COLUMNコラム

#財務省の記事一覧

#財務省
シーヴィーシー・アジア・パシフィック・ジャパン株式会社
プリンシパル 高槻 大輔 氏

Win-Winの仕組みで社会を支えるCVC 投資家から見た成功するCFOの要件

「世の中の役に立ちたい」という思いで海外経済協力基金に就職 「大学卒業後、海外経済協力基金(現在の国際協力機構/JICA)に入社されています。なぜ海外経済協力基金を選んだのでしょうか。また業務内容を教えてください。」 海外経済協力基金は、簡単にいうと日本版の世界銀行です。発展途上国向けに大型の資金援助をして、社会開発に役立てることが業務内容です。例えば、ベトナム版の日本坂トンネルを作る、カンボジア版の横浜港を作るといったプロジェクトに対して、長期に渡って資金援助を中心とした支援をすることが仕事です。現在は、さまざまな再編を経て、国際協力機構(JICA)になっています。海外経済協力基金を選んだ理由は、「世の中の役に立ちたい」という思いがあったからです。その一方で、単発で関わるような仕事ではなく、関わったことが未来につながるような仕事にしたいと考えていました。具体的には、長期にわたって支援が継続する資金開発援助が、その国の未来に貢献できるのではないかと思っていたのです。 「どんな仕事をなさったのでしょうか。」 1年目は、ちょうど日本輸出入銀行と統合して国際協力銀行ができるタイミングだったので、その準備でクタクタになるまで働いていました。会議の議事録を真っ赤に修正してもらったり、午前2時にコピー機を修理したりしながら「サラリーマンとはこういうことなんだな」と感じたことを今でも思い出します。2年目からは、ベトナムやカンボジア向けの資金援助を担当しました。例えば、港を作る時に開発資金を提供するといった仕事にあたりました。 また、海外経済協力基金は総合職社員全員に留学の機会を与える組織でした。外国語が話せなければ仕事になりませんし、仕事でコミュニケーションを取る相手も修士や博士ばかりという世界なので、現地で学ぶことが必要だったのです。留学した際には、国際関係論や経済学、語学を学ぶ方が多かったのですが、私はビジネススクールでビジネスを学びたいと考えました。当時の私は、港湾セクターを担当していました。そこでは、援助の世界では珍しく、海外との取引を通して外貨が直接入ってくる仕組みで、ビジネスのパワーの大きさを実感していたのです。援助は大海の一滴です。ビジネス全体がわからないと国の発展にも寄与できないのではないかと考えて、ビジネススクールでの学びを希望しました。そして、ラッキーなことにスタンフォード大学のビジネススクールから合格通知を貰うことができたのです。 スタンフォード大学で2年間学ぶ間、ベトナムの世界銀行事務所でのインターンなども経験しました。しかし、卒業時に辞令がくだり財務省への出向が言い渡されました。海外経済協力基金や財務省での仕事はスケールも大きく、とてもやりがいがあったのですが、日本を活性化する仕事に直接的に関わりたい、また自分の人生は主体的に選びたい、と考えて、転職することに決めました。 日本での可能性を感じたPEファンドへの転職 「なぜPEファンドに転職されたのでしょうか。」 私は、日本は発展した素晴らしい国なので、海外の途上国に貢献することができればやりがいを感じられるだろうと考えて、海外経済協力基金に就職しました。しかし、留学中は、ジャパンパッシング時代ということもあり、「日本は沈む国だよね」と思われていることに気が付きます。そこで、日本人としての闘志に火がつきました。また、大学時代の私はPEファンドという仕事を知りませんでした。留学先の同級生にPEファンドで働いている方がいて、その存在を知ったのです。日本には、潜在的な力を出しきれていない大企業やファミリー企業が多い。だからこそ、このPEファンドは日本に向いている仕組みなのではないかと考えて、勤めてみようと考えたのです。 CVCファンドの特徴 「世界的に大手の外資系投資ファンドにご勤務の後、現職のCVCアジア・パシフィック・ジャパン株式会社で、8年目を迎えていらっしゃいます。こちらはどのような特徴をお持ちの会社でしょうか。」 CVCアジア・パシフィック・ジャパン株式会社は、シティバンクが所属していた総合金融グループであるシティコープの自己資金投資部門がMBOをしてできたPEファンドで、40年程の歴史があります。「CVC」とは「シティ・ベンチャー・キャピタル」の頭文字でした。当社にはいくつかの特徴があり、1つ目はヨーロッパのチームが最初にMBOをして、次にアメリカ、最後にアジアという経緯で今のCVCになったので、ヨーロッパが本拠地でカバー力が強いという点です。多くのグローバルファンドはアメリカが本拠地です。2つ目は、チームでMBOしたことから始まっているので、絶対的な創業者はおらず、最初からチーム運営だったという特徴もあります。多くのグローバルファンドには創業者がいます。 3つ目は、ヨーロッパならではの価値観ですが、「グローバル」といえどもローカルな意識が強いという特徴があります。ヨーロッパの人たちは、フランス人はフランス人、イギリス人はイギリス人、ドイツ人はドイツ人という意識があります。ヨーロピアンスタンダードという発想よりは、フレンチスタンダード、ブリテンスダンダード、ジャーマンスタンダードというようにそれぞれが異なるので、すごくローカルを尊重する価値観なのです。他には、シティベンチャーキャピタルで、最初の段階ではベンチャーキャピタルをしていたので、リストラなどではなく、成長企業が好きですね。 CVCの投資基準 「御社の投資基準について教えてください。」 CVCには、トリプルB(Building Better Businesses) というモットーがあります。それは、いい会社に投資し、さらに良くしていくということです。「安いから買おう」、あるいは「大リストラをしてリターンを出そう」といった発想ではなく、良い会社がどうしたらさらに良くできるかという観点で投資をしています。株式会社ファイントゥデイさんや株式会社トライグループさんなど、投資先からもご理解いただけるのではないかと思います。 「平均すると保有期間はどれくらいになりますか。」 3から5年くらいが基本ですが、長いときは7年を超えるケースもあります。例えば、CVCの代表的な投資先の一つであるフォーミュラ1(F1)の株式は10年以上保有していました。 「出口戦略として、どうお考えになっていますか。売却や IPOなど、どういったケースが多いのでしょうか。」 あまり決まっていませんが、IPOするケースは多いです。その理由として、元がベンチャーキャピタルでグロースが好きという側面もあると思います。また、アジア各国は成長を遂げているので、成長企業も増えていきます。その結果、上場してイグジットしていくケースは多くなります。そして、ヨーロッパ起源のDNAとして、パートナーシップ投資が非常に多いという点も特徴でしょう。ヨーロッパは、ルイ・ヴィトン社などのようにファミリー企業が多く、同様にアジアもファミリー企業が多いです。その場合、CVCが単独で買収するのではなく、創業家が残るパターンが少なくありません。また、イグジットも丸ごとどこかに売却するのではなく、CVCが担っていた部分だけがなくなるというケースも多くなります。
#財務省
株式会社トランザクション・メディア・ネットワークス
専務取締役 管理本部長 CFO 西脇 徹 氏

高い専門性とビジネスパーソンの自信。事業をドライブする起業家マインドを併せ持つCFOのキャリアとは?

「逃げ出してはいけない」と会計士試験に再チャレンジ 「公認会計士を目指したのはいつ頃からですか。それはなぜですか。」 幼い頃から公認会計士という言葉はいつも耳にしていました。というのも、同居していた祖父が公認会計士で、新大阪で「西脇公認会計士事務所」を開設していたからです。父や叔父も同事務所に勤務していたのですが、父自身は公認会計士になることが叶わず、私にその夢を託してたんだと思います。父から強く誘導されたわけではありませんが、例えば、「お小遣いが欲しければ、お小遣い帳をつけるように。」と言われたり、「大学は経営学部(商学部)に行ったほうがよい。」と言われたりして、教育的に刷り込まれていったような気がします。私自身は、数学が好きだったので理系に進むか、そうでないなら学校の先生になりたいと思っていたのですが、高校生くらいから公認会計士を意識し出し、大学も会計士の合格者が一番多い慶應義塾大学(商学部)を選択しました。 そうとはいっても、当時は公認会計士試験の難易度は全く理解しておらず、「1日1,2時間勉強すればいいんでしょ。」と思っていたので、大学の体育会野球部に所属して、部活に明け暮れていました。当たり前ですが、部活は、練習以外にもグランド整備や先輩のユニホーム洗濯などで忙しく、勉強時間どころか睡眠時間も満足に取れず、母からも反対されるし、「この生活だと会計士に合格できない」と必要以上に焦ってしまい、1年生の春シーズン中に大学野球部を退部しました。その後、大学1年生の秋から、意気込んで公認会計士の専門学校に通うも、今度はあまりのテキスト量の多さに驚愕して、これまた焦ってしまい、「友達と遊びたい!」という気持ちも手伝って、「自分にはこの試験はムリ!」と、大学2年生の春には挫折してしまいました。今思うと、ほんとにダメな大学生ですよね。(笑) 「どのタイミングで会計士試験を再度目指すことにしたのでしょうか。」 結局、大学ではゼミ、サークル、バイト、海外旅行などで、一般的な大学生として楽しく過ごし、就職活動を迎えました。就職活動をする際には、面接で自分のことを語れるように自己分析をしますよね。自分は大学で何をやってきて、これから何をしたいんだろうと整理をする。自分のことを一生懸命に振り返るのですが、どうしてもうまく語れませんでした。何かモヤモヤした気持ちが残り続けていて、納得のいく就職活動につながらなかったのです。就職活動が終わった後も、自分自身を見つめる中で、「わざわざ野球まで辞めたのに、会計士試験も辞めちゃっている。 遅いけど今からでも会計士試験からは逃げ出してはいけないのではないか。」という結論に達し、大学4年生の冬に、某社から頂いていた内定を辞退し、会計士試験に再チャレンジすることにしたのです。大阪の実家に戻って親の援助を受けながらの受験でしたが、今回は難易度への理解と覚悟があったので、1回の試験で合格できました。専門学校に住んでるかのような毎日でしたので、友達もたくさんでき、受験なのに楽しい日々でした。勉強の動機としては、会計士になって何かをしたいということではなく、「逃げ出してはいけない」という気持ちだけで、将来の仕事を具体的に考えているわけではありませんでした。 監査法人で学んだ3つのこと 「入所した中央青山監査法人では、監査にとどまらず幅広い経験を積んでいますが、どのような仕事をされていたのでしょうか。その経験は今後のキャリアにどう影響していますか。」 会計士の二次試験に合格したら通常は監査法人に行きますので、私もそれに倣い、一社目に応募して内定をもらった中央青山監査法人の大阪事務所に入って、4年ほど働きました。大阪事務所は東京のような大規模事務所ではなかったので、比較的小ぶりな、売上規模で30億~300億円くらいのクライアントを担当していました。このタイミングで、会社全体を眺められたのは良かったですね。また、会計士不足で法人の人数が少なかったことから、会計士補の3年目あたりから現場主査業務を任せてもらえ、プロジェクトチームのアサインメンバーや監査項目を決めたり、クライアントの経理部長クラスと会話ができるようになりました。入所した頃は、単純チェックばかりで、仕事がつまらなく「やっぱり学校の先生になろう!」と思った時期もありましたが、そのあたりから仕事も少しずつ面白くなっていきました。その頃担っていた仕事の8割は監査業務でした。残りの2割は、PwCコンサルティングが引き受けた財務デューデリジェンスの仕事をしたり、新人採用活動のプロジェクトリーダーを担ったりしました。当時は、監査法人がコンサルティングすることも許されていた時代だったんです。 この監査という仕事を通じて主に3つのことを学び、その後のキャリアへの影響があったように思います。 1つ目は、「数字を確認する」こと。当たり前ですが、監査なので数字を確認することについての、一定の知識や慣習がつきました。 2つ目は、「チームで連携する」こと。会計士の人は個人プレーが多くなりがちですが、監査は1人では行えず、チームで連携しなくてはなりません。スタッフの立場でも、リーダーの立場でも、チームで仕事をすることに慣れたように思います。 3つ目は、「会社全体を眺める」こと。先ほどの話と重複しますが、小さめの会社を担当して全体を見られたことは非常に大きい経験でした。20〜30人の監査チームで「あなたは借入金だけ見ておいて」ということだと全体を俯瞰して見ることができずに、途中で挫折してしまっていたかもしれません。 財務省で得たビジネスパーソンとしての自信 「西脇さんは監査法人に在籍しながら財務省に出向されています。これは自身の希望ですか。また、そこでは主にどのような仕事をしていたのですか。」 財務省への出向は、監査法人のイントラネットで募集が出ていたので、自ら応募しました。これまた何をやるのかは理解していませんでしたが、「全く異なる世界で働けるのは面白そう」という軽い気持ちで応募したんです。霞が関という官僚の世界、さらに省の中のトップといわれる財務省で仕事ができ、しかも2年間で戻って来られることが保証されている。私は大阪勤務でしたから、却下されるだろうけど、ひとまず応募するだけしてみようと思いました。妻も大阪の人で、大阪にマンションも購入していたので、ずっと大阪にいるつもりだったのですが、「期間限定だし、久しぶりに東京に行ってみよう。」と思えたのです。結果的には、それほどの応募もなかったようで、法人内の面接を経て、財務省に出向することが決まり、引継ぎや引っ越しなどバタバタしました。 財務省での仕事の内容は、大臣官房文書課という組織にて、政策評価書の取りまとめをしていました。政策評価制度は「省庁は何をやっているかわからない」という国民からの批判に応えようと、大蔵省が財務省になった省庁再編のタイミングで新しく始まった制度でした。各省庁が自分の仕事を国民にアピール、ディスクローズしていく制度になります。その政策評価の測定ツールとして会計を活用しようということで、会計士が継続的に派遣されていました。しかし、実際のところ、会計ツールを入れると測定が難しい、定量的な評価はなじまないといった理由から、会計士としての知見はほぼ使われることはありませんでした。ですから、「会計士として来たのに、得意の会計は関係ないじゃん」「省内に誰一人として知り合いがいない」「よくわからない単語がとびかっていて、いったい何を話しているの?」という状態で、不安ばかりが募り、入省直後に2日間も有給休暇をとって、大阪に帰っちゃいました。(笑) ただ、1年経つとだいぶ慣れ、2年も経つと、財務省の中で政策評価について最も知っている人間となることができ、財務省の人事部からも「好きなだけいていいよ。」と言ってもらえて、何も会計を武器にしなくともビジネスパーソンとしてやっていけるなという自信が持てました。財務省の方々は日本のトップレベルで頭が良く仕事ができるので自分にも他人にも厳しいですし、大臣をはじめ政治家へ説明するためには論理的な文章を書く必要がありました。この経験は、非常に勉強になりましたし、自信につながりました。 「出向の間に、米国公認会計士の資格も取っていらっしゃいますね。」 財務省では、会計を使わなかったので、会計の知識が剥落しないように、それと英語力をもっと高めたいと思っていて、米国公認会計士の試験にチャレンジしました。政策評価の仕事は、3ヶ月かけて計画を作り、3ヶ月かけて取りまとめて作成するというサイクルでしたので、残りの6ヶ月は定時に帰れる毎日でした。その期間を利用して勉強し、順調に合格することができました。仕事後に専門学校に通ってビデオ講義を見て、自習室では問題をひたすら解いていました。当時は日本で受験ができなかったので、試験は2回にわけて、グアムまで行きましたが、ビジネスの格好をしてリゾート地を歩いてたのもいい思い出ですね。 「しかも財務省の野球部にも所属されていたそうですね。」 「大蔵」という草野球チームなんですが、千代田区軟式野球連盟1部とか2部に所属しています。当時28歳くらいで、実はもう選手としては野球をするつもりはなかったんですが、たまたま直属の上司が大蔵野球部の監督だったので、強引に誘われ、イヤイヤ試合にいきました。そしたら、初めの試合でスタメン外にされて、腹を立てていたところ、代打で特大本塁打を放ったら、2試合目から中心選手になりました。出向3年目には、監督から「キャプテンやれ」とも言われたのですが、「さすがに出向者がキャプテンやるのはおかしいですよ」とお断りをして(笑)。ただ、もう一度野球をやってみたら思ったより楽しくて、当時は、昼休みに、隣の金融庁の屋上のテニスコートで同僚とピッチング練習をしたり、同僚がつかまらない時は、財務省の地下にあるトレーニングジムで、体を鍛えてました。今でも「大蔵」の野球部に所属をしていて、情報交換を目的に、定期的に顔を出しています。もう歳なので、今は腹を立てずに、ベンチにも座ってますが、結果的に、いまの野球部のメンバーの中で5本の指に入るくらい長く続けているんじゃないですかね。 「結局、出向は2年ではなく延長したのでしょうか。」 出向期間は2年の予定でしたが、戻る時期に中央青山監査法人へ業務停止命令が出てしまいました。仲間からは「戻っても仕事はないよ」と言われていて、また、解散する可能性も噂されていたので、ひとまず1年間延長してもらいました。財務省側も「それはありがたい」と言ってくださったので、計3年間在籍しました。