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ジャフコグループ株式会社
社外取締役/監査等委員 田村 茂 氏

銀行での海外勤務やMBA取得を経てベンチャーへ挑戦。CFOから社長へと駆け上り、すべての経験がつながった社外取締役の現在

外大スペイン語学科での貴重な経験 「田村さんは東京外語大学のスペイン語学科に進学されていますが、その理由をお聞かせください。」 私は北海道北見市出身で、地元の高校に通う優等生タイプでした。英語が得意だったのですが、当時は留学の機会などなく、少しでも海外に近づきたくて東京外国語大学(以下、外大)を第一志望に選びました。スペイン語学科を選んだ理由は、英語以外の言語を学びたかったからです。受験で散々勉強した英語を、更に4年間学ぶイメージが湧きませんでした。また、私は小さい頃から「お金を稼ぐこと」に関心があり、将来は商社や貿易関係の仕事に就きたいとも思ってました。さらに、教育実習で来た外大の先輩から、「東京生活をエンジョイしたいなら、普通のアルファベットを使う言語がいいよ」ともアドバイスされていました。 というのも、当時の外大では、中国語、アラビア語、ロシア語など非アルファベット系の言語は、特に進級が厳しいと言われていたからです。そこで、フランス語は僕にはちょっと上品過ぎる、ドイツ語は少し堅いということで、最終的には、消去法でスペイン語を選びました。当時のスペイン語は、商業言語としても重要で、特にラテンアメリカとのビジネスでは欠かせないことも決め手でした。とは言っても、スペイン語学科でも進級や卒業はそこそこ大変で、留年や留学などせず4年間で卒業した男子学生は、同じクラス(35名中、約半数が男子)でわずか3名ほどでした。私自身も大学3年を終えたタイミングで、スペインに1年間遊学しています。 「振り返ってその選択はキャリアに大きく影響したと思いますか。」 海外ではスペイン語の存在感はとても大きく、いろいろな局面でスペイン語は意外と役に立ちました。アメリカではヒスパニック系の人口が多く、スペイン語ができることは強みになりました。ただ、それよりも、若いうちの遊学でスペインという異文化にどっぷり浸かった経験は、その後の人生に大きな影響を与えてくれました。 また、私は、企業派遣でアメリカのダートマス大学(Tuck)でMBAを取得しましたが、Tuckには1学期だけ海外のビジネススクールで学べる交換留学制度がありました。学内選抜を経て、バルセロナのIESE(イエセ)ビジネススクールに留学する機会を得ましたが、IESEでは、「日本人なのに英語に加えてスペイン語も話せるのか」と驚かれました。ちなみに、オプション理論のクラスはスペイン語で受けたため、今でもよく理解していません(笑)。私は交換留学生でしたが、今でも卒業生として扱っていただいており、IESE卒業生からキャリアや起業の相談を受けることもあります。 海外駐在を狙って横浜銀行に入行 「卒業後、横浜銀行に入行されています。銀行を選択した理由を教えてください。」 スペインに遊学した際、金融機関や商社の若手社員が語学研修に多数来ていて、彼らにはとても親切にしてもらいました。商社の方々は本当によく遊んでいて自由な雰囲気でしたが、銀行の方々はとても真面目に勉強してました。当時は邦銀が急ピッチで国際化を進めていた時期で、自分でもちょっと意外ですが、「銀行のほうが自分には合っているかも」と感じたものです。 就職活動では、第一志望だった大手銀行に加えて商社も受けました。留学経験もあり、売り手市場だったこともあって自信満々でしたが、商社からは不採用。そんな中、部活の先輩から「地銀だけど横浜銀行が海外展開を急いでいて、外大生を採りたがっている。受けてみないか」と誘われました。他の銀行の面接が進むなかで、早稲田や慶應の学生と同席することも多くなり、金融に疎い(私だけではなく)外大生が彼らと戦うのは厳しい、また、なかには英語も堪能な学生もいて、「語学だけでは差別化にならないな」とも感じていました。正直、銀行で出世するイメージも意欲も持てておらず、「海外駐在ができたらラッキー」くらいの感覚でした。ただ、自分でもニューヨーク支店長や国際部長になれるかもと考えて、大手行ではなく横浜銀行に決めました。 「横浜銀行に15年間勤務することになりますが、どのような業務を経験しましたか。」 最初に配属されたのは、歌舞伎町の角にあった新宿支店でした。バブルの時代、神奈川県内ではなく、都銀としのぎを削るエリアだったため、支店長をはじめ、まさに“精鋭揃い”の支店でした。その分、厳しく鍛えられましたが、相変わらず金融知識には疎く、恥ずかしながら、簿記4級の試験にも落ちる不良行員でした。つい最近、当時の支店長、次の支店長、次長と飲む機会がありました。各々役員に出世された方々ですが、私がベンチャー企業やジャフコで経験してきた話をとても熱心に聞いてくださり、「田村の話は(他の元行員と違って)本当に面白いな」と言われて、とても嬉しかったですね。 花形部署へ栄転も、3ヶ月で異動に 相変わらず校内試験はダメでしたが、新宿支店での営業成績はそこそこ評価されて、花形とされていた為替ディーラーの部署に異動になりました。当時は、今のように厳格なリスク管理体制が整っておらず、“勘”に頼った為替ディーリングが主流でした。ただ、行内では「もっと厳格なリスク管理をしていこう」という雰囲気が広がり始めていたようです。そんななかでも、先輩方は「最初は損をするのが仕事みたいなものだよ」とアドバイスしてくれて、私もその言葉を信じていたのですが…結果として、毎月大損を出し続け、わずか3か月でディーラーを“クビ”になりました。 ソブリンデットの処理部門で活躍 同期の中でも“出世頭”として花形部署に異動したはずが、たった3ヶ月でディーラーをクビに…。その後、上司から「為替ディーラー以外で希望する仕事はある?」と聞かれ、「とりあえず海外に関わる仕事がしたい」と伝えたところ、当時大きな問題となっていた(かつ誰もやりたがらない)発展途上国向けソブリンデット(政府や政府系機関向け融資)を処理する部署に異動となりました。当時の邦銀は「国は潰れない」という前提で、発展途上国に多額の貸し出しをしていて、それが返済不能となり不良債権化してしまいました。企業であれば、倒産すれば損金処理ができますが、国は潰れないため税務上のメリットもなく、銀行にとって非常に厄介な存在でした。 この問題は国際金融の大問題となり、1989年にアメリカ財務長官だったニコラス・ブレイディが「ブレイディ・プラン」を打ち出しました。これは、不良債権化した銀行債務を証券化して新たな市場で流通させるという、銀行ローン証券化の先駆けです。その証券化を前提に、外銀は邦銀から不良債権を買い漁りました。たとえば、邦銀がブラジルに100億円貸していた場合、それを30億円で外銀に売却する。その外銀(またはその顧客)が何らかの方法で40億円を回収すれば、10億円の利益になる、という仕組みです。横浜銀行も、体力に比してソブリンデットを過剰に抱えており、その処理が急務でした。私は(誰も行きたがらない)その担当部署に配属されましたが、幸運なことにローンの証券化業務の経験者がほとんどいなかったため、最年少ながら実務を任されることになりました。具体的には、横浜銀行が保有するソブリンデットやブレディ債を外資系銀行に売却する際の窓口として、交渉や契約、さらに巨額損失を役員会に上程するための資料作成まで担当しました。 海外でMBA取得のチャンスを掴む 意外なことに、懸案のソブリンデット処理実績を高く評価していただき、海外留学生に選抜されました。入行当初、「いつか海外駐在できたらいいな」という、漠然とした希望はありましたが、MBA留学に強い憧れがあったわけではありません。ただ、仕事で接する外資系金融機関の担当者は、誰もが一流ビジネススクール出身でした。彼らと対等に仕事をしていくには、自分もきちんと学びたいと思うようになり、それがMBA受験に向けた強いモチベーションになりました。振り返ってみると、もしあのまま為替ディーラーを続けていても、横浜銀行で出世はしてないはずです。むしろ、3ヶ月でクビになったことで、自分に合った仕事に巡り会えました。本当に、人の運命はわからないものですね。よく「与えられた場所で咲きなさい」と言われますが、まさにその通りだと実感しています。 「34歳の時、米国ダートマス大学でMBAを取得します。この経験は役に立ちましたか。」 間違いなく、MBAの経験は大きな財産になりました。今でこそ、早稲田、慶應、一橋といった国内大学にも質の高いMBAプログラムがあり、私がアメリカで学んだようなファイナンスやアカウンティングの知識は、日本にいながら十分に習得できると思います。それでも、2年間という限られた時間の中で、経営者として必要なマーケティング、会計、HR、工場運営、企業倫理、コミュニケーションなどを、バランスよく効率的に学べたことは、貴重な経験でした。 言語のハンデを抱えながら、バックグラウンドの異なる世界中のクラスメートと学ぶ環境は、非常に“悲惨”かつ刺激的でした。決して楽しいことばかりではなく、何よりも、どんなに厳しい局面に立たされても、「留学時代に比べれば大したことはない」と思えたことは、今でも精神的な支えになっています。昨今の海外MBAは、2年間で4,000万円も掛かるそうで、私費留学は負担が大き過ぎますね。でも、絶対に元は取れますよ。頑張れ、日本人! 「MBA留学はCFOを目指すうえでお勧めでしょうか。」 MBAはCFO→CEOを目指す人にはお勧めです。私の持論ですが、最初からCFOだけを目指している人は良いCFOにはなれません。以前の私には「CFOをやりたい」というのは「経理部長をやりたい」、「数字相手の仕事がしたい」、「リーダーではなく参謀でいたい」と同義に聞こえました。そういう人は、MBAではなく、大学の商学部で学んだほうがいいと思います。
#社長
日本ベンチャーキャピタル株式会社
代表取締役会長 奥原 主一 氏

CFOに求めることは、CEOが前向きな仕事に専念できる環境を作る覚悟と柔軟性

「未来が予測できない」コンサルティングファームへ就職 「奥原様は、東京大学、大学院で工学系の学問を学ばれましたが、なぜコンサルティングファームに就職されたのですか。」 私は、自分に何か特別な才能があるとは思っていないので、周囲と同じことを続けて退職する40年後の自分が容易に想像できてしまいました。「1度しかない人生、せっかくならば想像もできない、面白そうなことをしてみたい」と思いました。 「コンサルティングファームへの就職は、親御さんも驚かれたのではないでしょうか。」 コンサルどころか、パン屋だと勘違いしていました(笑)。アンダーセンコンサルティング(現:アクセンチュア)は就職にあたって親宛に「4月から息子さんがうちの会社で働きます。よろしくお願いします」といった内容の葉書を送っていました。それを見た親は、アンデルセンのパン屋と同じロゴだと勘違いし、「なんでパン屋に行くんだ?」と電話をしてきたのです。未だに私がコンサルに就職したことをわかっていません。 「アンダーセンコンサルティングではどのような仕事をしていたのでしょうか。」 アンダーセンコンサルティングには、いろいろな部署があるのですが、私が最初に担当したのは、横浜にあるソニーの中央研究所で知財の洗い出しをして、それらを活用して何ができるかを考える仕事でした。限られた人しか配属されない部署ですが、振り返ると、この仕事が一番面白かったです。今思うと、当時、正二十面体のボール型で時計、電話、音楽を聴く機能などがついたもの があったのですが、これをうまく発展させることができていれば、iPodやiPadになっていたのではないかと思います。もし先に発売になっていたら、Appleはなかったかもしれません。 視力の低下から公認会計士の資格取得へ 「その後、難易度の高い公認会計士の資格を取得なさいましたが、なぜ取得しようと思ったのですか。また、奥原様は監査法人に勤務されていませんが、就職を考えたことはなかったのでしょうか。」 結局、アンダーセンコンサルティングを2年で退職しました。退職の理由は、目が悪くなって、仕事を継続することが難しくなってしまったからです。学生時代から、システム系の勉強をして目が悪かったところに、就職後もソニーでずっとブラウン管を見ていてさらに悪化してしまいました。いろいろな眼科を回ったのですが、明確な診断には辿り着けず、インターネットで論文検索をしてみると、「もしかしたら、かなりまずい病気なのではないか」ということに気がつきました。そこで、日本で手術ができる病院を探して診てもらったところ、「手術によって普通の近視程度の視力には戻せるけれど、現在の仕事を続けるのは難しいのではないか」と言われてしまったのです。そこで、アンダーセンコンサルティングを退職して目の手術をしました。目は神経が集合しているので、手術後は遠くは見えるけれど近くは見えないという状態が続き、半年くらいリハビリをしました。新聞を読んでも頭痛がしなくなるまで時間がかかりました。 その時期は、テレビをラジオ代わりにして音を聞いて過ごしていたのですが、たまたまネットスケープが上場したというニュースを耳にしました。その時に、初めてアメリカにはベンチャーキャピタリストという職業があって、その人たちがマーク・アンドリーセン(ネットスケープの創業者)という大学院生の起業を応援して大きくしていったことを知ったのです。そして、日本にもベンチャーキャピタリストのような仕事があればやってみたいと思うようになりました。 当時同棲していた現在の妻が税理士の仕事をしており、日本の中小企業に粉飾が多いということは知っていました。僕みたいなバックグラウンドの人間がキャピタリストの仕事をしようとしても、このままではきっと粉飾に騙されるだろうと考えました。そこで、会計や法律をまんべんなく学ぶことができる資格を取ろうと思い、公認会計士を目指し、2年間勉強して合格したのです。ですから、最初から監査法人に入る気はありませんでした。ただ、私が受験した2年間は合格者数が過去最低だったらしく、少ない合格者の座席の一つを奪ったことは悪かったなと思っています。 念願のベンチャーキャピタリストに 「そして、日本ベンチャーキャピタル(NVCC)に入社します。大きくキャリアチェンジすることになりますが、その選択をした理由をお聞かせください。」 NVCCが、独立系のベンチャーキャピタル(以下、VC)だったからです。独立系のVCを3社回ったのですが、うち2社は経験者のみの採用でした。まだできたばかりだった当社は未経験者でも採用してくれたのです。当時としては珍しいと思いますが、メールに「私はこんなに優秀なので、採用しないと損をしますよ」といった内容の文章を記し、自己PRやレジュメを添付して送りました。その後、連絡があり、総務の面接、役員面接、社長面接とあっという間に進み、1998年の1月4日、正月明けから転職しました。その頃、大手の金融機関は子会社としてVCを持っていました。しかし、連結会計がない時代でしたので、そのほとんどが親会社の不良債権を飛ばす対象となってしまっていたのです。そういった場所では、まともな投資は行っていないだろうと考え、最初から独立系のVCだけを狙って転職活動をしました。 日本ベンチャーキャピタルの特徴 「NVCCはVC業界の中でもユニークな組織です。NVCCの成り立ちや特色を教えてください。」 NVCCは、自らベンチャー企業を興し、各分野で成功をおさめている事業家や、ベンチャー支援に熱意を持つ大手企業などが結集し、これまでとは異なる支援型の本格的なVCをめざして、1996年に設立されました。当時、経済同友会でVCを作ろうという動きがあり、ウシオ電機の牛尾治朗さん、セコムの飯田亮さん、オリックスの宮内義彦さん、日本生命の伊藤助成さん、そして会長を務めたコスモ証券の文箭安雄が発起人として創業しました。それに参画、賛同していただける方を徐々に増やしながら現在に至ります。 金融知識がないことをプラスに、手探りで業務スタート 「投資をする分野や方針は決まっていたのでしょうか。」 全く決まっていませんでした。私が入社したのは創業2年目で、当時、日本に独立系のVCがほとんどなかったので、社内だけでなく、日本中に業務を教えられる人がいませんでした。「この業界は本当に歴史がないから、自分で考えて進めていかなくてはいけない。幸い私は金融機関に勤めていた経験がなく知識もないので、彼らがハードルに感じることに対して私はハードルに感じない。これは逆にプラスになるはずだ」とポジティブに考えました。まだ、ウェブサイトが充実している時代ではなかったので、最初はアメリカのVCの教科書を読み漁って真似をすることからスタートしました。 「具体的にどんな仕事をしていたのですか。」 本当に手探りでひたすら投資をしてきました。アメリカのセオリーどおりにやってみて、うまくいかなければ次は取り入れないし、良かったら日本流にアレンジするというやり方で進めました。弊社にも過去含めて50名以上のキャピタリストが在籍し、累計で1100社以上投資致しましたが、キャピタリストとして1件目の投資が上場したのは私だけです。それくらい運には恵まれてきました。 「入社して10年ほどで取締投資部長に就任されています。」 2008年に取締役投資部長になりました。この頃は採用を増やしすぎていて、能力が不足している人もかなりいたように思います。さらに、就任した直後にリーマン・ショック。創業者の文箭(安雄)とこの会社をどうすべきかについて、何度も話し合いました。ただ、そんな中でも、投資は継続していました。