COLUMNコラム

#CFOの記事一覧

#CFO
川島 崇 氏

″いろいろ″あるから経営は面白い。修羅場でこそ問われる「CFOの信念と覚悟」

監査法人で求められたのは期待以上の成果 「公認会計士を目指したのはいつ頃からですか。また、それはなぜですか。」 高校3年生の浪人が決まったときです。遊んでばかりだったくせに、なぜか受験失敗は完全に想定外でした(笑)。しかも友人達はちゃっかり現役合格。これはマズいことになったと思いましたね。ただ、この挫折は真剣に人生設計を考える機会となりました。当時はバブルが崩壊した頃で、「将来ビジネスの世界で経営者として挑戦と貢献ができればいいな」程度の漠然とした考えが浮かんでいました。そして情報収集のため書店で資格の本をペラペラ立ち読みしていると、まず弁護士が目に入ったわけです。当時の司法試験合格率は3%…さすがに厳しそうだと思いましたね。次に目に付いたのは聞いたこともない資格、公認会計士でした。なんと合格率6%、司法試験の倍です!直感的にイケると思いましたね。実はこれが公認会計士との運命の出会いです(笑)。そして色々調べると、公認会計士資格はビジネスに役立ちそうだとわかり、真剣に目指すことにしました。大学合格後は、ダブルスクールとアルバイトに勤しみながら、卒業後に合格しました。もしこの年不合格だったらバイト先の店長になる予定でしたので、運が良かったと思います(笑)。 「入所して10年間勤めた監査法人では、主にどのような仕事をされていましたか。また、記憶に残っているエピソードがあれば教えてください。」 メインは監査業務ですが、デューデリやM&A、株価評価、IPO支援、内部統制、企業再生などのコンサル業務も数多く担当しました。当時は、監査法人の独立性が厳しく問われる環境ではなかったので、クライアントの懐に入り込むような仕事が多かったですね。個人的に通常の監査業務より、コンサル業務の方が提案にクリエイティブ性が求められ、クライアントの成長に貢献している実感があって好きでした。 印象に残っているのは、東証一部のグローバルクライアントに対し、内部統制リスクを特定して業務改善を提案する仕事です。これはまだJ-SOX法や内部統制監査が存在しない頃の話です。定期的に各支社へ出張し、1年間で1周する流れを繰り返していました。具体的には、初日に営業や製造部門など複数の会社関係者にインタビューし、裏付け資料を調査します。2日目は詳細を詰めて、課題提起と改善行動計画を報告書に取りまとめ、夕方には支社長へプレゼンします。改善行動計画はフォローアップのため、実効性があり行動を促す内容が要求されます。しかも私の上司は全くレビューをしない派でしたので(笑)、私の作成した報告書はそのまま取締役会へ提出されるわけです。そのため事実誤認や不明瞭な記述は許されませんでしたし、何より前回と同じような指摘内容では価値がないわけです。 タイトなスケジュールで期待以上の成果を要求される、プレッシャーのかかる業務でしたが、「営業から会計に至る会社業務の仕組みや組織の論理」を深く理解できたことや「仮説思考で計画を立て、効率的に有用な情報を引き出し、改善行動へのコミットを得る」といった力が鍛えられたと思います。入社1年目からこのような業務に関われたのは大変ラッキーでした。 まさかのベンチャーへの転職、「気が狂ったのか?」 「監査法人で得たスキルは事業会社のCFOとしても役に立っていますか。」 監査では、クライアントの外部環境、様々な制約条件や変動要因を複合的に捉え、多面的に分析した上でリスクを特定し、計画を立てチームを動かして効率的に業務を進めることが要求されます。こういったスキルは、事業会社でもデータの裏付けを持って、企業の現状を客観的に把握・分析することや、将来予測や課題解決に取り組む際には大いに役立ちましたね。 また、実は監査法人時代に中小企業診断士資格を取得しています。財務や会計領域はスペシャリストとして知識や経験を深掘りできましたが、企業経営という広い視野を持つには、ビジネス全領域に渡るゼネラリスト的な知識が必要と考えたからです。診断士試験では財務会計領域以外に、経営戦略、マーケティング、生産管理、情報システム、人的資源管理、経営法務、新規事業開発、助言理論などを体系的に学ぶことができました。ベンチャーのCFOはあらゆる事業領域に首を突っ込まざるを得なくなるわけですが、知識があるとないとでは問題解決への入りが異なりますので、とても価値があったと思います。 「10年間勤務した監査法人を退所してベンチャー企業に入社なさいました。その理由を教えてください。また、そのベンチャー企業はどんな事業をしていたのですか。」 当時は「失われた15年」の頃でした。私は日本経済には新しいビジネスの誕生が必要だと思い、ベンチャー企業でイノベーションを起こすことに貢献したいと考えるようになりました。その中でも、日本発の強みを持ち、海外へ事業展開できる会社を転職先に探していました。そして入社を決めたのは、日本が得意とするIP(知的財産権)の企画制作、そしてそれらをクロスメディア・クロスボーダーでプロデュースするベンチャー企業です。ただ、当時は今と違って監査法人からベンチャー企業へ飛び込むなんて異例中の異例でしたので、「気が狂ったのか?」と上司から多くの反対と引き留めをして頂きました。至極真っ当な意見で「ごもっともです」としか言えないのですが(笑)、何度もお話をして最後は気持ちよく送り出して頂きました。 実は、私にはベンチャーへの挑戦に理屈じゃない、こだわりがあったのです。それは監査人としてベンチャー企業と関わる中で生まれました。私はIPO支援をしながら、同い年位の方が責任あるポジションで、周囲を引っ張り、正解のない世界で頭を悩ませながら取り組んでいく姿をずっと見ていました。そして上場した時、彼らがまるで高校球児が甲子園で優勝したかのように狂喜乱舞している姿を見て、素直に羨ましいなと思いました。「何歳になっても熱狂できる仕事に携わっていたい。それにはアドバイザーでは足りない、プレイヤーになるしかない!」と考えていたのです。 転職1ヶ月、リーマン・ショックでいきなりの倒産危機 「2008年の入社だとリーマン・ショックの時期と重なります。影響はありませんでしたか。」 はい、転職1ヶ月後にまさかのリーマン・ショックです(笑)。当社は事業が軌道に乗り、勝負のアクセルをまさに踏んだタイミングでした。しかしそれが完全に裏目となって、極めて深刻なダメージを受けました。資金の急激な流出が止まらなくなり、数か月後に資金ショートで倒産することが、明らかな状況に陥ったのです!組織内に動揺が走り、幹部をはじめ役職員がどんどん逃げ出し、雰囲気も悪くなって組織体制はボロボロに。辞めた幹部の競合企業立ち上げや、風評被害も起こりビジネス環境は極めて悪化しました。 私の転職当時に予定していた上場準備の開始は完全にストップ。私は入社1か月で企業再生に集中することになったのです!資金ショートまでのカウントダウンは始まっていましたので、私はすぐさま経営改善計画を作成して、社長に提案し実行に移しました。それまでの営業や開発は社長の経験や感覚に頼っていた面が大きかったのですが、財務分析を裏付けにセールスミックス再編やコスト構造改革を推し進め、1円でも多く利益を出し、1日でも支払いを先延ばしするように動きました。また、多くの金融機関に融資の相談をしましたが、定期預金の解約すらも拒否されるなど全て断られました。ただその後も諦めずに何行も粘り強く交渉して、何とか融資を受けることができました。 これらの取り組みで延命ができ、決算期を越えられる見通しが立ちましたが、着地見込みは債務超過。このままでは金融機関との交渉がさらにハードになることが想定されます。そこで私は自己資金を投じて資本増強。これでなんとか債務超過を回避することができました。またこの時期に資本政策の組み直しも行いました。通常、資本政策は不可逆性がありますが、既存株主達が譲渡に極めて前向き姿勢の環境でしたので、ある意味チャンスだったんです。私は交渉役として取りまとめましたが、対立して辞めた元幹部の既存株主には、また違った気を使いましたね(笑)。
#CFO
株式会社ストルアス
管理部 部長(コンロトーラー) 安田 健子 氏

ファイナンスや英語の知見を活かし、日系企業から外資系コントローラーになるまでの道のり

債権回収も経験したリクルートでの学び 「大学卒業後、リクルートに就職した理由を教えてください。」 就職活動をスタートした頃に、たまたま1〜2日ほどアルバイトでリクルートに行く機会がありました。その時に、リクルートの社員の方から「興味があったら働いてみないか」と声をかけていただきました。その後、何度か職場を見学させてもらい、活気があって面白そうな会社だと思い、応募しました。 「リクルートではどのような業務を担当したのでしょうか。」 営業経理という部署に配属となりました。学生時代は英語を専攻していましたが、当時のリクルートには英語を活かせる部署はなかったので、最初に配属された部署の仕事をしっかり覚えていこうと考えていました。結果的に、この配属が経理・会計の道への入口となりました。営業経理は、広告の注文を確定し、納品、請求、入金までの一連の流れの管理を担う部署です。元々は経理部門にあったのですが、動きをスピーディにするために各ビジネス部門に移管されました。私はSUUMOを取り扱っている住宅部門の企画室に配属になりました。 しばらくすると、バブルがはじけ、滞留債権の回収までを担当しなくてはならなくなりました。営業や法務と連携したり、小さい企業に対しては課長と一緒に訪問したりして、債権回収業務を経験しました。与信管理や債権回収の業務は、どの企業でも重要な仕事です。振り返ってみると、会計・経理のキャリアの最初の段階で、これらの業務を経験できたことはとても幸運でした。その後のキャリアでも必ず必要な知識、経験として役立っています。 外資系企業への転職を目指し、US CMA(米国公認管理会計士)を取得 「いつ頃からFP&Aの仕事に興味を持つようになったのでしょうか。」 リクルートでビジネス部門へと異動になり、分析、組織変更支援、企画、新商品開発のステータス管理、プロジェクトの管理などを経験する機会をいただきました。また、統括・企画・営業・システム・審査などの関連部門との協働が増え、ビジネス自体をより深く理解できるようになりました。一層仕事が面白く感じられるようになったのです。ビジネス理解のために宅建の資格も取得しました。 入社10年ほど経った頃、営業経理という仕事にもアウトソーシングの波が押し寄せ、担当していた仕事の7割ほどを外部に移管することになりました。その頃から真剣に将来の生業を考えるようになりました。会計や経理の仕事は好きでしたが、大学卒業後も英語を継続して勉強していたこともあり、将来的には英語を活かして外資系企業で働きたいという思いが強くなっていきました。調べていくと、外資系企業にはコントローラーという仕事があるということを知りました。コントローラーは、会計・経理の知識を基盤にビジネスパートナーとして活躍する仕事です。知れば知るほど、興味を持っていきました。 「USCMAやUSCFMの資格はいつ頃取得したのでしょうか。また、なぜ取得しようと思ったのですか。」 外資系企業でコントローラーになりたいと思い始めてから、そのポジションに就くために必要な知識があることを証明できる資格を取得したいと考えました。USCPA(米国公認会計士)を取るか、USCMA(米国公認管理会計士)を取るか迷った末、ビジネスをサポートする上ではUSCMAだと自分なりに考えてそちらを選びました。私の強みは、近くでビジネスをサポートする会計を理解していることであり、そこを基盤にしていきたいと考えたからです。USCMAの勉強をし始めると同時期に、石橋 善一郎さんをはじめ、コントローラーやCFOとして実際に活躍されている方々にお会いして非常に刺激を受けました。尊敬するロールモデルに少しでも近づきたいという思いで一生懸命学び、2005年にUSCMAを取得しました。USCFM(米国公認経営管理士)は、カーギルに転職した後の2007年に取得しました。 「内部監査人の資格も取得したのはなぜでしょう。」 現職のストルアスに入社してから必要に迫られて、ISO9001の内部監査人の資格を取得しました。ストルアスは、社員数が50人程度の小さな会社です。内部監査人の資格については、ビジネスシステム導入と全社ISO9001取得のプロジェクトにおいて、ビジネスシステムの内部監査を担うために取得しました。この役割により、ビジネスにおける重要プロセスを理解することができました。 カーギルジャパンへの転職 「20年ほど勤務したリクルートを退職して、念願の外資系企業に転職されました。外資系企業のなかで、なぜカーギルジャパンを選んだのでしょうか。また、不安はありませんでしたか。」 しっかりと資格を取ってから、外資系企業へ応募していこうと思っていましたが、20年も日本企業に在籍していたため、外資系企業の経験がないという理由で不採用となった会社もありました。その点、カーギルジャパンはリクルートでの経験も考慮しての採用でした。また、面接の際に、採用担当者の話を聞き、この方たちと一緒に仕事をしたいと思ったことが決め手となりました。不安よりも外資系企業のコントローラーになりたいという思いの方が強かったです。1度しかない人生、やるだけやってダメならば諦めもつくと、覚悟を決めていました。 「カーギルジャパンの事業内容や日本における組織について教えてください。」 カーギルジャパンは、全世界に、農業・食品・金融・工業製品を供給する米国の穀物メジャーの日本法人です。当時は、400名ほどの従業員がいました。東食を買収して日本でのビジネス規模を拡大していました。私の在籍当時は、日本で10〜14のビジネスユニット(BU)がビジネスを展開していました。日本における2大BUは、穀物油脂本部と東食でした。ファイナンス組織は、各BUのBS・PL・予算策定・ビジネスサポート・リスクマネジメント・内部外部監査などを担っていました。経理だけでなく、為替のポジション管理など、財務的なことも担当しました。 周囲を巻き込んで自主的に開催した勉強会 「カーギルジャパンではどのような業務からスタートしたのですか。」 私は、経理部に配属となり、穀物油脂本部のシニアアカウンタントとして業務をスタートしました。担当はとうもろこしと油脂でした。リクルートでは、ビジネス部門の経理でしたので、基本的にはBSは見ず、PLの売上や原価などの決まった部分しか見ていませんでしたが、カーギルは、BS・PLを見ながら、リスクマネジメントやビジネスのサポートなども行い、広くファイナンスの立場からビジネスを支援する仕事でした。 「カーギルジャパンでは、リクルートで得たスキルは活かされましたか。」 リクルートで、非常に役に立つスキルを習得させてもらったと転職してから気がつきました。例えば、問題解決スキル、プレゼンテーションスキル、プロジェクトマネジメントスキル、システム導入・管理スキルなどです。リーダーシップやファシリテーションスキル・コニュニケーションスキルもそうです。 「カーギルジャパンで英語の勉強会などを開催されていたようですが、業務外での活動の原動力はどんなことだったのでしょうか。」 カーギルは外資系企業ですが、私が入社した時は外国の方がほとんどおらず、日常的には英語を使用しない環境でした。そのため、今後に備えて学んでいく必要があると考えて、有志を募って、ランチタイムに英語の勉強会を開催することにしたのです。他にも、苦手なことや未経験のリスクマネジメントなどについても勉強会を開催しました。1人よりみんなで学ぶ方が刺激になりますし、私自身も楽しいので、「こういうことをやりたいのですが、みんなで集まって勉強会をしてみない?」と声をかけていました。 「その後、事業部のファイナンスマネージャーになられています。主な役割や実績を教えてください。」 穀物油脂本部のコントローラーの下にマネージャーが2名いるという体制で、昇進してそのうちの1名になりました。メンバー2名と一緒に、担当部署の会計全般とリスクマネジメント、予算策定、戦略サポートを担当し、新たなプロセス導入や内部統制の強化等を実現しました。 「そのときに、苦労したことがあれば教えてください。」 カーギルはトレーディングもしているため、特殊な会計知識を身につけておかないとついていけません。複雑な仕組みやテクニックが必要で、そこを学ぶことが一番大変でした。私は、カリスマトレーダーと呼ばれる方に勝手に弟子入りし、3〜4ヶ月ぐらい特訓を受けて、疑問点を解消してもらう機会を得ました。すごく親切にわかりやすく教えていただき感謝しています。その知見が基盤となって、その後はどんどん仕事が面白くなっていきました。
#CFO
株式会社イントラスト
取締役執行役員 太田 博之 氏

数字で判断・表現し、社長と共に会社を大きくできるCFOの魅力

CFOの道に繋がった監査法人での経験 「公認会計士を目指したのはいつ頃からですか。また、目指した理由も教えてください。」 私は、高校時代に全く勉強しなかったので、一浪し、千葉大学法政経学部経済学科に入学しました。予備校に合格の挨拶に行ったときに、たまたま見た雑誌に「学部ごとの目指すキャリア」についての特集が掲載されていました。そこに「経済学科の人は公認会計士」と打ち出されていて、そこで会計士という仕事を知ったのです。当時は、目標を立てて勉強し大学に合格できたことへの達成感を覚えていたので、大学入学後も目標に向かって頑張ってみようと思いました。ただ、私は怠け者なので、実際の勉強は大学4年生から始め、卒業の2年後に合格しました。 「入所した監査法人では主にどのような仕事をしましたか。また、監査業務などで記憶に残っているエピソードはありますか。」 私は、当時の中央青山監査法人(みすず監査法人に名称変更後、解散)に入所し、上場会社の監査をメインに担当しました。製造業を担当することが多かったのですが、労働組合やファンド、公益財団法人の監査もしました。年次が上がるにつれて、上場準備会社も2社担当し、うち1社はマザーズに上場しました。また、日経から出版された『会計用語辞典』の編集もさせてもらうなど、いろいろな経験をすることができました。 1年目は、1日しか行かない会社も含めると100社くらいのクライアントを回りました。監査以外で、そこまでさまざまな業種、職種の方と話す機会はなかなかないですよね。出張に行くと、クライアントと監査法人のパートナーや上司と会食に行く機会が多く、お酒を飲みながら、クライアント企業の歴史、事業内容や業務フローなど細かくヒアリングさせていただいたことが記憶に残っています。振り返ると、どの業種にも共通するような根本的な話を聞かせてもらっていたと思います。貴重な経験でした。 「監査法人での監査や経営者と話をした経験が現在のCFOの道に繋がっていますか?」 確実に繋がっています。監査法人は、外部の立場ではあるものの、会社の数値を客観的に見ます。これは現在の業務に生きています。また、監査法人はマルチタスクです。小さい会社も含めると最高で11社を並行して担当しました。それぞれ予期せぬタイミングでトラブルが勃発し、それらに対応した経験は今に生きていると思います。ハードワークでしたが、20代でその経験をしていなければ、今この生活はできていないでしょう。 「CFOという職業を意識したのはいつ頃からですか。また、なぜ意識するようになったのでしょう。」 最初は「事業会社で、事業を経験してみたい」という漠然とした思いからスタートしました。監査は大事な仕事ですが、会社が担っている活動を一歩引いて外から見るので、事業そのもののプレーヤーではありません。CFOという職業を意識したのは20代後半くらいでしょうか。明確に「CFOになりたい」という思いがあったわけではありませんが、私が事業会社に価値を提供して、活躍できる場と考えると、ぼんやりとCFOへの道が見えたのです。 やりきって退職後、転職先を探す 「7年間勤務した監査法人を退職するきっかけや理由を教えてください。」 「事業会社に行きたい」という思いがあっても、仕事を抱えていたため、なかなか踏ん切りがつかない日々を送っていました。監査法人を退職する直接のきっかけは、勤めていたみすず監査法人が自主廃業したことです。そのタイミングで先輩や同期は、他の監査法人に転職したのですが、私は事業会社に勤務するという選択をしました。限界まで働くタイプなので、監査法人が廃業する最後の日まで働き、やりきった思いもありました。また、ちょうどそのタイミングで結婚したので、数ヶ月休んでから、転職先を探し始めました。 「転職に対するポリシーはありますか。これまで2度の転職をされていますが、いずれの場合も、退職前に次の転職先を決めていません。これにはどのような思いがあるのでしょう。」 私は、かなりハードに目の前にある仕事に向き合うタイプなので、次の転職を考えている余裕がないというのが正直なところです。転職先を決めてから退職するのではなく、今の仕事をやりきってから辞める。退職してから一旦リセットするといった意味合いが強いかもしれません。私にとっては、そのリセット期間が何年かおきの夏休みという感覚です。なかなか人生で夏休みを取れる機会はないですからね。1回目の転職の前は4ヶ月ほど休みましたが、2回目は子どもがいたので貯金の減りも早く1ヶ月だけ休みました。それでもリセットができて良かったです。ただ、このやり方が正解だとは思っていませんし、リスクもあるので他の方にはお勧めできません。 7年かけてシンガポール市場に上場 「1回目の転職先は事業会社でした。その理由とその会社の事業内容を教えてください。」 私が入社した会社はホールディングスで、7〜8社の子会社の管理をしていました。上場を目指しているものの1社では規模的に上場できないという会社が7〜8社集まってできあがったという経緯のある会社でした。子会社同士に事業上のシナジーがそこまであるわけではなく、それぞれに社長やオーナーがいるため、同じ方向を向くのはなかなか難しかったです。 「シンガポールのカタリスト市場に上場しますが、そこに至るまで7年を要しています。その間の苦労話と最終的に上場できた要因を教えてください。」 最初は、国内の上場を目指していたのですが、業績そのものが上場基準に足りていないところに、リーマンショックがきて一旦ストップになりました。Iの部まで作り、審査に入るくらいのタイミングでした。その後、東日本大震災も発生しました。再度、上場を目指そうとした頃に、ダイナムが香港証券取引所に上場した例があり、他国の市場に上場するという選択肢が見えてきました。当時は、監査法人を経由して、様々な証券会社が日本企業の誘致を図っていたのです。 最初は、韓国のコスダックを目指しました。韓国のPwCの現地事務所から日本語が話せる方に来てもらい監査を受けました。しかし、最終的には基準を満たしませんでした。そして、シンガポールのカタリスト市場を目指すことにしたのです。カタリストは証券会社がOKを出せば上場できる市場でした。準備は大変で、日本の基準をIFRSに変更して、英語で求められる資料を作りました。当時の私は経理部長の立場だったので、英語が堪能なCFOと一緒に作成しました。
#CFO
ロジスティード株式会社
常務執行役員 CFO 財務戦略本部長 本田 仁志 氏

東芝での15年間や大企業2社でのCFO経験を経てたどり着いたキャッシュフローを軸にした本質的な経営の重要性

上場企業CFOの土台を作った東芝での経験 「大学卒業後、日本を代表する大企業の東芝へ入社した理由を教えてください。」 私が社会人になった1990年は、まだバブル経済の余韻が残っている時代でしたので、大学のゼミの同期の大半が金融機関に就職していきました。ただ私は、みんなに合わせるのが好きではなく、また、目に見えないモノよりも、リアルなモノを作っている会社が楽しそうだと考えていました。当時の総合電機は、さまざまな製品を作り、グローバル展開もしていました。そういった点に可能性を感じて、東芝に入社しました。 「東芝で15年間勤務する中で、どのような業務に携わりましたか。順番に教えてください。」 経理部門に配属になり、まずは現場を知ることが重要だということで、dynabookというパーソナルコンピューターやRupoというワープロを製造している青梅工場に5年間ほど勤務しました。モノづくりの現場で、設計部門や製造部門とやり取りをしながら、原価計算や予算作成、分析などをしていました。基本的には、経理財務のレポートラインと、工場の製造部門・設計部門に対するレポートラインがありました。いわゆるデュアルレポートの仕組みが存在していました。そこで業務の基礎を作った上で、浜松町の本社に異動になりました。 「本社ではどのようなことをされていたのでしょうか。」 最初の1年は、財務部企画担当として、格付機関の対応などをしました。東芝は社債を発行していたので、信用格付を取得しており、格付機関とのやりとりが必要でした。格付機関に、キャッシュフロー、中期経営計画、会社の将来性などについて説明するために部内で初めてパワーポイントを使ってプレゼン資料を作成したことが印象に残っています。他には、今のDXのはしり、例えば、社内の情報共有ツールの導入などもしました。企画担当の業務範囲は広く、あらゆることに携わっていました。その後、4年ほど、全社規模の投融資管理、資金戦略策定、資金繰りを把握する業務を担当しました。 次に、管理会計を担当しました。当時はカンパニー制でしたので、カンパニーを受け持って、日常の予算実績やフォーキャストの管理、チャレンジ目標の数値設定などをしました。具体的には、P/Lやフリーキャッシュフローの目標値を設定して、それを現場に落としていくのです。家電やパソコンから原子力発電、はたまたインターネットビジネスなど、モデルの異なる事業を幅広く担当することができました。当時、東芝は1兆円ほどの有利子負債があり、財務基盤が弱いことに危機感を持っていたので、債権の流動化やノンコア事業、遊休資産の売却、セール・アンド・リースバックなどのアセットライト施策の実行やグループファイナンス制度導入によるキャッシュフロー改善にも取り組みました。 「東芝はどのような経営管理をしていたのでしょうか。」 予算についてはトップダウンで決まっていました。私の所属していた財務部では、コーポレートの視点で各カンパニーの特徴を理解した上で、その特徴を財務モデルに落として、シミュレーションをしながら、目標の利益やキャッシュを定めていました。これを基にして、カンパニーの方とディスカッションをします。その話の持っていき方にも戦略が必要です。過去の実績と今回の予算の差を分析して、「この部分はバッファを取っているのではないか?」といった指摘をすることもありました。 「予算ができた後は、どのように経営管理を行っていたのでしょうか。」 カンパニーから分析結果や6ヶ月先くらいまでのP/L、B/Sとキャッシュフローのローリングフォーキャストが上がってくるので、それに対して我々が質問をしていく形式で行っていました。予算とフォーキャストが乖離した場合には、アクションプランを作るなど臨機応変に対応していました。 「東芝での15年間で、どのようなスキルを身に着けることができましたか。」 上場企業CFOとしてのベースは東芝時代に身につけたと思っています。グループ内でバリューチェーン、サプライチェーンの一連の流れを持っており、調達から始まって、開発、製造、物流、販売までの全体を俯瞰することができた点もメーカーの良さでした。さらに、コンシューマー向けの家電からB to Bの原子力発電など多種多様な事業を幅広く経験できたことも、その後のキャリアの中で非常に役立ちました。当時は大変でしたが、短期間でローテーションしながら、かつ深くコミットを求められることも、今振り返るとありがたいことでした。 東芝は、不適切会計事件以降、ずっと苦しまれている印象ですが、私が勤務しているときは非常に実直で優秀な方が多かったと感じています。役職ではなく「さん」づけで呼び合い、非常にオープンな文化でした。議論好きな方が多く、侃々諤々と議論をしていました。例えば、「家電はコモディティ化しており、量販店に利益が流れていて儲からないので撤退した方がよい」という話になり、それについてのレポートをまとめて社長に持っていったこともありました。実際に撤退はしませんでしたが、そういった意見も受け止められる余裕があった時代だったのです。 また東芝の経理・財務部門では「自分で考えること」を強く求められました。新入社員の時代から、「どうすればいいですか?」という質問ではなく「こういう理由でこのようにすべきだと考えるのですが、いかがでしょうか?」という提案をすることが必要でした。このためにはOJTだけでなく、自分で自主的に学習することが必須であり、日常業務の範囲を超えた知識やスキルを読書などにより補う習慣が身に付きました。この習慣は私にとって得難い武器になったと思います。一方で、東芝の経理・財務部門における提案を求めるカルチャーが、経理・財務部門の自主的な「提案」という形に変容し、不適切会計における「忖度」を支えてしまったという側面もあったかもしれません。
#CFO
リガク・ホールディングス株式会社
専務執行役員CFO 三木 晃彦 氏

大手外資系企業と日系企業でのCFO経験 唯一無二の存在が語る経営の醍醐味とは

憧れる人物像に近づきたくIBMに入社 「大学卒業後、外資系グローバルIT企業である日本IBMに入社します。なぜIBMを選んだのですか。」 学生時代の部活で音楽系クラブに所属していて、米国に演奏旅行する機会がありました。そこで最初に演奏したのがIBMのサンノゼ工場だったのです。この時のコンサートマスターがIBMに勤められていたOBの方で、ペラペラの英語で司会もされました。「こんな人がいるのか! この会社に勤めると同じようになれるのかな?」と思いました。そんな経緯から、IBMに勤めることに憧れの気持ちを抱きました。 IBMはコンピューターの巨人と呼ばれていて、100年以上の歴史を持つ世界最大規模のグローバルIT企業です。当時、「マルチステーション5550」という企業向けPCが発売され、学生時代のゼミで使用していたこともあり、身近に感じ始めていました。実際の就職活動では、安定感のある日系企業からも内定を貰ったので、どちらに入社するか迷いましたが、「自分が憧れを抱いた会社に勤めたい」という純粋な思いから、IBMへの入社を決めました。英語も好きで、コンピューター企業の将来性に期待していたことも後押しとなりました。 「結局20年ほど勤務することになりますが、どのような業務を担ってきたのか教えてください。」 システム・エンジニア志望だったのですが、入社してすぐに開発製造部門の一事業部における予算管理という部署に配属されました。現在、日本でも注目を浴びているFP&Aという管理会計の役割の一つで、IBMは経営管理においても、最先端の手法を取り入れていました。学生時代に会計の勉強を殆どしていなかったので、実務では早々に壁にぶつかりました。そこで会計のスキルを身に付けるべく、税理士試験の簿記論の勉強をはじめ、幸い合格しました。その後、開発製造部門の予算管理システムを刷新するという、大きなプロジェクトのユーザー側リーダーを拝命しました。悪戦苦闘の連続でしたが、入社3年で経験できたことは、自分を成長させる良い機会でした。 入社5年目で米国赴任に大抜擢 「その後、米国に異動しました。本社では主にどのような仕事をされてきたのでしょうか。言語の壁も含めて、苦労はありませんでしたか。」 入社時の上司が米国の本社に赴任されていて、その方が米国で担当した仕事を若い人にやらせたいということで、私を呼んでくださったのです。本当に有難いことでした。 一年目は、ニューヨーク州でAsia Pacific地域の製品企画部門の予算管理を担いました。二年目は、フロリダ州にあったパソコン研究所で開発費管理の仕事をしました。人生で最初の一人暮らしが海外でしたので、言葉、慣習、車の運転など、仕事以外にも毎日がチャレンジでした。ただ、年齢の近い現地の仲間と良い関係を築けたので、仕事や生活面で助けて貰い、休日も一緒にパーティーやスポーツ、習い事などをしました。おかげで赴任から約3か月で、すっかり溶け込むことができました。 米国公認会計士と米国公認管理会計士のW取得の効果 「税理士の簿記論を取得した後、米国公認会計士や米国公認管理会計士の資格を取得されたのですね。その理由を教えてください。」 米国公認会計士を取得しようと思ったのは、IBMの会計が米国基準でしたし、グローバルで活躍できるプロフェッショナルになりたかったからです。米国での生活が安定してから本格的に始め、日本に帰任後約1年で全科目を合格しました。米国公認管理会計士の資格は、米国赴任中にIBMの友人から薦められました。当時からIBMは、FP&Aの役割を重視していたからです。この資格を取得するには、原価管理、予算策定、予実分析、コーポレート・ファイナンス、投資の意思決定などを学びます。実際に勉強を始めたのはここから数年後でしたが、仕事に直結する内容でしたので、日々の業務と照らし合わせながら楽しく学べ、合格することができました。 「資格は仕事において役に立っていますか。」 米国公認会計士に合格した頃から、周りの人が自分をファイナンスのプロフェッショナルとして見てくれるようになったと感じました。また勉強の過程で身に付いた会計の知識は、自信に繋がりました。米国公認管理会計士については、実務で携わってきたことをセオリーで裏付けることができ、FP&Aの技術的なスキルを強化できたと思います。どちらの資格も、仕事において非常に役立っています。 「グローバルの外資系企業にいる上では、米国公認会計士と米国公認管理会計士の資格を持っていた方が有利なのですね。」 有利という表現が適切かは分かりませんが、個人的には、より有効に活かせると思っています。日本人の米国公認会計士は、英語が得意で、外資系企業の日本法人に勤める方が多いと思います。しかし、米国公認会計士が事業会社で働く場合の主戦場となる制度会計、開示、財務等の業務は、本社(海外)で行うものが多いです。子会社である日本法人だと、担当する範囲がどうしても狭くなると思います。また監査法人で働く場合ですと、米国公認会計士は日本で公認会計士の独占業務ができません。 では、活躍の場はどこが大きいかというと、グローバルで事業を展開し、US GAAP やIFRSを導入する日系企業での制度会計や、外資系企業における管理会計の分野だと思います。特に外資系企業は株主へのリターンを強く意識することから財務業績をとても重視するため、管理会計に関わる人員が日系企業に比べて多いと感じています。 管理会計に活躍の機会が多いという話をすると、米国公認管理会計士だけを取得すれば良いのではと思われるかもしれません。ただ私は、両方あると一層活きてくると思っています。米国公認会計士の資格取得を通じて、会計の基礎をしっかりと身につけることは重要です。その上に、米国公認管理会計士の勉強を通じて、管理会計のスキルが加わっていく。管理会計は応用編なので、適切な意思決定を支える盤石な会計知識が欠かせないのです。 価格設定担当者としての学び 「2年間の米国赴任を経て、日本に戻ってからはどのような仕事をされていたのでしょうか。」 当時、東京にあったIBM Asia Pacific(AP)本社(日本IBMの親会社)に出向となり、日本を含むアジア地域において製品やサービスの価格を設定する仕事に就きました。出向期間を終えて日本IBMに戻ってからは、当時のIBMが全世界で取り組み始めたアウトソーシング事業部に、価格設定支援の役割で配属されました。IBM AP本社に出向していた時の経験を生かして、アウトソーシングの価格設定モデルを開発しました。また大型案件の価格を設定する役割も担いました。これまで実務や資格取得の勉強を通じて習得してきた会計のスキルが、価格設定に必要となるコスト見積り、収益性分析などで発揮することができました。 ファイナンス部門は、ビジネスの現場に居る人たちから番人のように思われます。しかし、アウトソーシングの契約を締結するためには、ファイナンス部門の人の役割が重要でした。価格設定に関わるのみならず、お客様の会社のCFOに、アウトソーシングの財務上のメリットを説明することもありました。その際には、お客様の会計基準や管理会計手法を理解して話す必要がありました。自分の経験とスキルを最大限活用しながら、営業やサービス部門の人たちと一緒になって取り組んだ貴重な機会でした。そして部下を持つマネージャーに昇進しました。引き続き、多くのアウトソーシング案件の成約に組織として携わり、当事業を大きく成長させる一翼を担えたと思っています。 事業部CFOの戸惑い 「39歳でPC事業部のCFOとなります。責任範囲も広くなり、部下も増えたことに対して、戸惑いはありませんでしたか。また、CFOとしてどのような役割を担ったのかも教えてください。」 日本IBMの一事業部とはいえ、CFOという役割に当初はかなり戸惑いました。アウトソーシングの価格設定の役割は、どんなに大きな案件でも、成約するという観点で同じ方向を向いた人たちと仕事をしていました。それに対してCFOになると立場が異なります。事業部全体を売上・利益・キャッシュフローの観点で成長させる責任がある一方で、個別のアクションが適切であるかを冷静に判断する必要があります。営業部門から将来のために投資をしたいと提案があっても、こちらの分析では適切なリターンが見込めないため、意見が衝突することも少なくありませんでした。また内部統制をきっちりと浸透させる役割も重要です。事業のアクセルとブレーキをバランス良く踏む必要がある、難しい役割だと感じました。業績報告では「悪化している理由は何か?」「どうやってリカバーするのか?」という質問のみならず、「あなたは何に貢献できるのか?」「何をコミットするのか?」と問われることも少なくなかったです。 「そのような困難な状況にどのように対処していったのですか。」 当時の日本IBMのCFOから、事業部CFOの重要な役割は、事業部長やチームから「信頼されるビジネス・パートナーになること」だと学びました。専門性・スキル・経験は異なるものの、事業部もCFO部門も、会社や事業部を継続して成長させるというゴールは同じです。「一緒にゴールを目指す」と思えば、お互いが足りない部分を補完し合いながら、行動することができます。決して馴れ合うのではなく、対等な立場でお互いが良いところ・悪いところを指摘し合い、認めあい、補正しあいながら、共通のゴールに向かって進めていく。この姿勢が企業価値の向上に欠かせないことを学びました。そして業績報告においても、自分がビジネスのオーナーシップを持って説明できるようになりました。困難にぶつかった時には、この考え方に立ち返るようにしてきました。
#CFO
グリー株式会社
取締役CFO 大矢 俊樹 氏

多様な企業のCFOを経験して見えた地平 その魅力や求められるCEOとの関係性とは?

ソフトバンクの勢いに衝撃を受けSBIへ転職 「大学3年生で公認会計士に合格していますが、いつ頃から会計士を目指していたのでしょうか。また、その理由を教えてください。」 大学1年生の途中から会計士を目指すようになりました。「手に職を付けておきたい」と考えていたところ、在学していた慶應義塾大学では会計士を目指す人が多かったので自然な流れで選びました。 「卒業後、大手監査法人のトーマツに入所されています。どのようなことを担当されましたか。」 主に会計監査を担当しました。この時期に、メーカーや小売、卸売、商社、銀行、保険会社などさまざまな業種・業態を見ることができました。会計監査に加えて、IPO支援やコンサルティング、バリュエーション、M&Aの調査などを幅広く担当させていただきました。 「7年間トーマツに在籍し転職していますが、そのきっかけは何だったのですか。また、そのまま残ってパートナーになる道は考えなかったのですか。」 もともと監査法人にずっといることは考えておらず、ある程度の経験を積んだら違う道に進みたいと思っていました。例えば、税理事務所を開業することや事業会社への転職などさまざまな道を検討していました。1999〜2000年当時は、インターネットが盛り上がっており、マザーズやナスダック・ジャパンが創設された時代です。特にソフトバンクの勢いがすごく、孫(正義)さんがナスダック・ジャパンを作った時に、「証券市場を作ることなんてできるのか!」と衝撃を受けました。それが決め手となって、ソフトバンクの関連会社であったソフトバンク・インベストメント(現:SBIホールディングス)に転職することにしたのです。 キャリアの基礎となったSBI 「監査法人と異質の世界に転職して戸惑いはありませんでしたか。」 ありました。監査法人はクライアントからは先生のような扱いを受けます。また、社内においてもプロジェクト単位で仕事をするため、直接的な上司がおらず、みんなが資格を持っているので、新人でもリスペクトされるような文化でした。一方で、SBIは、北尾(吉孝)さんの会社なので、野村證券出身の方が多く、野村證券の雰囲気が多少なりともあると感じました。野村證券は「投資先を見つけてくるまで帰ってくるな」と言われるというイメージがありますよね(笑)。監査法人とは社風が全く違うので、戸惑いはありましたし、慣れるまで大変でした。 「この転職の判断はキャリアを大きく決定づける分岐点だったようにも思います。その当時の自分の決断をどう思われますか。」 良かったと思います。投資やインターネットによる市場の盛り上がり、そのダイナミズムを経験することができたのは私のキャリアに大きな影響を与えました。1つのベンチャーファンドに1500億円ほど集まるような時代で、その投資先を支援することによる学びも大きなものでした。 「SBIでは、大きな投資ファンドの組成・運営、投資先のCFOなどの実績を重ねられています。具体的にどのような経験をされたのか教えてください。」 SBIには3年半しかいませんでしたが、前半は1500億円のファンドを組成する責任者として、企画を作ったり、投資家のデューデリジェンスを受けたりしました。その後、実際に投資をして、管理体制を作っていきました。後半は、バイアウトのファンドを組成して、その投資先の名古屋のサワコー・コーポレーションという建設会社にCFO的なポジションで携わりました。この会社は、ナスダックに上場していたのですが、残念ながら会社を清算したので、SBIがスポンサーとして入り、バイアウトファンドで出資をして再建をすることになったのです。当時、私は32歳で、CFOの仕事に憧れがありましたので、手を挙げてやらせてもらうことになりました。ただ、懸命に努力はしていましたが、振り返ると、経験不足でたいしたことはできていなかったように思います。 ヤフーへの転職と買収先でのCFO経験 「その後、どういった経緯でヤフーに転職したのでしょうか。」 1年ほどで部署が異動になったため、サワコー・コーポレーションでの役割も終えました。次に、経営企画の仕事をすることになったのですが、事業会社のCFOを目指したいという思いが捨てきれませんでした。そんな時に、インターネット業界では有名な、ヤフーで経営戦略部長を務められて、2018年に鬼籍に入られた佐藤 完さんという方からお誘いいただき、グループ会社であるヤフーに転職することになったのです。 「当時のヤフーの規模や、当初担った業務を教えてください。」 当時は、売上750億円ほど、社員数は1000人くらいだったと記憶しています。毎年倍々で成長していました。当時のCFOの梶川(朗)さんが上司となりました。最初の9か月ほどは、広くヤフーのことを知るために内部監査を経験し、その後、経営企画の仕事で主にM&Aを担当しました。 「そのM&Aの仕事とのつながりで、『筆まめ』シリーズで有名なクレオのCFOになられたのですね。その経緯とミッションを教えてください。」 クレオは、社長の井上(雅博)さんの「エンジニアのリソース不足を解消するためにエンジニアを大量に供給してくれるパートナーを探したい」という意向を受けて、探してきた会社でした。ヤフーからクレオに役員を派遣するタイミングで、井上さんと僕が入りました。井上さんが役員会に出た時に、クレオの業績管理に不安があったので、きちんと業績を管理した方がよいということになり、私がCFOとして入ることになったのです。 CFOとして行った数々の改革 「5年間クレオの取締役CFOを務めます。苦労の連続だったと思いますが、主にどのような改革をされたのか教えてください。」 当初は常勤でもなかったですし、半年ほどで役割を終え、ヤフーに戻る予定でしたが、問題が予想以上に根深かったので、常勤で継続することになりました。最初の段階では、不動産などの不良資産を整理するなど、バランスシートの改善に取り組みました。また、『筆まめ』以外のBtoBの人事給与や会計などのパッケージソフトについては、業績が悪く過剰に資産化していました。資産化すると、その年度は業績が改善したように見えますが、償却費が累積していくので問題を先送りしただけです。そこで、そうした項目を減損して整理しました。この取り組みは、目に見えて改善できるので、仕事をした気になるのですが、しょせん会計上の話であり、事業自体は改善していません。事業構造自体を改善しないと、何も変わらないということに気がつきました。 事業構造自体の改善という意味では、パッケージソフト事業が、品質が安定しないためにアフターコストが膨大になっているという問題がありました。品質の問題は現場の技術者を巻き込んで徐々に改善するしかありませんが、並行してビジネスモデルを変更する必要がありました。当時は、イニシャルコストとしてライセンス料を、ランニングコストとして保守料をもらっていましたが、比較するとライセンス料の比重が重かったのです。ライセンス料の利益率は高いですが、受注販売なので売上状況に大きく左右されます。そのため、大きな案件を失注してしまうと業績を下方修正せざるを得ないという状況でした。こうした体制では安定しませんので、ストックの収入を増やすために保守料の比重を大きくする必要がありました。そこで、1年間だけ僕が事業責任者になって、利益改善に取り組みました。 さらに、希望退職者も募りました。最後に持株会社化もしました。その当時で35年ほどの歴史がある会社で、ずっと事業部制を採っていたのですが、惰性感がありました。僕は、組織が人に与える影響はすごく大きいと考えているので、持株会社にして、事業部を事業会社に、事業部長を社長にしました。事業部長と社長とでは、自分自身の意識や周りからの見られ方が全く変わります。会社のことを自分ごと化して考えられるようになったという意味で、かなり効果があったように思います。 このように5年間でさまざまな改善をして、ようやく黒字にすることができました。 「なぜ、そのようなさまざまな改革ができたのでしょうか。」 1人でできることは少ないので、現場の意見をよく聞き、マネジメント間でも話し合い、井上さんにも相談しながら策を練っていきました。うまくいっていないことには、経緯や理由があるはずです。それを司っている組織や人を無視しても上手くはいきません。話を聞く際には、皆さんの意見の集合知を把握しようとするのではなく、一定の切り口や仮説を持ちながら進めることを意識していました。 「上場企業の取締役CFOという経験はその後のキャリアにどう影響していますか。」 経営企画のような経営をサポートする立場から、本当の意味で経営サイドの立場を経験しました。経営においては、自分がジャッジした回数や経験が重要です。35歳から40歳くらいまでにそういった経験をさせていただけたことは、すごくありがたかったですし、その後のキャリアの基礎になっています。
#CFO
株式会社パワーエックス
執行役CFO 藤田 利之 氏

心に火が灯り挑戦したベンチャーのCFO 事業会社やFASでの知見が結実した成功への道

苦しかった事業会社での経験 「公認会計士を目指したのはいつ頃からですか。それはなぜですか。」 高校2年生の時です。私は、小さいころから父から「理系の大学に進学したほうがいい」「手に職をつけたほうがいい」と言われてきました。私自身も数学が好きだったので、理系に進もうと考えていたのですが、高校2年生で文理選択をする際に、理系でやりたいことが見出せず悩みました。そんな時に、書店で見つけた資格の本に、公認会計士について書かれていました。当時は勝手に「企業のドクター」のようなイメージを感じ、数学的な要素や経営的な要素があり、面白そうな仕事だと感じました。また、性格的に学校の先生や先輩との上下関係がそこまでうまくやれるタイプではなかったので、当時から大きな組織で出世していくサラリーマンは向いていないと思っていましたので、独立できる資格ということも魅力に思えました。父にも「理系には進まないけれど、資格取得をして手に職をつけたいと思っている」と話をし、会計士を目指すことにしたのです。 その後、大学に進学し、大学2年生から勉強をスタートしました。最初はなかなか勉強に身が入らず、結局合格したのは卒業して2年目なので、受験勉強に4年半くらいかかり、資格の取得にはかなり苦労しました。当時は、大学入学時がまだバブルと呼ばれた好景気な社会で、世の中も大学も浮かれており、就職に苦労するという雰囲気ではありませんでした。しかし、大学3年生頃にバブルが崩壊し、社会が一変し、大学4年時には、友人が就職で苦労するのを見て、今から就職活動をしてもすでに難しいと感じました。私は、そこでやっと「会計士に受かるしかない」と覚悟を決めることができました。その後、やっと合格しますが、バブルは崩壊しており、合格者であっても半数が監査法人に就職ができないという年でもあり、今度は就職の苦労が始まりました。 「それで、監査法人に入所せず事業会社に就職したのでしょうか。」 景気悪化に伴い監査法人での採用人数がそもそも少なく、どこにも受かりませんでした。とにかく早く働いて稼ぎたいとの思いで、ソニー・ミュージックエンターテインメントに中途入社し、グループ人事の一環で、キャラクターグッズのライセンスビジネスや化粧品ビジネスを行っていた子会社のソニークリエイティブプロダクツという会社の経理に配属になりました。事業会社でサラリーマンになりたくない、と思って、会計士の勉強を始めたはずなのに、結局、最初は事業会社に就職するということになりました。 やっと得た仕事ですが、社会人経験が全くないまま中途入社したので、そのあと地獄のように大変でした。会社の人からは、「会計士試験に受かったすごい人が入社してきた」と思われていたようですが、私は名刺の渡し方、電話の取り方も知りません。愚痴る同期もいません。期待に全く応えられず、会計士試験に合格したプライドは一気に崩れ、毎日遅くまで残業し、土日も出勤と地獄の日々を送ることになりました。 「そこで経験されたピンチや苦労について教えてください。」 新人なので、電話を取ったり、お茶を出したり、お弁当を買いに行ったり、請求書を封筒に入れたり、大量の伝票の仕訳をしたり、という仕事をしながらも、会計士2次試験合格者の期待として監査法人の対応をしたり、取締役会の資料を作ったりという業務も任されていました。しかし、会計士2次試験合格者とはいっても、仕事自体が初めてで、仕訳を切った実務経験もありませんし、取締役会の資料と言われてもイメージが湧きませんでした。しかも、ソニーの連結孫会社だったので連結決算のため、毎月の月次決算スケジュールはタイトで、キャパオーバーが続き、ミスを連発しました。自身の力不足も相まって上司ではなく、先輩や同僚からも怒られることも多々ありました。入社して半年で10kg痩せました。 加えて、一般事業会社なので、監査法人と違って補習所に行くシステムもありませんでした。試験の日とディスカッションの日だけは、なんとか半日の有給を取って、ギリギリ単位を取りました。会計士2次試験に苦労して合格し、就職に苦労し、そして最初の職場でもかなり辛い日々が続きました。まだ、独立できる公認会計士になれるイメージもわかず、日々の仕事に追われる日々でした。 営業から契約締結まで担当したトーマツでの経験 「1年ほど勤めた後に、退職して、監査法人トーマツの静岡事務所に入所されています。それはなぜですか。」 事業会社での1年間で疲れ果て、また、初心に戻って会計士としての監査の経験をし、独立を目指すために地元の静岡県に帰ろうと思ったからです。1年早く合格した大学時代の友人がトーマツの静岡事務所で働いていて、その友人から所長を紹介してもらい、即入社が決まりました。 「静岡事務所ならではの得難い経験があったと思いますが、具体的にはどんな経験やスキルを習得することができたと思いますか。」 当時のトーマツの静岡事務所は、出張所のような位置付けから事務所に格上げされてそれほど立っておらず、所長も40歳前半で若いメンバーの事務所でした。監査法人において、通常は、営業はパートナーしか担いませんが、静岡事務所では、事業規模の拡大のために営業研修があり、スタッフから営業マインドを植え付けられました。私が在籍した際には、スタッフからシニアスタッフに昇進するためには、クリアしなければならない営業ノルマがありました。当時、ちょうと東証マザーズやナスダックジャパンが設立され、IPOを目指す会社が増える傾向にありました。そこで、問い合わせがあった会社に対して、ショートレビューをして課題を抽出し、レポートを書いて、提案をして、コンサル契約あるいは監査契約を結んでといったように案件を獲得しました。 ここで、前職での経理の実務経験が非常に活き、成長に向けた体制整備の案件を数件獲得でき、月に何回か訪問し、月次制度を整えたり、内部の仕組み作ったりしていきました。トーマツの静岡事務所は、約4年間と短い期間でしたが、地方事務所のおかげで、かかわる業種も幅広く、早期に現場のインチャージも経験でき、加えて、営業から監査やコンサルまで、様々ななことを経験させていただきました。今思えば、非常にいい経験だったと思いますが、当時はとにかく忙しかったことを覚えています。 「監査法人というよりベンチャー企業のようなイメージですね。」 監査法人の中では、伸び盛りの地方事務所で、かつ、顧客もベンチャー企業も多かったので、まさにベンチャー企業のような事務所でした。ただ、私自身は、入社当時は、ベンチャー企業のような環境で働きたいと思っていたわけでもなく、同期の合格者から1年遅れてトーマツに入社したので、懸命に業務に打ち込むことで早く、試験合格の同期に追いつきたい、との思いだけでがむしゃらにやっていただけでした。ただ、それがベンチャー企業の参画に繋がった部分もあるかもしれません。
#CFO
株式会社東京通信グループ
取締役執行役員CFO 赤堀 政彦 氏

27歳でCFOにチャレンジ!関わる企業とともに成長し、挑戦を続けた先に見えた経営の醍醐味とは

新卒にして企業買収や業務提携を担当 「大学卒業後、シーエー・モバイル(現:CAM)に入社します。この選択が赤堀さんのその後のキャリアを決定づけたと言っても過言ではない気がしています。なぜシーエー・モバイルを選んだのですか。」 将来のキャリアを鑑み、企業買収に関するアドバイザリーやコンサルティングの仕事を探していました。アドバイザーという外部の立ち位置で探していましたが、シーエー・モバイルから自社の企業買収や事業提携の担当者というポジションで採用いただきました。結果的には、外部のアドバイザーとしてではなく、内部で意思決定に関与できる立ち位置に関心を持って入社を決めました。シーエー・モバイルでの日々により、たくさんの失敗をしながら経験値を増やすということが、私のスタイルになりました。当時はあまり失敗ばかりしたくないと思っていましたが。 27才で投資先のCFOにチャレンジ その後セレンディップ・コンサルティングに入社しました。入社前から様々なコンサルティング業務を経験できることは説明を受けていました。2年程はM&Aに関連したアドバイスをしたり、中期経営計画や人事制度を構築したりと様々な業務に従事しました。その後、セレンディップ・コンサルティング自身が企業に投資をするという方針変更を実施しました。 「それをきっかけに、27歳の時に投資先の取締役管理部長に就任されるのですね。これは自ら希望したのですか。また、不安はありませんでしたか。」 自分から希望しました。今から考えるとかなり無謀な挑戦だと思います。無知だからこそ手を挙げられたのでしょうね。最初は売上60億円、従業員は1,500人ほどのベーカリーを中心とした食品製造小売販売業の取締役管理部長、いわゆるCFOをしました。借入金が大きく、赤字も数億円と業績が良くない会社だったため、当時は候補者があまりいなかったのかもしれません。それならば、自分がやってみようと決意しました。 「初めての経験ですよね。」 何も分からないところからのスタートです。プロジェクトベースのものであればまだイメージができますが、経理実務はさっぱり分かりません。仕訳の切り方も給与計算も分からず、「承認のルートとは何ですか?」という状態からスタートしたので、業務を進めながら勉強していきました。 「実務的な問題だけでなく、人のマネジメントも大変だったのではないでしょうか。」 そうですね。当時は、がむしゃらにやっているだけで、周りが見えておらず、性格もきつかったと思います。「なんとしても黒字にしないと、この会社は潰れてしまう。社員のみんなを路頭に迷わせるわけにはいかない」と思っていました。それが正しいと信じていました。今振り返ると、もっとやりようはあったのでではないかと思いますが。 売上を失った失敗経験 「こちらでの失敗の経験があれば教えてください」 大きく売上を失ってしまったことがあります。あるスーパーマーケットチェーンにベーカリーショップを出店していたのですが、店の老朽化などの影響で売上が思わしくなかったため、賃料の交渉をしました。あまりにも赤字が大きく交渉しすぎてしまい、GMS側の役員と部長から「全店舗から出ていってくれ」と言われてしまい、億円単位で売上を失うことになってしまいました。そのGMSに出店している店舗は赤字だったので閉店させた方が良かったのですが、閉店するにもコストがかかりますし、働いている人たちをどうするのかといった問題が生じました。今振り返るともっと上手い交渉の仕方はあったと思います。 「食品製造小売販売業でのCFOの経験は、ある意味では再生案件ですよね。再生案件は難しいので、一般的には経験豊富な方がCFOとして入っていくケースが多いです。赤堀さんはそれを27歳という若さで経験された。振り返ってみて、どのような経験になりましたか。」 当時は上司に言われたことを本当にがむしゃらにしていただけです。たまたま上司に恵まれていて、たまたまやったことが上手くいった。上司は狙ってやっていたそうですが、それすら当時の私には分かりませんでした。だた、本当に良い経験をさせてもらいました。 「さらに、30歳でセレンディップ・コンサルティング本体で取締役管理部門管掌という管理のトップを任されます。不安はありませんでしたか。」 当時は、がむしゃらすぎて不安を感じている暇すらなかったのですが、今考えると不安しかなかったですね。また、能力的にも不足していたので、経験を重ねて乗り越えましたが、上司が僕に時間を惜しみなくかけてくださったことも大きかったです。ただ、当時はそんなことにも気付けてはいませんでした。色々な人に迷惑をかけながらも、結果的には資金調達ができて、企業買収・M&Aもできました。 一方で、このCFO経験は、僕の中に悩みや葛藤を生みました。自分が理想とするCFO像と自分とのギャップがあまりに大きいことを認識しました。そもそも「CFOの仕事とは何か」といったことが、きちんと腹落ちできていなかったのです。人の言葉を聞いたり、本を読んだりしてもしっくりこない。しっくりこないまま進めていました。 「その当時は分からないにしても、今振り返るとどういうことをすればより上手くいったと思いますか。」 当時、上司から「考える時間を作りなさい」とよく言われていました。当時はピンときませんでしたが、今はそういう時間をとるようにしています。世の中に溢れている答えのないことに対して考えを巡らせる時間をとることが必要だったのではないかと思います。