COLUMNコラム

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#コンサルタント
株式会社パワーエックス
執行役CFO 藤田 利之 氏

心に火が灯り挑戦したベンチャーのCFO 事業会社やFASでの知見が結実した成功への道

苦しかった事業会社での経験 「公認会計士を目指したのはいつ頃からですか。それはなぜですか。」 高校2年生の時です。私は、小さいころから父から「理系の大学に進学したほうがいい」「手に職をつけたほうがいい」と言われてきました。私自身も数学が好きだったので、理系に進もうと考えていたのですが、高校2年生で文理選択をする際に、理系でやりたいことが見出せず悩みました。そんな時に、書店で見つけた資格の本に、公認会計士について書かれていました。当時は勝手に「企業のドクター」のようなイメージを感じ、数学的な要素や経営的な要素があり、面白そうな仕事だと感じました。また、性格的に学校の先生や先輩との上下関係がそこまでうまくやれるタイプではなかったので、当時から大きな組織で出世していくサラリーマンは向いていないと思っていましたので、独立できる資格ということも魅力に思えました。父にも「理系には進まないけれど、資格取得をして手に職をつけたいと思っている」と話をし、会計士を目指すことにしたのです。 その後、大学に進学し、大学2年生から勉強をスタートしました。最初はなかなか勉強に身が入らず、結局合格したのは卒業して2年目なので、受験勉強に4年半くらいかかり、資格の取得にはかなり苦労しました。当時は、大学入学時がまだバブルと呼ばれた好景気な社会で、世の中も大学も浮かれており、就職に苦労するという雰囲気ではありませんでした。しかし、大学3年生頃にバブルが崩壊し、社会が一変し、大学4年時には、友人が就職で苦労するのを見て、今から就職活動をしてもすでに難しいと感じました。私は、そこでやっと「会計士に受かるしかない」と覚悟を決めることができました。その後、やっと合格しますが、バブルは崩壊しており、合格者であっても半数が監査法人に就職ができないという年でもあり、今度は就職の苦労が始まりました。 「それで、監査法人に入所せず事業会社に就職したのでしょうか。」 景気悪化に伴い監査法人での採用人数がそもそも少なく、どこにも受かりませんでした。とにかく早く働いて稼ぎたいとの思いで、ソニー・ミュージックエンターテインメントに中途入社し、グループ人事の一環で、キャラクターグッズのライセンスビジネスや化粧品ビジネスを行っていた子会社のソニークリエイティブプロダクツという会社の経理に配属になりました。事業会社でサラリーマンになりたくない、と思って、会計士の勉強を始めたはずなのに、結局、最初は事業会社に就職するということになりました。 やっと得た仕事ですが、社会人経験が全くないまま中途入社したので、そのあと地獄のように大変でした。会社の人からは、「会計士試験に受かったすごい人が入社してきた」と思われていたようですが、私は名刺の渡し方、電話の取り方も知りません。愚痴る同期もいません。期待に全く応えられず、会計士試験に合格したプライドは一気に崩れ、毎日遅くまで残業し、土日も出勤と地獄の日々を送ることになりました。 「そこで経験されたピンチや苦労について教えてください。」 新人なので、電話を取ったり、お茶を出したり、お弁当を買いに行ったり、請求書を封筒に入れたり、大量の伝票の仕訳をしたり、という仕事をしながらも、会計士2次試験合格者の期待として監査法人の対応をしたり、取締役会の資料を作ったりという業務も任されていました。しかし、会計士2次試験合格者とはいっても、仕事自体が初めてで、仕訳を切った実務経験もありませんし、取締役会の資料と言われてもイメージが湧きませんでした。しかも、ソニーの連結孫会社だったので連結決算のため、毎月の月次決算スケジュールはタイトで、キャパオーバーが続き、ミスを連発しました。自身の力不足も相まって上司ではなく、先輩や同僚からも怒られることも多々ありました。入社して半年で10kg痩せました。 加えて、一般事業会社なので、監査法人と違って補習所に行くシステムもありませんでした。試験の日とディスカッションの日だけは、なんとか半日の有給を取って、ギリギリ単位を取りました。会計士2次試験に苦労して合格し、就職に苦労し、そして最初の職場でもかなり辛い日々が続きました。まだ、独立できる公認会計士になれるイメージもわかず、日々の仕事に追われる日々でした。 営業から契約締結まで担当したトーマツでの経験 「1年ほど勤めた後に、退職して、監査法人トーマツの静岡事務所に入所されています。それはなぜですか。」 事業会社での1年間で疲れ果て、また、初心に戻って会計士としての監査の経験をし、独立を目指すために地元の静岡県に帰ろうと思ったからです。1年早く合格した大学時代の友人がトーマツの静岡事務所で働いていて、その友人から所長を紹介してもらい、即入社が決まりました。 「静岡事務所ならではの得難い経験があったと思いますが、具体的にはどんな経験やスキルを習得することができたと思いますか。」 当時のトーマツの静岡事務所は、出張所のような位置付けから事務所に格上げされてそれほど立っておらず、所長も40歳前半で若いメンバーの事務所でした。監査法人において、通常は、営業はパートナーしか担いませんが、静岡事務所では、事業規模の拡大のために営業研修があり、スタッフから営業マインドを植え付けられました。私が在籍した際には、スタッフからシニアスタッフに昇進するためには、クリアしなければならない営業ノルマがありました。当時、ちょうと東証マザーズやナスダックジャパンが設立され、IPOを目指す会社が増える傾向にありました。そこで、問い合わせがあった会社に対して、ショートレビューをして課題を抽出し、レポートを書いて、提案をして、コンサル契約あるいは監査契約を結んでといったように案件を獲得しました。 ここで、前職での経理の実務経験が非常に活き、成長に向けた体制整備の案件を数件獲得でき、月に何回か訪問し、月次制度を整えたり、内部の仕組み作ったりしていきました。トーマツの静岡事務所は、約4年間と短い期間でしたが、地方事務所のおかげで、かかわる業種も幅広く、早期に現場のインチャージも経験でき、加えて、営業から監査やコンサルまで、様々ななことを経験させていただきました。今思えば、非常にいい経験だったと思いますが、当時はとにかく忙しかったことを覚えています。 「監査法人というよりベンチャー企業のようなイメージですね。」 監査法人の中では、伸び盛りの地方事務所で、かつ、顧客もベンチャー企業も多かったので、まさにベンチャー企業のような事務所でした。ただ、私自身は、入社当時は、ベンチャー企業のような環境で働きたいと思っていたわけでもなく、同期の合格者から1年遅れてトーマツに入社したので、懸命に業務に打ち込むことで早く、試験合格の同期に追いつきたい、との思いだけでがむしゃらにやっていただけでした。ただ、それがベンチャー企業の参画に繋がった部分もあるかもしれません。
#コンサルタント
株式会社東京通信グループ
取締役執行役員CFO 赤堀 政彦 氏

27歳でCFOにチャレンジ!関わる企業とともに成長し、挑戦を続けた先に見えた経営の醍醐味とは

新卒にして企業買収や業務提携を担当 「大学卒業後、シーエー・モバイル(現:CAM)に入社します。この選択が赤堀さんのその後のキャリアを決定づけたと言っても過言ではない気がしています。なぜシーエー・モバイルを選んだのですか。」 将来のキャリアを鑑み、企業買収に関するアドバイザリーやコンサルティングの仕事を探していました。アドバイザーという外部の立ち位置で探していましたが、シーエー・モバイルから自社の企業買収や事業提携の担当者というポジションで採用いただきました。結果的には、外部のアドバイザーとしてではなく、内部で意思決定に関与できる立ち位置に関心を持って入社を決めました。シーエー・モバイルでの日々により、たくさんの失敗をしながら経験値を増やすということが、私のスタイルになりました。当時はあまり失敗ばかりしたくないと思っていましたが。 27才で投資先のCFOにチャレンジ その後セレンディップ・コンサルティングに入社しました。入社前から様々なコンサルティング業務を経験できることは説明を受けていました。2年程はM&Aに関連したアドバイスをしたり、中期経営計画や人事制度を構築したりと様々な業務に従事しました。その後、セレンディップ・コンサルティング自身が企業に投資をするという方針変更を実施しました。 「それをきっかけに、27歳の時に投資先の取締役管理部長に就任されるのですね。これは自ら希望したのですか。また、不安はありませんでしたか。」 自分から希望しました。今から考えるとかなり無謀な挑戦だと思います。無知だからこそ手を挙げられたのでしょうね。最初は売上60億円、従業員は1,500人ほどのベーカリーを中心とした食品製造小売販売業の取締役管理部長、いわゆるCFOをしました。借入金が大きく、赤字も数億円と業績が良くない会社だったため、当時は候補者があまりいなかったのかもしれません。それならば、自分がやってみようと決意しました。 「初めての経験ですよね。」 何も分からないところからのスタートです。プロジェクトベースのものであればまだイメージができますが、経理実務はさっぱり分かりません。仕訳の切り方も給与計算も分からず、「承認のルートとは何ですか?」という状態からスタートしたので、業務を進めながら勉強していきました。 「実務的な問題だけでなく、人のマネジメントも大変だったのではないでしょうか。」 そうですね。当時は、がむしゃらにやっているだけで、周りが見えておらず、性格もきつかったと思います。「なんとしても黒字にしないと、この会社は潰れてしまう。社員のみんなを路頭に迷わせるわけにはいかない」と思っていました。それが正しいと信じていました。今振り返ると、もっとやりようはあったのでではないかと思いますが。 売上を失った失敗経験 「こちらでの失敗の経験があれば教えてください」 大きく売上を失ってしまったことがあります。あるスーパーマーケットチェーンにベーカリーショップを出店していたのですが、店の老朽化などの影響で売上が思わしくなかったため、賃料の交渉をしました。あまりにも赤字が大きく交渉しすぎてしまい、GMS側の役員と部長から「全店舗から出ていってくれ」と言われてしまい、億円単位で売上を失うことになってしまいました。そのGMSに出店している店舗は赤字だったので閉店させた方が良かったのですが、閉店するにもコストがかかりますし、働いている人たちをどうするのかといった問題が生じました。今振り返るともっと上手い交渉の仕方はあったと思います。 「食品製造小売販売業でのCFOの経験は、ある意味では再生案件ですよね。再生案件は難しいので、一般的には経験豊富な方がCFOとして入っていくケースが多いです。赤堀さんはそれを27歳という若さで経験された。振り返ってみて、どのような経験になりましたか。」 当時は上司に言われたことを本当にがむしゃらにしていただけです。たまたま上司に恵まれていて、たまたまやったことが上手くいった。上司は狙ってやっていたそうですが、それすら当時の私には分かりませんでした。だた、本当に良い経験をさせてもらいました。 「さらに、30歳でセレンディップ・コンサルティング本体で取締役管理部門管掌という管理のトップを任されます。不安はありませんでしたか。」 当時は、がむしゃらすぎて不安を感じている暇すらなかったのですが、今考えると不安しかなかったですね。また、能力的にも不足していたので、経験を重ねて乗り越えましたが、上司が僕に時間を惜しみなくかけてくださったことも大きかったです。ただ、当時はそんなことにも気付けてはいませんでした。色々な人に迷惑をかけながらも、結果的には資金調達ができて、企業買収・M&Aもできました。 一方で、このCFO経験は、僕の中に悩みや葛藤を生みました。自分が理想とするCFO像と自分とのギャップがあまりに大きいことを認識しました。そもそも「CFOの仕事とは何か」といったことが、きちんと腹落ちできていなかったのです。人の言葉を聞いたり、本を読んだりしてもしっくりこない。しっくりこないまま進めていました。 「その当時は分からないにしても、今振り返るとどういうことをすればより上手くいったと思いますか。」 当時、上司から「考える時間を作りなさい」とよく言われていました。当時はピンときませんでしたが、今はそういう時間をとるようにしています。世の中に溢れている答えのないことに対して考えを巡らせる時間をとることが必要だったのではないかと思います。
#コンサルタント
株式会社ジオコード
専務取締役CFO 吉田 知史 氏

ダイナミックに挑戦し、積み上げた多様な経験を、2度のベンチャーIPOに活かす

経営が身近にあった幼少期 「吉田さんはどのような環境で育ったのですか。」 私は、かつて鋳物の街として栄えていた埼玉県の川口市出身で、実家は鋳物工場を営んでいました。年輩の方は、吉永小百合さんが主演され、川口が舞台の『キューポラのある街』という映画を思い出すかもしれません。自宅は会社の事務所と併設で、道路を挟んで向かいに工場がある。工場では、週に2回ほど「吹き」といって鉄を溶かして鋳型に流し込む作業をしていてすごく熱くなるので、夏場はひと仕事終えた職人さん達と一緒にアイスクリームを食べるといった環境で育ちました。私は長男でしたので、小さな頃から祖父に「鋳物屋を継いでほしい」と言われて育ちました。経営が身近にあったという幼少期の原体験は、その後の意思決定に大きな影響を及ぼしていると思います。 「家業に関連する大学・学部を選択されたのでしょうか。」 ずっと家業を継ぐつもりでしたので、関連分野となるセラミックス等の新素材からバイオテクノロジーまで幅広く学ぶことができる、京都大学工学部工業化学科に進学しました。その後進んだ大学院(工学研究科分子工学専攻)では、学問的興味から家業とは関係ない量子化学を専攻しておりました。ただ、その頃になると地元の川口もかつて工場で賑わった下町の工業地帯から大分変貌を遂げ、工場の跡地にタワーマンションが建つなど都市化しはじめていて、もはや家業を継ぐことは難しいかもしれないと思うようになっていました。 そこで、将来の目標にできることは何かないかと模索を始めた時、ふらっと立ち寄った大学生協の書店で手に取った冊子に、中学・高校時代の陸上部の先輩の公認会計士試験合格体験談が掲載されているのを見つけたんです。そこから会計士を意識するようになりました。意識し出すと、実家にもよく会計士が来ていたことを思い出したり、中学・高校時代の同級生に会計士になっている人が何名かいたりして、さらに身近に感じるようになっていきました。早速先ほどの先輩に連絡をとって、京都から東京のトーマツの職場を見学しに行き、そこで「会計士の道に進もう」と思うようになったのです。一度そう思うとすぐに行動したくなり、大学院はいったん休学して会計士の勉強をスタートさせることにしました。 相性が悪かった会計士試験と社会科見学!? 「会計士試験の勉強はどう進めていきましたか。」 資格の学校に入って勉強をスタートしたのですが、会計士試験との相性が非常に悪くて、なかなか合格できませんでした。私は、コテコテの理系人間なので、理屈なく暗記するタイプの学習が全く合わなかったのです。三角関数でいえば、テストの場で加法定理からスタートして他の定理を導き出してから答えを出すというように。ですから、全体構造が見えない中で、専門学校の授業で「ここは暗記してください」と言われてもどうしてもできなくて、私だけ落ちこぼれていきました。例えば、会社法の定義の中に「有機的一体」という用語が出てきた時は、いったいこの先生は有機化学と無機化学を本質的に理解しているのだろうかなどと考えてしまって、全く定義が頭に入ってきませんでした(苦笑)。 「そこで、会計士試験から一時的に撤退して、コンサルティング会社に入社されるんですよね。」 会計士試験の勉強をしてみて全く才能がないと思い知らされたので、会計士への道は残しながらも、まずは社会人を経験しておこうと思い、現在のアビームコンサルティング㈱の前身であるTTRC(等松・トウシュ・ロスコンサルティング㈱)の第二新卒の中途採用に応募しました。コンサルティングが何をするのかすらよくわかっていませんでしたが、漠然と「面白そうだ」と思ったのです。運よく入社試験が、数的理解のような内容で全て解くことができ、50人中2人の枠に滑り込むことができました。 「その後、会計士試験の勉強を再開しますが、きっかけはどんなことだったのでしょうか。」 TTRCは、名称にもある通り、トーマツの子会社としてスタートした会社でしたので、トーマツから会計士や会計士補の方たちが出向してくるわけです。会計士の方たちと多く接すると、やはり会計士の資格を取らないと後悔すると改めて思うようになり、もう一度会計士試験にチャレンジすることにしました。TTRCでは、いきなり放送局のビッグプロジェクトに投入されたり、ハードな日々の連続でしたが、今振り返ると、社会人経験ともいえない、社会科見学のようなものでした(笑)。その後も、会計士試験には全く合格できなくて苦労しました。特に短答式試験では、複数の記述から、正しい記述の個数を選ぶ問題があったのですが、余計なことを考えすぎて、だいたい1つ個数がズレてしまうといった感じで、引き続き落ちこぼれていました。 「根本から考える傾向は頭のいい人の特徴ではないですか。」 いえいえ、私は、頭は良くないと思います。ただ、少し話は逸れますが、論理だけではなくて、直感のようなものも大切にしたいとは思っています。京大出身で有名な数学者である岡潔先生は、数学の問題を解く前に、情緒を大切にするために、お香を焚いていたらしいです。量子化学の分野でノーベル化学賞を受賞された福井謙一先生も自然を観察する中で育まれる直感を大切にすべきであるとおっしゃっています。使い勝手の良い論理をうまく使いながら、人間の根本にあるもの、醸し出してくるものも大切にする。この両方のバランスが大事なんだと思います。 2年目で頭角を現したオールドルーキー 「苦労して会計士になり、あずさ監査法人(当時の朝日監査法人)に入所されます。監査法人での仕事について今につながるようにエピソードがありましたら教えてください。」 当時の朝日監査法人には、5つの国内事業部と海外企業を担当するアンダーセンの合計6つの事業部がありました。日本の大手企業にアサインされる国内事業部には、主に若手で前途有望な人達が入るので、私のようなオールドルーキーは、アンダーセンに配属となりました。こちらは、英語ができる優秀な人とその他の人を引き受ける感じでした。私はもちろんその他の人。そこで、今でいう東証スタンダート市場の中・小型株の会社にアサインされました。監査は、端的に言えば、財務諸表上の数字が、会計基準に準拠して適正に処理されたうえで、適切に表示されているかについて保証をする業務です。その検証プロセスはまさにツリー構造で、一つひとつのファクトを積み上げて監査要点を証明し、最終的な監査意見を形成していくといったものです。したがって非常にロジカルで、理系の研究や実験と同じ発想なので、会計士試験とは裏腹に監査実務は私に非常に合っていると感じました。 「小さめの会社の方が、全体像が見えてよかったかもしれませんね。」 すごくラッキーだったと思います。小さい会社だと全体を俯瞰して見られます。会社がどう動いているかが見えるようになったので、2年目からは大手企業の子会社のインチャージを任せてもらえるようになりました。現在は、2社目のベンチャー企業にいますが、当時のこの経験がとても役立っています。
#コンサルタント
株式会社アドバンテッジパートナーズ
パートナー 早川 裕 氏

PEファンドのパートナーから見た「魅力的なCFO」 成功するCFOの素養とは?

PEファンドに入社するまで 「アドバンテッジパートナーズで活躍されている早川さんですが、現在に至るまでの経歴を教えてください。」 私のキャリアは少し変わっているかもしれません。大学ではロボット工学を学び、独立系のシンクタンクに就職しました。当時、理系はそのまま大学院に進むか、大学の推薦で大手のメーカーに就職するケースが多かったと記憶しています。シンクタンクでは、原子力エネルギーに関する各国の安全規制動向の調査や事故事例の調査分析などを担当しました。エネルギー政策の分野は、技術だけでなく、政治も経済も、社会心理学だって絡んできます。次第に、そういった学問を多面的に学び、さまざまな事象を理解したいと思うようになったのです。そして、理系と文系をまたいで勉強ができるアメリカのカーネギーメロン大学の大学院に進学することにしました。シンクタンクで働き始めて4年目のことでした。 大学院では技術政策を学び、その分野で博士号を取得しました。そのままアメリカでアカデミアのキャリアを目指していましたが、コンサルティング会社のマッキンゼーから声をかけていただき経営コンサルタントの世界に入りました。マッキンゼーでは主に製造業やハイテク企業に対するコンサルティングプロジェクトに参加していましたが、キャリアの後半になると、PEファンドから依頼を受けて、事業会社の事業デューデリジェンス(DD)の仕事が増えていきました。株主の視点でも経営に関与できるPEファンドの仕事に興味を持つようになり、すでにマッキンゼーの先輩や同僚が活躍していたアドバンテッジパートナーズに2008年に転職することにしたのです。8年間勤務したマッキンゼーを退職しました。アドバンテッジパートナーズには主に投資先の企業価値向上プロジェクトを担当する役割で入社しましたが、2015年頃からは投資全体に関与するようになりました。当時も今も私が担当する投資先企業は製造業が中心です。 「組織で勝つ」という意識の強さが特徴 「アドバンテッジパートナーズは日本のPEファンドを牽引してきた独立系の大手投資ファンドですが、どのような特徴を持った会社でしょうか。」 日本で一番古いPEファンドの一つで、社員数も投資件数も多いので、業界のリーダーであるという自負があります。特徴としては、経営支援に重きを置くという姿勢を持っていることが挙げられます。経営管理の強化やコスト削減活動に加え、売上拡大など成長支援の取り組みを大切にしています。事業モデルの変革も必要あれば積極的に行います。売上拡大は、コスト削減よりも難易度が高いと思います。どうやって営業活動を活性化させるか。新たなお客様をどう開拓するか。値段をどう適正化するか。デジタルを使ったマーケティングや営業をどう進めていくか。あれやこれやと会社の方と議論させていただきます。事業モデルの変革とは、例えば、製品の売り切りモデルからサービスも含めたリカーリングモデルへ転換していくといったことが挙げられます。 PEファンドは金融機関に分類されると思いますが、我々はコンサルティング会社のような性質を持っていることも特徴の1つです。つまり、「組織で勝つ」という意識が高いです。自分の案件を担当することで成長するということだけではなく、社内で実施される組織横断的な活動への貢献も求めています。各案件で得た経験や知見を社内で共有し、それをまた別のメンバーが担当の投資先で活用する。どんなに優秀な人でも、1人のインプットとアウトプットの量には限界がありますので、組織で勝っていくことが重要だと思っています。さまざまなバックグラウンドを持ったメンバーが集まっていることも特徴です。シニアメンバーはコンサルティング会社出身が多いですが、組織全体としては、投資銀行出身者、FAS出身者、VC出身者など多様です。案件を多面的な視点で成功に導くということが大事ですが、各個人のスキルアップの観点でも異なるバックグラウンドを持っている者が集まっていることは重要です。近年ではプロフェッショナルメンバーの女性比率も高まっています。 投資の3つのポリシー 「これまでの投資対象と投資実績を可能な範囲でご説明ください。」 アドバンテッジパートナーズとしては、多様な業種業態に投資をしてきました。中でも、消費財、小売りやサービス業界が多く、例えば、クラシエや牛角、成城石井、コメダ珈琲、石井スポーツ、やる気スイッチ、キューサイなどが挙げられます。上場企業投資チームの方は、フジオフードシステムや物語コーポレーション、ルネサンスへの投資・経営支援などの実績があります。 「その中で、早川さんはこれまで特にどのような業種・規模感の会社に投資してきたのでしょうか。」 私自身の投資経験は、これまでの専門性が生きる領域ということもあり、ハイテクや製造業の企業が中心です。具体的には、自動車関連部品、厨房機器、産業機器や電子部品・デバイス、機械、プラスティック成形などです。投資担当先の規模感は、現在投資中の会社に限ると小さい方は売上100億円程度、大きい会社の場合には1000億円弱といったところです。 「早川さんの投資スタンスについてもお聞かせください。」 私が大事にしているポイントは3つです。1つは、技術でもサービスでも品質でも良いのですが、他社に真似されない、その会社にしかない要素があるかということです。私はいつも、「なぜこの会社はお客様から注文がもらえるのか? なぜ他社ではなくてこの会社なのか?」を理解するように心がけています。その理由を突き詰めた時に、この会社にしかない要素があり、だからこの会社に発注せざるを得ないということが見えてくれば、この会社には競争優位があると判断します。また、その競争優位を生み出すリーダーシップや組織能力も理解したいと思っています。 もう1つは、詳細な顧客セグメンテーションをして、市場を絞った上でのシェアが高いことです。性別や年齢などの在り来りなセグメンテーションではなく、できる限り詳細に分解されたセグメンテーションでのシェアを重視しています。マクロでみると世界シェア一桁%の会社も、サブセグメントで見るとシェア50%ということがあります。そして、なぜシェアを取れているかには必ず理由があります。その理由は、他社に真似できない要素を持っているということに行き着くので、1つ目のポイントと同義といえば同義なのですが、この観点も大切にしています。 そして最後に、その市場、特にその会社が属するサブセグメントは成長するか、という点も検証します。 「投資を決める際に、前職のマッキンゼーのようなコンサルティング会社にも入ってもらうことはありましたか?」 事業DDをコンサルティング会社に支援いただくことはよくあります。私も実際コンサルティング会社ではDDプロジェクトに関与しておりました。PEファンドの立場として大事なのは、コンサルティング会社に事業DDをお任せしてしまうのではなく、この観点で検証してほしいという、論点を明確にすることと考えています。5年間という投資期間もしっかり意識してもらうことも重要なポイントとなります。投資直後の100日計画の作成や実行、投資後しばらくしてからも特定の課題があって会社の方々だけでは解決が難しいと考えれば、コンサルティング会社の支援を仰ぐことは良くあります。
#コンサルタント
石橋 善一郎 氏

【前編】FP&Aプロフェッショナルが目指したCFOへのキャリア。そして、その先に見えた自身の役割とは

FP&AプロフェッショナルとしてCFOを目指す 現在は、「CFOのその後のキャリア」として、職業人団体や会計大学院・経営大学院でCFOを目指すプロフェッショナルへの啓蒙および教育活動をなさっている石橋さん。現在に至るまでのご経歴を時系列で伺います。 「大学卒業後、富士通に入社していますが、いつ頃からCFOという職業を意識したのですか。」 私は、1982年に富士通に入社して、経理部でも財務部でもなく、海外子会社の事業を管理する海外事業管理部に配属されました。1980年代の日本において、CFOという概念はほとんどありませんでしたので、国内勤務の3年間は、経理や財務のスキルを使って事業管理を行う経営管理業務が自身の仕事だと認識していました。4年目にシリコンバレーにある富士通アメリカへ駐在となります。ここでも、電算機、通信機、半導体などの製品事業部レベルの富士通アメリカの子会社(富士通の孫会社)の事業管理をしていました。この時に初めて、CFOという職業に出会います。各子会社に米国人のCEOとCFOがセットで配置されていました。彼らと仕事をする中で、CFOの仕事とは、経理や財務だけでなく、むしろ最もメインの業務である事業管理や経営管理を行うFP&Aという仕事であるということを知りました。当時はCFOになりたいという思いは抱いていませんでしたが、振り返ると、ここで出会ったCFOの方々が後の私のロールモデルの1つとなりました。 「FP&Aについて、簡単にご説明をお願いします。」 FP&Aの定義は誰に伝えるかが大事なので、日本企業の子会社で事業管理をしていた20代の私自身に向けた説明をします。FP&Aとは、本社レベルではなく事業部レベル(工場や営業所や研究所や子会社や海外子会社をイメージしてください)で、事業戦略の形成・実行の当事者としてビジネスパートナーになり、中長期的に事業価値を成長させることです。そして、そのためには、事業と事業戦略を理解すること、事業部のことを理解すること、事業部の人々と仕事上の関係を構築することの3点が大切です。FP&Aを構成する主要な要素は、FP&Aプロセス、FP&A組織、FP&AプロフェッショナルおよびFP&Aテクノロジーの4つです。もっと詳しく知りたい方は、拙著『CFOとFP&A』と『FP&A入門』(いずれも中央経済社)を参考にしてください。グローバル企業においてFP&A組織は、CFO組織の真ん中に存在します。 日本でのキャリアに夢を描けずMBA取得へ ・その後、スタンフォード大学に留学された理由を教えてください。 富士通アメリカで3年働いた後、自分が日本本社に戻るイメージが持てませんでした。正直なところ、日本企業におけるサラリーマンの働き方やキャリアにあまり夢がないなと思ったのです。そこでMBAを取得しようと決意しました。当時はMBA取得後に何をするかのイメージはなく、CFOに就くことも意識していませんでした。ただ、MBAが何かになるためのステップになるのではないかと思ったのです。そして、どうせ学ぶのであれば、最高のビジネススクールがよいと考え、スタンフォード大学のビジネススクールに入学しました。MBA課程では、1年目は、戦略論やマーケティング、統計学、ファイナンスなど経営学全般を学びました。2年目の選択科目は管理会計や企業財務関連の科目を中心に履修しました。MBAで学んだことは、FP&Aプロフェッショナルとして真のビジネスパートナーとなることの基盤になりました。現在、会計大学院・経営大学院で教えていることも、ここで学んだことの延長線にあります。 「目指すべきはCFO」と気づいた経営コンサルタントとしての経験 「その後、経営コンサルタントになっていますね。」 MBA取得後は戦略コンサルティング会社で経営コンサルタントとして働くことにしました。ただ、1年ほど働いて、自分のやりたいことではないと気がつき、退職しました。経営コンサルタントは組織の外から経営者をサポートする仕事。私は企業の中で直接、経営に関わりたかったのです。キャリア選択の際に私が大切にしてきたことは3つあります。1つ目は、「自分はその仕事が好きか、嫌いか」ということです。私は、スタンフォード大学経営大学院での学びと会計や財務の知識を活かした業務に携わりたいと考えていましたが、公認会計士のように監査法人で働きたいわけではなく、企業内で事業に関わりたいと思っていました。 2つ目が、「その仕事は自分に向いているか、いないか」ということです。私は数字を扱って客観的に説明することが得意なので、それに関わる仕事がしたいと考えていました。3つ目は、「その仕事からの経験と自己学習を積み重ねることによって、長期間においてプロフェッショナルとして成長を継続することができるか」ということです。経営コンサルタントの仕事に携わる中で、「グローバル企業においてCFOはCEOのビジネスパートナーとしてFP&Aの仕事をしていた。もしかしたら、CFOという仕事こそが、私が好きで、得意で、将来の自分にリターンがある仕事かもしれない」と思うようになったのです。 インテルへ入社し、真のCFO組織に出会う CFOを目指すならば、どこの企業がいいのかを考えました。当時は日本企業にCFOという役職が存在しませんでしたので、外資系企業で働くしかないと思いました。そこで、当時シリコンバレーで人気があった、Intel、Microsoft、Apple、Sun MicrosystemsなどのIT企業の日本法人数社に、「私は将来CFOになりたいです。ただ、まだマネージャーにもなったことがありません。CFO組織のマネージャーとして入社させてください」とレジュメを書いて送りました。その中から、インテル日本法人のカナダ人の社長が、「1回お会いしましょう」と返事をしてくださり、東京本社で面接をすることになったのです。 当時、インテルの日本法人には、20名ほどのCFO組織があり、経理、財務、FP&Aの3つのセクションがありました。すでにマネージャーがいらしたので、新設のセクションを作ってもらい、マネージャーとして入社しました。その後、FP&Aセクションのマネージャーが退職されたので、FP&Aセクションのマネージャーになりました。 「その頃のCFOのロールモデルはいたのでしょうか。」 インテルには、米国本社に本社CFO、その下に米国、欧州、日本およびアジアの4つの地域にも4人の地域CFOがいました。日本法人のCFOは本社CFOの直属の部下でした。インテルのCFO組織は風通しが良く、全世界のCFO組織のメンバー全員がチームになっていました。つまり、インテル日本法人に入社した瞬間に、グローバル企業のCFO組織が見えるようになったのです。私にとっては、CFOになるための役割を学ぶことができる多くのロールモデルの方々と出会うことができる組織でした。 さらに、経理組織、財務組織とFP&A組織の関係性もよく分かりました。 言い換えるならば、FP&Aプロフェッショナルは、CFOになるための一丁目一番地にあるということが見えてきたのです。私には、ずっとFP&A組織のリーダーでいたいという思いがありました。本質的には、FP&Aは経営管理であり、CEOが担うべきものです。経営者として最終的にはCEOに就きたいと思っていましたが、そのステップとして、CEOのビジネスパートナーのCFOとして経営に関与したいと思うようになったのです。インテルに入社して、CFOを目指すFP&Aプロフェッショナルとしてのキャリアへの思いを再認識しました。
#コンサルタント
石橋 善一郎 氏

【後編】FP&Aプロフェッショナルが目指したCFOへのキャリア。そして、その先に見えた自身の役割とは

日本トイザらスでの楽しさと苦しさ 「次も再生ファンドの投資先であるトイザらスに転職されます。なぜあえて大変な会社を選んだのですか。」 D&Mが東証一部に上場したときに、これから5年間ここで同じことをするべきだろうか、と考えました。そんな時、別のPEファンドから、「日本トイザらスって知っていますか? 2年連続赤字ですが、事業再生したいのでCFOとして入社しませんか」という電話があったのです。そこで、私の希望を伝えました。1つ目は、単なるCFOではなく、副社長として入ること、もう1つは、副社長CFOで成功できた暁には社長にしてもらえること。この2つに対して米国本社社長と面談をした際に了承を得たので、転職を決断しました。CFOがやるべきことはCEOの真のビジネスパートナーとして経営することです。でも、本当にしたかったのは、CEOとして経営することでした。ですから、CEOになれる可能性があるCFOのポジションに着きたいと思っていたのです。 「日本トイザらスではどのような経験をされましたか。」 日本トイザらスには、代表取締役副社長兼CFOとして入社し、CEOの信任を得て従来のCFOを超えた役割を担うことができました。店舗運営や店舗開発、サプライチェーンや物流やEコマースを担当しました。事業会社ならではの本当に楽しい経験でした。日本トイザらスは全国に160店ほどあるのですが、入社した3年間で全店舗を訪問しました。北海道や九州などへは、休みの日に自費で店舗を訪問し、店長さんと話をしました。また、日本にある2つの大きな物流センターでは、生産性を上げるためのプロジェクトの一員になって、繁忙期であるクリスマスの乗り越え方を考えたり、実際にクリスマスに応援として出荷作業に従事したりもしました。他にも、実店舗だけでは売り上げが下がっていくので、オンラインストアが必要だと考え、電子商取引のためのオンラインシステムの開発のプロジェクトのリーダーになって、ゼロから日本でシステムを開発しました。こういったことが、事業管理に携わることの本分だと思っています。 私のCFOのスタイルは、CFOとして事業部長のビジネスパートナーになることでした。事業部長は、店舗運営の専門家、物流業務の専門家、電子商取引の専門家です。彼らとチームになって、日本トイザらスのために新しいことをどうやっていくかを考える。それが私にとってはCFOの仕事であって、事業会社における仕事の1番楽しいことでした。 一方で、難しかったことは、CFOとしての守りの役割とビジネスパートナーとしての攻めの役割をどのように両立させるかということでした。例えば、店舗開発戦略や物流戦略やEC戦略を実行するための投資を行う際に、日本子会社の代表として米国本社に投資案を提案する立場にあったのと同時に、CFO組織の一員として投資案を審査する立場にありました。CFOは企業価値を守る責任を有している一方で、CEOのビジネスパートナーとして企業価値を成長させる責任を有しています。2つの役割を持っているわけです。 「CFOの場合、CEOとの関係で一番注意しなければならない点は何でしょう。」 CFOにとって、CEOは最も大事なビジネスパートナーです。CEOの成功は自分の成功につながります。しかし、一口にCEOといっても様々な人間がいます。仮に、CEOと衝突してクビになったとしても、転職できるようにプロフェッショナルとしての専門性を磨き続ける必要があると思います。日本トイザらスで10年間働き続けられたのは、CEOとの関係が良かったからです。カナダ人の女性で、人格・識見ともに立派なCEOでした。彼女と一緒に仕事をすることで小売業を1から10まで勉強させてもらうことができました。CEOとの信頼関係を築くために、2つのことを心がけました。 1つ目は、客観的な視点で事実を基に議論することです。CFOが得意なのは、数字から経営戦略についての話をすることです。物流、営業、サプライチェーン、業務部門などの部分で、数字で戦略実行のサポートするところは非常に大事だと思います。CEOにできないことをフォローすることが大切ですね。もう1つは、CEOとビジネスパートナーとして共通の目標を設定し、結果を出すことです。チームとしていかに目標を設定して、その目標に向かってPDCAサイクルを回すか。損益計算書の目標管理も大事ですが、それだけではありません。チームとして業務上オペレーションの目標も設定して、それを達成できるかどうかまで見る。例えば、人員計画もそうですし、各部門の配置人数、何カ月後にはどうなるかというところまで、全部CFOとしての視点が重要だと思います。この面でCFOを支援するのがFP&A組織なのです。 CFOの役割と魅力 「一言でCFOの役割を教えてください。」 CFOの役割は中長期的に企業価値を上げることです。企業価値は事業価値の総和です。事業価値とは、事業部が生み出すキャッシュフローの現在価値です。これは、企業財務では、本質的価値と呼ばれています。CFOが本当に目指すのは、事業部が生み出す事業価値の本質的価値を中長期的に最大化することです。株主価値とその市場価値の最大化ではありません。企業価値をどうやって上げるかがCFOの役割の根幹にあります。 「では、CFOの魅力はなんでしょうか。」 1つ目は、プロフェッショナル(Professional)として自分の経験や学習から蓄積した後天的な才能を活かすことができることです。私はCFOが日本企業におけるCFOのように、ある日突然、会社の都合でなるものだとは考えません。それは実務家(Practitioner)です。CFOはFP&Aプロフェッショナルがキャリアを通じて目指すものだと考えています。私はFP&Aプロフェッショナルとしてのキャリアの途中で、資格試験やMBA取得の過程で学び続けることの重要性を実感しました。CFOを目指すキャリアは、プロフェッショナルとして学び続けるキャリアなのです。 もう1つは、3つのC、CEO+CFO+CHROの一つである経営チームの一員であるということです。「人的資本経営」の伊藤邦雄先生のレポートには、CEO、CFOと並んで大事な3番目の役割がCHROだと示されています。他にもCがつく役職がありますが、CEOとCFOとCHROの3つのトライアングルが経営者チームの根幹です。CFOは経営者チームの一員であるということが、CFOの魅力だと思います。人的資本経営の本質は、3つのCのトライアングルで経営戦略と人材戦略を形成・実行することによって、中長期的に企業価値を成長させることです。株主価値とその市場価値の最大化を目的としてCFOが投資家と対話することは、人的資本経営の本質ではありません。
#コンサルタント
渡邉 淳 氏

多様な経験から辿り着いた「誰かの役に立ちたい」という思い。学び続ける先に待つものとは?

ゼロからの会計士受験への挑戦 「高専卒業後、富士通に入社してエンジニアとしてのキャリアをスタートしていますが、その後、1回目のキャリアチェンジで公認会計士の勉強を始めます。これはなぜですか。」 正直にお答えすると、自分がエンジニアとしてまったく使い物にならなかったからです。典型的な大企業勤務のダメなサラリーマンでした。3年間で富士通を退職し、エンジニア職ではない仕事をしたいと思いましたが、世の中そんなに甘くありません。そこで、資格を取得してやり直そうと考えました。難関資格で、高専卒でも受験ができ、かつ興味が持てたのが公認会計士資格でした。書店で、資格の大辞典のような本を見つけ、そこに「難易度は高いが、給料もよくて会社の経営に物申すことができるすごい資格」といったことが書かれていて惹かれました。周囲に会計士はおらず、7科目中1科目も学んだことがない、本当にゼロからのスタートでしたが、チャレンジしてみようと思いました。 「受験勉強は辛くなかったですか?」 暗黒時代ですよね。最初の1年間は、毎日勉強しかしていませんでした。実は富士通に勤めている時から、妻と付き合っていて、受験勉強を始める時に妻の両親に「富士通を辞めて、公認会計士試験にチャレンジします。合格したらもう一度ご挨拶に来ます」と宣言していました。受からないといけない状態に追い込まれているので、1年で受かろうと本気で頑張りました。1年目は不合格で2年かけて合格しました。 「合格後は青山監査法人に入所されていますね。エンジニアから会計監査業務への戸惑いはありませんでしたか。監査法人では主にどのような仕事をしていましたか。」 私の場合、キャリアアップではなくて、ゼロからのやり直しでしたので、謙虚な気持ちで入っていくことができました。また、エンジニア職の経験はたった3年でしたので、戸惑いも一切ありませんでした。入社してすぐは、上場企業と外資系企業の財務諸表監査が多かったです。何年か経つと、監査に加えて、デューデリジェンス、上場支援、決算早期化プロジェクトなども担当するようになりました。 IPO審査を深く知るために証券会社の引受審査部に出向 「監査法人に在籍しながら野村證券の引受審査部に出向されますが、その理由を教えてください。また、引受審査部ではどのような仕事をしたのでしょうか。」 監査法人のイントラネット(社内掲示板)に、「野村證券に出向したい人を1名公募します」と掲載されていて、立候補しました。応募は7〜8名で、その中から選んでくださったと聞いています。それまで何年かIPO準備会社の支援をしていたのですが、上場するどころか上場に近いところまでも進まない会社が多かったのです。また、成功事例に携わった経験がない自分が指導をすることに不安や虚しさを感じていました。やるべきことを伝えられても、どのレベルまでやれば合格できるかを伝えることができなかったからです。証券会社の引受審査部は、まさに上場できるか否かを判断する部署です。そこで経験を積めば、自信をもって「ここまでやれば上場できます」と言えるようになるだろうなと。 また、IPOの最大手の野村證券という点も魅力に感じました。引受審査部での仕事は大きく分けて2つあります。1つはIPOと上場市場変更の審査です。これらは1年近い期間をかけて、じっくり会社全体の審査をします。もう1つはPOファイナンスといわれる上場企業の増資や社債の売出しなどについての審査です。こちらは2週間などの短期決戦です。どちらも数件を同時並行で担当します。2年間という短い期間でしたが、自分が担当した会社だけでなく、相当数のIPO審査の事例をみることができ非常に勉強になりました。かなり忙しかったのですが、期間が決まっていたこともあり、率先して出来るだけ多くの仕事を受けるようにしていました。 「IPO周りの何でも屋」IPOコンサルティング会社での経験 「2回目のキャリアチェンジで、監査法人を退所してIPOコンサルティングの会社ラルクに入社します。その理由を教えてください。」 証券会社から監査法人に戻って、1年で退職しています。恩もありますし、IPOについての力が磨かれた手応えもあり貢献できると考えていたので、しばらくは監査法人でIPO支援を行う予定でした。しかし、出向から戻る前くらいから監査法人の関与先でいくつかの会計不祥事が起きてしまい、IPO関連の仕事が一気になくなってしまったのです。そんな時にラルクの鈴木(博司)社長に出会います。ラルクは会計士、かつ、証券会社か証券取引所でIPO業務を経験している人しか採用しないという専門家集団でしたが、私もその条件に当てはまっていたこともあり、何度もお誘いをくださいました。当初は、「まだ監査法人でやることあるので」と断っていたのですが、鈴木さんに「IPOコンサルタントを始めるには若いほうがいいよ」と口説かれて、「確かに」と納得し転職することにしました。今、振り返ると、良いタイミングで転職できたと思います。 「IPOコンサルティング会社では、どういう業務を行いましたか。」 IPOコンサルの多くは、決算業務を支援する、開示書類を作成する、上場申請書類を作成する、内部監査をする、規程を作るなど、上場準備でやるべきことのうち特定の領域を支援している会社が多いようです。ラルクは、先ほどもお話ししましたがコンサルタントの質にこだわり、「IPOに向けては大概のことであれば解決の仕方を知っています」というスタンスでサポートしていました。IPOは、他がどんなにうまくいっていても、1つの項目で躓いていたら落とされるというトータルで判断される世界。ラルクは、上場できる可能性がそれなりにあるが、何かが引っかかって苦しんでいる急病人に緊急出動して対応するような仕事でした。なんとか審査に合格できるよう、足りないものを一緒に埋める職人です。 上場審査に向けての書類づくりや審査対応のサポートなどがメインですが、審査で問題になっていることについて経営者と議論することもあれば、管理系人材の採用なども。足りないパートへの対応を何でもやりました。管理系人材の採用に関しては、人材エージェントへの手配や求人票の作成、面接などもけっこうやりました。上場プロジェクトメンバーに退職者が出て、「良い人を採用してくださいね」とお願いしても、なかなかうまくいきません。それならば入り込んで採用までサポートしようと思い、やってみたらうまくいったのです。人材採用の難しさも理解できました。私は、手伝うことで、喜んでもらえる、成果が出ることであれば、辛い役回りでも引き受けるべきであると考えていました。 その一方で、支援先に対しては、ノウハウを全部差し上げて自立してもらうことを目標としていました。上場のための特有の作業であれば我々が行えばよいのですが、上場後も上場企業として続いていきますので、それ以外の会社としての機能は支援先自身に身につけてもらうというスタンスでした。こういった点もラルクの特徴かもしれませんね。 ラルクでの仕事は、監査法人での会計まわりの経験と証券会社でのIPO審査の経験を総動員して取り組むため難易度は高かったのですが、感謝していただけてやりがいを感じました。自身もこれが天職だと感じた瞬間がありましたし、妻からも「IPOコンサルの仕事が1番向いてるように見えてたよ」と言われたことがあります。