COLUMNコラム

CFOインタビューの記事一覧

プロフェッションとしてのCFO職の魅力について語ってもらうと同時にどんな経験やスキルが必要なのか生の声をお届けします。

tripla株式会社
取締役CFO 岡 義人 氏

先を予測し、挑戦し続けたすべての経験が現在のCFOの道を作った

俯瞰してビジネスを見たいという思いが芽生えた監査法人時代 「会計士を目指したきっかけを教えてください。」 不安定な時代になっていく中で手に職をつけたいという思いがあり、大学合格後に弁護士か会計士を目指すことを考えました。ロースクールにかける時間とお金はなかったこと、早く社会に出たいと思っていたこと、法律より経済のほうが面白そうだと思ったことなどから、会計士を目指そうと決めたのが大学2年生のときです。理工学部で2年間過ごした後、試験を受けて経済学部に転部しました。その後、大学4年生のときに会計士試験に合格し、大学卒業直前の3月から監査法人トーマツで働き始めました。監査法人のリクルーターの方と接する中で、トーマツが最も厳しく育ててくれそうだと思ったからです。 「トーマツでは主にどのような仕事を担当していましたか。」 国内の監査部門に所属し、2年ほど大手総合商社を担当しました。大手総合商社の監査チームは、常時30名程度、システム監査も含めると40名程度の会計士が在籍するほどの大所帯であり、新人での配属であったため、自分は全体から見ると僅か一部しか把握することができませんでした(もちろん自分の力不足ということもあり)。それがもどかしく感じ、3年目には希望を出して、相対的に規模が小さめの上場企業を2社にアサインして頂きました。切り取られた一部分ではなく、俯瞰して会社のビジネスや組織全体を把握したいという思いを強く持つようになったのですが、それは、この社会人成り立て当初の経験が大きいように思います。 「トーマツを5年で退職されていますが、その理由を教えてください。」 会計士の資格と監査法人の経験はあくまで武器の1つと考えていたため、大学生の時から、20代のうちに転職しようという思いはありました。じゃあ次に何をするのかということは定まっておらず迷える子羊な感じでしたが(笑)。何年やったら転職というわけではなく、監査法人で、2つの目標を達成できたら転職しようと思っていました。1つは、ひと通り勘定科目を実務的に回せるようになること。もう1つは、抽象的ですが自分の仕事に納得感を持てるようになること。4年半程過ぎた頃に遅まきながらようやく自分の仕事に納得感は出始めそろそろかなと思い転職を決意しました。残りの半年は転職活動をしながら、比較的のんびり過ごしました(笑)トーマツは、クライアントファーストを掲げており、ハードでしたし、心身ともに鍛えられました。自分の社会人としての基礎を作ってもらったと思っています。 スキルの幅を拡げた事業会社の経営企画時代 「監査法人退職後、ソフトバンクに転職されたのですね。なぜソフトバンクを選ばれたのでしょうか。その時のソフトバンクの状況も教えてください。」 当時は、戦略コンサルか事業会社の経営企画のどちらかで迷いました。ファーム(監査法人)で働いていたので、事業会社で働くということを、身をもって経験したいという思いもあり、事業会社の経営企画に絞って探すこととしました。業種にはあまりこだわりはなかったのですが、様々な事業をスピーディに展開している会社の方が早く成長できるのではないかと考えると自然とIT企業を受ける形となりました。ソフトバンクともう1社に絞り、後は社風と面接された方(自分の上司になる方)で選びました。当時のソフトバンクはアメリカの通信大手スプリントを買収した直後で海外に勢いよく出て行くパワーを感じ、iPhoneブームの時代でもあったので、今後伸びていく産業や会社に身を置きたいという思いもありました。 職種は経営企画で、在籍期間中で多くの経験をさせて頂きました。約4年間在籍しましたが、最初の2年間の主な業務は予算策定や管理、各プロジェクトでは財務担当として収支計画やPL等を作りました。小さなものでは法人向け料金プランの検討から大きなものでは電波関連の数千億レベルまで規模は様々ですが、小さなものを含めると千本は作ったのではないかと思い、足腰を鍛えられました。また、検討中のプロジェクトについては、複数のシナリオを作り、実行するのか否か、するとしたらどのタイミングが良いのか等経営判断に役立てるためのシミュレーションも常時行っていました。予算管理では、私が担当するまで予算の精度が粗く、予実差がかなり出ていましたが、細分化して、連動するKPIを見直すことにより予測制度は相当改善させることができました。この精度改善や同時平行で進めていた社内の業務改善プロジェクトについてはしっかりご評価頂いたと思っています。 私がソフトバンク3年目の頃から、子会社の設立が増え始め、小規模ですが1社の管理部長を任されることになりました。また、ベンチャー企業への投資を行ったり、逆に社内ベンチャーへ出向して資金調達したり、法務も担当する等、3年目から業務の幅が一気に拡がりましたね。自動運転関連の事業を担当していた時は、事業部の人達といっしょに沖縄に出張へ行き、道路に出て交通整理や車の誘導等もしました。業務で交通整理やった会計士ってかなりレアではないかと思います(笑) 「異なる職種にいくことに戸惑いはありませんでしたか?」 転職直後は何をしているのかよくわからない状態が続きました。会社自体がとても目まぐるしく動く組織であり、経営企画は特にそうでした。入社当初は様々な企画が走っており、Y!モバイルの立ち上げ、スマホシフトに伴う料金プランの抜本的な変更、ペッパーのローンチ等がありました。部門全員が忙しく、教えてもらう時間を取れないため、師匠になりそうな方を探してついて回り、がむしゃらに覚えていきました。監査法人の仕事と事業会社の経営企画での仕事は、似て非なるものです。「レビューするvs自分で作成する」、「過去実績を扱うvs将来計画を扱う」、「財務会計vs管理会計」等の違いがあり、両者は全く異なります。 だた、プロフェッショナルとしての意識や責任感については、どちらにも通ずるものがあったと思います。ここで、所属していた時期がよかったというのもあるのかもしれませんが、手を挙げればさまざまな仕事を次々にやらせてもらうことができたことは非常に良い経験になりました。また、孫さんが「脳みそがちぎれるほど考えよ」と言っており、徹底して考え抜く風土が当時の組織にはありました。1つ1つの判断についてロジカルに思考して答えを出して行く徹底した姿勢は、ソフトバンク卒業後も役に立ちました。
HYUGA PRIMARY CARE株式会社
取締役 CFO 大西 智明 氏

経営者の生き方とは山頂がない山登りのようなもの。挑戦と努力を続けて社会へ恩返しをしたい

「ビジネスは面白い」という気づき 「大西さんは、中部電力のプラントオペレーターからキャリアをスタートしていますね。技術畑の方がビジネスに興味を持った背景を教えてください。」 原子力発電所で働いていた入社2年目の頃、発電所の運転課長である上司にビジネスマン育成研修に行くように勧められました。内容もわからないままに参加したのですが、困難を乗り越えるための方法やマインドなどが研修テーマで、「お! ビジネスって面白いな」と興味を持ったのです。そこから、ビジネス書も読み始めました。社内のベンチャー育成制度に応募していました。ベンチャーとしては立ち上げることはできませんでしたが、社内公募制がスタートしたので第1号として、本社の経営戦略本部という企画部門に異動しました。そこでは、ベネッセコーポレーションとの介護事業や不動産開発事業などの新規プロジェクトにも携わりました。 「そういったご経験を経て、会計事務所に転職されていますね。」 会計事務所への転職の理由は、名古屋から福岡に帰らなくてはならないという家庭の事情がありました。自分が担当して作った中部電力の子会社に異動する予定があったのですが、結局難しくなってしまったので、それならば経営コンサルタントをしてみたいと思ったのです。コンサルティング会社のような社名だったので転職したのですが、実際は会計事務所でした(笑)。経営に携わりたいという思いがあったので、企業の社長とお話しできる機会が多いことはありがたかったのですが、税務や会計について詳しく学ぶ修行期間がありました。 事業再生の会社の中での経験 「会計事務所での2年間の修行を経て、事業再生を検討する企業へ取締役CFOとして転職されています。なぜあえて厳しい道を選んだのでしょう。」 取締役CFOというと格好良く聞こえるかもしれませんが、そんなことはありません。従業員が20名くらいの会社です。会計事務所でお手伝いしていた会社で、創業者の社長から「もう年やけん、辞めたい」と相談されていました。会計事務所で事業承継のサポートをしようと考えていたのですが、当時は、今のように一般的ではなく、反対されてしまいます。そこで、僕が会計事務所を辞めて、社内に入り、事業承継の支援をすることにしたのです。会長にはお子さんがいらっしゃらなかったので、社内昇格で承継を進めていこうと考えていた矢先に、リーマンショックが起こります。売上が半分以下まで減少し、赤字に転落しました。先に事業再生しなければ承継どころではないという状況に陥ってしまったのです。 「それは大変でしたね。その中で、最も苦労したことを教えてください。」 とにかくお金がなかったことです。従業員に給料が支払えなくなりそうな時には、私個人の貯金を会社に入れて賄いました。日単位ではなく、分単位で資金繰りをしていました。当時まだ手形の割引をしていたので、朝、割引するために銀行へ向かいました。銀行員に「本当にこの現場は稼働していますよね?」と確認され、車で現場にお連れして、「ちゃんと動いているでしょう」と安心してもらい、ようやく手形を割引いてもらってお金を作ったこともあります。 「事業再生は辛く苦しいと思いますが、何がモチベーションになっていたのでしょうか。」 本当に「ビジネスやっているな」という感覚があったことでしょうか。お金がなかったので、税理士も弁護士も社労士も雇えず、全て自分たちで一つずつ乗り越えていきました。止血をするために、コストカットもしました。法人税の申告書も手書きで作成しましたし、週1回、従業員に休業をしてもらい、それに伴う休業補償などの労務の対応もしました。また、訴訟についても「どうせ負ける裁判なら1人で行ってきます」と裁判所に行ったこともありました。そういう意味では、あまり自分の領域を限定しないようにしています。新規事業を立ち上げたときは自分で営業も行います。設計図を書いて、机を作ったこともあります。福岡の三越の時計売り場の修理工場の机は、私が設計した机で、10年経った今でも取り扱い会社のカタログに載ってます。 「振り返ってみて、この時期にはどのようなスキルが必要だったと思いますか?」 小さい会社だったので、「これが私の仕事です」と制限していたら会社は良くなりません。「何でもやる」という気持ちで、そのときどきで必要な勉強をして、すぐ実行していきました。そういうマインドやスキルは必要だったように思います。 「よく心が折れませんでしたね。大西さんは、精神的にも体力的にもタフなのでしょうか。」 そんなことはありません。ただ、思い起こせば、原子力発電所の運転員のときも、たまに火報がなると1番最初に現場に到着していました。トラブルなどがあった時に躊躇しないタイプではあると思います。 「社長とはどういう関係性でしたか。」 「これをやらなければ倒産する」という状況なので、お互いに「これでいこう」と合意したら、すぐに実行するという状況でした。ぶつかったことはありません。「大西ちゃんが言うならそうしよう」と言ってくれていました。信頼関係がなければ、会社は倒産していたと思います。 「そういう苦しい状況の中でMBAも取得されていますよね。よくMBAにも目を向けられましたね。」 元々興味があったんです。中部電力には、素晴らしい学歴の同期が多く、海外へMBA留学をする人もいました。でも僕は高専卒で、大学卒の資格がないので、それにチャレンジすることもできなかった。しかし、ある時、高専卒でも論文を2〜3本書くことで入学できるビジネススクールがあることを知って、大前研一さんが誰かもよくわからないまま、大前さんのビジネススクールに飛び込んだんです。取締役は、時間を自由に使えるので、隙間の時間を有効に活用して勉強し、3年間かけて卒業しました。