COLUMNコラム

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ロジスティード株式会社
常務執行役員 CFO 財務戦略本部長 本田 仁志 氏

東芝での15年間や大企業2社でのCFO経験を経てたどり着いたキャッシュフローを軸にした本質的な経営の重要性

上場企業CFOの土台を作った東芝での経験 「大学卒業後、日本を代表する大企業の東芝へ入社した理由を教えてください。」 私が社会人になった1990年は、まだバブル経済の余韻が残っている時代でしたので、大学のゼミの同期の大半が金融機関に就職していきました。ただ私は、みんなに合わせるのが好きではなく、また、目に見えないモノよりも、リアルなモノを作っている会社が楽しそうだと考えていました。当時の総合電機は、さまざまな製品を作り、グローバル展開もしていました。そういった点に可能性を感じて、東芝に入社しました。 「東芝で15年間勤務する中で、どのような業務に携わりましたか。順番に教えてください。」 経理部門に配属になり、まずは現場を知ることが重要だということで、dynabookというパーソナルコンピューターやRupoというワープロを製造している青梅工場に5年間ほど勤務しました。モノづくりの現場で、設計部門や製造部門とやり取りをしながら、原価計算や予算作成、分析などをしていました。基本的には、経理財務のレポートラインと、工場の製造部門・設計部門に対するレポートラインがありました。いわゆるデュアルレポートの仕組みが存在していました。そこで業務の基礎を作った上で、浜松町の本社に異動になりました。 「本社ではどのようなことをされていたのでしょうか。」 最初の1年は、財務部企画担当として、格付機関の対応などをしました。東芝は社債を発行していたので、信用格付を取得しており、格付機関とのやりとりが必要でした。格付機関に、キャッシュフロー、中期経営計画、会社の将来性などについて説明するために部内で初めてパワーポイントを使ってプレゼン資料を作成したことが印象に残っています。他には、今のDXのはしり、例えば、社内の情報共有ツールの導入などもしました。企画担当の業務範囲は広く、あらゆることに携わっていました。その後、4年ほど、全社規模の投融資管理、資金戦略策定、資金繰りを把握する業務を担当しました。 次に、管理会計を担当しました。当時はカンパニー制でしたので、カンパニーを受け持って、日常の予算実績やフォーキャストの管理、チャレンジ目標の数値設定などをしました。具体的には、P/Lやフリーキャッシュフローの目標値を設定して、それを現場に落としていくのです。家電やパソコンから原子力発電、はたまたインターネットビジネスなど、モデルの異なる事業を幅広く担当することができました。当時、東芝は1兆円ほどの有利子負債があり、財務基盤が弱いことに危機感を持っていたので、債権の流動化やノンコア事業、遊休資産の売却、セール・アンド・リースバックなどのアセットライト施策の実行やグループファイナンス制度導入によるキャッシュフロー改善にも取り組みました。 「東芝はどのような経営管理をしていたのでしょうか。」 予算についてはトップダウンで決まっていました。私の所属していた財務部では、コーポレートの視点で各カンパニーの特徴を理解した上で、その特徴を財務モデルに落として、シミュレーションをしながら、目標の利益やキャッシュを定めていました。これを基にして、カンパニーの方とディスカッションをします。その話の持っていき方にも戦略が必要です。過去の実績と今回の予算の差を分析して、「この部分はバッファを取っているのではないか?」といった指摘をすることもありました。 「予算ができた後は、どのように経営管理を行っていたのでしょうか。」 カンパニーから分析結果や6ヶ月先くらいまでのP/L、B/Sとキャッシュフローのローリングフォーキャストが上がってくるので、それに対して我々が質問をしていく形式で行っていました。予算とフォーキャストが乖離した場合には、アクションプランを作るなど臨機応変に対応していました。 「東芝での15年間で、どのようなスキルを身に着けることができましたか。」 上場企業CFOとしてのベースは東芝時代に身につけたと思っています。グループ内でバリューチェーン、サプライチェーンの一連の流れを持っており、調達から始まって、開発、製造、物流、販売までの全体を俯瞰することができた点もメーカーの良さでした。さらに、コンシューマー向けの家電からB to Bの原子力発電など多種多様な事業を幅広く経験できたことも、その後のキャリアの中で非常に役立ちました。当時は大変でしたが、短期間でローテーションしながら、かつ深くコミットを求められることも、今振り返るとありがたいことでした。 東芝は、不適切会計事件以降、ずっと苦しまれている印象ですが、私が勤務しているときは非常に実直で優秀な方が多かったと感じています。役職ではなく「さん」づけで呼び合い、非常にオープンな文化でした。議論好きな方が多く、侃々諤々と議論をしていました。例えば、「家電はコモディティ化しており、量販店に利益が流れていて儲からないので撤退した方がよい」という話になり、それについてのレポートをまとめて社長に持っていったこともありました。実際に撤退はしませんでしたが、そういった意見も受け止められる余裕があった時代だったのです。 また東芝の経理・財務部門では「自分で考えること」を強く求められました。新入社員の時代から、「どうすればいいですか?」という質問ではなく「こういう理由でこのようにすべきだと考えるのですが、いかがでしょうか?」という提案をすることが必要でした。このためにはOJTだけでなく、自分で自主的に学習することが必須であり、日常業務の範囲を超えた知識やスキルを読書などにより補う習慣が身に付きました。この習慣は私にとって得難い武器になったと思います。一方で、東芝の経理・財務部門における提案を求めるカルチャーが、経理・財務部門の自主的な「提案」という形に変容し、不適切会計における「忖度」を支えてしまったという側面もあったかもしれません。
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株式会社トランザクション・メディア・ネットワークス
専務取締役 管理本部長 CFO 西脇 徹 氏

高い専門性とビジネスパーソンの自信。事業をドライブする起業家マインドを併せ持つCFOのキャリアとは?

「逃げ出してはいけない」と会計士試験に再チャレンジ 「公認会計士を目指したのはいつ頃からですか。それはなぜですか。」 幼い頃から公認会計士という言葉はいつも耳にしていました。というのも、同居していた祖父が公認会計士で、新大阪で「西脇公認会計士事務所」を開設していたからです。父や叔父も同事務所に勤務していたのですが、父自身は公認会計士になることが叶わず、私にその夢を託してたんだと思います。父から強く誘導されたわけではありませんが、例えば、「お小遣いが欲しければ、お小遣い帳をつけるように。」と言われたり、「大学は経営学部(商学部)に行ったほうがよい。」と言われたりして、教育的に刷り込まれていったような気がします。私自身は、数学が好きだったので理系に進むか、そうでないなら学校の先生になりたいと思っていたのですが、高校生くらいから公認会計士を意識し出し、大学も会計士の合格者が一番多い慶應義塾大学(商学部)を選択しました。 そうとはいっても、当時は公認会計士試験の難易度は全く理解しておらず、「1日1,2時間勉強すればいいんでしょ。」と思っていたので、大学の体育会野球部に所属して、部活に明け暮れていました。当たり前ですが、部活は、練習以外にもグランド整備や先輩のユニホーム洗濯などで忙しく、勉強時間どころか睡眠時間も満足に取れず、母からも反対されるし、「この生活だと会計士に合格できない」と必要以上に焦ってしまい、1年生の春シーズン中に大学野球部を退部しました。その後、大学1年生の秋から、意気込んで公認会計士の専門学校に通うも、今度はあまりのテキスト量の多さに驚愕して、これまた焦ってしまい、「友達と遊びたい!」という気持ちも手伝って、「自分にはこの試験はムリ!」と、大学2年生の春には挫折してしまいました。今思うと、ほんとにダメな大学生ですよね。(笑) 「どのタイミングで会計士試験を再度目指すことにしたのでしょうか。」 結局、大学ではゼミ、サークル、バイト、海外旅行などで、一般的な大学生として楽しく過ごし、就職活動を迎えました。就職活動をする際には、面接で自分のことを語れるように自己分析をしますよね。自分は大学で何をやってきて、これから何をしたいんだろうと整理をする。自分のことを一生懸命に振り返るのですが、どうしてもうまく語れませんでした。何かモヤモヤした気持ちが残り続けていて、納得のいく就職活動につながらなかったのです。就職活動が終わった後も、自分自身を見つめる中で、「わざわざ野球まで辞めたのに、会計士試験も辞めちゃっている。 遅いけど今からでも会計士試験からは逃げ出してはいけないのではないか。」という結論に達し、大学4年生の冬に、某社から頂いていた内定を辞退し、会計士試験に再チャレンジすることにしたのです。大阪の実家に戻って親の援助を受けながらの受験でしたが、今回は難易度への理解と覚悟があったので、1回の試験で合格できました。専門学校に住んでるかのような毎日でしたので、友達もたくさんでき、受験なのに楽しい日々でした。勉強の動機としては、会計士になって何かをしたいということではなく、「逃げ出してはいけない」という気持ちだけで、将来の仕事を具体的に考えているわけではありませんでした。 監査法人で学んだ3つのこと 「入所した中央青山監査法人では、監査にとどまらず幅広い経験を積んでいますが、どのような仕事をされていたのでしょうか。その経験は今後のキャリアにどう影響していますか。」 会計士の二次試験に合格したら通常は監査法人に行きますので、私もそれに倣い、一社目に応募して内定をもらった中央青山監査法人の大阪事務所に入って、4年ほど働きました。大阪事務所は東京のような大規模事務所ではなかったので、比較的小ぶりな、売上規模で30億~300億円くらいのクライアントを担当していました。このタイミングで、会社全体を眺められたのは良かったですね。また、会計士不足で法人の人数が少なかったことから、会計士補の3年目あたりから現場主査業務を任せてもらえ、プロジェクトチームのアサインメンバーや監査項目を決めたり、クライアントの経理部長クラスと会話ができるようになりました。入所した頃は、単純チェックばかりで、仕事がつまらなく「やっぱり学校の先生になろう!」と思った時期もありましたが、そのあたりから仕事も少しずつ面白くなっていきました。その頃担っていた仕事の8割は監査業務でした。残りの2割は、PwCコンサルティングが引き受けた財務デューデリジェンスの仕事をしたり、新人採用活動のプロジェクトリーダーを担ったりしました。当時は、監査法人がコンサルティングすることも許されていた時代だったんです。 この監査という仕事を通じて主に3つのことを学び、その後のキャリアへの影響があったように思います。 1つ目は、「数字を確認する」こと。当たり前ですが、監査なので数字を確認することについての、一定の知識や慣習がつきました。 2つ目は、「チームで連携する」こと。会計士の人は個人プレーが多くなりがちですが、監査は1人では行えず、チームで連携しなくてはなりません。スタッフの立場でも、リーダーの立場でも、チームで仕事をすることに慣れたように思います。 3つ目は、「会社全体を眺める」こと。先ほどの話と重複しますが、小さめの会社を担当して全体を見られたことは非常に大きい経験でした。20〜30人の監査チームで「あなたは借入金だけ見ておいて」ということだと全体を俯瞰して見ることができずに、途中で挫折してしまっていたかもしれません。 財務省で得たビジネスパーソンとしての自信 「西脇さんは監査法人に在籍しながら財務省に出向されています。これは自身の希望ですか。また、そこでは主にどのような仕事をしていたのですか。」 財務省への出向は、監査法人のイントラネットで募集が出ていたので、自ら応募しました。これまた何をやるのかは理解していませんでしたが、「全く異なる世界で働けるのは面白そう」という軽い気持ちで応募したんです。霞が関という官僚の世界、さらに省の中のトップといわれる財務省で仕事ができ、しかも2年間で戻って来られることが保証されている。私は大阪勤務でしたから、却下されるだろうけど、ひとまず応募するだけしてみようと思いました。妻も大阪の人で、大阪にマンションも購入していたので、ずっと大阪にいるつもりだったのですが、「期間限定だし、久しぶりに東京に行ってみよう。」と思えたのです。結果的には、それほどの応募もなかったようで、法人内の面接を経て、財務省に出向することが決まり、引継ぎや引っ越しなどバタバタしました。 財務省での仕事の内容は、大臣官房文書課という組織にて、政策評価書の取りまとめをしていました。政策評価制度は「省庁は何をやっているかわからない」という国民からの批判に応えようと、大蔵省が財務省になった省庁再編のタイミングで新しく始まった制度でした。各省庁が自分の仕事を国民にアピール、ディスクローズしていく制度になります。その政策評価の測定ツールとして会計を活用しようということで、会計士が継続的に派遣されていました。しかし、実際のところ、会計ツールを入れると測定が難しい、定量的な評価はなじまないといった理由から、会計士としての知見はほぼ使われることはありませんでした。ですから、「会計士として来たのに、得意の会計は関係ないじゃん」「省内に誰一人として知り合いがいない」「よくわからない単語がとびかっていて、いったい何を話しているの?」という状態で、不安ばかりが募り、入省直後に2日間も有給休暇をとって、大阪に帰っちゃいました。(笑) ただ、1年経つとだいぶ慣れ、2年も経つと、財務省の中で政策評価について最も知っている人間となることができ、財務省の人事部からも「好きなだけいていいよ。」と言ってもらえて、何も会計を武器にしなくともビジネスパーソンとしてやっていけるなという自信が持てました。財務省の方々は日本のトップレベルで頭が良く仕事ができるので自分にも他人にも厳しいですし、大臣をはじめ政治家へ説明するためには論理的な文章を書く必要がありました。この経験は、非常に勉強になりましたし、自信につながりました。 「出向の間に、米国公認会計士の資格も取っていらっしゃいますね。」 財務省では、会計を使わなかったので、会計の知識が剥落しないように、それと英語力をもっと高めたいと思っていて、米国公認会計士の試験にチャレンジしました。政策評価の仕事は、3ヶ月かけて計画を作り、3ヶ月かけて取りまとめて作成するというサイクルでしたので、残りの6ヶ月は定時に帰れる毎日でした。その期間を利用して勉強し、順調に合格することができました。仕事後に専門学校に通ってビデオ講義を見て、自習室では問題をひたすら解いていました。当時は日本で受験ができなかったので、試験は2回にわけて、グアムまで行きましたが、ビジネスの格好をしてリゾート地を歩いてたのもいい思い出ですね。 「しかも財務省の野球部にも所属されていたそうですね。」 「大蔵」という草野球チームなんですが、千代田区軟式野球連盟1部とか2部に所属しています。当時28歳くらいで、実はもう選手としては野球をするつもりはなかったんですが、たまたま直属の上司が大蔵野球部の監督だったので、強引に誘われ、イヤイヤ試合にいきました。そしたら、初めの試合でスタメン外にされて、腹を立てていたところ、代打で特大本塁打を放ったら、2試合目から中心選手になりました。出向3年目には、監督から「キャプテンやれ」とも言われたのですが、「さすがに出向者がキャプテンやるのはおかしいですよ」とお断りをして(笑)。ただ、もう一度野球をやってみたら思ったより楽しくて、当時は、昼休みに、隣の金融庁の屋上のテニスコートで同僚とピッチング練習をしたり、同僚がつかまらない時は、財務省の地下にあるトレーニングジムで、体を鍛えてました。今でも「大蔵」の野球部に所属をしていて、情報交換を目的に、定期的に顔を出しています。もう歳なので、今は腹を立てずに、ベンチにも座ってますが、結果的に、いまの野球部のメンバーの中で5本の指に入るくらい長く続けているんじゃないですかね。 「結局、出向は2年ではなく延長したのでしょうか。」 出向期間は2年の予定でしたが、戻る時期に中央青山監査法人へ業務停止命令が出てしまいました。仲間からは「戻っても仕事はないよ」と言われていて、また、解散する可能性も噂されていたので、ひとまず1年間延長してもらいました。財務省側も「それはありがたい」と言ってくださったので、計3年間在籍しました。