COLUMNコラム

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日本ベンチャーキャピタル株式会社
代表取締役会長 奥原 主一 氏

CFOに求めることは、CEOが前向きな仕事に専念できる環境を作る覚悟と柔軟性

「未来が予測できない」コンサルティングファームへ就職 「奥原様は、東京大学、大学院で工学系の学問を学ばれましたが、なぜコンサルティングファームに就職されたのですか。」 私は、自分に何か特別な才能があるとは思っていないので、周囲と同じことを続けて退職する40年後の自分が容易に想像できてしまいました。「1度しかない人生、せっかくならば想像もできない、面白そうなことをしてみたい」と思いました。 「コンサルティングファームへの就職は、親御さんも驚かれたのではないでしょうか。」 コンサルどころか、パン屋だと勘違いしていました(笑)。アンダーセンコンサルティング(現:アクセンチュア)は就職にあたって親宛に「4月から息子さんがうちの会社で働きます。よろしくお願いします」といった内容の葉書を送っていました。それを見た親は、アンデルセンのパン屋と同じロゴだと勘違いし、「なんでパン屋に行くんだ?」と電話をしてきたのです。未だに私がコンサルに就職したことをわかっていません。 「アンダーセンコンサルティングではどのような仕事をしていたのでしょうか。」 アンダーセンコンサルティングには、いろいろな部署があるのですが、私が最初に担当したのは、横浜にあるソニーの中央研究所で知財の洗い出しをして、それらを活用して何ができるかを考える仕事でした。限られた人しか配属されない部署ですが、振り返ると、この仕事が一番面白かったです。今思うと、当時、正二十面体のボール型で時計、電話、音楽を聴く機能などがついたもの があったのですが、これをうまく発展させることができていれば、iPodやiPadになっていたのではないかと思います。もし先に発売になっていたら、Appleはなかったかもしれません。 視力の低下から公認会計士の資格取得へ 「その後、難易度の高い公認会計士の資格を取得なさいましたが、なぜ取得しようと思ったのですか。また、奥原様は監査法人に勤務されていませんが、就職を考えたことはなかったのでしょうか。」 結局、アンダーセンコンサルティングを2年で退職しました。退職の理由は、目が悪くなって、仕事を継続することが難しくなってしまったからです。学生時代から、システム系の勉強をして目が悪かったところに、就職後もソニーでずっとブラウン管を見ていてさらに悪化してしまいました。いろいろな眼科を回ったのですが、明確な診断には辿り着けず、インターネットで論文検索をしてみると、「もしかしたら、かなりまずい病気なのではないか」ということに気がつきました。そこで、日本で手術ができる病院を探して診てもらったところ、「手術によって普通の近視程度の視力には戻せるけれど、現在の仕事を続けるのは難しいのではないか」と言われてしまったのです。そこで、アンダーセンコンサルティングを退職して目の手術をしました。目は神経が集合しているので、手術後は遠くは見えるけれど近くは見えないという状態が続き、半年くらいリハビリをしました。新聞を読んでも頭痛がしなくなるまで時間がかかりました。 その時期は、テレビをラジオ代わりにして音を聞いて過ごしていたのですが、たまたまネットスケープが上場したというニュースを耳にしました。その時に、初めてアメリカにはベンチャーキャピタリストという職業があって、その人たちがマーク・アンドリーセン(ネットスケープの創業者)という大学院生の起業を応援して大きくしていったことを知ったのです。そして、日本にもベンチャーキャピタリストのような仕事があればやってみたいと思うようになりました。 当時同棲していた現在の妻が税理士の仕事をしており、日本の中小企業に粉飾が多いということは知っていました。僕みたいなバックグラウンドの人間がキャピタリストの仕事をしようとしても、このままではきっと粉飾に騙されるだろうと考えました。そこで、会計や法律をまんべんなく学ぶことができる資格を取ろうと思い、公認会計士を目指し、2年間勉強して合格したのです。ですから、最初から監査法人に入る気はありませんでした。ただ、私が受験した2年間は合格者数が過去最低だったらしく、少ない合格者の座席の一つを奪ったことは悪かったなと思っています。 念願のベンチャーキャピタリストに 「そして、日本ベンチャーキャピタル(NVCC)に入社します。大きくキャリアチェンジすることになりますが、その選択をした理由をお聞かせください。」 NVCCが、独立系のベンチャーキャピタル(以下、VC)だったからです。独立系のVCを3社回ったのですが、うち2社は経験者のみの採用でした。まだできたばかりだった当社は未経験者でも採用してくれたのです。当時としては珍しいと思いますが、メールに「私はこんなに優秀なので、採用しないと損をしますよ」といった内容の文章を記し、自己PRやレジュメを添付して送りました。その後、連絡があり、総務の面接、役員面接、社長面接とあっという間に進み、1998年の1月4日、正月明けから転職しました。その頃、大手の金融機関は子会社としてVCを持っていました。しかし、連結会計がない時代でしたので、そのほとんどが親会社の不良債権を飛ばす対象となってしまっていたのです。そういった場所では、まともな投資は行っていないだろうと考え、最初から独立系のVCだけを狙って転職活動をしました。 日本ベンチャーキャピタルの特徴 「NVCCはVC業界の中でもユニークな組織です。NVCCの成り立ちや特色を教えてください。」 NVCCは、自らベンチャー企業を興し、各分野で成功をおさめている事業家や、ベンチャー支援に熱意を持つ大手企業などが結集し、これまでとは異なる支援型の本格的なVCをめざして、1996年に設立されました。当時、経済同友会でVCを作ろうという動きがあり、ウシオ電機の牛尾治朗さん、セコムの飯田亮さん、オリックスの宮内義彦さん、日本生命の伊藤助成さん、そして会長を務めたコスモ証券の文箭安雄が発起人として創業しました。それに参画、賛同していただける方を徐々に増やしながら現在に至ります。 金融知識がないことをプラスに、手探りで業務スタート 「投資をする分野や方針は決まっていたのでしょうか。」 全く決まっていませんでした。私が入社したのは創業2年目で、当時、日本に独立系のVCがほとんどなかったので、社内だけでなく、日本中に業務を教えられる人がいませんでした。「この業界は本当に歴史がないから、自分で考えて進めていかなくてはいけない。幸い私は金融機関に勤めていた経験がなく知識もないので、彼らがハードルに感じることに対して私はハードルに感じない。これは逆にプラスになるはずだ」とポジティブに考えました。まだ、ウェブサイトが充実している時代ではなかったので、最初はアメリカのVCの教科書を読み漁って真似をすることからスタートしました。 「具体的にどんな仕事をしていたのですか。」 本当に手探りでひたすら投資をしてきました。アメリカのセオリーどおりにやってみて、うまくいかなければ次は取り入れないし、良かったら日本流にアレンジするというやり方で進めました。弊社にも過去含めて50名以上のキャピタリストが在籍し、累計で1100社以上投資致しましたが、キャピタリストとして1件目の投資が上場したのは私だけです。それくらい運には恵まれてきました。 「入社して10年ほどで取締投資部長に就任されています。」 2008年に取締役投資部長になりました。この頃は採用を増やしすぎていて、能力が不足している人もかなりいたように思います。さらに、就任した直後にリーマン・ショック。創業者の文箭(安雄)とこの会社をどうすべきかについて、何度も話し合いました。ただ、そんな中でも、投資は継続していました。
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川島 崇 氏

″いろいろ″あるから経営は面白い。修羅場でこそ問われる「CFOの信念と覚悟」

監査法人で求められたのは期待以上の成果 「公認会計士を目指したのはいつ頃からですか。また、それはなぜですか。」 高校3年生の浪人が決まったときです。遊んでばかりだったくせに、なぜか受験失敗は完全に想定外でした(笑)。しかも友人達はちゃっかり現役合格。これはマズいことになったと思いましたね。ただ、この挫折は真剣に人生設計を考える機会となりました。当時はバブルが崩壊した頃で、「将来ビジネスの世界で経営者として挑戦と貢献ができればいいな」程度の漠然とした考えが浮かんでいました。そして情報収集のため書店で資格の本をペラペラ立ち読みしていると、まず弁護士が目に入ったわけです。当時の司法試験合格率は3%…さすがに厳しそうだと思いましたね。次に目に付いたのは聞いたこともない資格、公認会計士でした。なんと合格率6%、司法試験の倍です!直感的にイケると思いましたね。実はこれが公認会計士との運命の出会いです(笑)。そして色々調べると、公認会計士資格はビジネスに役立ちそうだとわかり、真剣に目指すことにしました。大学合格後は、ダブルスクールとアルバイトに勤しみながら、卒業後に合格しました。もしこの年不合格だったらバイト先の店長になる予定でしたので、運が良かったと思います(笑)。 「入所して10年間勤めた監査法人では、主にどのような仕事をされていましたか。また、記憶に残っているエピソードがあれば教えてください。」 メインは監査業務ですが、デューデリやM&A、株価評価、IPO支援、内部統制、企業再生などのコンサル業務も数多く担当しました。当時は、監査法人の独立性が厳しく問われる環境ではなかったので、クライアントの懐に入り込むような仕事が多かったですね。個人的に通常の監査業務より、コンサル業務の方が提案にクリエイティブ性が求められ、クライアントの成長に貢献している実感があって好きでした。 印象に残っているのは、東証一部のグローバルクライアントに対し、内部統制リスクを特定して業務改善を提案する仕事です。これはまだJ-SOX法や内部統制監査が存在しない頃の話です。定期的に各支社へ出張し、1年間で1周する流れを繰り返していました。具体的には、初日に営業や製造部門など複数の会社関係者にインタビューし、裏付け資料を調査します。2日目は詳細を詰めて、課題提起と改善行動計画を報告書に取りまとめ、夕方には支社長へプレゼンします。改善行動計画はフォローアップのため、実効性があり行動を促す内容が要求されます。しかも私の上司は全くレビューをしない派でしたので(笑)、私の作成した報告書はそのまま取締役会へ提出されるわけです。そのため事実誤認や不明瞭な記述は許されませんでしたし、何より前回と同じような指摘内容では価値がないわけです。 タイトなスケジュールで期待以上の成果を要求される、プレッシャーのかかる業務でしたが、「営業から会計に至る会社業務の仕組みや組織の論理」を深く理解できたことや「仮説思考で計画を立て、効率的に有用な情報を引き出し、改善行動へのコミットを得る」といった力が鍛えられたと思います。入社1年目からこのような業務に関われたのは大変ラッキーでした。 まさかのベンチャーへの転職、「気が狂ったのか?」 「監査法人で得たスキルは事業会社のCFOとしても役に立っていますか。」 監査では、クライアントの外部環境、様々な制約条件や変動要因を複合的に捉え、多面的に分析した上でリスクを特定し、計画を立てチームを動かして効率的に業務を進めることが要求されます。こういったスキルは、事業会社でもデータの裏付けを持って、企業の現状を客観的に把握・分析することや、将来予測や課題解決に取り組む際には大いに役立ちましたね。 また、実は監査法人時代に中小企業診断士資格を取得しています。財務や会計領域はスペシャリストとして知識や経験を深掘りできましたが、企業経営という広い視野を持つには、ビジネス全領域に渡るゼネラリスト的な知識が必要と考えたからです。診断士試験では財務会計領域以外に、経営戦略、マーケティング、生産管理、情報システム、人的資源管理、経営法務、新規事業開発、助言理論などを体系的に学ぶことができました。ベンチャーのCFOはあらゆる事業領域に首を突っ込まざるを得なくなるわけですが、知識があるとないとでは問題解決への入りが異なりますので、とても価値があったと思います。 「10年間勤務した監査法人を退所してベンチャー企業に入社なさいました。その理由を教えてください。また、そのベンチャー企業はどんな事業をしていたのですか。」 当時は「失われた15年」の頃でした。私は日本経済には新しいビジネスの誕生が必要だと思い、ベンチャー企業でイノベーションを起こすことに貢献したいと考えるようになりました。その中でも、日本発の強みを持ち、海外へ事業展開できる会社を転職先に探していました。そして入社を決めたのは、日本が得意とするIP(知的財産権)の企画制作、そしてそれらをクロスメディア・クロスボーダーでプロデュースするベンチャー企業です。ただ、当時は今と違って監査法人からベンチャー企業へ飛び込むなんて異例中の異例でしたので、「気が狂ったのか?」と上司から多くの反対と引き留めをして頂きました。至極真っ当な意見で「ごもっともです」としか言えないのですが(笑)、何度もお話をして最後は気持ちよく送り出して頂きました。 実は、私にはベンチャーへの挑戦に理屈じゃない、こだわりがあったのです。それは監査人としてベンチャー企業と関わる中で生まれました。私はIPO支援をしながら、同い年位の方が責任あるポジションで、周囲を引っ張り、正解のない世界で頭を悩ませながら取り組んでいく姿をずっと見ていました。そして上場した時、彼らがまるで高校球児が甲子園で優勝したかのように狂喜乱舞している姿を見て、素直に羨ましいなと思いました。「何歳になっても熱狂できる仕事に携わっていたい。それにはアドバイザーでは足りない、プレイヤーになるしかない!」と考えていたのです。 転職1ヶ月、リーマン・ショックでいきなりの倒産危機 「2008年の入社だとリーマン・ショックの時期と重なります。影響はありませんでしたか。」 はい、転職1ヶ月後にまさかのリーマン・ショックです(笑)。当社は事業が軌道に乗り、勝負のアクセルをまさに踏んだタイミングでした。しかしそれが完全に裏目となって、極めて深刻なダメージを受けました。資金の急激な流出が止まらなくなり、数か月後に資金ショートで倒産することが、明らかな状況に陥ったのです!組織内に動揺が走り、幹部をはじめ役職員がどんどん逃げ出し、雰囲気も悪くなって組織体制はボロボロに。辞めた幹部の競合企業立ち上げや、風評被害も起こりビジネス環境は極めて悪化しました。 私の転職当時に予定していた上場準備の開始は完全にストップ。私は入社1か月で企業再生に集中することになったのです!資金ショートまでのカウントダウンは始まっていましたので、私はすぐさま経営改善計画を作成して、社長に提案し実行に移しました。それまでの営業や開発は社長の経験や感覚に頼っていた面が大きかったのですが、財務分析を裏付けにセールスミックス再編やコスト構造改革を推し進め、1円でも多く利益を出し、1日でも支払いを先延ばしするように動きました。また、多くの金融機関に融資の相談をしましたが、定期預金の解約すらも拒否されるなど全て断られました。ただその後も諦めずに何行も粘り強く交渉して、何とか融資を受けることができました。 これらの取り組みで延命ができ、決算期を越えられる見通しが立ちましたが、着地見込みは債務超過。このままでは金融機関との交渉がさらにハードになることが想定されます。そこで私は自己資金を投じて資本増強。これでなんとか債務超過を回避することができました。またこの時期に資本政策の組み直しも行いました。通常、資本政策は不可逆性がありますが、既存株主達が譲渡に極めて前向き姿勢の環境でしたので、ある意味チャンスだったんです。私は交渉役として取りまとめましたが、対立して辞めた元幹部の既存株主には、また違った気を使いましたね(笑)。
#コンサルタント
DIMENSION株式会社
代表取締役社長 宮宗 孝光 氏

CFOは将来の計画を数値に落とす力を持つ重責者。信頼とロイヤリティでCEOを支える

メーカーからコンサルへの大きなキャリアチェンジ 「東京工業大学・大学院を飛び級で卒業されてからエンジニアとしてシャープに入社します。シャープではどんな仕事をしていたのでしょうか。」 レーザーダイオードの研究開発に少し携わった後、オプトデバイスに関する事業の立ち上げ、拡大に携わりました。オプトデバイスとは、電気を通電すると光る石のことで、照明のLED(発光ダイオード)やブルーレイディスクを読み取るレーザーダイオードなどが含まれます。私がシャープに入社した1998年は、視認性が高いLEDは高速道路の橙色の表示機のみにしか使われていませんでした。LED市場の広がりを予測したシャープは、事業を拡大させようとしているタイミングで、他用途での事業化に注力し始めました。 「その後、ドリームインキュベータに入社します。大きくキャリアチェンジすることになりますが、その背景・目的を教えてください。」 元々、太陽光発電に携わりたくてシャープに入社しました。当時のシャープは、太陽光発電やソーラーパネルにおいて、世界一のメーカーでした。しかし上記のとおり別の部署に配属され、太陽光発電に携わる仕事はできませんでした。私は「やりたいことをやるのが人生」だと思っていたので、早々に転職しようと決意し父親に相談しました。父は、電子デバイスの分野で有名な独立系商社の2代目社長でずっと経営に携わっていました。その父から、「何を言っているんだ。今はまだ会社のコストでしかないのだから、3年間は辞めずにご奉公しろ!」と、こっぴどく叱られました。そこで、トータルで3年半シャープに勤めてから退職しました。 その後、4ヶ月ほど次に何をするかを検討しました。元々経営に興味があったので、若くして経営に携われるコンサルティング業界に興味を持ちました。当時、コンサルタントとして有名だったのが、大前研一さんと堀紘一さんの2人。長く名が通っている方は、コンサルとして学ぶことがたくさんあるだろうと考え、門を叩こうと決めました。しかし、大前さんはすでにマッキンゼーを退職し、個人で仕事をされていたので、働かせてもらうのは難しいと判断しました。一方で、堀さんはボストンコンサルティンググループを退職し、ベンチャー企業を支援する会社(ドリームインキュベータ)を作ってメディアにも出られているタイミングでした。そこで、まだ創業2年目のドリームインキュベータに応募してなんとか採用してもらいました。 最低評価を受けたドリームインキュベータでの1年目 「ドリームインキュベータは優秀な人材の宝庫ですが、どのような事業を行っている会社でしょうか。また、宮宗さんはどういった仕事をされてきたのでしょうか。」 ドリームインキュベータは、創業期から大企業のコンサルティングで得たキャッシュをスタートアップに投資する事業をしていました。当時の組織は、バックオフィスの方を含めて40名くらい。経営陣、マネージャー、担当者のシンプルな3層構造の組織でした。MBAホルダーが多い中、私は他業界からの全くの未経験での入社でしたが、大企業のコンサルとスタートアップ投資の両方を担当することになりました。入社して早々に、あるベンチャー企業の社長プロジェクトでプレゼンをすることになったことは今でも鮮明に覚えています。1年目は右も左もわからず、全く仕事ができず、人事評価は最低ランクでした。そこから、必死に苦労して少しずつ仕事をマスターしていきました。 17名中10名が上場した勉強会 「その後、起業家との勉強会を主催され、参加メンバー17名中10名が上場するという素晴らしい成果を出していますが、開催に至った背景と目的、勉強会の内容について教えてください。」 起業家の勉強会は、私が最低評価を抜け出し、マネージャーに昇格した後の2006年にスタートさせました。自分でスタートアップの案件を発掘して、出資することができるようになった時期でした。 スタートアップと関わる中で、仕事には繋がらなかったとしても、未来を担う社長の皆様たちとの接点が切れてしまうのは残念だと感じることがありました。そこで、若手メンバーと学びたい経営者を集めて経験や苦労を話し合う機会となる勉強会を2人でスタートしました。今のようにSNSで採用や評価、事業拡大、IPOなどの情報を探すことが難しい時代でしたから、参加者も我々も多くのことを学びました。例えば、「上場したらIRはどうするのか」、「ストックオプションを付与した人が退職したときにはどのように会社の組織を維持するのか」など、議題を設定して話し合いました。この会で孫正義さんにもお会いしています。その後この勉強会からどんどん上場する起業家が出てきて、私自身もよい刺激とインプットをいただくことができました。 大切なことはすべてお客様から学んだ 「19年間にわたりドリームインキュベータで活躍しますが、そこで経験したことや学んだことを教えてください。」 スキル面はもちろんマインド面もすべてお客様から学びました。例えばM&Aについて、お客様の社長室長と投資銀行部門のトップの方からレクチャーしていただく機会をいただいたこともありました。「会社がどういう観点で買収案件を確認して、経営会議を通しているかを教えるから」と声をかけていただき、課題になる点も教わり、コンサルタントとして適切な対応をすることができました。 また、あるときは「逃げずにやり切る」ということを教わりました。上場直前までいっていたお客様がいらっしゃったのですが、監査を担当していた監査法人が解散してしまうというトラブルに見舞われました。その前後で、ライブドア・ショックやリーマンショックで景気が低迷し、資金繰りも悪化してしまい、結局上場ができなくなってしまいました。このままだと会社としての存続が難しくなってしまうということもあり、私が担当するよりも、創業者である堀さんや二代目社長に担当をした方が良い支援ができるのではと思い、担当変更を申し出たところ、そのような局面にもかかわらず社長は「私は君に頼んでいるんだ」と言ってくださったのです。 この言葉に私は奮起し、様々な企業を紹介することでなんとかその企業が持ちこたえるための支援に奔走しました。その後結局私の紹介ではなく、その社長ご自身のネットワークでつながった上場会社の100%子会社になることで、なんとか事なきを得ることとなりました。この社長の方からは、厳しい経営状況の中でのトップとしての姿勢を学びました。そこから15年ほど経っていますが、年に2回お食事の機会をいただき、様々なインプットをいただいています。このような経験を基に「逃げずにやり切る」ということは、私の軸の一つになったと思います。 上記のようなスタープレイヤーの方々の影響を受けて、必死に仕事をしていく中で、力がついていったという感覚です。私は、若いときの苦労は買ってでもしておいた方が良いと考えています。そうでないとリーダーにはなれない。また苦労した経験は絶対に後で活きます。ただ、今の時代には、ブラックな働き方といわれてもおかしくないので、誰にでもお勧めできることではないです。なんでも費用対効果が高い方やショートカットする方法を重視する方もお見受けしますが、それが仇となることもあるのではないかと思います。
#コンサルタント
株式会社パワーエックス
執行役CFO 藤田 利之 氏

心に火が灯り挑戦したベンチャーのCFO 事業会社やFASでの知見が結実した成功への道

苦しかった事業会社での経験 「公認会計士を目指したのはいつ頃からですか。それはなぜですか。」 高校2年生の時です。私は、小さいころから父から「理系の大学に進学したほうがいい」「手に職をつけたほうがいい」と言われてきました。私自身も数学が好きだったので、理系に進もうと考えていたのですが、高校2年生で文理選択をする際に、理系でやりたいことが見出せず悩みました。そんな時に、書店で見つけた資格の本に、公認会計士について書かれていました。当時は勝手に「企業のドクター」のようなイメージを感じ、数学的な要素や経営的な要素があり、面白そうな仕事だと感じました。また、性格的に学校の先生や先輩との上下関係がそこまでうまくやれるタイプではなかったので、当時から大きな組織で出世していくサラリーマンは向いていないと思っていましたので、独立できる資格ということも魅力に思えました。父にも「理系には進まないけれど、資格取得をして手に職をつけたいと思っている」と話をし、会計士を目指すことにしたのです。 その後、大学に進学し、大学2年生から勉強をスタートしました。最初はなかなか勉強に身が入らず、結局合格したのは卒業して2年目なので、受験勉強に4年半くらいかかり、資格の取得にはかなり苦労しました。当時は、大学入学時がまだバブルと呼ばれた好景気な社会で、世の中も大学も浮かれており、就職に苦労するという雰囲気ではありませんでした。しかし、大学3年生頃にバブルが崩壊し、社会が一変し、大学4年時には、友人が就職で苦労するのを見て、今から就職活動をしてもすでに難しいと感じました。私は、そこでやっと「会計士に受かるしかない」と覚悟を決めることができました。その後、やっと合格しますが、バブルは崩壊しており、合格者であっても半数が監査法人に就職ができないという年でもあり、今度は就職の苦労が始まりました。 「それで、監査法人に入所せず事業会社に就職したのでしょうか。」 景気悪化に伴い監査法人での採用人数がそもそも少なく、どこにも受かりませんでした。とにかく早く働いて稼ぎたいとの思いで、ソニー・ミュージックエンターテインメントに中途入社し、グループ人事の一環で、キャラクターグッズのライセンスビジネスや化粧品ビジネスを行っていた子会社のソニークリエイティブプロダクツという会社の経理に配属になりました。事業会社でサラリーマンになりたくない、と思って、会計士の勉強を始めたはずなのに、結局、最初は事業会社に就職するということになりました。 やっと得た仕事ですが、社会人経験が全くないまま中途入社したので、そのあと地獄のように大変でした。会社の人からは、「会計士試験に受かったすごい人が入社してきた」と思われていたようですが、私は名刺の渡し方、電話の取り方も知りません。愚痴る同期もいません。期待に全く応えられず、会計士試験に合格したプライドは一気に崩れ、毎日遅くまで残業し、土日も出勤と地獄の日々を送ることになりました。 「そこで経験されたピンチや苦労について教えてください。」 新人なので、電話を取ったり、お茶を出したり、お弁当を買いに行ったり、請求書を封筒に入れたり、大量の伝票の仕訳をしたり、という仕事をしながらも、会計士2次試験合格者の期待として監査法人の対応をしたり、取締役会の資料を作ったりという業務も任されていました。しかし、会計士2次試験合格者とはいっても、仕事自体が初めてで、仕訳を切った実務経験もありませんし、取締役会の資料と言われてもイメージが湧きませんでした。しかも、ソニーの連結孫会社だったので連結決算のため、毎月の月次決算スケジュールはタイトで、キャパオーバーが続き、ミスを連発しました。自身の力不足も相まって上司ではなく、先輩や同僚からも怒られることも多々ありました。入社して半年で10kg痩せました。 加えて、一般事業会社なので、監査法人と違って補習所に行くシステムもありませんでした。試験の日とディスカッションの日だけは、なんとか半日の有給を取って、ギリギリ単位を取りました。会計士2次試験に苦労して合格し、就職に苦労し、そして最初の職場でもかなり辛い日々が続きました。まだ、独立できる公認会計士になれるイメージもわかず、日々の仕事に追われる日々でした。 営業から契約締結まで担当したトーマツでの経験 「1年ほど勤めた後に、退職して、監査法人トーマツの静岡事務所に入所されています。それはなぜですか。」 事業会社での1年間で疲れ果て、また、初心に戻って会計士としての監査の経験をし、独立を目指すために地元の静岡県に帰ろうと思ったからです。1年早く合格した大学時代の友人がトーマツの静岡事務所で働いていて、その友人から所長を紹介してもらい、即入社が決まりました。 「静岡事務所ならではの得難い経験があったと思いますが、具体的にはどんな経験やスキルを習得することができたと思いますか。」 当時のトーマツの静岡事務所は、出張所のような位置付けから事務所に格上げされてそれほど立っておらず、所長も40歳前半で若いメンバーの事務所でした。監査法人において、通常は、営業はパートナーしか担いませんが、静岡事務所では、事業規模の拡大のために営業研修があり、スタッフから営業マインドを植え付けられました。私が在籍した際には、スタッフからシニアスタッフに昇進するためには、クリアしなければならない営業ノルマがありました。当時、ちょうと東証マザーズやナスダックジャパンが設立され、IPOを目指す会社が増える傾向にありました。そこで、問い合わせがあった会社に対して、ショートレビューをして課題を抽出し、レポートを書いて、提案をして、コンサル契約あるいは監査契約を結んでといったように案件を獲得しました。 ここで、前職での経理の実務経験が非常に活き、成長に向けた体制整備の案件を数件獲得でき、月に何回か訪問し、月次制度を整えたり、内部の仕組み作ったりしていきました。トーマツの静岡事務所は、約4年間と短い期間でしたが、地方事務所のおかげで、かかわる業種も幅広く、早期に現場のインチャージも経験でき、加えて、営業から監査やコンサルまで、様々ななことを経験させていただきました。今思えば、非常にいい経験だったと思いますが、当時はとにかく忙しかったことを覚えています。 「監査法人というよりベンチャー企業のようなイメージですね。」 監査法人の中では、伸び盛りの地方事務所で、かつ、顧客もベンチャー企業も多かったので、まさにベンチャー企業のような事務所でした。ただ、私自身は、入社当時は、ベンチャー企業のような環境で働きたいと思っていたわけでもなく、同期の合格者から1年遅れてトーマツに入社したので、懸命に業務に打ち込むことで早く、試験合格の同期に追いつきたい、との思いだけでがむしゃらにやっていただけでした。ただ、それがベンチャー企業の参画に繋がった部分もあるかもしれません。
#コンサルタント
株式会社東京通信グループ
取締役執行役員CFO 赤堀 政彦 氏

27歳でCFOにチャレンジ!関わる企業とともに成長し、挑戦を続けた先に見えた経営の醍醐味とは

新卒にして企業買収や業務提携を担当 「大学卒業後、シーエー・モバイル(現:CAM)に入社します。この選択が赤堀さんのその後のキャリアを決定づけたと言っても過言ではない気がしています。なぜシーエー・モバイルを選んだのですか。」 将来のキャリアを鑑み、企業買収に関するアドバイザリーやコンサルティングの仕事を探していました。アドバイザーという外部の立ち位置で探していましたが、シーエー・モバイルから自社の企業買収や事業提携の担当者というポジションで採用いただきました。結果的には、外部のアドバイザーとしてではなく、内部で意思決定に関与できる立ち位置に関心を持って入社を決めました。シーエー・モバイルでの日々により、たくさんの失敗をしながら経験値を増やすということが、私のスタイルになりました。当時はあまり失敗ばかりしたくないと思っていましたが。 27才で投資先のCFOにチャレンジ その後セレンディップ・コンサルティングに入社しました。入社前から様々なコンサルティング業務を経験できることは説明を受けていました。2年程はM&Aに関連したアドバイスをしたり、中期経営計画や人事制度を構築したりと様々な業務に従事しました。その後、セレンディップ・コンサルティング自身が企業に投資をするという方針変更を実施しました。 「それをきっかけに、27歳の時に投資先の取締役管理部長に就任されるのですね。これは自ら希望したのですか。また、不安はありませんでしたか。」 自分から希望しました。今から考えるとかなり無謀な挑戦だと思います。無知だからこそ手を挙げられたのでしょうね。最初は売上60億円、従業員は1,500人ほどのベーカリーを中心とした食品製造小売販売業の取締役管理部長、いわゆるCFOをしました。借入金が大きく、赤字も数億円と業績が良くない会社だったため、当時は候補者があまりいなかったのかもしれません。それならば、自分がやってみようと決意しました。 「初めての経験ですよね。」 何も分からないところからのスタートです。プロジェクトベースのものであればまだイメージができますが、経理実務はさっぱり分かりません。仕訳の切り方も給与計算も分からず、「承認のルートとは何ですか?」という状態からスタートしたので、業務を進めながら勉強していきました。 「実務的な問題だけでなく、人のマネジメントも大変だったのではないでしょうか。」 そうですね。当時は、がむしゃらにやっているだけで、周りが見えておらず、性格もきつかったと思います。「なんとしても黒字にしないと、この会社は潰れてしまう。社員のみんなを路頭に迷わせるわけにはいかない」と思っていました。それが正しいと信じていました。今振り返ると、もっとやりようはあったのでではないかと思いますが。 売上を失った失敗経験 「こちらでの失敗の経験があれば教えてください」 大きく売上を失ってしまったことがあります。あるスーパーマーケットチェーンにベーカリーショップを出店していたのですが、店の老朽化などの影響で売上が思わしくなかったため、賃料の交渉をしました。あまりにも赤字が大きく交渉しすぎてしまい、GMS側の役員と部長から「全店舗から出ていってくれ」と言われてしまい、億円単位で売上を失うことになってしまいました。そのGMSに出店している店舗は赤字だったので閉店させた方が良かったのですが、閉店するにもコストがかかりますし、働いている人たちをどうするのかといった問題が生じました。今振り返るともっと上手い交渉の仕方はあったと思います。 「食品製造小売販売業でのCFOの経験は、ある意味では再生案件ですよね。再生案件は難しいので、一般的には経験豊富な方がCFOとして入っていくケースが多いです。赤堀さんはそれを27歳という若さで経験された。振り返ってみて、どのような経験になりましたか。」 当時は上司に言われたことを本当にがむしゃらにしていただけです。たまたま上司に恵まれていて、たまたまやったことが上手くいった。上司は狙ってやっていたそうですが、それすら当時の私には分かりませんでした。だた、本当に良い経験をさせてもらいました。 「さらに、30歳でセレンディップ・コンサルティング本体で取締役管理部門管掌という管理のトップを任されます。不安はありませんでしたか。」 当時は、がむしゃらすぎて不安を感じている暇すらなかったのですが、今考えると不安しかなかったですね。また、能力的にも不足していたので、経験を重ねて乗り越えましたが、上司が僕に時間を惜しみなくかけてくださったことも大きかったです。ただ、当時はそんなことにも気付けてはいませんでした。色々な人に迷惑をかけながらも、結果的には資金調達ができて、企業買収・M&Aもできました。 一方で、このCFO経験は、僕の中に悩みや葛藤を生みました。自分が理想とするCFO像と自分とのギャップがあまりに大きいことを認識しました。そもそも「CFOの仕事とは何か」といったことが、きちんと腹落ちできていなかったのです。人の言葉を聞いたり、本を読んだりしてもしっくりこない。しっくりこないまま進めていました。 「その当時は分からないにしても、今振り返るとどういうことをすればより上手くいったと思いますか。」 当時、上司から「考える時間を作りなさい」とよく言われていました。当時はピンときませんでしたが、今はそういう時間をとるようにしています。世の中に溢れている答えのないことに対して考えを巡らせる時間をとることが必要だったのではないかと思います。
#コンサルタント
株式会社ジオコード
専務取締役CFO 吉田 知史 氏

ダイナミックに挑戦し、積み上げた多様な経験を、2度のベンチャーIPOに活かす

経営が身近にあった幼少期 「吉田さんはどのような環境で育ったのですか。」 私は、かつて鋳物の街として栄えていた埼玉県の川口市出身で、実家は鋳物工場を営んでいました。年輩の方は、吉永小百合さんが主演され、川口が舞台の『キューポラのある街』という映画を思い出すかもしれません。自宅は会社の事務所と併設で、道路を挟んで向かいに工場がある。工場では、週に2回ほど「吹き」といって鉄を溶かして鋳型に流し込む作業をしていてすごく熱くなるので、夏場はひと仕事終えた職人さん達と一緒にアイスクリームを食べるといった環境で育ちました。私は長男でしたので、小さな頃から祖父に「鋳物屋を継いでほしい」と言われて育ちました。経営が身近にあったという幼少期の原体験は、その後の意思決定に大きな影響を及ぼしていると思います。 「家業に関連する大学・学部を選択されたのでしょうか。」 ずっと家業を継ぐつもりでしたので、関連分野となるセラミックス等の新素材からバイオテクノロジーまで幅広く学ぶことができる、京都大学工学部工業化学科に進学しました。その後進んだ大学院(工学研究科分子工学専攻)では、学問的興味から家業とは関係ない量子化学を専攻しておりました。ただ、その頃になると地元の川口もかつて工場で賑わった下町の工業地帯から大分変貌を遂げ、工場の跡地にタワーマンションが建つなど都市化しはじめていて、もはや家業を継ぐことは難しいかもしれないと思うようになっていました。 そこで、将来の目標にできることは何かないかと模索を始めた時、ふらっと立ち寄った大学生協の書店で手に取った冊子に、中学・高校時代の陸上部の先輩の公認会計士試験合格体験談が掲載されているのを見つけたんです。そこから会計士を意識するようになりました。意識し出すと、実家にもよく会計士が来ていたことを思い出したり、中学・高校時代の同級生に会計士になっている人が何名かいたりして、さらに身近に感じるようになっていきました。早速先ほどの先輩に連絡をとって、京都から東京のトーマツの職場を見学しに行き、そこで「会計士の道に進もう」と思うようになったのです。一度そう思うとすぐに行動したくなり、大学院はいったん休学して会計士の勉強をスタートさせることにしました。 相性が悪かった会計士試験と社会科見学!? 「会計士試験の勉強はどう進めていきましたか。」 資格の学校に入って勉強をスタートしたのですが、会計士試験との相性が非常に悪くて、なかなか合格できませんでした。私は、コテコテの理系人間なので、理屈なく暗記するタイプの学習が全く合わなかったのです。三角関数でいえば、テストの場で加法定理からスタートして他の定理を導き出してから答えを出すというように。ですから、全体構造が見えない中で、専門学校の授業で「ここは暗記してください」と言われてもどうしてもできなくて、私だけ落ちこぼれていきました。例えば、会社法の定義の中に「有機的一体」という用語が出てきた時は、いったいこの先生は有機化学と無機化学を本質的に理解しているのだろうかなどと考えてしまって、全く定義が頭に入ってきませんでした(苦笑)。 「そこで、会計士試験から一時的に撤退して、コンサルティング会社に入社されるんですよね。」 会計士試験の勉強をしてみて全く才能がないと思い知らされたので、会計士への道は残しながらも、まずは社会人を経験しておこうと思い、現在のアビームコンサルティング㈱の前身であるTTRC(等松・トウシュ・ロスコンサルティング㈱)の第二新卒の中途採用に応募しました。コンサルティングが何をするのかすらよくわかっていませんでしたが、漠然と「面白そうだ」と思ったのです。運よく入社試験が、数的理解のような内容で全て解くことができ、50人中2人の枠に滑り込むことができました。 「その後、会計士試験の勉強を再開しますが、きっかけはどんなことだったのでしょうか。」 TTRCは、名称にもある通り、トーマツの子会社としてスタートした会社でしたので、トーマツから会計士や会計士補の方たちが出向してくるわけです。会計士の方たちと多く接すると、やはり会計士の資格を取らないと後悔すると改めて思うようになり、もう一度会計士試験にチャレンジすることにしました。TTRCでは、いきなり放送局のビッグプロジェクトに投入されたり、ハードな日々の連続でしたが、今振り返ると、社会人経験ともいえない、社会科見学のようなものでした(笑)。その後も、会計士試験には全く合格できなくて苦労しました。特に短答式試験では、複数の記述から、正しい記述の個数を選ぶ問題があったのですが、余計なことを考えすぎて、だいたい1つ個数がズレてしまうといった感じで、引き続き落ちこぼれていました。 「根本から考える傾向は頭のいい人の特徴ではないですか。」 いえいえ、私は、頭は良くないと思います。ただ、少し話は逸れますが、論理だけではなくて、直感のようなものも大切にしたいとは思っています。京大出身で有名な数学者である岡潔先生は、数学の問題を解く前に、情緒を大切にするために、お香を焚いていたらしいです。量子化学の分野でノーベル化学賞を受賞された福井謙一先生も自然を観察する中で育まれる直感を大切にすべきであるとおっしゃっています。使い勝手の良い論理をうまく使いながら、人間の根本にあるもの、醸し出してくるものも大切にする。この両方のバランスが大事なんだと思います。 2年目で頭角を現したオールドルーキー 「苦労して会計士になり、あずさ監査法人(当時の朝日監査法人)に入所されます。監査法人での仕事について今につながるようにエピソードがありましたら教えてください。」 当時の朝日監査法人には、5つの国内事業部と海外企業を担当するアンダーセンの合計6つの事業部がありました。日本の大手企業にアサインされる国内事業部には、主に若手で前途有望な人達が入るので、私のようなオールドルーキーは、アンダーセンに配属となりました。こちらは、英語ができる優秀な人とその他の人を引き受ける感じでした。私はもちろんその他の人。そこで、今でいう東証スタンダート市場の中・小型株の会社にアサインされました。監査は、端的に言えば、財務諸表上の数字が、会計基準に準拠して適正に処理されたうえで、適切に表示されているかについて保証をする業務です。その検証プロセスはまさにツリー構造で、一つひとつのファクトを積み上げて監査要点を証明し、最終的な監査意見を形成していくといったものです。したがって非常にロジカルで、理系の研究や実験と同じ発想なので、会計士試験とは裏腹に監査実務は私に非常に合っていると感じました。 「小さめの会社の方が、全体像が見えてよかったかもしれませんね。」 すごくラッキーだったと思います。小さい会社だと全体を俯瞰して見られます。会社がどう動いているかが見えるようになったので、2年目からは大手企業の子会社のインチャージを任せてもらえるようになりました。現在は、2社目のベンチャー企業にいますが、当時のこの経験がとても役立っています。
#コンサルタント
株式会社アドバンテッジパートナーズ
パートナー 早川 裕 氏

PEファンドのパートナーから見た「魅力的なCFO」 成功するCFOの素養とは?

PEファンドに入社するまで 「アドバンテッジパートナーズで活躍されている早川さんですが、現在に至るまでの経歴を教えてください。」 私のキャリアは少し変わっているかもしれません。大学ではロボット工学を学び、独立系のシンクタンクに就職しました。当時、理系はそのまま大学院に進むか、大学の推薦で大手のメーカーに就職するケースが多かったと記憶しています。シンクタンクでは、原子力エネルギーに関する各国の安全規制動向の調査や事故事例の調査分析などを担当しました。エネルギー政策の分野は、技術だけでなく、政治も経済も、社会心理学だって絡んできます。次第に、そういった学問を多面的に学び、さまざまな事象を理解したいと思うようになったのです。そして、理系と文系をまたいで勉強ができるアメリカのカーネギーメロン大学の大学院に進学することにしました。シンクタンクで働き始めて4年目のことでした。 大学院では技術政策を学び、その分野で博士号を取得しました。そのままアメリカでアカデミアのキャリアを目指していましたが、コンサルティング会社のマッキンゼーから声をかけていただき経営コンサルタントの世界に入りました。マッキンゼーでは主に製造業やハイテク企業に対するコンサルティングプロジェクトに参加していましたが、キャリアの後半になると、PEファンドから依頼を受けて、事業会社の事業デューデリジェンス(DD)の仕事が増えていきました。株主の視点でも経営に関与できるPEファンドの仕事に興味を持つようになり、すでにマッキンゼーの先輩や同僚が活躍していたアドバンテッジパートナーズに2008年に転職することにしたのです。8年間勤務したマッキンゼーを退職しました。アドバンテッジパートナーズには主に投資先の企業価値向上プロジェクトを担当する役割で入社しましたが、2015年頃からは投資全体に関与するようになりました。当時も今も私が担当する投資先企業は製造業が中心です。 「組織で勝つ」という意識の強さが特徴 「アドバンテッジパートナーズは日本のPEファンドを牽引してきた独立系の大手投資ファンドですが、どのような特徴を持った会社でしょうか。」 日本で一番古いPEファンドの一つで、社員数も投資件数も多いので、業界のリーダーであるという自負があります。特徴としては、経営支援に重きを置くという姿勢を持っていることが挙げられます。経営管理の強化やコスト削減活動に加え、売上拡大など成長支援の取り組みを大切にしています。事業モデルの変革も必要あれば積極的に行います。売上拡大は、コスト削減よりも難易度が高いと思います。どうやって営業活動を活性化させるか。新たなお客様をどう開拓するか。値段をどう適正化するか。デジタルを使ったマーケティングや営業をどう進めていくか。あれやこれやと会社の方と議論させていただきます。事業モデルの変革とは、例えば、製品の売り切りモデルからサービスも含めたリカーリングモデルへ転換していくといったことが挙げられます。 PEファンドは金融機関に分類されると思いますが、我々はコンサルティング会社のような性質を持っていることも特徴の1つです。つまり、「組織で勝つ」という意識が高いです。自分の案件を担当することで成長するということだけではなく、社内で実施される組織横断的な活動への貢献も求めています。各案件で得た経験や知見を社内で共有し、それをまた別のメンバーが担当の投資先で活用する。どんなに優秀な人でも、1人のインプットとアウトプットの量には限界がありますので、組織で勝っていくことが重要だと思っています。さまざまなバックグラウンドを持ったメンバーが集まっていることも特徴です。シニアメンバーはコンサルティング会社出身が多いですが、組織全体としては、投資銀行出身者、FAS出身者、VC出身者など多様です。案件を多面的な視点で成功に導くということが大事ですが、各個人のスキルアップの観点でも異なるバックグラウンドを持っている者が集まっていることは重要です。近年ではプロフェッショナルメンバーの女性比率も高まっています。 投資の3つのポリシー 「これまでの投資対象と投資実績を可能な範囲でご説明ください。」 アドバンテッジパートナーズとしては、多様な業種業態に投資をしてきました。中でも、消費財、小売りやサービス業界が多く、例えば、クラシエや牛角、成城石井、コメダ珈琲、石井スポーツ、やる気スイッチ、キューサイなどが挙げられます。上場企業投資チームの方は、フジオフードシステムや物語コーポレーション、ルネサンスへの投資・経営支援などの実績があります。 「その中で、早川さんはこれまで特にどのような業種・規模感の会社に投資してきたのでしょうか。」 私自身の投資経験は、これまでの専門性が生きる領域ということもあり、ハイテクや製造業の企業が中心です。具体的には、自動車関連部品、厨房機器、産業機器や電子部品・デバイス、機械、プラスティック成形などです。投資担当先の規模感は、現在投資中の会社に限ると小さい方は売上100億円程度、大きい会社の場合には1000億円弱といったところです。 「早川さんの投資スタンスについてもお聞かせください。」 私が大事にしているポイントは3つです。1つは、技術でもサービスでも品質でも良いのですが、他社に真似されない、その会社にしかない要素があるかということです。私はいつも、「なぜこの会社はお客様から注文がもらえるのか? なぜ他社ではなくてこの会社なのか?」を理解するように心がけています。その理由を突き詰めた時に、この会社にしかない要素があり、だからこの会社に発注せざるを得ないということが見えてくれば、この会社には競争優位があると判断します。また、その競争優位を生み出すリーダーシップや組織能力も理解したいと思っています。 もう1つは、詳細な顧客セグメンテーションをして、市場を絞った上でのシェアが高いことです。性別や年齢などの在り来りなセグメンテーションではなく、できる限り詳細に分解されたセグメンテーションでのシェアを重視しています。マクロでみると世界シェア一桁%の会社も、サブセグメントで見るとシェア50%ということがあります。そして、なぜシェアを取れているかには必ず理由があります。その理由は、他社に真似できない要素を持っているということに行き着くので、1つ目のポイントと同義といえば同義なのですが、この観点も大切にしています。 そして最後に、その市場、特にその会社が属するサブセグメントは成長するか、という点も検証します。 「投資を決める際に、前職のマッキンゼーのようなコンサルティング会社にも入ってもらうことはありましたか?」 事業DDをコンサルティング会社に支援いただくことはよくあります。私も実際コンサルティング会社ではDDプロジェクトに関与しておりました。PEファンドの立場として大事なのは、コンサルティング会社に事業DDをお任せしてしまうのではなく、この観点で検証してほしいという、論点を明確にすることと考えています。5年間という投資期間もしっかり意識してもらうことも重要なポイントとなります。投資直後の100日計画の作成や実行、投資後しばらくしてからも特定の課題があって会社の方々だけでは解決が難しいと考えれば、コンサルティング会社の支援を仰ぐことは良くあります。
#コンサルタント
石橋 善一郎 氏

【前編】FP&Aプロフェッショナルが目指したCFOへのキャリア。そして、その先に見えた自身の役割とは

FP&AプロフェッショナルとしてCFOを目指す 現在は、「CFOのその後のキャリア」として、職業人団体や会計大学院・経営大学院でCFOを目指すプロフェッショナルへの啓蒙および教育活動をなさっている石橋さん。現在に至るまでのご経歴を時系列で伺います。 「大学卒業後、富士通に入社していますが、いつ頃からCFOという職業を意識したのですか。」 私は、1982年に富士通に入社して、経理部でも財務部でもなく、海外子会社の事業を管理する海外事業管理部に配属されました。1980年代の日本において、CFOという概念はほとんどありませんでしたので、国内勤務の3年間は、経理や財務のスキルを使って事業管理を行う経営管理業務が自身の仕事だと認識していました。4年目にシリコンバレーにある富士通アメリカへ駐在となります。ここでも、電算機、通信機、半導体などの製品事業部レベルの富士通アメリカの子会社(富士通の孫会社)の事業管理をしていました。この時に初めて、CFOという職業に出会います。各子会社に米国人のCEOとCFOがセットで配置されていました。彼らと仕事をする中で、CFOの仕事とは、経理や財務だけでなく、むしろ最もメインの業務である事業管理や経営管理を行うFP&Aという仕事であるということを知りました。当時はCFOになりたいという思いは抱いていませんでしたが、振り返ると、ここで出会ったCFOの方々が後の私のロールモデルの1つとなりました。 「FP&Aについて、簡単にご説明をお願いします。」 FP&Aの定義は誰に伝えるかが大事なので、日本企業の子会社で事業管理をしていた20代の私自身に向けた説明をします。FP&Aとは、本社レベルではなく事業部レベル(工場や営業所や研究所や子会社や海外子会社をイメージしてください)で、事業戦略の形成・実行の当事者としてビジネスパートナーになり、中長期的に事業価値を成長させることです。そして、そのためには、事業と事業戦略を理解すること、事業部のことを理解すること、事業部の人々と仕事上の関係を構築することの3点が大切です。FP&Aを構成する主要な要素は、FP&Aプロセス、FP&A組織、FP&AプロフェッショナルおよびFP&Aテクノロジーの4つです。もっと詳しく知りたい方は、拙著『CFOとFP&A』と『FP&A入門』(いずれも中央経済社)を参考にしてください。グローバル企業においてFP&A組織は、CFO組織の真ん中に存在します。 日本でのキャリアに夢を描けずMBA取得へ ・その後、スタンフォード大学に留学された理由を教えてください。 富士通アメリカで3年働いた後、自分が日本本社に戻るイメージが持てませんでした。正直なところ、日本企業におけるサラリーマンの働き方やキャリアにあまり夢がないなと思ったのです。そこでMBAを取得しようと決意しました。当時はMBA取得後に何をするかのイメージはなく、CFOに就くことも意識していませんでした。ただ、MBAが何かになるためのステップになるのではないかと思ったのです。そして、どうせ学ぶのであれば、最高のビジネススクールがよいと考え、スタンフォード大学のビジネススクールに入学しました。MBA課程では、1年目は、戦略論やマーケティング、統計学、ファイナンスなど経営学全般を学びました。2年目の選択科目は管理会計や企業財務関連の科目を中心に履修しました。MBAで学んだことは、FP&Aプロフェッショナルとして真のビジネスパートナーとなることの基盤になりました。現在、会計大学院・経営大学院で教えていることも、ここで学んだことの延長線にあります。 「目指すべきはCFO」と気づいた経営コンサルタントとしての経験 「その後、経営コンサルタントになっていますね。」 MBA取得後は戦略コンサルティング会社で経営コンサルタントとして働くことにしました。ただ、1年ほど働いて、自分のやりたいことではないと気がつき、退職しました。経営コンサルタントは組織の外から経営者をサポートする仕事。私は企業の中で直接、経営に関わりたかったのです。キャリア選択の際に私が大切にしてきたことは3つあります。1つ目は、「自分はその仕事が好きか、嫌いか」ということです。私は、スタンフォード大学経営大学院での学びと会計や財務の知識を活かした業務に携わりたいと考えていましたが、公認会計士のように監査法人で働きたいわけではなく、企業内で事業に関わりたいと思っていました。 2つ目が、「その仕事は自分に向いているか、いないか」ということです。私は数字を扱って客観的に説明することが得意なので、それに関わる仕事がしたいと考えていました。3つ目は、「その仕事からの経験と自己学習を積み重ねることによって、長期間においてプロフェッショナルとして成長を継続することができるか」ということです。経営コンサルタントの仕事に携わる中で、「グローバル企業においてCFOはCEOのビジネスパートナーとしてFP&Aの仕事をしていた。もしかしたら、CFOという仕事こそが、私が好きで、得意で、将来の自分にリターンがある仕事かもしれない」と思うようになったのです。 インテルへ入社し、真のCFO組織に出会う CFOを目指すならば、どこの企業がいいのかを考えました。当時は日本企業にCFOという役職が存在しませんでしたので、外資系企業で働くしかないと思いました。そこで、当時シリコンバレーで人気があった、Intel、Microsoft、Apple、Sun MicrosystemsなどのIT企業の日本法人数社に、「私は将来CFOになりたいです。ただ、まだマネージャーにもなったことがありません。CFO組織のマネージャーとして入社させてください」とレジュメを書いて送りました。その中から、インテル日本法人のカナダ人の社長が、「1回お会いしましょう」と返事をしてくださり、東京本社で面接をすることになったのです。 当時、インテルの日本法人には、20名ほどのCFO組織があり、経理、財務、FP&Aの3つのセクションがありました。すでにマネージャーがいらしたので、新設のセクションを作ってもらい、マネージャーとして入社しました。その後、FP&Aセクションのマネージャーが退職されたので、FP&Aセクションのマネージャーになりました。 「その頃のCFOのロールモデルはいたのでしょうか。」 インテルには、米国本社に本社CFO、その下に米国、欧州、日本およびアジアの4つの地域にも4人の地域CFOがいました。日本法人のCFOは本社CFOの直属の部下でした。インテルのCFO組織は風通しが良く、全世界のCFO組織のメンバー全員がチームになっていました。つまり、インテル日本法人に入社した瞬間に、グローバル企業のCFO組織が見えるようになったのです。私にとっては、CFOになるための役割を学ぶことができる多くのロールモデルの方々と出会うことができる組織でした。 さらに、経理組織、財務組織とFP&A組織の関係性もよく分かりました。 言い換えるならば、FP&Aプロフェッショナルは、CFOになるための一丁目一番地にあるということが見えてきたのです。私には、ずっとFP&A組織のリーダーでいたいという思いがありました。本質的には、FP&Aは経営管理であり、CEOが担うべきものです。経営者として最終的にはCEOに就きたいと思っていましたが、そのステップとして、CEOのビジネスパートナーのCFOとして経営に関与したいと思うようになったのです。インテルに入社して、CFOを目指すFP&Aプロフェッショナルとしてのキャリアへの思いを再認識しました。