いが済んだものなのかすら分からないという状況。つまり、3〜4ヶ月、月次決算が締まっていないという状態でした。それを目の当たりにしたときは、なかなかしびれましたね。経理のマネージャー候補として入社したので、管理者はいるのですが、月次決算を締めないことが当たり前の環境でしたので、やり切らずに帰宅している。やらなくてはいけないことがわかっている側からすると、誰も疑問を持っていない状況がとても気持ちが悪かったです。「なぜ情報が来ない」「この状態をどうすればいいのだろう」「この組織に自分がいていいのだろうか」「この組織で自分の能力を生かせるのだろうか」「このままでは自分が腐ってくのではないか」など、3ヶ月くらい思い悩みました。 ただ、就職活動のときも2週間くらい悩み続けるなど、元々悩むのは得意というか慣れっこではありました。この時も3ヶ月くらいノイローゼになるくらいすごく悩んで、ふと気づいたことがありました。「若くして経営に意見を言えるようになるには、与えられた環境で成果を出すのではなく、混沌とした環境を正していくことにこそ価値があるのではないか」と思ったのです。つまり、大企業で培った“当たり前”をベンチャーの組織へインストールする。早く出世するためには、早く責任のあるポジションを任せてもらうためには、そういう力が絶対に必要ですし、そもそもそのために大企業に入ったはず、と初心にかえり、一気に道がひらけました。この時に、今の自分の思考のベースが出来上がったのではないかと考えています。そして、振り返ると結果として、自分のアプローチは一つの正解例だったと思っています。 整理・仕組化・分散であるべき姿に改革  「実務的な変革はご苦労が多かったのではないでしょうか。」 大変でしたね。最初は、1人で進めていくしかないので、とにかく時間を使って、あるべき形をインストールしていきました。私自身、ハードワーク自体は苦ではありません。事実、新卒で入社したワイ・イー・データでも、一定期間ハードワークをして、自分で業務を整理した経験がありましたので、今回もまずは整理からはじめました。ベンチャー企業の役員陣もその現状には不満がありましたので、私が業務を整理することで、役員が感じていた「数字が遅い」「数字が綺麗じゃない」などの不便さを解消できました。結果として会社も良くなり、私に対する評価も変わり、意見が通りやすくなっていきました。 次に仕組化です。整理することにより、会社の流れが見えてくるので、それを仕組化していきます。例えば、当時は全てをスプレッドシートで管理していたので、誰がいつ何を承認したのかがわかりませんでした。それらを明確化させるためにExcelに変更しました。そして、分散です。営業事務に協力してもらう体制を整え、自分の煩雑な作業を分散化していきました。みんなの5分は、1人の100分。携わる人数を増やすことでだいぶ楽になりました。 「整理整頓は決算のことを真に理解していないとできませんよね。」 その通りだと思います。そこは経験が無駄ではなかったと思いました。また整理整頓については、特に最初の会社で固定資産システムの導入を担当した時に鍛えられました。システム導入は、あるべき姿を理解する必要がありますが、誰もそのあるべき姿を教えてはくれません。そこで、自分でとことん考えました。この経験がベースになっていると思います。
#IPO
川島 崇 氏

″いろいろ″あるから経営は面白い。修羅場でこそ問われる「CFOの信念と覚悟」

監査法人で求められたのは期待以上の成果 「公認会計士を目指したのはいつ頃からですか。また、それはなぜですか。」 高校3年生の浪人が決まったときです。遊んでばかりだったくせに、なぜか受験失敗は完全に想定外でした(笑)。しかも友人達はちゃっかり現役合格。これはマズいことになったと思いましたね。ただ、この挫折は真剣に人生設計を考える機会となりました。当時はバブルが崩壊した頃で、「将来ビジネスの世界で経営者として挑戦と貢献ができればいいな」程度の漠然とした考えが浮かんでいました。そして情報収集のため書店で資格の本をペラペラ立ち読みしていると、まず弁護士が目に入ったわけです。当時の司法試験合格率は3%…さすがに厳しそうだと思いましたね。次に目に付いたのは聞いたこともない資格、公認会計士でした。なんと合格率6%、司法試験の倍です!直感的にイケると思いましたね。実はこれが公認会計士との運命の出会いです(笑)。そして色々調べると、公認会計士資格はビジネスに役立ちそうだとわかり、真剣に目指すことにしました。大学合格後は、ダブルスクールとアルバイトに勤しみながら、卒業後に合格しました。もしこの年不合格だったらバイト先の店長になる予定でしたので、運が良かったと思います(笑)。 「入所して10年間勤めた監査法人では、主にどのような仕事をされていましたか。また、記憶に残っているエピソードがあれば教えてください。」 メインは監査業務ですが、デューデリやM&A、株価評価、IPO支援、内部統制、企業再生などのコンサル業務も数多く担当しました。当時は、監査法人の独立性が厳しく問われる環境ではなかったので、クライアントの懐に入り込むような仕事が多かったですね。個人的に通常の監査業務より、コンサル業務の方が提案にクリエイティブ性が求められ、クライアントの成長に貢献している実感があって好きでした。 印象に残っているのは、東証一部のグローバルクライアントに対し、内部統制リスクを特定して業務改善を提案する仕事です。これはまだJ-SOX法や内部統制監査が存在しない頃の話です。定期的に各支社へ出張し、1年間で1周する流れを繰り返していました。具体的には、初日に営業や製造部門など複数の会社関係者にインタビューし、裏付け資料を調査します。2日目は詳細を詰めて、課題提起と改善行動計画を報告書に取りまとめ、夕方には支社長へプレゼンします。改善行動計画はフォローアップのため、実効性があり行動を促す内容が要求されます。しかも私の上司は全くレビューをしない派でしたので(笑)、私の作成した報告書はそのまま取締役会へ提出されるわけです。そのため事実誤認や不明瞭な記述は許されませんでしたし、何より前回と同じような指摘内容では価値がないわけです。 タイトなスケジュールで期待以上の成果を要求される、プレッシャーのかかる業務でしたが、「営業から会計に至る会社業務の仕組みや組織の論理」を深く理解できたことや「仮説思考で計画を立て、効率的に有用な情報を引き出し、改善行動へのコミットを得る」といった力が鍛えられたと思います。入社1年目からこのような業務に関われたのは大変ラッキーでした。 まさかのベンチャーへの転職、「気が狂ったのか?」 「監査法人で得たスキルは事業会社のCFOとしても役に立っていますか。」 監査では、クライアントの外部環境、様々な制約条件や変動要因を複合的に捉え、多面的に分析した上でリスクを特定し、計画を立てチームを動かして効率的に業務を進めることが要求されます。こういったスキルは、事業会社でもデータの裏付けを持って、企業の現状を客観的に把握・分析することや、将来予測や課題解決に取り組む際には大いに役立ちましたね。 また、実は監査法人時代に中小企業診断士資格を取得しています。財務や会計領域はスペシャリストとして知識や経験を深掘りできましたが、企業経営という広い視野を持つには、ビジネス全領域に渡るゼネラリスト的な知識が必要と考えたからです。診断士試験では財務会計領域以外に、経営戦略、マーケティング、生産管理、情報システム、人的資源管理、経営法務、新規事業開発、助言理論などを体系的に学ぶことができました。ベンチャーのCFOはあらゆる事業領域に首を突っ込まざるを得なくなるわけですが、知識があるとないとでは問題解決への入りが異なりますので、とても価値があったと思います。 「10年間勤務した監査法人を退所してベンチャー企業に入社なさいました。その理由を教えてください。また、そのベンチャー企業はどんな事業をしていたのですか。」 当時は「失われた15年」の頃でした。私は日本経済には新しいビジネスの誕生が必要だと思い、ベンチャー企業でイノベーションを起こすことに貢献したいと考えるようになりました。その中でも、日本発の強みを持ち、海外へ事業展開できる会社を転職先に探していました。そして入社を決めたのは、日本が得意とするIP(知的財産権)の企画制作、そしてそれらをクロスメディア・クロスボーダーでプロデュースするベンチャー企業です。ただ、当時は今と違って監査法人からベンチャー企業へ飛び込むなんて異例中の異例でしたので、「気が狂ったのか?」と上司から多くの反対と引き留めをして頂きました。至極真っ当な意見で「ごもっともです」としか言えないのですが(笑)、何度もお話をして最後は気持ちよく送り出して頂きました。 実は、私にはベンチャーへの挑戦に理屈じゃない、こだわりがあったのです。それは監査人としてベンチャー企業と関わる中で生まれました。私はIPO支援をしながら、同い年位の方が責任あるポジションで、周囲を引っ張り、正解のない世界で頭を悩ませながら取り組んでいく姿をずっと見ていました。そして上場した時、彼らがまるで高校球児が甲子園で優勝したかのように狂喜乱舞している姿を見て、素直に羨ましいなと思いました。「何歳になっても熱狂できる仕事に携わっていたい。それにはアドバイザーでは足りない、プレイヤーになるしかない!」と考えていたのです。 転職1ヶ月、リーマン・ショックでいきなりの倒産危機 「2008年の入社だとリーマン・ショックの時期と重なります。影響はありませんでしたか。」 はい、転職1ヶ月後にまさかのリーマン・ショックです(笑)。当社は事業が軌道に乗り、勝負のアクセルをまさに踏んだタイミングでした。しかしそれが完全に裏目となって、極めて深刻なダメージを受けました。資金の急激な流出が止まらなくなり、数か月後に資金ショートで倒産することが、明らかな状況に陥ったのです!組織内に動揺が走り、幹部をはじめ役職員がどんどん逃げ出し、雰囲気も悪くなって組織体制はボロボロに。辞めた幹部の競合企業立ち上げや、風評被害も起こりビジネス環境は極めて悪化しました。 私の転職当時に予定していた上場準備の開始は完全にストップ。私は入社1か月で企業再生に集中することになったのです!資金ショートまでのカウントダウンは始まっていましたので、私はすぐさま経営改善計画を作成して、社長に提案し実行に移しました。それまでの営業や開発は社長の経験や感覚に頼っていた面が大きかったのですが、財務分析を裏付けにセールスミックス再編やコスト構造改革を推し進め、1円でも多く利益を出し、1日でも支払いを先延ばしするように動きました。また、多くの金融機関に融資の相談をしましたが、定期預金の解約すらも拒否されるなど全て断られました。ただその後も諦めずに何行も粘り強く交渉して、何とか融資を受けることができました。 これらの取り組みで延命ができ、決算期を越えられる見通しが立ちましたが、着地見込みは債務超過。このままでは金融機関との交渉がさらにハードになることが想定されます。そこで私は自己資金を投じて資本増強。これでなんとか債務超過を回避することができました。またこの時期に資本政策の組み直しも行いました。通常、資本政策は不可逆性がありますが、既存株主達が譲渡に極めて前向き姿勢の環境でしたので、ある意味チャンスだったんです。私は交渉役として取りまとめましたが、対立して辞めた元幹部の既存株主には、また違った気を使いましたね(笑)。
#IPO
株式会社イントラスト
取締役執行役員 太田 博之 氏

数字で判断・表現し、社長と共に会社を大きくできるCFOの魅力

CFOの道に繋がった監査法人での経験 「公認会計士を目指したのはいつ頃からですか。また、目指した理由も教えてください。」 私は、高校時代に全く勉強しなかったので、一浪し、千葉大学法政経学部経済学科に入学しました。予備校に合格の挨拶に行ったときに、たまたま見た雑誌に「学部ごとの目指すキャリア」についての特集が掲載されていました。そこに「経済学科の人は公認会計士」と打ち出されていて、そこで会計士という仕事を知ったのです。当時は、目標を立てて勉強し大学に合格できたことへの達成感を覚えていたので、大学入学後も目標に向かって頑張ってみようと思いました。ただ、私は怠け者なので、実際の勉強は大学4年生から始め、卒業の2年後に合格しました。 「入所した監査法人では主にどのような仕事をしましたか。また、監査業務などで記憶に残っているエピソードはありますか。」 私は、当時の中央青山監査法人(みすず監査法人に名称変更後、解散)に入所し、上場会社の監査をメインに担当しました。製造業を担当することが多かったのですが、労働組合やファンド、公益財団法人の監査もしました。年次が上がるにつれて、上場準備会社も2社担当し、うち1社はマザーズに上場しました。また、日経から出版された『会計用語辞典』の編集もさせてもらうなど、いろいろな経験をすることができました。 1年目は、1日しか行かない会社も含めると100社くらいのクライアントを回りました。監査以外で、そこまでさまざまな業種、職種の方と話す機会はなかなかないですよね。出張に行くと、クライアントと監査法人のパートナーや上司と会食に行く機会が多く、お酒を飲みながら、クライアント企業の歴史、事業内容や業務フローなど細かくヒアリングさせていただいたことが記憶に残っています。振り返ると、どの業種にも共通するような根本的な話を聞かせてもらっていたと思います。貴重な経験でした。 「監査法人での監査や経営者と話をした経験が現在のCFOの道に繋がっていますか?」 確実に繋がっています。監査法人は、外部の立場ではあるものの、会社の数値を客観的に見ます。これは現在の業務に生きています。また、監査法人はマルチタスクです。小さい会社も含めると最高で11社を並行して担当しました。それぞれ予期せぬタイミングでトラブルが勃発し、それらに対応した経験は今に生きていると思います。ハードワークでしたが、20代でその経験をしていなければ、今この生活はできていないでしょう。 「CFOという職業を意識したのはいつ頃からですか。また、なぜ意識するようになったのでしょう。」 最初は「事業会社で、事業を経験してみたい」という漠然とした思いからスタートしました。監査は大事な仕事ですが、会社が担っている活動を一歩引いて外から見るので、事業そのもののプレーヤーではありません。CFOという職業を意識したのは20代後半くらいでしょうか。明確に「CFOになりたい」という思いがあったわけではありませんが、私が事業会社に価値を提供して、活躍できる場と考えると、ぼんやりとCFOへの道が見えたのです。 やりきって退職後、転職先を探す 「7年間勤務した監査法人を退職するきっかけや理由を教えてください。」 「事業会社に行きたい」という思いがあっても、仕事を抱えていたため、なかなか踏ん切りがつかない日々を送っていました。監査法人を退職する直接のきっかけは、勤めていたみすず監査法人が自主廃業したことです。そのタイミングで先輩や同期は、他の監査法人に転職したのですが、私は事業会社に勤務するという選択をしました。限界まで働くタイプなので、監査法人が廃業する最後の日まで働き、やりきった思いもありました。また、ちょうどそのタイミングで結婚したので、数ヶ月休んでから、転職先を探し始めました。 「転職に対するポリシーはありますか。これまで2度の転職をされていますが、いずれの場合も、退職前に次の転職先を決めていません。これにはどのような思いがあるのでしょう。」 私は、かなりハードに目の前にある仕事に向き合うタイプなので、次の転職を考えている余裕がないというのが正直なところです。転職先を決めてから退職するのではなく、今の仕事をやりきってから辞める。退職してから一旦リセットするといった意味合いが強いかもしれません。私にとっては、そのリセット期間が何年かおきの夏休みという感覚です。なかなか人生で夏休みを取れる機会はないですからね。1回目の転職の前は4ヶ月ほど休みましたが、2回目は子どもがいたので貯金の減りも早く1ヶ月だけ休みました。それでもリセットができて良かったです。ただ、このやり方が正解だとは思っていませんし、リスクもあるので他の方にはお勧めできません。 7年かけてシンガポール市場に上場 「1回目の転職先は事業会社でした。その理由とその会社の事業内容を教えてください。」 私が入社した会社はホールディングスで、7〜8社の子会社の管理をしていました。上場を目指しているものの1社では規模的に上場できないという会社が7〜8社集まってできあがったという経緯のある会社でした。子会社同士に事業上のシナジーがそこまであるわけではなく、それぞれに社長やオーナーがいるため、同じ方向を向くのはなかなか難しかったです。 「シンガポールのカタリスト市場に上場しますが、そこに至るまで7年を要しています。その間の苦労話と最終的に上場できた要因を教えてください。」 最初は、国内の上場を目指していたのですが、業績そのものが上場基準に足りていないところに、リーマンショックがきて一旦ストップになりました。Iの部まで作り、審査に入るくらいのタイミングでした。その後、東日本大震災も発生しました。再度、上場を目指そうとした頃に、ダイナムが香港証券取引所に上場した例があり、他国の市場に上場するという選択肢が見えてきました。当時は、監査法人を経由して、様々な証券会社が日本企業の誘致を図っていたのです。 最初は、韓国のコスダックを目指しました。韓国のPwCの現地事務所から日本語が話せる方に来てもらい監査を受けました。しかし、最終的には基準を満たしませんでした。そして、シンガポールのカタリスト市場を目指すことにしたのです。カタリストは証券会社がOKを出せば上場できる市場でした。準備は大変で、日本の基準をIFRSに変更して、英語で求められる資料を作りました。当時の私は経理部長の立場だったので、英語が堪能なCFOと一緒に作成しました。
#IPO
リガク・ホールディングス株式会社
専務執行役員CFO 三木 晃彦 氏

大手外資系企業と日系企業でのCFO経験 唯一無二の存在が語る経営の醍醐味とは

憧れる人物像に近づきたくIBMに入社 「大学卒業後、外資系グローバルIT企業である日本IBMに入社します。なぜIBMを選んだのですか。」 学生時代の部活で音楽系クラブに所属していて、米国に演奏旅行する機会がありました。そこで最初に演奏したのがIBMのサンノゼ工場だったのです。この時のコンサートマスターがIBMに勤められていたOBの方で、ペラペラの英語で司会もされました。「こんな人がいるのか! この会社に勤めると同じようになれるのかな?」と思いました。そんな経緯から、IBMに勤めることに憧れの気持ちを抱きました。 IBMはコンピューターの巨人と呼ばれていて、100年以上の歴史を持つ世界最大規模のグローバルIT企業です。当時、「マルチステーション5550」という企業向けPCが発売され、学生時代のゼミで使用していたこともあり、身近に感じ始めていました。実際の就職活動では、安定感のある日系企業からも内定を貰ったので、どちらに入社するか迷いましたが、「自分が憧れを抱いた会社に勤めたい」という純粋な思いから、IBMへの入社を決めました。英語も好きで、コンピューター企業の将来性に期待していたことも後押しとなりました。 「結局20年ほど勤務することになりますが、どのような業務を担ってきたのか教えてください。」 システム・エンジニア志望だったのですが、入社してすぐに開発製造部門の一事業部における予算管理という部署に配属されました。現在、日本でも注目を浴びているFP&Aという管理会計の役割の一つで、IBMは経営管理においても、最先端の手法を取り入れていました。学生時代に会計の勉強を殆どしていなかったので、実務では早々に壁にぶつかりました。そこで会計のスキルを身に付けるべく、税理士試験の簿記論の勉強をはじめ、幸い合格しました。その後、開発製造部門の予算管理システムを刷新するという、大きなプロジェクトのユーザー側リーダーを拝命しました。悪戦苦闘の連続でしたが、入社3年で経験できたことは、自分を成長させる良い機会でした。 入社5年目で米国赴任に大抜擢 「その後、米国に異動しました。本社では主にどのような仕事をされてきたのでしょうか。言語の壁も含めて、苦労はありませんでしたか。」 入社時の上司が米国の本社に赴任されていて、その方が米国で担当した仕事を若い人にやらせたいということで、私を呼んでくださったのです。本当に有難いことでした。 一年目は、ニューヨーク州でAsia Pacific地域の製品企画部門の予算管理を担いました。二年目は、フロリダ州にあったパソコン研究所で開発費管理の仕事をしました。人生で最初の一人暮らしが海外でしたので、言葉、慣習、車の運転など、仕事以外にも毎日がチャレンジでした。ただ、年齢の近い現地の仲間と良い関係を築けたので、仕事や生活面で助けて貰い、休日も一緒にパーティーやスポーツ、習い事などをしました。おかげで赴任から約3か月で、すっかり溶け込むことができました。 米国公認会計士と米国公認管理会計士のW取得の効果 「税理士の簿記論を取得した後、米国公認会計士や米国公認管理会計士の資格を取得されたのですね。その理由を教えてください。」 米国公認会計士を取得しようと思ったのは、IBMの会計が米国基準でしたし、グローバルで活躍できるプロフェッショナルになりたかったからです。米国での生活が安定してから本格的に始め、日本に帰任後約1年で全科目を合格しました。米国公認管理会計士の資格は、米国赴任中にIBMの友人から薦められました。当時からIBMは、FP&Aの役割を重視していたからです。この資格を取得するには、原価管理、予算策定、予実分析、コーポレート・ファイナンス、投資の意思決定などを学びます。実際に勉強を始めたのはここから数年後でしたが、仕事に直結する内容でしたので、日々の業務と照らし合わせながら楽しく学べ、合格することができました。 「資格は仕事において役に立っていますか。」 米国公認会計士に合格した頃から、周りの人が自分をファイナンスのプロフェッショナルとして見てくれるようになったと感じました。また勉強の過程で身に付いた会計の知識は、自信に繋がりました。米国公認管理会計士については、実務で携わってきたことをセオリーで裏付けることができ、FP&Aの技術的なスキルを強化できたと思います。どちらの資格も、仕事において非常に役立っています。 「グローバルの外資系企業にいる上では、米国公認会計士と米国公認管理会計士の資格を持っていた方が有利なのですね。」 有利という表現が適切かは分かりませんが、個人的には、より有効に活かせると思っています。日本人の米国公認会計士は、英語が得意で、外資系企業の日本法人に勤める方が多いと思います。しかし、米国公認会計士が事業会社で働く場合の主戦場となる制度会計、開示、財務等の業務は、本社(海外)で行うものが多いです。子会社である日本法人だと、担当する範囲がどうしても狭くなると思います。また監査法人で働く場合ですと、米国公認会計士は日本で公認会計士の独占業務ができません。 では、活躍の場はどこが大きいかというと、グローバルで事業を展開し、US GAAP やIFRSを導入する日系企業での制度会計や、外資系企業における管理会計の分野だと思います。特に外資系企業は株主へのリターンを強く意識することから財務業績をとても重視するため、管理会計に関わる人員が日系企業に比べて多いと感じています。 管理会計に活躍の機会が多いという話をすると、米国公認管理会計士だけを取得すれば良いのではと思われるかもしれません。ただ私は、両方あると一層活きてくると思っています。米国公認会計士の資格取得を通じて、会計の基礎をしっかりと身につけることは重要です。その上に、米国公認管理会計士の勉強を通じて、管理会計のスキルが加わっていく。管理会計は応用編なので、適切な意思決定を支える盤石な会計知識が欠かせないのです。 価格設定担当者としての学び 「2年間の米国赴任を経て、日本に戻ってからはどのような仕事をされていたのでしょうか。」 当時、東京にあったIBM Asia Pacific(AP)本社(日本IBMの親会社)に出向となり、日本を含むアジア地域において製品やサービスの価格を設定する仕事に就きました。出向期間を終えて日本IBMに戻ってからは、当時のIBMが全世界で取り組み始めたアウトソーシング事業部に、価格設定支援の役割で配属されました。IBM AP本社に出向していた時の経験を生かして、アウトソーシングの価格設定モデルを開発しました。また大型案件の価格を設定する役割も担いました。これまで実務や資格取得の勉強を通じて習得してきた会計のスキルが、価格設定に必要となるコスト見積り、収益性分析などで発揮することができました。 ファイナンス部門は、ビジネスの現場に居る人たちから番人のように思われます。しかし、アウトソーシングの契約を締結するためには、ファイナンス部門の人の役割が重要でした。価格設定に関わるのみならず、お客様の会社のCFOに、アウトソーシングの財務上のメリットを説明することもありました。その際には、お客様の会計基準や管理会計手法を理解して話す必要がありました。自分の経験とスキルを最大限活用しながら、営業やサービス部門の人たちと一緒になって取り組んだ貴重な機会でした。そして部下を持つマネージャーに昇進しました。引き続き、多くのアウトソーシング案件の成約に組織として携わり、当事業を大きく成長させる一翼を担えたと思っています。 事業部CFOの戸惑い 「39歳でPC事業部のCFOとなります。責任範囲も広くなり、部下も増えたことに対して、戸惑いはありませんでしたか。また、CFOとしてどのような役割を担ったのかも教えてください。」 日本IBMの一事業部とはいえ、CFOという役割に当初はかなり戸惑いました。アウトソーシングの価格設定の役割は、どんなに大きな案件でも、成約するという観点で同じ方向を向いた人たちと仕事をしていました。それに対してCFOになると立場が異なります。事業部全体を売上・利益・キャッシュフローの観点で成長させる責任がある一方で、個別のアクションが適切であるかを冷静に判断する必要があります。営業部門から将来のために投資をしたいと提案があっても、こちらの分析では適切なリターンが見込めないため、意見が衝突することも少なくありませんでした。また内部統制をきっちりと浸透させる役割も重要です。事業のアクセルとブレーキをバランス良く踏む必要がある、難しい役割だと感じました。業績報告では「悪化している理由は何か?」「どうやってリカバーするのか?」という質問のみならず、「あなたは何に貢献できるのか?」「何をコミットするのか?」と問われることも少なくなかったです。 「そのような困難な状況にどのように対処していったのですか。」 当時の日本IBMのCFOから、事業部CFOの重要な役割は、事業部長やチームから「信頼されるビジネス・パートナーになること」だと学びました。専門性・スキル・経験は異なるものの、事業部もCFO部門も、会社や事業部を継続して成長させるというゴールは同じです。「一緒にゴールを目指す」と思えば、お互いが足りない部分を補完し合いながら、行動することができます。決して馴れ合うのではなく、対等な立場でお互いが良いところ・悪いところを指摘し合い、認めあい、補正しあいながら、共通のゴールに向かって進めていく。この姿勢が企業価値の向上に欠かせないことを学びました。そして業績報告においても、自分がビジネスのオーナーシップを持って説明できるようになりました。困難にぶつかった時には、この考え方に立ち返るようにしてきました。
#IPO
株式会社パワーエックス
執行役CFO 藤田 利之 氏

心に火が灯り挑戦したベンチャーのCFO 事業会社やFASでの知見が結実した成功への道

苦しかった事業会社での経験 「公認会計士を目指したのはいつ頃からですか。それはなぜですか。」 高校2年生の時です。私は、小さいころから父から「理系の大学に進学したほうがいい」「手に職をつけたほうがいい」と言われてきました。私自身も数学が好きだったので、理系に進もうと考えていたのですが、高校2年生で文理選択をする際に、理系でやりたいことが見出せず悩みました。そんな時に、書店で見つけた資格の本に、公認会計士について書かれていました。当時は勝手に「企業のドクター」のようなイメージを感じ、数学的な要素や経営的な要素があり、面白そうな仕事だと感じました。また、性格的に学校の先生や先輩との上下関係がそこまでうまくやれるタイプではなかったので、当時から大きな組織で出世していくサラリーマンは向いていないと思っていましたので、独立できる資格ということも魅力に思えました。父にも「理系には進まないけれど、資格取得をして手に職をつけたいと思っている」と話をし、会計士を目指すことにしたのです。 その後、大学に進学し、大学2年生から勉強をスタートしました。最初はなかなか勉強に身が入らず、結局合格したのは卒業して2年目なので、受験勉強に4年半くらいかかり、資格の取得にはかなり苦労しました。当時は、大学入学時がまだバブルと呼ばれた好景気な社会で、世の中も大学も浮かれており、就職に苦労するという雰囲気ではありませんでした。しかし、大学3年生頃にバブルが崩壊し、社会が一変し、大学4年時には、友人が就職で苦労するのを見て、今から就職活動をしてもすでに難しいと感じました。私は、そこでやっと「会計士に受かるしかない」と覚悟を決めることができました。その後、やっと合格しますが、バブルは崩壊しており、合格者であっても半数が監査法人に就職ができないという年でもあり、今度は就職の苦労が始まりました。 「それで、監査法人に入所せず事業会社に就職したのでしょうか。」 景気悪化に伴い監査法人での採用人数がそもそも少なく、どこにも受かりませんでした。とにかく早く働いて稼ぎたいとの思いで、ソニー・ミュージックエンターテインメントに中途入社し、グループ人事の一環で、キャラクターグッズのライセンスビジネスや化粧品ビジネスを行っていた子会社のソニークリエイティブプロダクツという会社の経理に配属になりました。事業会社でサラリーマンになりたくない、と思って、会計士の勉強を始めたはずなのに、結局、最初は事業会社に就職するということになりました。 やっと得た仕事ですが、社会人経験が全くないまま中途入社したので、そのあと地獄のように大変でした。会社の人からは、「会計士試験に受かったすごい人が入社してきた」と思われていたようですが、私は名刺の渡し方、電話の取り方も知りません。愚痴る同期もいません。期待に全く応えられず、会計士試験に合格したプライドは一気に崩れ、毎日遅くまで残業し、土日も出勤と地獄の日々を送ることになりました。 「そこで経験されたピンチや苦労について教えてください。」 新人なので、電話を取ったり、お茶を出したり、お弁当を買いに行ったり、請求書を封筒に入れたり、大量の伝票の仕訳をしたり、という仕事をしながらも、会計士2次試験合格者の期待として監査法人の対応をしたり、取締役会の資料を作ったりという業務も任されていました。しかし、会計士2次試験合格者とはいっても、仕事自体が初めてで、仕訳を切った実務経験もありませんし、取締役会の資料と言われてもイメージが湧きませんでした。しかも、ソニーの連結孫会社だったので連結決算のため、毎月の月次決算スケジュールはタイトで、キャパオーバーが続き、ミスを連発しました。自身の力不足も相まって上司ではなく、先輩や同僚からも怒られることも多々ありました。入社して半年で10kg痩せました。 加えて、一般事業会社なので、監査法人と違って補習所に行くシステムもありませんでした。試験の日とディスカッションの日だけは、なんとか半日の有給を取って、ギリギリ単位を取りました。会計士2次試験に苦労して合格し、就職に苦労し、そして最初の職場でもかなり辛い日々が続きました。まだ、独立できる公認会計士になれるイメージもわかず、日々の仕事に追われる日々でした。 営業から契約締結まで担当したトーマツでの経験 「1年ほど勤めた後に、退職して、監査法人トーマツの静岡事務所に入所されています。それはなぜですか。」 事業会社での1年間で疲れ果て、また、初心に戻って会計士としての監査の経験をし、独立を目指すために地元の静岡県に帰ろうと思ったからです。1年早く合格した大学時代の友人がトーマツの静岡事務所で働いていて、その友人から所長を紹介してもらい、即入社が決まりました。 「静岡事務所ならではの得難い経験があったと思いますが、具体的にはどんな経験やスキルを習得することができたと思いますか。」 当時のトーマツの静岡事務所は、出張所のような位置付けから事務所に格上げされてそれほど立っておらず、所長も40歳前半で若いメンバーの事務所でした。監査法人において、通常は、営業はパートナーしか担いませんが、静岡事務所では、事業規模の拡大のために営業研修があり、スタッフから営業マインドを植え付けられました。私が在籍した際には、スタッフからシニアスタッフに昇進するためには、クリアしなければならない営業ノルマがありました。当時、ちょうと東証マザーズやナスダックジャパンが設立され、IPOを目指す会社が増える傾向にありました。そこで、問い合わせがあった会社に対して、ショートレビューをして課題を抽出し、レポートを書いて、提案をして、コンサル契約あるいは監査契約を結んでといったように案件を獲得しました。 ここで、前職での経理の実務経験が非常に活き、成長に向けた体制整備の案件を数件獲得でき、月に何回か訪問し、月次制度を整えたり、内部の仕組み作ったりしていきました。トーマツの静岡事務所は、約4年間と短い期間でしたが、地方事務所のおかげで、かかわる業種も幅広く、早期に現場のインチャージも経験でき、加えて、営業から監査やコンサルまで、様々ななことを経験させていただきました。今思えば、非常にいい経験だったと思いますが、当時はとにかく忙しかったことを覚えています。 「監査法人というよりベンチャー企業のようなイメージですね。」 監査法人の中では、伸び盛りの地方事務所で、かつ、顧客もベンチャー企業も多かったので、まさにベンチャー企業のような事務所でした。ただ、私自身は、入社当時は、ベンチャー企業のような環境で働きたいと思っていたわけでもなく、同期の合格者から1年遅れてトーマツに入社したので、懸命に業務に打ち込むことで早く、試験合格の同期に追いつきたい、との思いだけでがむしゃらにやっていただけでした。ただ、それがベンチャー企業の参画に繋がった部分もあるかもしれません。
#IPO
株式会社トランザクション・メディア・ネットワークス
専務取締役 管理本部長 CFO 西脇 徹 氏

高い専門性とビジネスパーソンの自信。事業をドライブする起業家マインドを併せ持つCFOのキャリアとは?

「逃げ出してはいけない」と会計士試験に再チャレンジ 「公認会計士を目指したのはいつ頃からですか。それはなぜですか。」 幼い頃から公認会計士という言葉はいつも耳にしていました。というのも、同居していた祖父が公認会計士で、新大阪で「西脇公認会計士事務所」を開設していたからです。父や叔父も同事務所に勤務していたのですが、父自身は公認会計士になることが叶わず、私にその夢を託してたんだと思います。父から強く誘導されたわけではありませんが、例えば、「お小遣いが欲しければ、お小遣い帳をつけるように。」と言われたり、「大学は経営学部(商学部)に行ったほうがよい。」と言われたりして、教育的に刷り込まれていったような気がします。私自身は、数学が好きだったので理系に進むか、そうでないなら学校の先生になりたいと思っていたのですが、高校生くらいから公認会計士を意識し出し、大学も会計士の合格者が一番多い慶應義塾大学(商学部)を選択しました。 そうとはいっても、当時は公認会計士試験の難易度は全く理解しておらず、「1日1,2時間勉強すればいいんでしょ。」と思っていたので、大学の体育会野球部に所属して、部活に明け暮れていました。当たり前ですが、部活は、練習以外にもグランド整備や先輩のユニホーム洗濯などで忙しく、勉強時間どころか睡眠時間も満足に取れず、母からも反対されるし、「この生活だと会計士に合格できない」と必要以上に焦ってしまい、1年生の春シーズン中に大学野球部を退部しました。その後、大学1年生の秋から、意気込んで公認会計士の専門学校に通うも、今度はあまりのテキスト量の多さに驚愕して、これまた焦ってしまい、「友達と遊びたい!」という気持ちも手伝って、「自分にはこの試験はムリ!」と、大学2年生の春には挫折してしまいました。今思うと、ほんとにダメな大学生ですよね。(笑) 「どのタイミングで会計士試験を再度目指すことにしたのでしょうか。」 結局、大学ではゼミ、サークル、バイト、海外旅行などで、一般的な大学生として楽しく過ごし、就職活動を迎えました。就職活動をする際には、面接で自分のことを語れるように自己分析をしますよね。自分は大学で何をやってきて、これから何をしたいんだろうと整理をする。自分のことを一生懸命に振り返るのですが、どうしてもうまく語れませんでした。何かモヤモヤした気持ちが残り続けていて、納得のいく就職活動につながらなかったのです。就職活動が終わった後も、自分自身を見つめる中で、「わざわざ野球まで辞めたのに、会計士試験も辞めちゃっている。 遅いけど今からでも会計士試験からは逃げ出してはいけないのではないか。」という結論に達し、大学4年生の冬に、某社から頂いていた内定を辞退し、会計士試験に再チャレンジすることにしたのです。大阪の実家に戻って親の援助を受けながらの受験でしたが、今回は難易度への理解と覚悟があったので、1回の試験で合格できました。専門学校に住んでるかのような毎日でしたので、友達もたくさんでき、受験なのに楽しい日々でした。勉強の動機としては、会計士になって何かをしたいということではなく、「逃げ出してはいけない」という気持ちだけで、将来の仕事を具体的に考えているわけではありませんでした。 監査法人で学んだ3つのこと 「入所した中央青山監査法人では、監査にとどまらず幅広い経験を積んでいますが、どのような仕事をされていたのでしょうか。その経験は今後のキャリアにどう影響していますか。」 会計士の二次試験に合格したら通常は監査法人に行きますので、私もそれに倣い、一社目に応募して内定をもらった中央青山監査法人の大阪事務所に入って、4年ほど働きました。大阪事務所は東京のような大規模事務所ではなかったので、比較的小ぶりな、売上規模で30億~300億円くらいのクライアントを担当していました。このタイミングで、会社全体を眺められたのは良かったですね。また、会計士不足で法人の人数が少なかったことから、会計士補の3年目あたりから現場主査業務を任せてもらえ、プロジェクトチームのアサインメンバーや監査項目を決めたり、クライアントの経理部長クラスと会話ができるようになりました。入所した頃は、単純チェックばかりで、仕事がつまらなく「やっぱり学校の先生になろう!」と思った時期もありましたが、そのあたりから仕事も少しずつ面白くなっていきました。その頃担っていた仕事の8割は監査業務でした。残りの2割は、PwCコンサルティングが引き受けた財務デューデリジェンスの仕事をしたり、新人採用活動のプロジェクトリーダーを担ったりしました。当時は、監査法人がコンサルティングすることも許されていた時代だったんです。 この監査という仕事を通じて主に3つのことを学び、その後のキャリアへの影響があったように思います。 1つ目は、「数字を確認する」こと。当たり前ですが、監査なので数字を確認することについての、一定の知識や慣習がつきました。 2つ目は、「チームで連携する」こと。会計士の人は個人プレーが多くなりがちですが、監査は1人では行えず、チームで連携しなくてはなりません。スタッフの立場でも、リーダーの立場でも、チームで仕事をすることに慣れたように思います。 3つ目は、「会社全体を眺める」こと。先ほどの話と重複しますが、小さめの会社を担当して全体を見られたことは非常に大きい経験でした。20〜30人の監査チームで「あなたは借入金だけ見ておいて」ということだと全体を俯瞰して見ることができずに、途中で挫折してしまっていたかもしれません。 財務省で得たビジネスパーソンとしての自信 「西脇さんは監査法人に在籍しながら財務省に出向されています。これは自身の希望ですか。また、そこでは主にどのような仕事をしていたのですか。」 財務省への出向は、監査法人のイントラネットで募集が出ていたので、自ら応募しました。これまた何をやるのかは理解していませんでしたが、「全く異なる世界で働けるのは面白そう」という軽い気持ちで応募したんです。霞が関という官僚の世界、さらに省の中のトップといわれる財務省で仕事ができ、しかも2年間で戻って来られることが保証されている。私は大阪勤務でしたから、却下されるだろうけど、ひとまず応募するだけしてみようと思いました。妻も大阪の人で、大阪にマンションも購入していたので、ずっと大阪にいるつもりだったのですが、「期間限定だし、久しぶりに東京に行ってみよう。」と思えたのです。結果的には、それほどの応募もなかったようで、法人内の面接を経て、財務省に出向することが決まり、引継ぎや引っ越しなどバタバタしました。 財務省での仕事の内容は、大臣官房文書課という組織にて、政策評価書の取りまとめをしていました。政策評価制度は「省庁は何をやっているかわからない」という国民からの批判に応えようと、大蔵省が財務省になった省庁再編のタイミングで新しく始まった制度でした。各省庁が自分の仕事を国民にアピール、ディスクローズしていく制度になります。その政策評価の測定ツールとして会計を活用しようということで、会計士が継続的に派遣されていました。しかし、実際のところ、会計ツールを入れると測定が難しい、定量的な評価はなじまないといった理由から、会計士としての知見はほぼ使われることはありませんでした。ですから、「会計士として来たのに、得意の会計は関係ないじゃん」「省内に誰一人として知り合いがいない」「よくわからない単語がとびかっていて、いったい何を話しているの?」という状態で、不安ばかりが募り、入省直後に2日間も有給休暇をとって、大阪に帰っちゃいました。(笑) ただ、1年経つとだいぶ慣れ、2年も経つと、財務省の中で政策評価について最も知っている人間となることができ、財務省の人事部からも「好きなだけいていいよ。」と言ってもらえて、何も会計を武器にしなくともビジネスパーソンとしてやっていけるなという自信が持てました。財務省の方々は日本のトップレベルで頭が良く仕事ができるので自分にも他人にも厳しいですし、大臣をはじめ政治家へ説明するためには論理的な文章を書く必要がありました。この経験は、非常に勉強になりましたし、自信につながりました。 「出向の間に、米国公認会計士の資格も取っていらっしゃいますね。」 財務省では、会計を使わなかったので、会計の知識が剥落しないように、それと英語力をもっと高めたいと思っていて、米国公認会計士の試験にチャレンジしました。政策評価の仕事は、3ヶ月かけて計画を作り、3ヶ月かけて取りまとめて作成するというサイクルでしたので、残りの6ヶ月は定時に帰れる毎日でした。その期間を利用して勉強し、順調に合格することができました。仕事後に専門学校に通ってビデオ講義を見て、自習室では問題をひたすら解いていました。当時は日本で受験ができなかったので、試験は2回にわけて、グアムまで行きましたが、ビジネスの格好をしてリゾート地を歩いてたのもいい思い出ですね。 「しかも財務省の野球部にも所属されていたそうですね。」 「大蔵」という草野球チームなんですが、千代田区軟式野球連盟1部とか2部に所属しています。当時28歳くらいで、実はもう選手としては野球をするつもりはなかったんですが、たまたま直属の上司が大蔵野球部の監督だったので、強引に誘われ、イヤイヤ試合にいきました。そしたら、初めの試合でスタメン外にされて、腹を立てていたところ、代打で特大本塁打を放ったら、2試合目から中心選手になりました。出向3年目には、監督から「キャプテンやれ」とも言われたのですが、「さすがに出向者がキャプテンやるのはおかしいですよ」とお断りをして(笑)。ただ、もう一度野球をやってみたら思ったより楽しくて、当時は、昼休みに、隣の金融庁の屋上のテニスコートで同僚とピッチング練習をしたり、同僚がつかまらない時は、財務省の地下にあるトレーニングジムで、体を鍛えてました。今でも「大蔵」の野球部に所属をしていて、情報交換を目的に、定期的に顔を出しています。もう歳なので、今は腹を立てずに、ベンチにも座ってますが、結果的に、いまの野球部のメンバーの中で5本の指に入るくらい長く続けているんじゃないですかね。 「結局、出向は2年ではなく延長したのでしょうか。」 出向期間は2年の予定でしたが、戻る時期に中央青山監査法人へ業務停止命令が出てしまいました。仲間からは「戻っても仕事はないよ」と言われていて、また、解散する可能性も噂されていたので、ひとまず1年間延長してもらいました。財務省側も「それはありがたい」と言ってくださったので、計3年間在籍しました。
#IPO
株式会社ジオコード
専務取締役CFO 吉田 知史 氏

ダイナミックに挑戦し、積み上げた多様な経験を、2度のベンチャーIPOに活かす

経営が身近にあった幼少期 「吉田さんはどのような環境で育ったのですか。」 私は、かつて鋳物の街として栄えていた埼玉県の川口市出身で、実家は鋳物工場を営んでいました。年輩の方は、吉永小百合さんが主演され、川口が舞台の『キューポラのある街』という映画を思い出すかもしれません。自宅は会社の事務所と併設で、道路を挟んで向かいに工場がある。工場では、週に2回ほど「吹き」といって鉄を溶かして鋳型に流し込む作業をしていてすごく熱くなるので、夏場はひと仕事終えた職人さん達と一緒にアイスクリームを食べるといった環境で育ちました。私は長男でしたので、小さな頃から祖父に「鋳物屋を継いでほしい」と言われて育ちました。経営が身近にあったという幼少期の原体験は、その後の意思決定に大きな影響を及ぼしていると思います。 「家業に関連する大学・学部を選択されたのでしょうか。」 ずっと家業を継ぐつもりでしたので、関連分野となるセラミックス等の新素材からバイオテクノロジーまで幅広く学ぶことができる、京都大学工学部工業化学科に進学しました。その後進んだ大学院(工学研究科分子工学専攻)では、学問的興味から家業とは関係ない量子化学を専攻しておりました。ただ、その頃になると地元の川口もかつて工場で賑わった下町の工業地帯から大分変貌を遂げ、工場の跡地にタワーマンションが建つなど都市化しはじめていて、もはや家業を継ぐことは難しいかもしれないと思うようになっていました。 そこで、将来の目標にできることは何かないかと模索を始めた時、ふらっと立ち寄った大学生協の書店で手に取った冊子に、中学・高校時代の陸上部の先輩の公認会計士試験合格体験談が掲載されているのを見つけたんです。そこから会計士を意識するようになりました。意識し出すと、実家にもよく会計士が来ていたことを思い出したり、中学・高校時代の同級生に会計士になっている人が何名かいたりして、さらに身近に感じるようになっていきました。早速先ほどの先輩に連絡をとって、京都から東京のトーマツの職場を見学しに行き、そこで「会計士の道に進もう」と思うようになったのです。一度そう思うとすぐに行動したくなり、大学院はいったん休学して会計士の勉強をスタートさせることにしました。 相性が悪かった会計士試験と社会科見学!? 「会計士試験の勉強はどう進めていきましたか。」 資格の学校に入って勉強をスタートしたのですが、会計士試験との相性が非常に悪くて、なかなか合格できませんでした。私は、コテコテの理系人間なので、理屈なく暗記するタイプの学習が全く合わなかったのです。三角関数でいえば、テストの場で加法定理からスタートして他の定理を導き出してから答えを出すというように。ですから、全体構造が見えない中で、専門学校の授業で「ここは暗記してください」と言われてもどうしてもできなくて、私だけ落ちこぼれていきました。例えば、会社法の定義の中に「有機的一体」という用語が出てきた時は、いったいこの先生は有機化学と無機化学を本質的に理解しているのだろうかなどと考えてしまって、全く定義が頭に入ってきませんでした(苦笑)。 「そこで、会計士試験から一時的に撤退して、コンサルティング会社に入社されるんですよね。」 会計士試験の勉強をしてみて全く才能がないと思い知らされたので、会計士への道は残しながらも、まずは社会人を経験しておこうと思い、現在のアビームコンサルティング㈱の前身であるTTRC(等松・トウシュ・ロスコンサルティング㈱)の第二新卒の中途採用に応募しました。コンサルティングが何をするのかすらよくわかっていませんでしたが、漠然と「面白そうだ」と思ったのです。運よく入社試験が、数的理解のような内容で全て解くことができ、50人中2人の枠に滑り込むことができました。 「その後、会計士試験の勉強を再開しますが、きっかけはどんなことだったのでしょうか。」 TTRCは、名称にもある通り、トーマツの子会社としてスタートした会社でしたので、トーマツから会計士や会計士補の方たちが出向してくるわけです。会計士の方たちと多く接すると、やはり会計士の資格を取らないと後悔すると改めて思うようになり、もう一度会計士試験にチャレンジすることにしました。TTRCでは、いきなり放送局のビッグプロジェクトに投入されたり、ハードな日々の連続でしたが、今振り返ると、社会人経験ともいえない、社会科見学のようなものでした(笑)。その後も、会計士試験には全く合格できなくて苦労しました。特に短答式試験では、複数の記述から、正しい記述の個数を選ぶ問題があったのですが、余計なことを考えすぎて、だいたい1つ個数がズレてしまうといった感じで、引き続き落ちこぼれていました。 「根本から考える傾向は頭のいい人の特徴ではないですか。」 いえいえ、私は、頭は良くないと思います。ただ、少し話は逸れますが、論理だけではなくて、直感のようなものも大切にしたいとは思っています。京大出身で有名な数学者である岡潔先生は、数学の問題を解く前に、情緒を大切にするために、お香を焚いていたらしいです。量子化学の分野でノーベル化学賞を受賞された福井謙一先生も自然を観察する中で育まれる直感を大切にすべきであるとおっしゃっています。使い勝手の良い論理をうまく使いながら、人間の根本にあるもの、醸し出してくるものも大切にする。この両方のバランスが大事なんだと思います。 2年目で頭角を現したオールドルーキー 「苦労して会計士になり、あずさ監査法人(当時の朝日監査法人)に入所されます。監査法人での仕事について今につながるようにエピソードがありましたら教えてください。」 当時の朝日監査法人には、5つの国内事業部と海外企業を担当するアンダーセンの合計6つの事業部がありました。日本の大手企業にアサインされる国内事業部には、主に若手で前途有望な人達が入るので、私のようなオールドルーキーは、アンダーセンに配属となりました。こちらは、英語ができる優秀な人とその他の人を引き受ける感じでした。私はもちろんその他の人。そこで、今でいう東証スタンダート市場の中・小型株の会社にアサインされました。監査は、端的に言えば、財務諸表上の数字が、会計基準に準拠して適正に処理されたうえで、適切に表示されているかについて保証をする業務です。その検証プロセスはまさにツリー構造で、一つひとつのファクトを積み上げて監査要点を証明し、最終的な監査意見を形成していくといったものです。したがって非常にロジカルで、理系の研究や実験と同じ発想なので、会計士試験とは裏腹に監査実務は私に非常に合っていると感じました。 「小さめの会社の方が、全体像が見えてよかったかもしれませんね。」 すごくラッキーだったと思います。小さい会社だと全体を俯瞰して見られます。会社がどう動いているかが見えるようになったので、2年目からは大手企業の子会社のインチャージを任せてもらえるようになりました。現在は、2社目のベンチャー企業にいますが、当時のこの経験がとても役立っています。
#IPO
株式会社アンビスホールディングス
取締役CFO 中川 徹哉 氏

CFOとして社会貢献性のある事業に関わりたい。「お金のプロ」がたどり着いたお金だけでは測れない思い

会計士試験に独学で合格 「中川さんは、監査法人、投資銀行、事業会社というルートを歩まれていて、監査法人や投資銀行出身の方の1つのロールモデルになっていると思います。東京大学の法学部に在籍していた時から将来のキャリアを具体的に考えていたのでしょうか。」 私の姉は2人とも医者で、私も東大医学部を受験したのですが、残念ながら不合格で私だけが医者になれませんでした。よって、一度医者以外の道をゼロベースで考えてみようと思い、法学部を選択しました。大学では、大学の授業のおかげもあり、法律に非常に関心を持つことができました。一方で、弁護士業務自体にはあまり興味を持てませんでした。そんな中、大学3年生の夏に大学の会計の授業を受けます。仕訳や財務3表の仕組み含め、会計そのものに非常に興味を惹かれました。そのことをきっかけに、会計のプロフェッショナルを目指そうと会計士試験にチャレンジすることにしたのです。 私の勉強方法は独特で、予備校には通わず、市販のテキストやインターネットの情報から、会計基準の適用指針に記載されている会計処理はもちろんのこと、結論の背景や設例を読み漁り、「こうやって会計ができたのか」「ここが論点だな」と会計論点を一つずつ納得して習得していきました。具体的な事例にあたりたいときは、公開会社の有価証券報告書等をインターネットで検索し、実務ではこのようにするのかと会計基準と照らし合わせながら勉強していたのも一つの特徴だと思います。 「よく合格できましたね。」 大学3年生の12月に一次試験に合格、大学4年生の8月に二次試験に合格しました。他の人よりも勉強量は少ないので、間違いなく運もあったと思います。会計論点を網羅的に勉強するのではなくて、重要な会計論点の結論の背景を重点的に理解していきました。よって、丸暗記した会計基準はほとんどなかったです。但し、結論の背景を覚えていれば、おおよその問題は解く事ができました。現在も、例えば、業界特有の論点である控除対象外消費税を含む色々な会計論点について、元々詳しく知らなかった会計論点もゼロベースで考え、適切な会計処理を選択出来ているのは、まさに会計基準を暗記しているからではなく、背景を理解しているからと思います。 そういう意味では、投資銀行の経験はもちろんですが、会計士の知識がなければ、今のCFOとしての業務はできていないと思います。たった数年間ですが、会計士の試験勉強と監査法人で会計実務に触れた経験が、私のCFOとしてのベースを築いていると思います。 投資銀行でクライアントに近い存在へ 「監査法人を3年で辞めて、競争が激しい外資系投資銀行のモルガン・スタンレーに転職した理由を教えてください。」 その時その時で自分が好きな道を選んできたというのが正直なところです。投資銀行に転職する前に、監査法人時代にDDに関わらせてもらう機会が多くあったことから、PwCアドバイザリーに異動しました。しかし、実際に会計アドバイザーとしてDDを担当したら、クライアントの一番近くには投資銀行のバンカーがいて、その先にDDのアドバイザーがいるという構図で、DDのアドバイザーはクライアントとの距離が遠いと感じました。そこで、最終的な意思決定をするクライアントに近づきたいと思い、投資銀行に転職しました。また、日本企業が海外企業を買収するクロスボーダー案件に携わりたいと思って、外資系を選びました。 投資銀行に転職した当初は、私が数時間経ってもできなかった仕事を数分でこなしてしまう上司を見て、何も出来ない自分に不甲斐なさ、悔しさを感じました。最終的には楽しいと思えるようになりましたが、投資銀行時代は苦しく辛いことの方が多かったように思います。但し、与えられた仕事に全力で取り組むという仕事の基礎を、モルガン・スタンレーで徹底的に叩き込まれたので非常に感謝しています。外資系投資銀行は、勤務時間が長い事が特徴と思われがちですが、一番の特徴は、時間が長い事よりも仕事に対して全力で取り組む人が多いという事であり、もう一度キャリアを始めるとしても必ず経験したい職場だと思います。 「投資銀行時代はどのような業務に就いていたのですか。」 主にはM&Aと資金調達のアドバイザーをしていました。M&Aのアドバイザーは、売り手側か買い手側について、企業価値を算定し、最終的に案件をまとめるという業務を担います。資金調達のアドバイザーは、株式や債券等を発行し、当該証券に関心がある投資家に買ってもらうことで、クライアントが必要とする資金を調達するという業務を担います。 投資銀行本社で経験した挫折 「投資銀行にいた5年間の間に、アメリカに出向されていますね。自ら手を挙げたのでしょうか。」 そうですね。3年目の終わりに審査があり、その審査においてトップになればニューヨークに出向することができます。社内の審査員数名にニューヨークに行きたい理由をプレゼンしました。入社1年目からどうせ入社するなら同期トップとなってニューヨークへ行き、本社でチャレンジしたいと思っていました。 「ニューヨーク本社ではどのようなことをされたのでしょうか。」 金融機関やテック系企業のM&Aのアドバイザー業務がほとんどでした。クライアントは、日本企業は一つもなく、全て米国企業でした。ただ、これがすごく難しかったです。行く前は自信満々でしたが、異国で生活したことがない中、クライアントとの距離感を埋めれずに完膚なきまでにたたきのめされました。例えば、ディナーをしたとしてもクライアントとの距離が縮まらないのです。最初は気を遣って頂き、日本に関する会話や日常会話をしていたとしても、時間が経ってお酒が進むと話すことがなくなります。アメリカンフットボールの選手も知らない、バスケットボールの選手も知らない、アメリカでの趣味もない。そんな日本人と話すぐらいであれば、誰だって現地の人と話す方が楽しいですし、経営上の悩みを打ち明けられると思います。一方、そんな弱音ばかり吐いてても仕方ないので、何とか何か勝てるものはないかと探しました。そして、それは財務モデリングでした。 最終的に、MBA卒業生のモデル講師をやらせて頂くことになったので、社内の信頼を勝ち得たと思います。しかし、クライアントからは、「モデルがいくらできてもあなたに頼む必然性がない」ということになる。その壁が乗り越えられませんでした。英語ネイティブでなくともニューヨーク本社でトップ評価が取れると思って行ったのですが、自分の実力ではトップにはなれないと実感しました。この挫折は、今現在を含む今後のキャリアに大きく影響を及ぼすきっかけとなりました。本社で関わる同僚・クライアントは、自分と同程度またはそれ以上の能力があり、各国の歴史やスポーツ含めあらゆる点において教養・知識が豊富な人がたくさんいて凌ぎをけずっていました。この挫折は私の中で想像以上に大きく、この業界を離れようと考えるきっかけになりました。そして、同時に、もっともっとがむしゃらに働き成長したい、そう思わせてもらったニューヨーク本社での経験でした。 「モルガン・スタンレーから事業会社に転職します。その際、会社を選ぶ基準を設定していましたか。」 モルガン・スタンレーを退職した後は、ヘッジファンドに転職をしようと思っていました。理由は、仮想ポートフォリオを組んで、利回りを計算するくらい株が好きだったからです。投資銀行の次の職場を選ぶ基準としては、自分の持っている能力を発揮でき、成長できる場所がいいと考えていました。