COLUMNコラム

CFOインタビューの記事一覧

プロフェッションとしてのCFO職の魅力について語ってもらうと同時にどんな経験やスキルが必要なのか生の声をお届けします。

株式会社アンビスホールディングス
取締役CFO 中川 徹哉 氏

CFOとして社会貢献性のある事業に関わりたい。「お金のプロ」がたどり着いたお金だけでは測れない思い

会計士試験に独学で合格 「中川さんは、監査法人、投資銀行、事業会社というルートを歩まれていて、監査法人や投資銀行出身の方の1つのロールモデルになっていると思います。東京大学の法学部に在籍していた時から将来のキャリアを具体的に考えていたのでしょうか。」 私の姉は2人とも医者で、私も東大医学部を受験したのですが、残念ながら不合格で私だけが医者になれませんでした。よって、一度医者以外の道をゼロベースで考えてみようと思い、法学部を選択しました。大学では、大学の授業のおかげもあり、法律に非常に関心を持つことができました。一方で、弁護士業務自体にはあまり興味を持てませんでした。そんな中、大学3年生の夏に大学の会計の授業を受けます。仕訳や財務3表の仕組み含め、会計そのものに非常に興味を惹かれました。そのことをきっかけに、会計のプロフェッショナルを目指そうと会計士試験にチャレンジすることにしたのです。 私の勉強方法は独特で、予備校には通わず、市販のテキストやインターネットの情報から、会計基準の適用指針に記載されている会計処理はもちろんのこと、結論の背景や設例を読み漁り、「こうやって会計ができたのか」「ここが論点だな」と会計論点を一つずつ納得して習得していきました。具体的な事例にあたりたいときは、公開会社の有価証券報告書等をインターネットで検索し、実務ではこのようにするのかと会計基準と照らし合わせながら勉強していたのも一つの特徴だと思います。 「よく合格できましたね。」 大学3年生の12月に一次試験に合格、大学4年生の8月に二次試験に合格しました。他の人よりも勉強量は少ないので、間違いなく運もあったと思います。会計論点を網羅的に勉強するのではなくて、重要な会計論点の結論の背景を重点的に理解していきました。よって、丸暗記した会計基準はほとんどなかったです。但し、結論の背景を覚えていれば、おおよその問題は解く事ができました。現在も、例えば、業界特有の論点である控除対象外消費税を含む色々な会計論点について、元々詳しく知らなかった会計論点もゼロベースで考え、適切な会計処理を選択出来ているのは、まさに会計基準を暗記しているからではなく、背景を理解しているからと思います。 そういう意味では、投資銀行の経験はもちろんですが、会計士の知識がなければ、今のCFOとしての業務はできていないと思います。たった数年間ですが、会計士の試験勉強と監査法人で会計実務に触れた経験が、私のCFOとしてのベースを築いていると思います。 投資銀行でクライアントに近い存在へ 「監査法人を3年で辞めて、競争が激しい外資系投資銀行のモルガン・スタンレーに転職した理由を教えてください。」 その時その時で自分が好きな道を選んできたというのが正直なところです。投資銀行に転職する前に、監査法人時代にDDに関わらせてもらう機会が多くあったことから、PwCアドバイザリーに異動しました。しかし、実際に会計アドバイザーとしてDDを担当したら、クライアントの一番近くには投資銀行のバンカーがいて、その先にDDのアドバイザーがいるという構図で、DDのアドバイザーはクライアントとの距離が遠いと感じました。そこで、最終的な意思決定をするクライアントに近づきたいと思い、投資銀行に転職しました。また、日本企業が海外企業を買収するクロスボーダー案件に携わりたいと思って、外資系を選びました。 投資銀行に転職した当初は、私が数時間経ってもできなかった仕事を数分でこなしてしまう上司を見て、何も出来ない自分に不甲斐なさ、悔しさを感じました。最終的には楽しいと思えるようになりましたが、投資銀行時代は苦しく辛いことの方が多かったように思います。但し、与えられた仕事に全力で取り組むという仕事の基礎を、モルガン・スタンレーで徹底的に叩き込まれたので非常に感謝しています。外資系投資銀行は、勤務時間が長い事が特徴と思われがちですが、一番の特徴は、時間が長い事よりも仕事に対して全力で取り組む人が多いという事であり、もう一度キャリアを始めるとしても必ず経験したい職場だと思います。 「投資銀行時代はどのような業務に就いていたのですか。」 主にはM&Aと資金調達のアドバイザーをしていました。M&Aのアドバイザーは、売り手側か買い手側について、企業価値を算定し、最終的に案件をまとめるという業務を担います。資金調達のアドバイザーは、株式や債券等を発行し、当該証券に関心がある投資家に買ってもらうことで、クライアントが必要とする資金を調達するという業務を担います。 投資銀行本社で経験した挫折 「投資銀行にいた5年間の間に、アメリカに出向されていますね。自ら手を挙げたのでしょうか。」 そうですね。3年目の終わりに審査があり、その審査においてトップになればニューヨークに出向することができます。社内の審査員数名にニューヨークに行きたい理由をプレゼンしました。入社1年目からどうせ入社するなら同期トップとなってニューヨークへ行き、本社でチャレンジしたいと思っていました。 「ニューヨーク本社ではどのようなことをされたのでしょうか。」 金融機関やテック系企業のM&Aのアドバイザー業務がほとんどでした。クライアントは、日本企業は一つもなく、全て米国企業でした。ただ、これがすごく難しかったです。行く前は自信満々でしたが、異国で生活したことがない中、クライアントとの距離感を埋めれずに完膚なきまでにたたきのめされました。例えば、ディナーをしたとしてもクライアントとの距離が縮まらないのです。最初は気を遣って頂き、日本に関する会話や日常会話をしていたとしても、時間が経ってお酒が進むと話すことがなくなります。アメリカンフットボールの選手も知らない、バスケットボールの選手も知らない、アメリカでの趣味もない。そんな日本人と話すぐらいであれば、誰だって現地の人と話す方が楽しいですし、経営上の悩みを打ち明けられると思います。一方、そんな弱音ばかり吐いてても仕方ないので、何とか何か勝てるものはないかと探しました。そして、それは財務モデリングでした。 最終的に、MBA卒業生のモデル講師をやらせて頂くことになったので、社内の信頼を勝ち得たと思います。しかし、クライアントからは、「モデルがいくらできてもあなたに頼む必然性がない」ということになる。その壁が乗り越えられませんでした。英語ネイティブでなくともニューヨーク本社でトップ評価が取れると思って行ったのですが、自分の実力ではトップにはなれないと実感しました。この挫折は、今現在を含む今後のキャリアに大きく影響を及ぼすきっかけとなりました。本社で関わる同僚・クライアントは、自分と同程度またはそれ以上の能力があり、各国の歴史やスポーツ含めあらゆる点において教養・知識が豊富な人がたくさんいて凌ぎをけずっていました。この挫折は私の中で想像以上に大きく、この業界を離れようと考えるきっかけになりました。そして、同時に、もっともっとがむしゃらに働き成長したい、そう思わせてもらったニューヨーク本社での経験でした。 「モルガン・スタンレーから事業会社に転職します。その際、会社を選ぶ基準を設定していましたか。」 モルガン・スタンレーを退職した後は、ヘッジファンドに転職をしようと思っていました。理由は、仮想ポートフォリオを組んで、利回りを計算するくらい株が好きだったからです。投資銀行の次の職場を選ぶ基準としては、自分の持っている能力を発揮でき、成長できる場所がいいと考えていました。
tripla株式会社
取締役CFO 岡 義人 氏

先を予測し、挑戦し続けたすべての経験が現在のCFOの道を作った

俯瞰してビジネスを見たいという思いが芽生えた監査法人時代 「会計士を目指したきっかけを教えてください。」 不安定な時代になっていく中で手に職をつけたいという思いがあり、大学合格後に弁護士か会計士を目指すことを考えました。ロースクールにかける時間とお金はなかったこと、早く社会に出たいと思っていたこと、法律より経済のほうが面白そうだと思ったことなどから、会計士を目指そうと決めたのが大学2年生のときです。理工学部で2年間過ごした後、試験を受けて経済学部に転部しました。その後、大学4年生のときに会計士試験に合格し、大学卒業直前の3月から監査法人トーマツで働き始めました。監査法人のリクルーターの方と接する中で、トーマツが最も厳しく育ててくれそうだと思ったからです。 「トーマツでは主にどのような仕事を担当していましたか。」 国内の監査部門に所属し、2年ほど大手総合商社を担当しました。大手総合商社の監査チームは、常時30名程度、システム監査も含めると40名程度の会計士が在籍するほどの大所帯であり、新人での配属であったため、自分は全体から見ると僅か一部しか把握することができませんでした(もちろん自分の力不足ということもあり)。それがもどかしく感じ、3年目には希望を出して、相対的に規模が小さめの上場企業を2社にアサインして頂きました。切り取られた一部分ではなく、俯瞰して会社のビジネスや組織全体を把握したいという思いを強く持つようになったのですが、それは、この社会人成り立て当初の経験が大きいように思います。 「トーマツを5年で退職されていますが、その理由を教えてください。」 会計士の資格と監査法人の経験はあくまで武器の1つと考えていたため、大学生の時から、20代のうちに転職しようという思いはありました。じゃあ次に何をするのかということは定まっておらず迷える子羊な感じでしたが(笑)。何年やったら転職というわけではなく、監査法人で、2つの目標を達成できたら転職しようと思っていました。1つは、ひと通り勘定科目を実務的に回せるようになること。もう1つは、抽象的ですが自分の仕事に納得感を持てるようになること。4年半程過ぎた頃に遅まきながらようやく自分の仕事に納得感は出始めそろそろかなと思い転職を決意しました。残りの半年は転職活動をしながら、比較的のんびり過ごしました(笑)トーマツは、クライアントファーストを掲げており、ハードでしたし、心身ともに鍛えられました。自分の社会人としての基礎を作ってもらったと思っています。 スキルの幅を拡げた事業会社の経営企画時代 「監査法人退職後、ソフトバンクに転職されたのですね。なぜソフトバンクを選ばれたのでしょうか。その時のソフトバンクの状況も教えてください。」 当時は、戦略コンサルか事業会社の経営企画のどちらかで迷いました。ファーム(監査法人)で働いていたので、事業会社で働くということを、身をもって経験したいという思いもあり、事業会社の経営企画に絞って探すこととしました。業種にはあまりこだわりはなかったのですが、様々な事業をスピーディに展開している会社の方が早く成長できるのではないかと考えると自然とIT企業を受ける形となりました。ソフトバンクともう1社に絞り、後は社風と面接された方(自分の上司になる方)で選びました。当時のソフトバンクはアメリカの通信大手スプリントを買収した直後で海外に勢いよく出て行くパワーを感じ、iPhoneブームの時代でもあったので、今後伸びていく産業や会社に身を置きたいという思いもありました。 職種は経営企画で、在籍期間中で多くの経験をさせて頂きました。約4年間在籍しましたが、最初の2年間の主な業務は予算策定や管理、各プロジェクトでは財務担当として収支計画やPL等を作りました。小さなものでは法人向け料金プランの検討から大きなものでは電波関連の数千億レベルまで規模は様々ですが、小さなものを含めると千本は作ったのではないかと思い、足腰を鍛えられました。また、検討中のプロジェクトについては、複数のシナリオを作り、実行するのか否か、するとしたらどのタイミングが良いのか等経営判断に役立てるためのシミュレーションも常時行っていました。予算管理では、私が担当するまで予算の精度が粗く、予実差がかなり出ていましたが、細分化して、連動するKPIを見直すことにより予測制度は相当改善させることができました。この精度改善や同時平行で進めていた社内の業務改善プロジェクトについてはしっかりご評価頂いたと思っています。 私がソフトバンク3年目の頃から、子会社の設立が増え始め、小規模ですが1社の管理部長を任されることになりました。また、ベンチャー企業への投資を行ったり、逆に社内ベンチャーへ出向して資金調達したり、法務も担当する等、3年目から業務の幅が一気に拡がりましたね。自動運転関連の事業を担当していた時は、事業部の人達といっしょに沖縄に出張へ行き、道路に出て交通整理や車の誘導等もしました。業務で交通整理やった会計士ってかなりレアではないかと思います(笑) 「異なる職種にいくことに戸惑いはありませんでしたか?」 転職直後は何をしているのかよくわからない状態が続きました。会社自体がとても目まぐるしく動く組織であり、経営企画は特にそうでした。入社当初は様々な企画が走っており、Y!モバイルの立ち上げ、スマホシフトに伴う料金プランの抜本的な変更、ペッパーのローンチ等がありました。部門全員が忙しく、教えてもらう時間を取れないため、師匠になりそうな方を探してついて回り、がむしゃらに覚えていきました。監査法人の仕事と事業会社の経営企画での仕事は、似て非なるものです。「レビューするvs自分で作成する」、「過去実績を扱うvs将来計画を扱う」、「財務会計vs管理会計」等の違いがあり、両者は全く異なります。 だた、プロフェッショナルとしての意識や責任感については、どちらにも通ずるものがあったと思います。ここで、所属していた時期がよかったというのもあるのかもしれませんが、手を挙げればさまざまな仕事を次々にやらせてもらうことができたことは非常に良い経験になりました。また、孫さんが「脳みそがちぎれるほど考えよ」と言っており、徹底して考え抜く風土が当時の組織にはありました。1つ1つの判断についてロジカルに思考して答えを出して行く徹底した姿勢は、ソフトバンク卒業後も役に立ちました。
HYUGA PRIMARY CARE株式会社
取締役 CFO 大西 智明 氏

経営者の生き方とは山頂がない山登りのようなもの。挑戦と努力を続けて社会へ恩返しをしたい

「ビジネスは面白い」という気づき 「大西さんは、中部電力のプラントオペレーターからキャリアをスタートしていますね。技術畑の方がビジネスに興味を持った背景を教えてください。」 原子力発電所で働いていた入社2年目の頃、発電所の運転課長である上司にビジネスマン育成研修に行くように勧められました。内容もわからないままに参加したのですが、困難を乗り越えるための方法やマインドなどが研修テーマで、「お! ビジネスって面白いな」と興味を持ったのです。そこから、ビジネス書も読み始めました。社内のベンチャー育成制度に応募していました。ベンチャーとしては立ち上げることはできませんでしたが、社内公募制がスタートしたので第1号として、本社の経営戦略本部という企画部門に異動しました。そこでは、ベネッセコーポレーションとの介護事業や不動産開発事業などの新規プロジェクトにも携わりました。 「そういったご経験を経て、会計事務所に転職されていますね。」 会計事務所への転職の理由は、名古屋から福岡に帰らなくてはならないという家庭の事情がありました。自分が担当して作った中部電力の子会社に異動する予定があったのですが、結局難しくなってしまったので、それならば経営コンサルタントをしてみたいと思ったのです。コンサルティング会社のような社名だったので転職したのですが、実際は会計事務所でした(笑)。経営に携わりたいという思いがあったので、企業の社長とお話しできる機会が多いことはありがたかったのですが、税務や会計について詳しく学ぶ修行期間がありました。 事業再生の会社の中での経験 「会計事務所での2年間の修行を経て、事業再生を検討する企業へ取締役CFOとして転職されています。なぜあえて厳しい道を選んだのでしょう。」 取締役CFOというと格好良く聞こえるかもしれませんが、そんなことはありません。従業員が20名くらいの会社です。会計事務所でお手伝いしていた会社で、創業者の社長から「もう年やけん、辞めたい」と相談されていました。会計事務所で事業承継のサポートをしようと考えていたのですが、当時は、今のように一般的ではなく、反対されてしまいます。そこで、僕が会計事務所を辞めて、社内に入り、事業承継の支援をすることにしたのです。会長にはお子さんがいらっしゃらなかったので、社内昇格で承継を進めていこうと考えていた矢先に、リーマンショックが起こります。売上が半分以下まで減少し、赤字に転落しました。先に事業再生しなければ承継どころではないという状況に陥ってしまったのです。 「それは大変でしたね。その中で、最も苦労したことを教えてください。」 とにかくお金がなかったことです。従業員に給料が支払えなくなりそうな時には、私個人の貯金を会社に入れて賄いました。日単位ではなく、分単位で資金繰りをしていました。当時まだ手形の割引をしていたので、朝、割引するために銀行へ向かいました。銀行員に「本当にこの現場は稼働していますよね?」と確認され、車で現場にお連れして、「ちゃんと動いているでしょう」と安心してもらい、ようやく手形を割引いてもらってお金を作ったこともあります。 「事業再生は辛く苦しいと思いますが、何がモチベーションになっていたのでしょうか。」 本当に「ビジネスやっているな」という感覚があったことでしょうか。お金がなかったので、税理士も弁護士も社労士も雇えず、全て自分たちで一つずつ乗り越えていきました。止血をするために、コストカットもしました。法人税の申告書も手書きで作成しましたし、週1回、従業員に休業をしてもらい、それに伴う休業補償などの労務の対応もしました。また、訴訟についても「どうせ負ける裁判なら1人で行ってきます」と裁判所に行ったこともありました。そういう意味では、あまり自分の領域を限定しないようにしています。新規事業を立ち上げたときは自分で営業も行います。設計図を書いて、机を作ったこともあります。福岡の三越の時計売り場の修理工場の机は、私が設計した机で、10年経った今でも取り扱い会社のカタログに載ってます。 「振り返ってみて、この時期にはどのようなスキルが必要だったと思いますか?」 小さい会社だったので、「これが私の仕事です」と制限していたら会社は良くなりません。「何でもやる」という気持ちで、そのときどきで必要な勉強をして、すぐ実行していきました。そういうマインドやスキルは必要だったように思います。 「よく心が折れませんでしたね。大西さんは、精神的にも体力的にもタフなのでしょうか。」 そんなことはありません。ただ、思い起こせば、原子力発電所の運転員のときも、たまに火報がなると1番最初に現場に到着していました。トラブルなどがあった時に躊躇しないタイプではあると思います。 「社長とはどういう関係性でしたか。」 「これをやらなければ倒産する」という状況なので、お互いに「これでいこう」と合意したら、すぐに実行するという状況でした。ぶつかったことはありません。「大西ちゃんが言うならそうしよう」と言ってくれていました。信頼関係がなければ、会社は倒産していたと思います。 「そういう苦しい状況の中でMBAも取得されていますよね。よくMBAにも目を向けられましたね。」 元々興味があったんです。中部電力には、素晴らしい学歴の同期が多く、海外へMBA留学をする人もいました。でも僕は高専卒で、大学卒の資格がないので、それにチャレンジすることもできなかった。しかし、ある時、高専卒でも論文を2〜3本書くことで入学できるビジネススクールがあることを知って、大前研一さんが誰かもよくわからないまま、大前さんのビジネススクールに飛び込んだんです。取締役は、時間を自由に使えるので、隙間の時間を有効に活用して勉強し、3年間かけて卒業しました。