COLUMNコラム

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#M&A
グリー株式会社
取締役CFO 大矢 俊樹 氏

多様な企業のCFOを経験して見えた地平 その魅力や求められるCEOとの関係性とは?

ソフトバンクの勢いに衝撃を受けSBIへ転職 「大学3年生で公認会計士に合格していますが、いつ頃から会計士を目指していたのでしょうか。また、その理由を教えてください。」 大学1年生の途中から会計士を目指すようになりました。「手に職を付けておきたい」と考えていたところ、在学していた慶應義塾大学では会計士を目指す人が多かったので自然な流れで選びました。 「卒業後、大手監査法人のトーマツに入所されています。どのようなことを担当されましたか。」 主に会計監査を担当しました。この時期に、メーカーや小売、卸売、商社、銀行、保険会社などさまざまな業種・業態を見ることができました。会計監査に加えて、IPO支援やコンサルティング、バリュエーション、M&Aの調査などを幅広く担当させていただきました。 「7年間トーマツに在籍し転職していますが、そのきっかけは何だったのですか。また、そのまま残ってパートナーになる道は考えなかったのですか。」 もともと監査法人にずっといることは考えておらず、ある程度の経験を積んだら違う道に進みたいと思っていました。例えば、税理事務所を開業することや事業会社への転職などさまざまな道を検討していました。1999〜2000年当時は、インターネットが盛り上がっており、マザーズやナスダック・ジャパンが創設された時代です。特にソフトバンクの勢いがすごく、孫(正義)さんがナスダック・ジャパンを作った時に、「証券市場を作ることなんてできるのか!」と衝撃を受けました。それが決め手となって、ソフトバンクの関連会社であったソフトバンク・インベストメント(現:SBIホールディングス)に転職することにしたのです。 キャリアの基礎となったSBI 「監査法人と異質の世界に転職して戸惑いはありませんでしたか。」 ありました。監査法人はクライアントからは先生のような扱いを受けます。また、社内においてもプロジェクト単位で仕事をするため、直接的な上司がおらず、みんなが資格を持っているので、新人でもリスペクトされるような文化でした。一方で、SBIは、北尾(吉孝)さんの会社なので、野村證券出身の方が多く、野村證券の雰囲気が多少なりともあると感じました。野村證券は「投資先を見つけてくるまで帰ってくるな」と言われるというイメージがありますよね(笑)。監査法人とは社風が全く違うので、戸惑いはありましたし、慣れるまで大変でした。 「この転職の判断はキャリアを大きく決定づける分岐点だったようにも思います。その当時の自分の決断をどう思われますか。」 良かったと思います。投資やインターネットによる市場の盛り上がり、そのダイナミズムを経験することができたのは私のキャリアに大きな影響を与えました。1つのベンチャーファンドに1500億円ほど集まるような時代で、その投資先を支援することによる学びも大きなものでした。 「SBIでは、大きな投資ファンドの組成・運営、投資先のCFOなどの実績を重ねられています。具体的にどのような経験をされたのか教えてください。」 SBIには3年半しかいませんでしたが、前半は1500億円のファンドを組成する責任者として、企画を作ったり、投資家のデューデリジェンスを受けたりしました。その後、実際に投資をして、管理体制を作っていきました。後半は、バイアウトのファンドを組成して、その投資先の名古屋のサワコー・コーポレーションという建設会社にCFO的なポジションで携わりました。この会社は、ナスダックに上場していたのですが、残念ながら会社を清算したので、SBIがスポンサーとして入り、バイアウトファンドで出資をして再建をすることになったのです。当時、私は32歳で、CFOの仕事に憧れがありましたので、手を挙げてやらせてもらうことになりました。ただ、懸命に努力はしていましたが、振り返ると、経験不足でたいしたことはできていなかったように思います。 ヤフーへの転職と買収先でのCFO経験 「その後、どういった経緯でヤフーに転職したのでしょうか。」 1年ほどで部署が異動になったため、サワコー・コーポレーションでの役割も終えました。次に、経営企画の仕事をすることになったのですが、事業会社のCFOを目指したいという思いが捨てきれませんでした。そんな時に、インターネット業界では有名な、ヤフーで経営戦略部長を務められて、2018年に鬼籍に入られた佐藤 完さんという方からお誘いいただき、グループ会社であるヤフーに転職することになったのです。 「当時のヤフーの規模や、当初担った業務を教えてください。」 当時は、売上750億円ほど、社員数は1000人くらいだったと記憶しています。毎年倍々で成長していました。当時のCFOの梶川(朗)さんが上司となりました。最初の9か月ほどは、広くヤフーのことを知るために内部監査を経験し、その後、経営企画の仕事で主にM&Aを担当しました。 「そのM&Aの仕事とのつながりで、『筆まめ』シリーズで有名なクレオのCFOになられたのですね。その経緯とミッションを教えてください。」 クレオは、社長の井上(雅博)さんの「エンジニアのリソース不足を解消するためにエンジニアを大量に供給してくれるパートナーを探したい」という意向を受けて、探してきた会社でした。ヤフーからクレオに役員を派遣するタイミングで、井上さんと僕が入りました。井上さんが役員会に出た時に、クレオの業績管理に不安があったので、きちんと業績を管理した方がよいということになり、私がCFOとして入ることになったのです。 CFOとして行った数々の改革 「5年間クレオの取締役CFOを務めます。苦労の連続だったと思いますが、主にどのような改革をされたのか教えてください。」 当初は常勤でもなかったですし、半年ほどで役割を終え、ヤフーに戻る予定でしたが、問題が予想以上に根深かったので、常勤で継続することになりました。最初の段階では、不動産などの不良資産を整理するなど、バランスシートの改善に取り組みました。また、『筆まめ』以外のBtoBの人事給与や会計などのパッケージソフトについては、業績が悪く過剰に資産化していました。資産化すると、その年度は業績が改善したように見えますが、償却費が累積していくので問題を先送りしただけです。そこで、そうした項目を減損して整理しました。この取り組みは、目に見えて改善できるので、仕事をした気になるのですが、しょせん会計上の話であり、事業自体は改善していません。事業構造自体を改善しないと、何も変わらないということに気がつきました。 事業構造自体の改善という意味では、パッケージソフト事業が、品質が安定しないためにアフターコストが膨大になっているという問題がありました。品質の問題は現場の技術者を巻き込んで徐々に改善するしかありませんが、並行してビジネスモデルを変更する必要がありました。当時は、イニシャルコストとしてライセンス料を、ランニングコストとして保守料をもらっていましたが、比較するとライセンス料の比重が重かったのです。ライセンス料の利益率は高いですが、受注販売なので売上状況に大きく左右されます。そのため、大きな案件を失注してしまうと業績を下方修正せざるを得ないという状況でした。こうした体制では安定しませんので、ストックの収入を増やすために保守料の比重を大きくする必要がありました。そこで、1年間だけ僕が事業責任者になって、利益改善に取り組みました。 さらに、希望退職者も募りました。最後に持株会社化もしました。その当時で35年ほどの歴史がある会社で、ずっと事業部制を採っていたのですが、惰性感がありました。僕は、組織が人に与える影響はすごく大きいと考えているので、持株会社にして、事業部を事業会社に、事業部長を社長にしました。事業部長と社長とでは、自分自身の意識や周りからの見られ方が全く変わります。会社のことを自分ごと化して考えられるようになったという意味で、かなり効果があったように思います。 このように5年間でさまざまな改善をして、ようやく黒字にすることができました。 「なぜ、そのようなさまざまな改革ができたのでしょうか。」 1人でできることは少ないので、現場の意見をよく聞き、マネジメント間でも話し合い、井上さんにも相談しながら策を練っていきました。うまくいっていないことには、経緯や理由があるはずです。それを司っている組織や人を無視しても上手くはいきません。話を聞く際には、皆さんの意見の集合知を把握しようとするのではなく、一定の切り口や仮説を持ちながら進めることを意識していました。 「上場企業の取締役CFOという経験はその後のキャリアにどう影響していますか。」 経営企画のような経営をサポートする立場から、本当の意味で経営サイドの立場を経験しました。経営においては、自分がジャッジした回数や経験が重要です。35歳から40歳くらいまでにそういった経験をさせていただけたことは、すごくありがたかったですし、その後のキャリアの基礎になっています。
#M&A
株式会社東京通信グループ
取締役執行役員CFO 赤堀 政彦 氏

27歳でCFOにチャレンジ!関わる企業とともに成長し、挑戦を続けた先に見えた経営の醍醐味とは

新卒にして企業買収や業務提携を担当 「大学卒業後、シーエー・モバイル(現:CAM)に入社します。この選択が赤堀さんのその後のキャリアを決定づけたと言っても過言ではない気がしています。なぜシーエー・モバイルを選んだのですか。」 将来のキャリアを鑑み、企業買収に関するアドバイザリーやコンサルティングの仕事を探していました。アドバイザーという外部の立ち位置で探していましたが、シーエー・モバイルから自社の企業買収や事業提携の担当者というポジションで採用いただきました。結果的には、外部のアドバイザーとしてではなく、内部で意思決定に関与できる立ち位置に関心を持って入社を決めました。シーエー・モバイルでの日々により、たくさんの失敗をしながら経験値を増やすということが、私のスタイルになりました。当時はあまり失敗ばかりしたくないと思っていましたが。 27才で投資先のCFOにチャレンジ その後セレンディップ・コンサルティングに入社しました。入社前から様々なコンサルティング業務を経験できることは説明を受けていました。2年程はM&Aに関連したアドバイスをしたり、中期経営計画や人事制度を構築したりと様々な業務に従事しました。その後、セレンディップ・コンサルティング自身が企業に投資をするという方針変更を実施しました。 「それをきっかけに、27歳の時に投資先の取締役管理部長に就任されるのですね。これは自ら希望したのですか。また、不安はありませんでしたか。」 自分から希望しました。今から考えるとかなり無謀な挑戦だと思います。無知だからこそ手を挙げられたのでしょうね。最初は売上60億円、従業員は1,500人ほどのベーカリーを中心とした食品製造小売販売業の取締役管理部長、いわゆるCFOをしました。借入金が大きく、赤字も数億円と業績が良くない会社だったため、当時は候補者があまりいなかったのかもしれません。それならば、自分がやってみようと決意しました。 「初めての経験ですよね。」 何も分からないところからのスタートです。プロジェクトベースのものであればまだイメージができますが、経理実務はさっぱり分かりません。仕訳の切り方も給与計算も分からず、「承認のルートとは何ですか?」という状態からスタートしたので、業務を進めながら勉強していきました。 「実務的な問題だけでなく、人のマネジメントも大変だったのではないでしょうか。」 そうですね。当時は、がむしゃらにやっているだけで、周りが見えておらず、性格もきつかったと思います。「なんとしても黒字にしないと、この会社は潰れてしまう。社員のみんなを路頭に迷わせるわけにはいかない」と思っていました。それが正しいと信じていました。今振り返ると、もっとやりようはあったのでではないかと思いますが。 売上を失った失敗経験 「こちらでの失敗の経験があれば教えてください」 大きく売上を失ってしまったことがあります。あるスーパーマーケットチェーンにベーカリーショップを出店していたのですが、店の老朽化などの影響で売上が思わしくなかったため、賃料の交渉をしました。あまりにも赤字が大きく交渉しすぎてしまい、GMS側の役員と部長から「全店舗から出ていってくれ」と言われてしまい、億円単位で売上を失うことになってしまいました。そのGMSに出店している店舗は赤字だったので閉店させた方が良かったのですが、閉店するにもコストがかかりますし、働いている人たちをどうするのかといった問題が生じました。今振り返るともっと上手い交渉の仕方はあったと思います。 「食品製造小売販売業でのCFOの経験は、ある意味では再生案件ですよね。再生案件は難しいので、一般的には経験豊富な方がCFOとして入っていくケースが多いです。赤堀さんはそれを27歳という若さで経験された。振り返ってみて、どのような経験になりましたか。」 当時は上司に言われたことを本当にがむしゃらにしていただけです。たまたま上司に恵まれていて、たまたまやったことが上手くいった。上司は狙ってやっていたそうですが、それすら当時の私には分かりませんでした。だた、本当に良い経験をさせてもらいました。 「さらに、30歳でセレンディップ・コンサルティング本体で取締役管理部門管掌という管理のトップを任されます。不安はありませんでしたか。」 当時は、がむしゃらすぎて不安を感じている暇すらなかったのですが、今考えると不安しかなかったですね。また、能力的にも不足していたので、経験を重ねて乗り越えましたが、上司が僕に時間を惜しみなくかけてくださったことも大きかったです。ただ、当時はそんなことにも気付けてはいませんでした。色々な人に迷惑をかけながらも、結果的には資金調達ができて、企業買収・M&Aもできました。 一方で、このCFO経験は、僕の中に悩みや葛藤を生みました。自分が理想とするCFO像と自分とのギャップがあまりに大きいことを認識しました。そもそも「CFOの仕事とは何か」といったことが、きちんと腹落ちできていなかったのです。人の言葉を聞いたり、本を読んだりしてもしっくりこない。しっくりこないまま進めていました。 「その当時は分からないにしても、今振り返るとどういうことをすればより上手くいったと思いますか。」 当時、上司から「考える時間を作りなさい」とよく言われていました。当時はピンときませんでしたが、今はそういう時間をとるようにしています。世の中に溢れている答えのないことに対して考えを巡らせる時間をとることが必要だったのではないかと思います。
#M&A
株式会社アンビスホールディングス
取締役CFO 中川 徹哉 氏

CFOとして社会貢献性のある事業に関わりたい。「お金のプロ」がたどり着いたお金だけでは測れない思い

会計士試験に独学で合格 「中川さんは、監査法人、投資銀行、事業会社というルートを歩まれていて、監査法人や投資銀行出身の方の1つのロールモデルになっていると思います。東京大学の法学部に在籍していた時から将来のキャリアを具体的に考えていたのでしょうか。」 私の姉は2人とも医者で、私も東大医学部を受験したのですが、残念ながら不合格で私だけが医者になれませんでした。よって、一度医者以外の道をゼロベースで考えてみようと思い、法学部を選択しました。大学では、大学の授業のおかげもあり、法律に非常に関心を持つことができました。一方で、弁護士業務自体にはあまり興味を持てませんでした。そんな中、大学3年生の夏に大学の会計の授業を受けます。仕訳や財務3表の仕組み含め、会計そのものに非常に興味を惹かれました。そのことをきっかけに、会計のプロフェッショナルを目指そうと会計士試験にチャレンジすることにしたのです。 私の勉強方法は独特で、予備校には通わず、市販のテキストやインターネットの情報から、会計基準の適用指針に記載されている会計処理はもちろんのこと、結論の背景や設例を読み漁り、「こうやって会計ができたのか」「ここが論点だな」と会計論点を一つずつ納得して習得していきました。具体的な事例にあたりたいときは、公開会社の有価証券報告書等をインターネットで検索し、実務ではこのようにするのかと会計基準と照らし合わせながら勉強していたのも一つの特徴だと思います。 「よく合格できましたね。」 大学3年生の12月に一次試験に合格、大学4年生の8月に二次試験に合格しました。他の人よりも勉強量は少ないので、間違いなく運もあったと思います。会計論点を網羅的に勉強するのではなくて、重要な会計論点の結論の背景を重点的に理解していきました。よって、丸暗記した会計基準はほとんどなかったです。但し、結論の背景を覚えていれば、おおよその問題は解く事ができました。現在も、例えば、業界特有の論点である控除対象外消費税を含む色々な会計論点について、元々詳しく知らなかった会計論点もゼロベースで考え、適切な会計処理を選択出来ているのは、まさに会計基準を暗記しているからではなく、背景を理解しているからと思います。 そういう意味では、投資銀行の経験はもちろんですが、会計士の知識がなければ、今のCFOとしての業務はできていないと思います。たった数年間ですが、会計士の試験勉強と監査法人で会計実務に触れた経験が、私のCFOとしてのベースを築いていると思います。 投資銀行でクライアントに近い存在へ 「監査法人を3年で辞めて、競争が激しい外資系投資銀行のモルガン・スタンレーに転職した理由を教えてください。」 その時その時で自分が好きな道を選んできたというのが正直なところです。投資銀行に転職する前に、監査法人時代にDDに関わらせてもらう機会が多くあったことから、PwCアドバイザリーに異動しました。しかし、実際に会計アドバイザーとしてDDを担当したら、クライアントの一番近くには投資銀行のバンカーがいて、その先にDDのアドバイザーがいるという構図で、DDのアドバイザーはクライアントとの距離が遠いと感じました。そこで、最終的な意思決定をするクライアントに近づきたいと思い、投資銀行に転職しました。また、日本企業が海外企業を買収するクロスボーダー案件に携わりたいと思って、外資系を選びました。 投資銀行に転職した当初は、私が数時間経ってもできなかった仕事を数分でこなしてしまう上司を見て、何も出来ない自分に不甲斐なさ、悔しさを感じました。最終的には楽しいと思えるようになりましたが、投資銀行時代は苦しく辛いことの方が多かったように思います。但し、与えられた仕事に全力で取り組むという仕事の基礎を、モルガン・スタンレーで徹底的に叩き込まれたので非常に感謝しています。外資系投資銀行は、勤務時間が長い事が特徴と思われがちですが、一番の特徴は、時間が長い事よりも仕事に対して全力で取り組む人が多いという事であり、もう一度キャリアを始めるとしても必ず経験したい職場だと思います。 「投資銀行時代はどのような業務に就いていたのですか。」 主にはM&Aと資金調達のアドバイザーをしていました。M&Aのアドバイザーは、売り手側か買い手側について、企業価値を算定し、最終的に案件をまとめるという業務を担います。資金調達のアドバイザーは、株式や債券等を発行し、当該証券に関心がある投資家に買ってもらうことで、クライアントが必要とする資金を調達するという業務を担います。 投資銀行本社で経験した挫折 「投資銀行にいた5年間の間に、アメリカに出向されていますね。自ら手を挙げたのでしょうか。」 そうですね。3年目の終わりに審査があり、その審査においてトップになればニューヨークに出向することができます。社内の審査員数名にニューヨークに行きたい理由をプレゼンしました。入社1年目からどうせ入社するなら同期トップとなってニューヨークへ行き、本社でチャレンジしたいと思っていました。 「ニューヨーク本社ではどのようなことをされたのでしょうか。」 金融機関やテック系企業のM&Aのアドバイザー業務がほとんどでした。クライアントは、日本企業は一つもなく、全て米国企業でした。ただ、これがすごく難しかったです。行く前は自信満々でしたが、異国で生活したことがない中、クライアントとの距離感を埋めれずに完膚なきまでにたたきのめされました。例えば、ディナーをしたとしてもクライアントとの距離が縮まらないのです。最初は気を遣って頂き、日本に関する会話や日常会話をしていたとしても、時間が経ってお酒が進むと話すことがなくなります。アメリカンフットボールの選手も知らない、バスケットボールの選手も知らない、アメリカでの趣味もない。そんな日本人と話すぐらいであれば、誰だって現地の人と話す方が楽しいですし、経営上の悩みを打ち明けられると思います。一方、そんな弱音ばかり吐いてても仕方ないので、何とか何か勝てるものはないかと探しました。そして、それは財務モデリングでした。 最終的に、MBA卒業生のモデル講師をやらせて頂くことになったので、社内の信頼を勝ち得たと思います。しかし、クライアントからは、「モデルがいくらできてもあなたに頼む必然性がない」ということになる。その壁が乗り越えられませんでした。英語ネイティブでなくともニューヨーク本社でトップ評価が取れると思って行ったのですが、自分の実力ではトップにはなれないと実感しました。この挫折は、今現在を含む今後のキャリアに大きく影響を及ぼすきっかけとなりました。本社で関わる同僚・クライアントは、自分と同程度またはそれ以上の能力があり、各国の歴史やスポーツ含めあらゆる点において教養・知識が豊富な人がたくさんいて凌ぎをけずっていました。この挫折は私の中で想像以上に大きく、この業界を離れようと考えるきっかけになりました。そして、同時に、もっともっとがむしゃらに働き成長したい、そう思わせてもらったニューヨーク本社での経験でした。 「モルガン・スタンレーから事業会社に転職します。その際、会社を選ぶ基準を設定していましたか。」 モルガン・スタンレーを退職した後は、ヘッジファンドに転職をしようと思っていました。理由は、仮想ポートフォリオを組んで、利回りを計算するくらい株が好きだったからです。投資銀行の次の職場を選ぶ基準としては、自分の持っている能力を発揮でき、成長できる場所がいいと考えていました。